第5艦隊
第五艦隊 (初代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 07:33 UTC 版)
「第五艦隊 (日本海軍)」の記事における「第五艦隊 (初代)」の解説
最初の第五艦隊は、支那方面艦隊の増援部隊として、1938年(昭和13年)2月1日附で編制された(司令長官塩沢幸一中将、参謀長田結穣少将)。塩沢司令長官は重巡洋艦妙高を旗艦に指定した。第五艦隊の新編により、支那方面艦隊は麾下に三個艦隊(第三艦隊・第四艦隊・第五艦隊)を擁し、北支方面に第四艦隊を(北支部隊)、中支方面に第三艦隊を(中支部隊)、南支(華南)方面に第五艦隊(南支部隊)を充当することになった。 南支部隊(指揮官塩沢幸一第五艦隊司令長官)の軍隊区分は、主隊(妙高)、北方部隊(第十戦隊第2小隊、第1砲艦隊、第3駆逐隊、第1防備隊)、南方部隊(第五水雷戦隊、多摩、東沙島通信隊)、南支第一航空部隊(第三航空戦隊司令官指揮)、南支第二航空部隊(第一航空戦隊司令官指揮)、南支第三航空部隊(第四航空戦隊司令官指揮)、聯合空襲部隊(第一空襲部隊〈二聯空〉、第二空襲部隊〈一聯空〉)となった。 同年5月1日、第五艦隊司令長官を指揮官とする「D部隊」が編成され、厦門攻略作戦「D作戦」がはじまった。10日、海軍陸戦隊が厦門島に上陸した。20日、厦門攻略作戦は完了した。 同年10月上旬、廣東攻略作戦への協力を開始する。海軍部隊は、陸軍輸送船団の護衛・航空兵力による地上支援をおこなった。日本陸軍は「波号」作戦、日本海軍は「Z号」作戦、作戦部隊を「Z部隊」と呼称した。 同年12月15日、第五艦隊司令長官は塩沢中将から近藤信竹中将へ、五艦隊参謀長は田結少将から山口多聞少将に交代した。支那方面艦隊の戦力は縮小され、第五艦隊(南支部隊)は、第九戦隊(主隊)、第五水雷戦隊(南支監視部隊)、第二根拠地隊(珠江部隊)、第三根拠地隊(厦門部隊)、第三聯合航空隊(第六航空基地部隊)、附属部隊となった。 1939年(昭和14年)1月19日、大本営は海南島の攻略を発令し、日本陸軍は「登」号作戦、日本海軍は「Y」作戦と呼称した。陸軍は第21軍が、海軍は第五艦隊が攻略作戦を実施する。Y作戦のうち、陸軍と協同でおこなう海口方面攻略作戦を「甲作戦」、海軍のみでおこなう三亜や楡林方面攻略を「乙作戦」と呼称した。第五艦隊司令長官近藤信竹中将を指揮官とするY護衛艦隊が編成された。2月10日、陸海軍部隊は海南島上陸作戦をおこなう。乙作戦は12日に発動し、14日に三亜や楡林を占領した。 同年6月中旬より汕頭攻略作戦を実施、21日に同地を占領する。10月20日、第五艦隊長官は近藤中将から高須四郎中将に交代した。11月上旬からは第21軍とともに南寧攻略作戦をおこない(陸軍は「和号作戦」、海軍は「N作戦」)、N護衛艦隊(第五艦隊、第二航空戦隊、第11駆逐隊、神川丸、千代田)が編成されている。 11月15日、日本海軍は支那方面艦隊の改定を実施した。支那方面艦隊の麾下に三個遣支艦隊を編制し、第四艦隊を独立させたのである。従来の第三・第四・第五艦隊は「~遣支艦隊」に改名した。このとき旧第三艦隊は「第一遣支艦隊」に、旧第四艦隊は「第三遣支艦隊」に改名した。旧第五艦隊は「第二遣支艦隊」に改称され(司令長官:高須四郎中将)、旗艦は妙高から鳥海に変更された。 改名の前後にバイアス湾上陸作戦・海南島攻略作戦に参加している。太平洋戦争突入後、第一・第三遣支艦隊は規模を縮小して根拠地隊へ降格したが、第二遣支艦隊だけは敗戦まで艦隊を維持している。
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