第38任務部隊
第58(38)任務部隊
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「フレデリック・C・シャーマン」の記事における「第58(38)任務部隊」の解説
シャーマンがソロモン戦線で戦っているころ、中部太平洋方面では第5艦隊が作戦しており、8月5日付で中将に昇進したスプルーアンスが第5艦隊司令長官に、翌8月6日付でシャーマンと同期のパウナルが第3空母部隊司令官となった。パウナルの空母任務部隊は「第50任務部隊」と呼称され、南鳥島、ウェーク島、ギルバート諸島と連続して空襲作戦を行い、ガルヴァニック作戦や12月のクェゼリン攻撃で多少の損害があったものの作戦は概ね成功していた。ところが、クェゼリン攻撃のあとにパウナルは司令官から更迭される。そもそもの始まりは「南鳥島攻撃では反撃の恐れがなかったにもかかわらず、パイロット救助任務を潜水艦に丸投げして即座に避退した」とか、「タラワ攻撃では、再攻撃すべきとの進言を退けて避退した」とか、挙句の果てには「機動部隊を率いる事を後悔した発言をした」などという話が上層部に「ご注進」されていたが、その「ご注進」先の一つが海軍航空のクラウンプリンスだったジャック・タワーズ中将(アナポリス1906年組)だった。1942年10月以来、ハワイの太平洋航空部隊司令官を務めたタワーズは、第5艦隊創設時にその指揮官を強く望んだが叶わなかった。「ご注進」を受け取ったタワーズは、ニミッツに対してパウナルの更迭を進言したのである。12月末、ニミッツはタワーズ、太平洋艦隊参謀長チャールズ・マクモリス少将、同艦隊作戦参謀F・P・シャーマンと協議を行い、スプルーアンスに何も知らせずパウナル更迭を決定する。 更迭を決定したとなれば、その後任を決めなければならない。航空をかじり、かつ部隊指揮の経験のある少将クラスの人材は限られていた。候補はシャーマン、モントゴメリー、そしてシャーマンと同期のミッチャーらが挙げられ、上の世代になればタワーズとジョン・S・マケイン・シニア少将(アナポリス1906年組)が挙げられた。このうち、パイロット出身のタワーズは強い個性ゆえにキングやニミッツから敬遠されており、マケインはキングの子飼いで手放す気がなかった。消去法により最後まで残ったのは、航空経験が長くないが空母艦長や空母任務群経験のあるシャーマンと、航空経験が長く空母艦長の経験があるが空母任務群経験のないミッチャーに絞られた。そこに、太平洋艦隊副司令官になったタワーズが口を挟む。タワーズ曰く、シャーマンは「自己中心的で寛容でないため、搭乗員にきわめて不人気。有能ではあるが部下が心から忠誠を尽くそうとしないので、高級指揮官には不適」であると。タワーズ発言の真偽のほどは定かではないが、ニミッツはミッチャーをパウナルの後任に据えた。この決定にスプルーアンスは怒りを見せた。スプルーアンスはパウナルの一連の働きには満足しており、その後任がミッドウェーの一件以来嫌っていたミッチャーだったのが気に食わなかった。スプルーアンスは、この更迭劇がタワーズやその一派による陰謀だともみなしており、もともと嫌っていたタワーズをいっそう憎んだ。 面白くないのはシャーマンも同様だった。ミッチャーの第3空母部隊司令官就任が決まったのと同じころ、中部太平洋方面の艦隊の司令部を第5艦隊と第3艦隊の交互に指揮させるプランが創出され、スプルーアンスとミッチャーの組み合わせが決まったあと、ハルゼーの下で空母任務部隊の指揮を執る者の選定が行われた。ハルゼーとミッチャーはシャーマンを推薦したが、キングが独断で子飼いで、パウナルの後釜選びでは「手放す気がなかった」はずのマケインを内定し、シャーマンは再び煮え湯を飲まされた。続けさまに外れくじを引いたシャーマンは第1空母任務群司令官となった。シャーマンは日記に次のように記す。 航空作戦はミッチャーの指揮下となり、三つの任務部隊(タスク・グループ)に分割された。ミッチャーもパウノールも、大規模な任務部隊を指揮するには経験不足。スプルーアンスは航空部隊を指揮する能力がなく、幕僚の使い方も下手だ。運用に関しては先任者たちよりも経験豊富な自分がこの地位に就けると思っていたが、これをよく知っている彼らは嫉妬心を持っている。この配置では自分の出番はないように思う。 — フレデリック・C・シャーマン、1944年2月2日の日記、谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』434ページ シャーマンはクェゼリンの戦い、トラック島空襲、マリアナ諸島空襲で第58.3任務群を率いたが、3月25日から8月までは西海岸艦隊航空団指揮官に転出していたため、6月19日のマリアナ沖海戦には参加していない。マリアナの戦いがアメリカの勝利に帰すると、第5艦隊は第3艦隊と交替して司令部は休養に入ることとなった。しかし、ミッチャーのみ3カ月間限定で高速空母任務部隊司令官の地位から動かなかった。第3艦隊での第二高速空母任務部隊司令官に内定していたマケインの技量が十分ではなかったため、マケインに第38.1任務群を与えて「研修期間」としたためで、第5艦隊と第3艦隊の交替は8月26日付で行われた。シャーマンはミッチャーの旗艦である空母「レキシントン」 (USS Lexington, CV-16) を含んだ第38.3任務群を指揮した。第38任務部隊は沖縄への空襲、これに対する日本側の反撃およびルソン島攻撃を経て10月20日からのレイテ島の戦いおよびレイテ沖海戦と戦うが、10月24日、日本機の反撃を受けてラバウル空襲の「戦友」であった「プリンストン」が炎上する。第38.3任務群は一時、栗田の日本艦隊に対する攻撃隊を飛ばすことができなかった。「プリンストン」は最終的に、その火災が夜間攻撃の目印となることを危惧したミッチャーの命によって処分された。10月30日、第38・3任務群のウルシー環礁への帰投をもってミッチャーはマケインに高速空母任務部隊司令官の権限を委譲して休養に入ったが、シャーマンは引き続き第38.3任務群を率い、フィリピンの戦いの支援や、1945年に入って1月の南シナ海での、ヒ86船団を含む日本艦船の掃討戦、2月の硫黄島の戦い、3月中旬からの沖縄諸島や九州への攻撃、呉軍港空襲と転戦。沖縄戦開始後の4月7日に起こった坊ノ岬沖海戦では主に午後からの攻撃を担当し、戦艦「大和」、駆逐艦「涼月」、「霞」に複数の命中弾を与えた。沖縄戦におけるミッチャーの旗艦「バンカー・ヒル」 (USS Bunker Hill, CV-17) は、フィリピンと同様にシャーマンの任務群内にいたが、「バンカー・ヒル」は5月11日に特攻攻撃で大破し、指揮が一時的に執れなくなったミッチャーは、状況が落ち着くまでの間シャーマンに第58任務部隊の指揮を委ねた。 5月27日、ニミッツは第5艦隊と第3艦隊の入れ替えを行い、第58任務部隊改め第38任務部隊の指揮はマケインに譲られた。第5艦隊は将来行われるダウンフォール作戦のための準備を指示されたが、そのスタッフの中にミッチャーはいなかった。ダウンフォール作戦において、これまで司令部の異動のみで中身が同じだった第58任務部隊と第38任務部隊は名実とともに分離され、海軍作戦部次長(航空担当)に転出したミッチャーに代わってシャーマンが第58任務部隊司令官(第一高速空母任務部隊司令官)に、タワーズがマケインに代わって第38任務部隊司令官(第二高速空母任務部隊司令官)に就任することとなった。シャーマン(とタワーズ)はついに空母任務部隊のトップに立ったのである。しかし、日本の降伏により実戦を戦うことはなかった。
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司令官:マーク・ミッチャー中将 - 空母バンカー・ヒルに座乗。
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