アメリカ軍の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 05:39 UTC 版)
「ミンドロ島の戦い」の記事における「アメリカ軍の上陸」の解説
12月15日、アメリカ軍によるミンドロ島上陸戦が開始された。当日は晴天であり、海上の侵攻部隊は大いに天気に恵まれていた。 ミンドロ島への上陸を知った日本海軍は、特攻機13機と直掩機12機の攻撃隊を差し向け、15日朝の攻撃で2隻の戦車揚陸艦を撃沈した。うち被弾炎上した戦車揚陸艦LST-738(en)の乗員は、駆逐艦モールの果敢な行動で救助された。LST-738では揚陸物資が誘爆を起しており、60cmにもなる榴散弾の破片が飛び散って、モールの船体には4つの大穴が開いた。モールの乗員の一人メイト・エド・マーシュは、LST-738に積まれていた樽詰めのワセリンがボフォース 40mm機関砲の銃身に飛び散って、「必要のない油が注された」と語っている。モールでは乗員1人が死亡し13人が負傷したが、LST-738の88人を無事救助した。 日本海軍は、第31戦隊所属の駆逐艦部隊による反撃も検討したが、空襲や故障により断念した。 アメリカ軍による島の主要地域の確保は48時間以内に終結した。日本軍は、圧倒的な戦力差のために戦闘を回避した。日本軍のうち島北部の防空監視所にいた約300人は、第503空挺歩兵連隊の1個中隊による掃討を受けて戦闘となったが、かろうじて山中に逃れることができた。 アメリカ軍はただちに飛行場の整備を開始し、13日間で2箇所の飛行場を完成させた。12月26日頃には航空機約120機が展開した。
※この「アメリカ軍の上陸」の解説は、「ミンドロ島の戦い」の解説の一部です。
「アメリカ軍の上陸」を含む「ミンドロ島の戦い」の記事については、「ミンドロ島の戦い」の概要を参照ください。
アメリカ軍の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:53 UTC 版)
レイテ島を守備管轄していたのは、第14方面軍指揮下の第35軍(司令官・鈴木宗作中将)であった。第35軍は後方のセブ島に司令部を置き、主力をミンダナオ島に配置していた。レイテ島を守備していたのは、第35軍隷下にある4個師団と2個旅団のうち、第16師団(師団長・牧野四郎中将)のみであった。 10月20日午前10時、アメリカ側は第10軍団の第24師団(師団長・アービング少将)と第1騎兵師団(師団長・マッジ少将)がレイテ島東岸のタクロバンに、続いてその南方約27キロのドラッグ(英語版)に第24軍団の第7師団(師団長・アーノルド少将)と第96師団(師団長・ブラッドレー少将)が上陸を開始した。レイテ島南端のパナオン島地区にも第24師団の第21歩兵連隊戦闘団が上陸した。各上陸部隊は戦車揚陸艦や各種上陸用舟艇に分乗し、水陸両用戦車も伴っていた。 第16師団は約2万名の兵力を擁していたが、わずか1時間の戦闘で奥地のジャングルへ後退した。これはサイパン島の戦いのような「水際死守」で多くの兵士を緒戦で失った苦い戦訓から、後方のジャングルでの抵抗線形成が日本軍の作戦となっていたからである。第16師団他の日本軍部隊は、内陸のブラウエン南(英語版)・北飛行場(英語版)周辺やダガミ(英語版)などに主防衛線を展開した。これによりタクロバンなどの海岸地帯の飛行場の多くはアメリカ軍占領下となった。アメリカ軍もほとんど水際での抵抗を受けなかったと記録している。しかし、第24師団に対してだけは激しい水際反撃があった。同師団の上陸地付近に配置されていた日本軍野砲兵第22連隊第2大隊及び歩兵第33連隊は、第一波の上陸は無視し、第二波を引きつけた時点で猛烈な射撃を開始した。この反撃により、日本軍の砲兵は戦車揚陸艦4隻に75mm野砲弾を命中させ、うち1隻を炎上させた。これにより師団司令部が多くの死傷者を出した。第7師団なども、ジャングルに橋頭堡を拡大しようとすると抵抗を受けはじめた。 午後3時、南西太平洋方面連合軍司令官ダグラス・マッカーサー大将は第3次上陸部隊とともに膝まで水に浸かりながら、タクロバン海岸に上陸した。それはマッカーサーがコレヒドール島を脱出してから2年7ヵ月後のことであった。夕刻までにアメリカ軍は兵員6万名と10万トンの車両、物資をレイテ島に揚陸した。21日明け方にかけて、日本軍の独立戦車第7中隊などは、散発的な反撃をドラッグ飛行場(英語版)周辺の第7師団に対して行ったが、すべて撃退された。アメリカ軍の初日の損害は死傷250人であった。 翌21日以降、アメリカ軍は戦車や砲兵の支援の下、内陸への侵攻を開始した。第10軍団はレイテ渓谷を抜けて北岸のカリガラ(英語版)平原を目指し、第24軍団は中部のブラウエンやダガミへと進撃した。第16師団以下の日本軍は飛行場周辺などに陣地を築き抵抗したが、戦車や火炎放射器によりじわじわと制圧されていった。日本軍の夜襲が成功することもあったが、第16師団の第20・第33連隊長が23日に相次いで戦死するなど組織的戦力を失っていった。24日午後には戦車およそ40両を先頭とするアメリカ軍2個大隊が、海岸より西へ10kmのブラウエン地区へ進入し、翌25日にはドラッグ方面の日本軍部隊は全滅した。 戦闘の間、日本軍の通信状態は不良で、第16師団と第35軍司令部との通信は21日午前0時ごろから22日午後10時ごろまでまったく通じていなかった。25日から30日までは、第35軍と第14方面軍との通信が途絶えてしまった。
※この「アメリカ軍の上陸」の解説は、「レイテ島の戦い」の解説の一部です。
「アメリカ軍の上陸」を含む「レイテ島の戦い」の記事については、「レイテ島の戦い」の概要を参照ください。
アメリカ軍の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:57 UTC 版)
「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「アメリカ軍の上陸」の解説
日本側は、第35軍(司令官:鈴木宗作中将)がレイテ島を含む東部フィリピン防衛を担当しており、うちレイテ島には第16師団のみを配置していた。 1944年10月20日、連合軍はレイテ島攻略に着手した。第6軍所属の約20万2500名からなる陸上部隊が投入された。航空支援には陸上機約3200機に加え、艦載機約1200機も参加した。海上からも艦隊が火力支援をしていた。 アメリカ軍第24軍団(第7師団・第96師団)と第10軍団(第1騎兵師団・第24師団)は、レイテ島東岸のタクロバンから上陸を開始した。猛烈な艦砲射撃で、沿岸の日本軍陣地は壊滅した。連合軍は急進して第16師団の連隊長2人を戦死させ、26日までに6個の飛行場を確保した。第16師団は山地へと退却した。この戦闘の間、日本軍の通信状態は悪く、しばしば連絡が途絶えたため、大本営やマニラの方面軍ではレイテ島の戦況の把握が困難であった。第16師団の残存部隊は増援部隊と合流しながら翌年2月頃まで戦い続けたが、11月20日時点で約3800名、翌年3月には約800名まで消耗していた。
※この「アメリカ軍の上陸」の解説は、「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の解説の一部です。
「アメリカ軍の上陸」を含む「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事については、「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の概要を参照ください。
アメリカ軍の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
8時25分から9時まで再度艦砲射撃が続き、全島が爆炎と吹き上がった土砂で埋まってる中、9時に第4・第5海兵師団の第1波がLCVP250隻、アムトラックとアムタンク500輌に分乗し海岸に接近してきた。栗林はアメリカ軍をある程度上陸させてから一気に叩くことを命じ、前線も栗林の命令をよく守って攻撃を控えていた。海兵隊は水際での日本軍の小火器や迫撃砲による散発的な抵抗のなかで、午前10時までに第8波9,000人を硫黄島に上陸させたが、栗林は海岸が海兵隊員や物資で埋め尽くされたのを確認すると、10時過ぎに一斉射撃を命じた。今までの散発的な抵抗でアメリカ軍は油断しており、「日本軍の抵抗は微弱」「我が艦砲射撃のため敵は痛撃されて沈黙せるものと思われる」「我が軍は全線に亙って平均200ヤード前進せり」など順調な作戦進行を知らせる無電が海上の司令部に寄せられていた。そんなときに浴びせられた予想以上の日本軍の猛砲撃に上陸したアメリカ軍は大混乱に陥り、海岸のいたるところに海兵隊員の死傷者や吹き飛ばされた肉体の一部が散らばり、血が川のように海に向かって流れていた。 アメリカ軍侵攻の真正面にぶつかった速射砲第8大隊は、アムタンクが海岸に到達するや一式機動四十七粍砲で砲撃を開始した。同大隊第2中隊の中隊長中村貞雄少尉の砲撃技術は神業に近く、中村は自ら速射砲を操作すると「初弾悉ク必殺命中ノ射撃」で 次々とアムトラックに命中弾を与え、じつに20輌のアムトラックを撃破し、戦車を揚陸するため海岸に接岸したLCT(英語版) を3隻撃破した。その後、上陸地点の足場を固めようと上陸してきたブルドーザー1輌も撃破したが、アメリカ軍の集中砲火を浴びトーチカが撃破されて中村も戦死した。栗林は中村の活躍を聞くと「武功抜群ニシテ克ク皇軍速射砲部隊ノ真髄ヲ発揮シタ」と全軍に布告し二階級特進の申請を行い、その活躍は昭和天皇の上聞にも達した。 もっとも激戦となったのは、アメリカ軍がブルー2と名付けた上陸点北側の側面に位置する岩だらけの場所であった。ここの日本軍陣地は、コンクリートと鉄筋をふんだんに使って強化されており、1,000ポンド爆弾でも戦艦の艦砲射撃でもビクともしないように思えた。第25海兵連隊第3大隊の海兵隊員たちは上陸した瞬間から、機関銃と迫撃砲の激しい洗礼を受けており、大損害を負いながらどうにか最初の段丘を超えると、待ち構えていた内陸のトーチカから交差射撃を浴びた。大隊長は自分たちをありとあらゆる方向から狙い撃ちしてくる日本軍の銃火に「煙草を持って、飛んでくる弾丸で火をつけられるほど激しい射撃だった。わたしはすぐに自分たちがとんでもない目にあうことを知った」と思ったという 。海岸での海兵隊員の損害を大きくした原因の一つが硫黄島特有の火山灰で構成された砂地であった。海兵隊員は海岸に上陸すると、持っていた携帯シャベルやヘルメットで穴を掘って日本軍の攻撃をしのごうとしたが、火山灰は粘り気がなく、いくら掘っても内側に崩れてくるばかりで満足に身を隠すこともできなかった。海兵隊員たちは「こいつは小麦の樽のなかで穴を掘るようなもんだ」と嘆き、日本軍の攻撃に次々と倒されていった。 海岸にくぎ付けとなった海兵隊員は戦車の支援を要請し、アメリカ軍はLSM-1級中型揚陸艦でM4 シャーマン中戦車を海岸に揚陸させようと試みたが、砂浜の角度が急で揚陸に手間取り、またようやく上陸できたM4 シャーマン中戦車も硫黄島特有の柔らかい砂地によって移動もままならず、なかにはキャタピラが砂に埋まってスタックして後続の上陸を妨害してしまうM4 シャーマン中戦車もあった。ようやく前進できても海岸に多数埋設されている対戦車地雷で擱座し、そこに日本軍は砲火を集中して次々と撃破された。初めは戦車の上陸を歓喜していた海兵隊員であったが、戦車が近づくと逆に日本軍の砲火が激しくなるため、「いったいどうすればいいんだ、戦車から逃げればいいのか?」と厄介者される始末であった。第1波で上陸したM4 シャーマン中戦車56両のうち28両が撃破され、この日の戦車の大損害を見てアメリカ海兵隊は公式報告書で「Dデイ(上陸日)における海兵隊のM4 シャーマンは地獄を味わった」と評している。 日本軍の激しい砲撃は引き続き海岸の海兵隊員に浴びせられていた。なかでも大音響で飛来してくる噴進砲が海兵隊員の恐怖の的となった。威力も凄まじく1発で数十人が死傷することもあり、海兵隊員は同砲弾を「空飛ぶアシュカン(ゴミを捨てる金属製の箱のこと)」ともしくは「悲鳴を上げる神様(Screaming Jesus)」などと呼んで恐れた。それでもアメリカ軍は続々と後続を上陸させて、大損害にも関わらず次第に内陸に向けて進撃を開始しており、正午ごろには千鳥飛行場第一滑走路付近まで達していた。内陸を前進する海兵隊にも容赦なく砲撃が浴びせられて、ガダルカナルの戦いでメダル・オブ・オナーを受賞した海兵隊の英雄ジョン・バジロン軍曹も、日本軍前線を勇戦で突破したのち、千鳥飛行場付近で日本軍の迫撃砲によって戦死している。 正午には、上陸海岸はアメリカ軍の撃破された戦車や上陸用舟艇やほかの物資などで廃品置き場のようになっていた。旗艦である揚陸指揮艦エルドラド(英語版)で戦況を見つめていたスミスは、上陸海岸の惨状を見て「竜巻のなかの木造家屋の家並み」のようだと感じた。撃破されて漂っている上陸舟艇やアムトラックは、押し寄せる後続の上陸用舟艇やアムトラックの障害物となり、運転手はどうにか間をすり抜けるような操縦を試みたが、あまりにも残骸が大量にあるため、衝突事故が相次ぎ、なかには上陸した海兵隊員を押しつぶすこともあった。しかし、エルドラドで指揮をとるターナーやスミスにできることは危険を承知で、さらに多くの海兵隊員を海岸に送り続けることだけであった。 19日が終わった時点でアメリカ軍は30,000人を硫黄島に上陸させたが、そのうち2,420人が死傷した(戦死501人、戦傷1,802人、行方不明18人、戦闘ストレス反応99人)。とくに第24、第25海兵連隊は25パーセントの損失を出し、全上陸兵力の8%に相当した。これは史上最大の作戦と言われたノルマンディ上陸作戦最大の激戦地オマハビーチ(ブラッディ・オマハ)でアメリカ陸軍がD-デイに被った約2,000人の人的損失を上回る最悪なものとなった。 上陸初日の惨状を従軍していた海兵隊員の一人は「タラワの戦い、サイパンの戦い、テニアンの戦いでも海岸で海兵隊員は衝撃的な状況で死傷しているのを見たが、硫黄島の海岸ほど悲惨な状況はなかった」と評している。海兵隊の公式報告書はのちに、8%の死傷率は、タラワの戦い(30%) やサイパンの戦い(10%) と比較すると低く、上陸時の戦力状況は両島のときよりは良好であったと評価し、その要因については、「海軍の砲台が栗林の命令を破って砲撃し事前に大損害を被った」ことと「栗林が少し(攻撃を)待ちすぎた」などと分析しているが、損害を顧みず、1日で一気に30,000人を上陸させた司令部に対して、ただ日本軍の砲撃の的となり続けるしない前線の海兵隊員は「自分たちは牧場の檻に入れられた牛のよう」と恨みを募らせている。 海兵隊はそれまでの島嶼作戦で日本軍の常道だった夜襲と万歳突撃を待ち構えたが、日本兵は来なかった。日本軍が実施したのは少人数による手榴弾を使った襲撃(挺進攻撃)という嫌がらせ攻撃であり、アメリカ軍が浜辺に集積していた物資の一部がこの攻撃により炎上し損害を受けた。また、日本軍の砲弾も夜を徹して飛来しており、未明には第23海兵連隊第1大隊司令部に直撃して大隊長と作戦参謀が即死し、20日の午前4時には第4海兵師団の燃料・弾薬集積所にも命中して轟音と共に大量の燃料と弾薬が誘爆し、第4海兵師団はしばらくの間、他の師団から燃料や弾薬を融通してもらわなければならなかった。
※この「アメリカ軍の上陸」の解説は、「硫黄島の戦い」の解説の一部です。
「アメリカ軍の上陸」を含む「硫黄島の戦い」の記事については、「硫黄島の戦い」の概要を参照ください。
- アメリカ軍の上陸のページへのリンク