被雷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 10:55 UTC 版)
「サラトガ (CV-3)」の記事における「被雷」の解説
「サラトガ」は、1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃時はサンディエゴで整備中だったが、太平洋に空母は「レキシントン」と「エンタープライズ」しかいなかったため、急遽ウェーク島救援のために出動し、12月15日、真珠湾を経由してウェーク島に向かった。しかし、ウェーク島が日本軍の制空権下にあり日本軍が上陸したことが判明し、12月22日にウェーク島救援は中止された。翌日、ウェーク島の守備隊は降伏した。 1942年1月12日、「サラトガ」は「エンタープライズ」と合流するためハワイを出港したが、日本海軍の「伊号第六潜水艦(伊6)」(稲葉通宗艦長)に雷撃された。「伊6」は発射管1本が使用不能であったため、残りの3本の発射管から魚雷を発射した。「サラトガ」までは距離があり命中は絶望的な確率であることを乗員が理解していたが、「伊6」には2回の魚雷接触音と2回の爆発音が交互に響いてきた。魚雷は「サラトガ」の左舷中央10番ボイラー室付近に命中した。魚雷は舷側に命中直後に爆発し舷側壁を内側に押し込んだが、押し込まれた防水隔壁が内側のフレームや配管を損傷して浸水が拡大した。フレームの変形がボイラー室の床や隔壁にも及んだために第8-10-12の3つのボイラー室が満水となった。また、浸水した海水は煙路を伝って反対側の第9ボイラー室にも浸水を生じた。浸水量は1100tとされ傾斜の修正のために320tが反対側に注水された。被害の大きさより日本海軍の魚雷はアメリカ海軍の魚雷と比較して1.5から2倍の炸薬を搭載しているのではないかと推測されたが、実際は同一箇所に2本の魚雷が命中したものだった。衝撃の強さは凄まじく、「サラトガ」の乗員は沈没に備えて救命胴衣を着用した。やがて沈没の危険がないことが分かると、「サラトガ」は真珠湾に戻るためにゆっくり移動を始めた。真珠湾で破孔を塞ぐ応急修理が実施され、その後「サラトガ」は本格的修理のためにブレマートンに戻り、この修理に合わせて8インチ砲が撤去され、5インチ高角砲が搭載された。真珠湾での応急修理中に撤去された8インチ砲は「レキシントン」の物と共にオアフ島の沿岸砲に転用された。5月22日、「サラトガ」はブレマートンを発ってサンディエゴに向かい、5月25日に到着した。「サラトガ」は航空隊を降ろしていたため搭載機がなくて作戦行動できず、新設された航空隊の訓練を行った。しかし、「サラトガ」の航空隊は空母「ヨークタウン」に搭載されて、1942年6月、ミッドウェー海戦で活躍した。この時、「サラトガ」の航空隊がハワイになければ、空母「ヨークタウン」も有効な戦力になり得なかった可能性も否定できない。 6月6日に「サラトガ」は真珠湾に到着したが、航空隊の補充は終了しておらず、ミッドウェー海戦の後もミッドウェー近海で警戒任務を続行していた第16任務部隊に航空機の補充を行い、アリーシャン列島方面に侵攻してきた日本軍に対して反撃も計画されたが中止され、6月13日に真珠湾に帰港した。「サラトガ」は6月22日と6月29日にミッドウェー島へ航空機の輸送も行うなど支援に徹した。
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