第58SS所属武装擲弾兵連隊第II大隊
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「ピエール・ロスタン」の記事における「第58SS所属武装擲弾兵連隊第II大隊」の解説
1945年2月25日朝、第58SS所属武装擲弾兵連隊第II大隊の各部隊は「シャルルマーニュ」師団司令部が置かれているエルゼナウ(Elsenau、現オルシャノボOlszanowo)の南西部に位置するベーレンフッテ(Bärenhutte、現ビエルナトカBiernatka)に到着した。 同日の午前中、「シャルルマーニュ」師団フランスSS部隊査察部の最高査察官グスタフ・クルケンベルクSS少将(SS-Brigf. Gustav Krukenberg)は第58SS所属武装擲弾兵連隊長エミール・レイボー武装少佐(W-Stubaf. Émile Raybaud)に対し、1個中隊をエルゼナウ〜ベーレンフッテ間に派遣して道路を確保するよう命令した。 この時、レイボーの連隊には無線機も地図も十分に備わっていなかった。このような状況で1個中隊を派遣することは連絡の途絶・兵力の損失を意味していたため、レイボーは命令を拒否しようとした。しかし、彼の抗命は却下されたため、やむを得ずレイボーは手描きの地図を第II大隊第6中隊長ミシェル・サン=マーニュ武装上級曹長に与え、同中隊をエルゼナウ〜ベーレンフッテ間へ派遣した。 やがてレイボーは第57SS所属武装擲弾兵連隊長ヴィクトル・ド・ブルモン武装大尉(W-Hstuf. Victor de Bourmont)と連絡を取ったが、その頃、最前線でソビエト赤軍の猛攻に耐えかねた「シャルルマーニュ」師団の諸部隊が徐々にベーレンフッテ周辺に退却しつつあった。レイボーは麾下の兵力を用いて戦闘団4個を直ちに編制し、ベーレンフッテの村の防備を固めた。 それから間もなく赤軍の先鋒がベーレンフッテに迫り、レイボーの連隊が守る村の状況は海に孤立した浮島も同然となった。エルゼナウのグスタフ・クルケンベルクSS少将との連絡も途絶し、第58SS所属武装擲弾兵連隊第II大隊は絶体絶命の危機に瀕したかのように思われた。 しかし、赤軍がベーレンフッテ村を迂回して進軍した道は第II大隊の退路であるベーレンフッテ〜ハマーシュタイン(Hammerstein、現ツァルネCzarne)間の道路ではなく、ベーレンフッテ北東のエルゼナウ、すなわち「シャルルマーニュ」師団司令部へ続く道であった。 2月25日夜、危機を脱した第58SS所属武装擲弾兵連隊第II大隊はベーレンフッテ西方のハマーシュタインへ後退し、体勢を整えた。
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