終戦直後(近畿大学野球連盟の成立)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:14 UTC 版)
「近畿学生野球連盟」の記事における「終戦直後(近畿大学野球連盟の成立)」の解説
戦時命令により一時中断していた各大学野球リーグは、終戦により1946年春から順次活動を再開していたが、1947年には大学野球の最優秀チームを決めようという気運が盛り上がり、旧関六は東京六大学野球連盟、東都大学野球連盟とともに全国大学野球連盟を結成し、この組織の下で大学野球王座決定戦を実施した。また、1949年施行の学制改革に伴う全国組織としての新制大学野球連盟が各種の旧制学生野球連盟(「全国高等学校野球連盟」「全国専門学校野球連盟」「全国師範学校野球連盟」)を改組・再編する形で発足した。 これらの一連の動きの中で、1947年には旧関西学生野球連盟の加盟校中2校が中心になり大阪三大学野球連盟として再スタートを切り、1948年の春には2校を迎え近畿五大学野球連盟と改称し秋季には更に1校が加わり近畿六大学野球連盟となった。また1949年の学制改革施行に伴い全国新制大学野球連盟が発足。翌年の1950年から傘下の団体に編入となった。なお1951年にはさらに加盟校を6校加え1部2部制を導入(※3)するのを機に名称を近畿大学野球連盟と改めた。 ※3:12校中7校が1928年結成の戦前の関西学生野球連盟時代の加盟校が新制大学に移行しての出戻り組み。
※この「終戦直後(近畿大学野球連盟の成立)」の解説は、「近畿学生野球連盟」の解説の一部です。
「終戦直後(近畿大学野球連盟の成立)」を含む「近畿学生野球連盟」の記事については、「近畿学生野球連盟」の概要を参照ください。
終戦直後(1945年-1954年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 03:16 UTC 版)
「日本のダムの歴史」の記事における「終戦直後(1945年-1954年)」の解説
太平洋戦争で敗戦した日本は、国力も国土も極めて疲弊した状態に在った。決戦非常措置要綱の発令で物資の全てを戦争に費やしたことで河川事業はダムを含め完全に停滞し、新規計画も修繕もままならない状況であった。電力に関しては物資不足による事業中断に加え、民間の電力需要が爆発的に増大し電力の需給バランスは一挙に崩壊して深刻な停電が頻発した。さらにコメを始めとする農業生産力も低下して食糧不足が深刻化、1946年(昭和21年)には皇居前広場に25万人が集まる飯米獲得人民大会(食糧メーデー)が開かれるなど日本の社会は大きな混乱を来たしていた。戦災からの復興を果たさねばならない中で、混乱に拍車を掛けたのは連年襲い来る水害であった。
※この「終戦直後(1945年-1954年)」の解説は、「日本のダムの歴史」の解説の一部です。
「終戦直後(1945年-1954年)」を含む「日本のダムの歴史」の記事については、「日本のダムの歴史」の概要を参照ください。
「終戦直後」の例文・使い方・用例・文例
- 終戦直後のページへのリンク