硫黄島の戦いとは? わかりやすく解説

【硫黄島の戦い】(いおうとうのたたかい)

太平洋戦争大東亜戦争)の末期において、小笠原諸島硫黄島において日本軍アメリカ軍の間で生じた戦闘

背景

日本徐々に追い詰めていたアメリカ軍は、マリアナ諸島攻略し、そこから戦略爆撃機B-29」を日本本土飛ばし戦略爆撃行っていた。
しかし、航法ミス損傷故障などでマリアナ諸島にたどり着けず、さらに日本軍の爆撃機が硫黄島経由してマリアナ諸島基地駐機するB-29損害与えということがあった。

アメリカ軍は、B-29航法上のロス解消日本軍航空基地制圧などを目的硫黄島占領決定した

戦闘

アメリカ海兵隊2月19日硫黄島上陸開始
アメリカ軍当初、(それまで島嶼攻略戦経験から)すぐに攻略できると踏んでいたが、栗林忠道中将率い日本軍決死抵抗により苦戦
長大トンネル防御陣地構築した日本軍は、数万発以上の地形が変わるほどの凄まじい上陸前艦砲射撃に耐え、待ち伏せする海兵隊の上部隊猛攻加え多大な損害与えた
日本軍守備隊は「一人十殺」の覚悟万歳突撃をせず、硫黄島特徴的な地形駆使した地下要塞をもって奇襲攻撃繰り返し大火力をアメリカ軍加えた
結果アメリカ軍犠牲者上陸して数時間数千人になり、第二次世界大戦最大の上作戦といわれるノルマンディー上陸作戦」を上回る激戦となった

それでも物量に勝るアメリカ軍日本軍徐々に追い詰め苦戦強いられながらも硫黄島最高峰擂鉢山占領した
必死抵抗続け日本軍300余り最後の攻撃仕掛けるが、玉砕
栗林忠道中将もここで自決し組織的戦闘はここで終結した

後援救護部隊を持たなかった日本軍96%の損傷率となり、アメリカ軍戦死者戦傷者合計日本軍兵員上回る激戦となった


硫黄島の戦い

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硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に小笠原諸島硫黄島において日本軍アメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦 (Operation Detachment)。




「硫黄島の戦い」の続きの解説一覧

硫黄島の戦い

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ザ・サリヴァンズ (駆逐艦)」の記事における「硫黄島の戦い」の解説

1月下旬ウルシー短期間メンテナンス行った後、ザ・サリヴァンズを含む第58.2任務集団日本本土へ空襲を行う。2月16日から17日にかけて本州の東京やその周辺目標空襲し、さらに18日から21日まで硫黄島の戦いを支援するため硫黄島地上目標激し攻撃加えたさらなる東京へ4日間の空襲悪天候により断念された。海域離れた任務集団は、2月28日午後に沖縄沖で給油行った同日、ザ・サリヴァンズは浮遊する機雷1個を発見し破壊した3月1日夜明け艦載機発進させ、沖縄日本拠点空襲を行う。任務集団日本側の反撃を受けることなく速やかにウルシー後退した。 ザ・サリヴァンズは12日後、九州本州南部空襲する第58.2任務部隊護衛するために出撃した。3月20日、ザ・サリヴァンズは空母エンタープライズUSS Enterprise, CV-6)と並走しながら洋上給油受けていたが、給油終えて5分後の1152分に神風特別攻撃隊による空襲警報があり乗員達を慌てさせた。14時39分、再びエンタープライズ並走中に警報起こった今度はザ・サリヴァンズのFDレーダーにはっきりと捉えられた。ところが、直後別の敵編隊による空襲艦隊揺るがした。ザ・サリヴァンズは増速して他の艦艇から距離を置くと、僚艦とともに対空砲火始めた。一機の特攻機弾幕突破し空母ハンコックUSS Hancock, CV-19)から給油中だった駆逐艦ハルゼー・パウエルUSS Halsey Powell, DD-686)の艦尾突入した損傷したハルゼー・パウエル操舵不能となり、向き変えるハンコック艦首接近していった。幸いにもハンコック急転舵で回避成功した。 ザ・サリヴァンズはすぐにハルゼー・パウエル援助のために接近する減速し11分後に完全に停止したザ・サリヴァンズは内火艇軍医薬剤師補を乗せて送り出したが、16時10分に零式艦上戦闘機接近しつつあるのをレーダー発見した内火艇速やかに揚収したザ・サリヴァンズは、直ち増速して面舵をとると接近する零戦に40mmと20mmの機銃発砲した零戦はザ・サリヴァンズのマスト100フィート上空通過していったため難を逃れた。5ノットでのろのろと移動するハルゼー・パウエル付き添いながら、ザ・サリヴァンズはウルシー後退した。 ところが問題続き3月21日10時46分にザ・サリヴァンズは15マイル先から接近する敵機捉えた。それは1機の銀河であり、ザ・サリヴァンズとハルゼー・パウエルの5インチ主砲によって撃墜された。12時50分には、ザ・サリヴァンズからの管制の下でヨークタウンから発進した戦闘空中哨戒CAP任務F6F戦闘機二式複座戦闘機もしくは一〇〇式司令部偵察機思われる敵機撃墜している。 3月25日にザ・サリヴァンズとハルゼー・パウエルウルシー到着したハルゼー・パウエル修理行い、ザ・サリヴァンズはメンテナンス訓練実施した

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硫黄島の戦い(1945年2月~3月)

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テリー (DD-513)」の記事における「硫黄島の戦い(1945年2月3月)」の解説

2月16日朝、硫黄島南方約9マイル地点掃海部隊合流した10時過ぎ、浜辺への海路掃海する掃海部隊護るべく砲撃開始した。約14時32分、日本軍の4インチ砲がテリーを夾叉した。テリー25ノット(46 km/時)まで加速し前進すると敵の弾幕航跡飛んでいった。彼女の5インチ主砲斉射無礼者をすぐに静かにした。テリー砲撃おかげで掃海部隊一人犠牲者を出す事なく16時過ぎに任務完了した夜間硫黄島掃討したが、翌日にまた戻ってきて対砲兵射撃続行した2月19日の上陸後、浜辺部隊への支援砲撃一日中行いその日夜に54任務部隊加わった3月1日朝2時45分日本軍潜水艦探索するキャップス(DD-550)(英語版)を支援していた時、数本魚雷テリー艦首右舷向かってきた。テリーから約1000ヤード離れた距離から日本軍潜水艦魚雷発射したのである見張り員は瞬時魚雷位置特定して叫んだ、「魚雷接近!」。テリー最大船速で走り出し、右舷大きく傾いた。魚雷艦尾から50ヤード離れた所を無事に通り過ぎて行った7時20分、テリー硫黄島北部掃討向かった硫黄島北部沿岸の北ノ鼻を通過した時、日本軍迫撃砲発砲し、すぐにテリー射程内に入ったテリー主砲応戦したテリー速い速力巧み操艦日本軍照準に対して無駄ではなかったが、遂に沈黙し右舷上甲板迫撃砲弾直撃した右舷機関停止操舵不能通信不能に陥ったテリー左舷機関出力上げたその間ペンサコーラ (重巡洋艦)ネバダ (戦艦)、その他駆逐艦数隻が沿岸迫撃砲攻撃し無効化した。多く艦船ボートテリー救助駆け付け、驚くほど素早く衛生兵工兵乗り込んだ舷側応急修理施され、すぐに病院船運ばれた。テリー硫黄島北部沿岸向かい応急修理のため2日停泊した3月3日アメリカへの長い帰路第一歩として火山列島掃海した。 サイパン島中間修理行った後、エニウェトク環礁真珠湾停泊しメア・アイランド海軍造船所帰投した。その後2ヵ月間、テリー本格的な修理カリフォルニア沿岸での訓練行った6月13日テリー南進してサンディエゴ海域演習参加しその後ワスプ (CV-18)ハワイまで護衛した7月11日テリーワスプとベナー(DD-807)は真珠湾離れ第58任務部隊合流したその後終戦までの数週間テリー高速空母部隊による日本本土へ最後の空襲参加した終戦直後の数か月テリー日本沿岸哨戒した。テリーパトロール行い占領軍運び屋として活動した11月1日東へ進路を向け、母港帰投した。真珠湾停泊した後、カリフォルニア州サンディエゴ向かい11月20日到着した。 それから数年間、テリーサンディエゴ離れ太平洋艦隊での活動続けた1947年1月テリー太平洋予備艦隊サンディエゴ部隊配属された。最初サンディエゴで、次はロングビーチで、最後ワシントン州ブレマートン予備役としてアメリカ海軍艦の余生過ごした1974年4月1日除籍7月27日ペルー売却されスペアパーツとして解体された。

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硫黄島の戦い

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栗林忠道」の記事における「硫黄島の戦い」の解説

詳細は「硫黄島の戦い」を参照 1944年昭和19年5月27日小笠原方面防衛のために新たに編成され第109師団長親補された。6月8日栗林硫黄島着任し以後1945年昭和20年3月戦死するまで硫黄島から一度も出なかった。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成され小笠原兵団長も兼任海軍部隊指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。周囲からは、小笠原諸島全域作戦指導の任にある以上は、兵団司令部設備整った父島に置くべきとの意見もあったが、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられ硫黄島司令部移した。その理由としては、サイパンの戦いにおいて、第31軍司令官小畑英良中将が、司令部のあるサイパン島から部隊視察のためパラオ諸島行っていたときにアメリカ軍上陸し、ついに小畑サイパン島帰ることができないまま守備隊玉砕してしまったという先例があることや、父島比較する硫黄島の生活条件劣悪であり、自分だけ快適な環境にいることなく部下将兵苦難を共にしたいという想いあったからという。栗林その人柄から部下将兵からの人気高かった栗林着任当時硫黄島には約1,000人の住民居住しており、当時格式では、閣僚クラス社会的地位のある中将来島色めきたったが、栗林島民配慮して一般島民とは離れた場所に居住することとしている。栗林司令部ができるまで居住していた民家は「硫黄島産業」という会社桜井直常務居宅で、桜井栗林接した数少ない島民となったが、栗林食事の席で桜井に「我々の力が足りなくて、皆さまに迷惑をかけてすまない」と謝罪し桜井驚かせている。栗林島民対す配慮はまだ続きアメリカ軍による空襲激しくなると、島民将兵と同じ防空壕避難するようになったが、薄手着物姿女性避難しているのを見た栗林は、将兵からの性被害抑止するために女性モンペ着用要請し、また防空壕可能な限り軍民分けるよう指示したその後も、アメリカ軍空爆激化する一方で全島192戸の住宅3月16日までの空襲120戸が焼失6月末には20戸にまでなっていた。栗林住民の疎開命じ生存していた住民7月12日まで数回分けて父島経由して日本本土疎開した。栗林方針によって硫黄島には慰安所設置されておらず、硫黄島男だけの島となったが、結果的に早期住民疎開させるという判断が、島民犠牲を出さなかったことにつながった。 敵上陸軍の撃退不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地構築して長期間持久戦遊撃戦ゲリラ)を計画着手する従来の「水際配置水際撃滅主義」に固執し水際陣地構築拘る1部陸軍幕僚と同島の千鳥飛行場確保固執する海軍最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地建設した陣地の構築については軍司令官である栗林が自ら島内くまなく巡回しときには大地腹ばいになって目盛りのついた指揮棒で自ら目視して作業する兵士たちに「この砂嚢の高さをあと25cm上げよ」「こっちに機銃陣地作って死角をなくすようにせよ」「トーチカにもっと砂をかけて隠すようにせよ」などの具体的で詳細な指示を行うこともあったという。生還者1人であった歩兵145連隊第1大隊長原光明少佐は「(栗林閣下が一番島のことをご存じだった。だから私ら、突然、閣下予想外の場所から顔を出されるので、いつもびっくりさせられた」と回想している。このように通常部隊指揮官がやるような細かい指示軍司令官が行ったことについて、栗林率先指揮ぶりの好エピソードとして語られることもあるが、これは、軍参謀がわずか5人と少ないうえ着任して日も浅く、また部隊指揮官は急編成でろくに経験もない老兵多かったという小笠原兵団窮状よるものでもあった。 持久戦術は守備隊唯一の戦車戦であった戦車26連隊連隊長西竹一中佐に対して徹底された。戦車26連隊満州で猛訓練積んできたこともあり、連隊長の西は硫黄島でも戦車本来の機動戦望んでいたが、これまでの島嶼防衛戦で戦車攻撃投入したサイパンの戦いや、ペリリューの戦いにおいては優勢なアメリカ軍部隊戦車突撃をして、強力なM4中戦車」との戦車戦や、バズーカなどの対戦車兵器一方的に撃破されることが続いており。栗林は西に対して戦車掘った穴に埋めるか窪み入り込ませて、地面から砲塔だけをのぞかせトーチカ代わり防衛兵器として戦うよう命じた。西はこの命令反撥したが最終的に受入れている。栗林と西は同じ騎兵出身親しかったとする証言もあるが、勤勉且つ繊細であった栗林対し華族裕福であった西は豪放奔放性格が全く異なっており、確執があったとする証言もある。ただし、戦車防衛兵器として使用する判断をしたのは西であったとする説もある。 隷下兵士に対して陣地撤退万歳突撃自決強く戒め、全将兵配布した敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御ゲリラ戦をもって長期抵抗徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。過酷な戦闘を強いることになる隷下兵士には特に気を配っており、毎日、島を何周も廻る視察には、陣地構築状況確認のほかに、兵士士気指揮官兵士対す態度確認する目的もあった。栗林兵士に対して作業中や訓練中には自分含め上官敬礼不要徹底し部下から上官対す苦情寄せられ場合容赦なく上官処罰した食事についても栗林自らも含め将校兵士より豪華な食事をとることを厳禁した。栗林は、平時から階級上下での待遇差が激しい軍内で根強い食べ物恨み”が蔓延しているしていることを認識しており、水不足食料不足硫黄島においては、さらにその“食べ物恨み”が増幅する懸念大きく戦闘時の上下の信頼関係損なって戦力悪影響を及ぼすという分析をしていた。そのため、自らも兵士と同じ粗食食しも同じ量しか使用しなかった。この姿勢兵士から感銘受けて栗林への信頼高まっていった。 翌1945年昭和20年2月16日アメリカ軍艦艇航空機硫黄島対し猛烈な上陸準備爆撃行い同月19日9時、海兵隊第1波上陸開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備爆撃時に栗林命令無視し、(日本海軍海岸砲擂鉢山火砲砲台応戦砲撃行ってしまった。栗林慌てて全軍全貌暴露するような砲撃控えるよう再徹底したが、栗林懸念通りアメリカ軍応戦砲撃海軍砲台位置特定すると、11時間にも及ぶ艦砲射撃全滅させてしまった。これはアメリカ海兵隊の硫黄島の戦いの公式戦史において、「(硫黄島の戦いにおける)栗林唯一の戦術的誤り」とも評された。 その後守備隊各部隊栗林命令忠実に守り十分にアメリカ軍上陸部隊内陸部引き込んだ10時過ぎに栗林命令によって一斉攻撃開始する上陸部隊指揮官ホーランド・スミス海兵隊中将は、その夜前線部隊からの報告によって硫黄島守備隊無謀な突撃をまったく行なわないことを知って驚き取材記者たちに「誰か知らんがこの戦い指揮している日本将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」と語ったまた、第4海兵師団戦闘詳報によれば日本軍巧み砲撃指揮を「かつて、いかなる軍事的天才思いつかなかった巧妙さ」と褒めたたえている。アメリカ軍硫黄島指揮官が誰であるのかを正確に把握できておらず、上陸前にはサイパン島入手した日本軍機密資料から、父島要塞司令官大須賀應陸軍少将考えていた。しかし、上陸以降捕らえた日本兵捕虜から「最高司令官クリバヤシ中将」という情報聞き出したアメリカ軍は、硫黄島のような小さく環境劣悪な島に中将がいるとは考えられないという判断しながらも、硫黄島戦力当初14,000人という見積より多いという報告から、師団クラス戦力配置されており、師団長クラス中将指揮をしてもおかしくはないという分析行ったその場合は硫黄島戦力当初見積より遥かに多く、また「クリバヤシ」が優れた戦術家であれば苦戦必至危惧することとなったが、事実、この危惧通りアメリカ軍は大苦戦させられることとなる。 その後圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍予想遥かに上回り粘り強く戦闘続け多大な損害アメリカ与えたものの、3月7日栗林最後戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部、および栗林陸大在校時の兵学教官であり、騎兵科先輩でもある侍従武官長蓮沼蕃大将打電。さらに組織的戦闘最末期となった16日16時には、玉砕意味する訣別電報大本営対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結・#訣別の電文)。 翌17日付で戦死認定され特旨により陸軍大将親任された。陸軍大臣杉山元元帥は、内閣総理大臣小磯國昭送付した文書次のように記している。 第百九師団長として硫黄島在りて作戦指導任じ其の功績特に顕著なる処、三月十七遂に戦死せる者に有之候条、同日発令相成度候 — 杉山元出典では漢字カナ表記太平洋戦争大東亜戦争)において中将戦死者増加したため、中将戦死した者のうち、親補職軍事参議官陸軍では、陸軍三長官陸軍航空総監師団長上の団隊の長、侍従武官長など。海軍では、海軍大臣軍令部総長艦隊司令長官鎮守府司令長官など。)2年半以上を経ており、武功が特に顕著な者を陸海軍協議の上大将親任するという内規作られこの内規により、陸軍で7名(栗林を含む)、海軍で5名が戦死後大将親任された。 昭和19年5月27日第109師団長親補され、昭和20年3月17日戦死認定され栗林は、上記内規年限を満たさなかったが、特旨により大将親任された。 同日最後の総攻撃企図した栗林残存部隊に対し以下の命令発した。 一、戦局最後関頭直面セリ 二、兵団ハ本十七日夜総攻撃決行シ敵ヲ撃摧セントス 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君テ顧ミルヲ許サズ 四、予ハ常ニ諸子先頭ニ在リ 大本営訣別電報栗林戦死した判断していた。しかし、3月23日硫黄島から断続的に電文発されているのを父島通信隊が傍受した。その電文には3月21日以降戦闘状況克明に記されていたが、最後通信23日午後5時で、「ホシサクラ(陸海軍のこと)300ヒガシダイチニアリテリュウダンヲオクレ」という平文電報がまず流れてきたので、通信兵返信ようとすると、「マテマテ」と硫黄島から遮られて、その後続々電文送られてきたという。その電文多く栗林による部隊個人殊勲上申であり、栗林戦闘開始以降部下殊勲念入りに調べてこまめに上申して、昭和天皇の上聞に達するようにしてきたが、最後の瞬間まで部下はたらき報いようとしていたのだと電文受信した通信兵たちは感じ電文記され顔見知り守備隊兵士思い出して涙した。しばらくすると通信途絶えてその後父島からいくら呼びかけても返信はなかった。

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硫黄島の戦い

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太平洋戦争」の記事における「硫黄島の戦い」の解説

詳細は「硫黄島の戦い」を参照 アメリカ軍1944年11月より開始されていたマリアナ諸島からのB-29による日本本土空襲が、マリアナ飛行場から日本本土までの距離があまりにも遠く戦闘機護衛付けることができないことや、燃料消費考慮して爆弾搭載量抑制しなければいけなかったので、期待していたほどの戦果挙げることができていなかった。そこでアメリカ軍マリアナから日本本土途中にある硫黄島を、戦闘機中型爆撃機出撃基地としてだけではなくB-29燃料補給所や日本本土損傷したB-29不時着場として確保することとした。しかし、マッカーサーによるフィリピン侵攻大量兵力投入されたことと、日本軍頑強な抵抗によりフィリピン攻略長引いたことで硫黄島へ侵攻スケジュールは遅れることとなったアメリカ軍侵攻が遅れる間、硫黄島守備隊小笠原兵団司令官栗林忠道中将硫黄島徹底した要塞化着手激し空襲により工事妨害しながらも、要塞化進行確認していたアメリカ海兵隊56任務部隊司令官ホーランド・スミス中将上陸艦隊第58任務部隊司令官レイモンド・スプルーアンス中将に「硫黄島は我々が今まで占領しなければならなかった島の中で、一番堅固なでしょう。なぜあの島をとりたいというのかわかりませんが、とることはとりましょう」と悲観的に語っており、スプルーアンス作戦先行きに不安を感じている。 日本軍硫黄島アメリカ軍の手落ちた場合影響重大性痛感しており、硫黄島爆破して海没させるという珍案が真面目に検討されたこともあったが、莫大な爆薬が必要であることから断念し守備する小笠原兵団強化図った栗林要塞化した硫黄島徹底した持久戦将兵命じ、「我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」「我等最後一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン」などと戦闘方針定めた栗林自ら起草がした『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員配布している。 アメリカ軍入念な爆撃艦砲射撃加えたのちに硫黄島上陸してきたが、巧みに構築され日本軍陣地は殆ど損害受けておらず日本軍攻撃前に海岸線貼り付けとなって多大な損害被った作戦初日硫黄島上陸できたアメリカ海兵隊30,000であったそのうち2,400人が戦死していた。日本軍硫黄島を空から支援するため、神風特別攻撃隊「第2御盾隊」を出撃させた。32機と少数であったが、護衛空母ビスマーク・シー撃沈正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) (英語版)など数隻を損傷させる戦果挙げた特攻によるアメリカ軍被害硫黄島からも目視でき、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「敵艦船に対す勇敢な特別攻撃により硫黄島守備隊員の士気鼓舞された」「必勝確信敢闘を誓あり」と打電している。 その後摺鉢山巡って激戦などで、両軍兵士互いに多大な損害被りながら激戦続けたが、当初5日攻略予定であったアメリカ軍1か月以上も足止めした栗林は、3月26日残存兵約400とともにアメリカ軍夜襲敢行して戦死した日本軍21,000人の守備隊のうち20,000人が戦死したが、アメリカ軍26,000人が死傷し人的損失アメリカ軍上回った甚大な損害被ったこの戦いについてアメリカ側軍事的な評価厳しいものとなり、政治学者五百籏頭真戦後アメリカ公文書調査していた際に、硫黄島の戦いとこの後沖縄戦については、アメリカの方が敗者意識持っている事に驚いている。 甚大な損害被りながらも攻略した硫黄島戦略的価値は非常に高く、まだ日本アメリカ両軍戦闘中であった1945年3月4日最初B-29硫黄島緊急着陸すると、その後終戦までに延べ2,251機のB-29硫黄島緊急着陸し、約25,000人の搭乗員を救うことになったまた、P-51Dを主力とする第7戦闘機集団硫黄島進出しB-29護衛についたり、日本軍飛行場襲撃したしたため日本軍戦闘機によるB-29迎撃大きな制約を受けることとなった一方で日本軍は、マリアナ諸島への攻撃前進基地だけでなく、日本本土空襲への防空監視拠点をも失うこととなって、いよいよ戦局の悪化歯止めがかからなくなっていった。

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硫黄島の戦い

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フランクリン・スースリー」の記事における「硫黄島の戦い」の解説

1944年1月5日海兵隊に入隊。スースリーは第5海兵師団所属となった3月から半年ペンドルトン基地訓練行い部隊9月19日サン・ディエゴ出港する10月ハワイ島タラワ基地到着して、ここで更に実戦的訓練行った1945年1月、スースリーの部隊は硫黄島の戦いに参加すべくタラワ基地出発した途中テニアン島上陸演習行った後、2月19日にスースリーは硫黄島上陸を果たす。上陸から3日後の1945年2月23日アイラ・ヘイズマイク・ストランクジョン・ブラッドリーハーロン・ブロック、レイニー・ギャグノンらと共にスースリーは硫黄島南部擂鉢山山頂星条旗掲げた

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硫黄島の戦い

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ハーロン・ブロック」の記事における「硫黄島の戦い」の解説

1944年3月第5海兵師団28海兵連隊第2大隊E中隊転属となったハーロンは、それから半年ペンドルトン基地英語版)で訓練行った部隊9月19日サン・ディエゴ出港した後、10月ハワイ島タラワ基地英語版)に到着し、ここで更に実戦的訓練行った1945年1月部隊タラワ基地出発し兵士たちにはホノルル数日間休暇与えられた。ハーロンはここでチームメイト達と再会しタラワの戦い負傷した仲間見舞い行っている。数日後ホノルル離れた部隊は、途中テニアン島上陸演習行った後、2月19日ハーロン硫黄島上陸果たした上陸から3日後の1945年2月23日アイラ・ヘイズマイケル・ストランクジョン・ブラッドリーフランクリン・スースリー、レイニー・ギャグノンらと共に硫黄島南部摺鉢山山頂星条旗掲げた

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硫黄島の戦い

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マイケル・ストランク」の記事における「硫黄島の戦い」の解説

1944年3月休暇終えて帰隊したストランクは第5海兵師団転属となり、E中隊第2小隊分隊長となった半年ペンドルトン基地英語版)で訓練行い部隊9月19日サン・ディエゴ出港した10月ハワイ島タラワ基地英語版)に到着して、ここで更に実戦的訓練行った1945年1月、ストランクの部隊は硫黄島の戦いに参加すべくタラワ基地出発した途中テニアン島上陸演習行った後、2月19日にストランクの部隊硫黄島上陸果たした上陸から3日後の1945年2月23日アイラ・ヘイズフランクリン・スースリージョン・ブラッドリーハーロン・ブロック、レイニー・ギャグノンらと共に硫黄島南部摺鉢山山頂星条旗掲げた

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硫黄島の戦い

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日本本土の戦い」の記事における「硫黄島の戦い」の解説

詳細は「硫黄島の戦い」を参照 1945年(昭和20年)2月16日硫黄島米軍上陸した日本軍2万人の兵力で、優勢な火力擁する7万人米軍相手に戦う事態となった硫黄島日本軍は1,023人の捕虜除いて全滅したが、栗林忠道中将優れた指揮により米軍28,686人もの損害与えた

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硫黄島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 16:59 UTC 版)

硫黄島の星条旗」の記事における「硫黄島の戦い」の解説

詳細は「硫黄島の戦い」を参照 1945年2月19日、「飛び石戦略」に沿って日本本土目指していたアメリカ軍硫黄島上陸した。もともと硫黄島攻略計画含まれていなかったが、沖縄攻略前段階であったフィリピン攻略予想以上に早く終わったことから、マリアナ諸島日本本土中間にある硫黄島攻略決まった当時日本本土爆撃マリアナ諸島ら行われていたが、硫黄島制圧することによってB-29爆撃機緊急着陸場所、ならびに護衛P-51戦闘機基地確保することができた。 硫黄島は、日本軍栗林忠道陸軍大将率い小笠原兵団によって要塞化されていた台形火山島で、上陸した海兵隊多く損害与えた硫黄島当時から東京都一部であったことから、同島占領連合軍による最初日本本土占領となることを意味していた。その意味日本にとっても硫黄島絶対に失ってならないであった戦略的には島を見渡せる高さ166 mの摺鉢山がもっと重要な拠点であった日本軍硫黄島防衛のため、半地下式の掩蔽壕トーチカをつくり、それらを結ぶ地下トンネル掘削したこのためアメリカ軍手榴弾火炎放射器トーチカ内の日本兵倒しても、トンネル通りまた新しい兵が入ってきて抵抗続けるというパターン繰り返された。アメリカ軍最初に摺鉢山目標兵力集中し4日間の攻防のすえ2月23日にこれを制圧した(硫黄島の戦い#摺鉢山の戦い)。 摺鉢山制圧後も日本軍抵抗終わらず最終的に31日後に組織的な抵抗がおわり、硫黄島の「制圧」が宣言された。

※この「硫黄島の戦い」の解説は、「硫黄島の星条旗」の解説の一部です。
「硫黄島の戦い」を含む「硫黄島の星条旗」の記事については、「硫黄島の星条旗」の概要を参照ください。

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