ミンドロ島上陸
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1944年(昭和19年)11月下旬、アメリカ軍を中心とした連合国軍は、レイテ島攻略作戦を順調に進めていた(レイテ島の戦い)。12月13日、大本営海軍部(軍令部)や連合艦隊は「アメリカ軍大部隊のスルー海進入」という報告を受け、連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将、首席参謀神重徳大佐)は在フィリピンの現地部隊に対し、敵上陸に備えるよう打電した(GF機密第132214番電)。南西方面艦隊司令長官の大川内傳七中将は、第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に対し、戦闘可能艦艇のボルネオ島ブルネイ進出を命じる。この命令は変更され、第二遊撃部隊は12月14日までにベトナム中南部のカムラン湾に集結した。同日、及川古志郎軍令部総長は昭和天皇に「比島方面ノ作戦指導ニ関シ」奏上する。従来どおりレイテ地上決戦を進めること、そして「(五)情況ニ依リテハ水上艦艇ノ突入作戦ヲ実施ス 現在南西方面ニテ行動可能ノ海上兵力ハ戦艦二隻、巡洋艦三隻、駆逐艦八隻(十二月中ニ 二隻増勢ノ予定)デ御座イマス 局地海上兵力ノ現状ハ別表〔略〕ノ通デ御座イマス」と奏上し、水上艦艇による突入作戦について言及した。 12月15日早朝、連合軍はミンドロ島に上陸した。アメリカ軍の戦力は上陸船団がアーサー・D・ストラブル少将率いる軽巡ナッシュビル他護衛駆逐艦12、高速輸送艦(APD)8、LST30、LSM12、LSI31、掃海艇17、雑舟艇14であった。その直接護衛として重巡1、軽巡2、駆逐艦7、高速魚雷艇23が船団前方を行き、更に護衛空母6、戦艦3、重巡3、駆逐艦18が上空援護部隊として間接護衛するといった陣容であった。 これに対し日本軍(陸軍、海軍)はフィリピンの各航空基地から、新たに出現した連合軍艦隊に航空攻撃を敢行した。12月13日、船団旗艦の米軽巡ナッシュビルが大破(駆逐艦に護衛されて退避)。ミンドロ島上陸当日には、特攻機とその護衛機併せて海軍47機、陸軍13機が攻撃に向かった。だが第四航空軍の陸軍機は全滅、海軍機も帰還十数機のみの大損害を蒙った。その後も小規模ながら日本軍航空隊の波状攻撃は続けられたが、アメリカ軍機動部隊(第38任務部隊)の活動により日本軍航空戦力は大打撃を受けた。16日、連合軍はサンホセを完全に占領。ただちに飛行場の稼働準備に入った。 12月17日、米軍機動部隊は燃料補給のためルソン島東方海面に移動したが、折しもコブラ台風に遭遇して駆逐艦3隻を喪失、損傷艦艇多数を出し、燃料補給も出来なくなった。このため米軍機動部隊は修理と補給のためウルシー環礁に引き上げた。機動部隊による防空は出来なくなったが、ミンドロ島のサンホセ飛行場への米軍機進出は順調に進んでいた。日本軍航空部隊は昼夜を問わず空襲を続行したが、決定的戦果を挙げられなかった。ミンドロ島の米軍飛行場が稼働を開始、P-38ライトニング戦闘機、P-47サンダーボルト戦闘機、P-61夜間戦闘機、重爆撃B-24の活動がはじまると、日本軍航空隊の活動は低調化した。日本陸軍航空隊はネグロス島のバコロド航空基地から出撃していたが、同地もP-38やB-24の空襲に晒され地上で損害を出した。連合軍飛行場に対する昼間攻撃はさらに難しくなり、日本側は10機未満での夜間空襲を続けた。日本艦隊が攻撃した26日、ミンドロ島の2ヶ所の飛行場には連合軍機約120機(B-25爆撃機3、P-38戦闘機44、P-47戦闘機28、P-40戦闘機20)が展開していた。
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