学生野球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/08 05:14 UTC 版)
学生野球(がくせいやきゅう)とは、その国における大学、高等学校およびそれら準ずる学校法人組織に所属する野球部が主体となって開催される野球競技の一般呼称である。日本において狭義の意味で大学野球のことを示すことがあるが、日本国内の一般的な扱いは運営組織の構成上の関係から、大学野球と高校野球を合わせたものを呼ぶ。
概略
この記事では日本国内の状況について解説する。
先ず日本語の語彙解釈の点から解説すれば、学生とは一般的に大学生のことを表し、生徒は一般的に高校生のことを表すと定義されているが、学生とは大学生のみを表す(高校生は学生ではない)という定義は一切されておらず、その観点から日本においては大学野球と高校野球を統括する組織を日本学生野球協会と命名し位置づけている。(尚、日本では戦後における中学野球以下に関しては少年野球・学童野球という位置づけで捉えている。)
運営する組織体系の観点から説明すれば前述の定義になるが、広義の点から言えば戦前から終戦直後にかけての旧学制による高等学校野球、専門学校野球、師範学校野球も学生野球であり、戦後の学制改革を経た新学制による専門学校、専修学校、各種学校にもクラブ活動における野球部は存在するため学生野球である事には変わりない。運営組織の体系上で日本学生野球協会がそれらを対象としないだけである。
以上の定義解説を踏まえたうえで、日本において一般的には運営組織の構成を前提にする場合が多い。したがって、あくまで学生野球とは、大学野球と高校野球を合わせたもの(但し特例があるので詳細は後述の他の団体との関連についての記述を参照)であり、その他の各種学校法人の生徒・学生がクラブ活動で行なわれる野球競技活動とは区別する場合が殆んどであると考えたほうが無難である。あえて同用語を使用してその他の学生野球を解説・紹介する場合は、その歴史的経緯や現場での運用現状を理解したうえで特記などを用いて解説するのが望ましい。
沿革
※野球部の創部に関して歴史的な資料価値の観点から創成期(大正期以前)のみを記載対象。(その他のチームについては他の当該資料を参照の事。)また、校名は当時の校名ではなく現在の校名で統一する。
明治期(1868〜1911)
- 1872年 第一大学区第一番中学(後の旧制一高)でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが学生たちに教えたのが日本における野球の始まり。
- 1883年 青山学院の野球部が創部
- 1885年 明治学院の野球部が創部[1]
- 1888年 慶大の野球部が創部
- 1889年 学習院、同志社大の野球部が創部
- 1890年 安積高校の野球部が創部(※当時旧制中学)
- 1894年 秋田高校の野球部が創部(※当時旧制中学。年代には諸説あり。)
- 1895年 関西高校の野球部が創部(※当時旧制中学)
- 1898年 京都帝大の野球部が創部
- 1899年 関西学院の野球部が創部
- 1901年 早大の野球部が創部
- 1903年 第1回早慶戦開始。
- 1903年 神戸大の野球部創部
- 1906年 早慶戦が中止。一高三高定期戦が開始。
- 1906年 大阪大の野球部が創部
- 1909年 立大の野球部が創部
- 1910年 明大、東京農大の野球部が創部
大正期(1912〜1925)
- 1914年 早慶を明大が仲立ちし三大学リーグが開始。(以後加盟校が次第に増加。早慶戦は1925年まで復活せず。)
- 1915年 法大、関西大の野球部が創部
- 1915年 上智大の野球部が創部
- 1915年 8月、全国中等学校優勝野球大会開始。(主催は大阪朝日新聞(現:朝日新聞))
- 1916年 大阪市大の野球部が創部
- 1917年 当時の関西地域の有力校8校により関西学生野球連盟(初代)を設立。(数年後には解散。)
- 1917年 大阪歯大の野球部が創部
- 1919年 東大の野球部が創部
- 1920年 國學院大の野球部が創部
- 1922年 大阪外大、一橋大の野球部が創部
- 1923年 後の近畿学生野球リーグの母体になる官立三校野球連盟(神戸大、大阪大の前身3校)が創設。
- 1923年 日大野球部が創部
- 1924年 4月、選抜中等学校野球大会開始。(主催は大阪毎日新聞(現:毎日新聞))
- 1924年 全国高等専門学校野球大会が開始。(主催は東京、京都、東北、九州の四帝国大学。大阪朝日新聞社が後援で各帝国大学所在地で予選、地区代表ームで優勝戦。)
- 1924年 8月、阪神甲子園球場が落成。両大会とも同球場で実施されることになる。
- 1924年 東洋大[2]、和歌山大の野球部が創部
- 1925年 東京六大学野球連盟を結成。リーグ戦を開始。早慶戦が再開。
- 1925年 専修大、立命館大、高野山大の野球部が創部
昭和期(1926〜1988)
- 1926年 明治神宮野球場が落成。
- 1927年 1923年創設の官立野球連盟が加盟校増加により関西六校野球連盟(初代)に改称。
- 1928年 京都大学専門学校野球連盟から旧制大学が独立し京都五大学野球連盟を設立。
- 1928年 関西六校野球連盟(初代)が加盟増により関西学生野球連盟(名称としては2代目)に改称。
- 1929年 後の関西六大学リーグの母体になる三大学対校戦(関大、同大、京大)が開始。
- 1930年 中央大の野球部が創部[3]
- 1931年 春に東都大学野球連盟(当時は五大学野球連盟)、秋に関西六大学野球連盟(旧連盟。当時は名称としては2代目の関西六校野球連盟)が創設し、それぞれリーグ戦を開始。
- 1935年 全国高等専門学校野球大会が高等学校と専門学校に分離。(全国高等学校野球連盟と、全国専門学校野球連盟を設立。)
- 1943年 戦争激化により、全てのスポーツ競技大会の中止・中断、連盟の一時解散を実施。
- 1946年 戦争終了により、各地で連盟活動が再開。(東京六大学野球、東都大学野球、関西六大学野球などが再開。)
- 1946年 2月、全国中等学校野球連盟結成。
- 1946年 12月、日本学生野球協会を設立。
- 1947年 日本学生野球協会結成記念野球大会を開始。(4月)
- 1947年 学制改革に伴い全国中等学校野球連盟を全国高等学校野球連盟へ改称。
- 1947年 全国大学野球連盟と全国新制大学野球連盟がそれぞれ発足。
- 1947年 戦前の関西学生野球連盟所属校が中心になり大阪三大学野球リーグが開始。
- 1947年 全国大学野球王座決定戦を開始。(11月)
- 1947年 東京六大学軟式野球リーグ、東都大学軟式野球リーグ、関西六大学軟式野球リーグが開始。(いずれも現在の準硬式野球リーグ)
- 1948年 加盟校増加により大阪三大学野球リーグを近畿六大学野球連盟に改称。
- 1949年 全日本学生軟式野球連盟を結成。第1回全日本学生軟式野球大会を実施。
- 1950年 日本学生野球憲章制定。
- 1950年 日本社会人野球協会と全日本軟式野球連盟と協力し日本アマチュア野球規則を制定。
- 1950年 全国新制大学野球選手権大会を開始。(7月)
- 1951年 全日本学生軟式野球大会の使用球が準硬式球に変更。(連盟名、大会名はそのまま。)
- 1952年 全国大学野球連盟へ全国新制大学野球連盟を統合する形で全日本大学野球連盟が発足。全日本大学野球選手権大会を開始。(8月)
- 1953年 日本学生野球協会が財団法人として認可
- 1956年 8月、全国高校軟式野球大会(現在の全国高等学校軟式野球選手権大会)開始。
- 1959年 全日本大学選抜軟式野球大会(現在の全日本大学選抜準硬式野球大会)を開始。
- 1961年 関西大学野球連合が発足
- 1964年 本年度を最後に日本学生野球協会結成記念野球大会を廃止。
- 1964年 東都大学野球連盟で分裂騒動。脱退組が首都大学野球連盟を設立。
- 1966年 9月に日本アマチュア野球協会から脱退。
- 1970年 明治神宮野球大会(明治神宮と共催)を開始。
- 1970年 日本社会人野球協会との間で日本アマチュア国際委員会を結成。
- 1972年 日米大学野球選手権大会を開始、全日本選抜チームが出場
- 1973年 全日本大学9ブロック対抗軟式野球大会(現在の全日本大学9ブロック対抗準硬式野球大会)を開始。
- 1978年 全日本学生軟式野球・軟式の部(当時A号球の部)の全国大会が開始。
- 1979年 全日本大学野球連盟が財団法人として認可
- 1982年 関西大学野球連合が解散・再編騒動。既存4リーグを5リーグに再編。
- 1987年 全国大学女子軟式野球連盟(現在の全日本大学女子野球連盟。)の結成。第1回全国大学女子軟式野球選手権大会(現在の全日本大学女子野球選手権大会)を開催。
平成期(1989〜)
- 1990年 日本野球連盟と全日本アマチュア野球連盟を結成
- 1991年 全日本アマチュア野球王座決定戦が開始。
- 1991年 全日本学生軟式野球連盟・準硬式の部が全日本大学軟式野球連盟を設立し分離。同、軟式の部も併設。
- 1995年 全日本学生軟式野球連盟の準硬式の部、軟式の部をそれぞれ分離。全日本大学準硬式野球連盟、全日本大学軟式野球連盟が新たに誕生。
- 1997年 全日本アマチュア野球王座決定戦が終了。
- 1997年 8月、第1回全国高等学校女子硬式野球選手権大会を開催
- 2000年 4月、第1回全国高等学校女子硬式野球選抜大会を開催
- 2003年 第1回全国高等学校女子軟式野球選手権大会を開催
- 2005年 世界大学野球選手権大会が開始。
- 注1:明治学院の野球チームも同時期には既に結成されていた事が確認されているが、年代の確証が得られていないので未記載。(確認可能なのは新制大学としての野球部創部年である1945年のみ)
他の競技団体との関わり
全ての学生野球関連の団体(高校・大学、硬式・軟式・準硬式などを問わず)は、他の多くのスポーツ競技連盟とは異なり、直接に日本オリンピック委員会(JOC)や日本体育協会には加盟せず、独自の理念や規範に基づいて運営しているところが殆んどである。総合的な国際競技大会等への参加についての諸問題に関しては、上位に関連別団体との合同で別組織を設立し、そこが加盟団体となることで対処している。
学生野球団体と他のアマチュア野球団体との関係
日本の学生野球を含むアマチュア野球界は、長年、社会人野球・大学野球・高校野球・少年野球・学童野球・女子野球・その他の学生野球(専門学校、高専)の団体が複雑に絡み合って発展し、且つ、それぞれが独立して運営されてきた。したがって、学生野球と関連団体の織体系を説明する場合、アマチュア野球界としての関連の中で説明した方が全体の構図としてわかり易く、重複部分も多いので、アマチュア野球の項での当該説明を参照すること。
その他の関連項目
脚注
- ^ 歴史について - 明治学院大学硬式野球部
- ^ 東洋大学『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』東洋大学創立百年史編纂委員会〈07_通史編1-2_第二編 専門学校令による東洋大学②〉、1993年、942頁 。
- ^ 硬式野球部 | 中央大学
学生野球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:33 UTC 版)
腰本寿監督率いる慶應義塾普通部でプレーし、1916年には右翼手兼2番手投手として第2回全国中等学校優勝野球大会に出場。この年の慶應普通部は完投能力のある三投手を擁し、エース・主将の山口昇は慶應義塾大学の現役レギュラー選手で、大学リーグ(当時は三大学)にも出場していた。このため山口は温存し外野を守り、1回戦から準決勝までの3試合を全て新田が先発、大丈夫と見ると新田を休ませ、リリーフでもう一人日独混血の河野元彦が投げ、相手が手強いと途中から山口が投げた。結局決勝だけ山口が先発完投して全国優勝したが、文献によっては山口は夜盲症や下痢で体調を崩していたとする物もある。近年でこそ東京勢は強いが、夏の選手権で次に東京勢が優勝するのは60年後の1976年(桜美林)となる。 1917年の第3回大会にはエース兼5番打者として出場し、新田の成長もあって各チームから極度に恐れられる優勝候補であったが、主戦捕手の負傷欠場もあって準々決勝で敗れた。 卒業後は慶應義塾大学へ進学するや否や、攻守両面の技量を買われて、投手と捕手、右翼手、中堅手を兼ねる名選手として大活躍。早慶戦の無い大正年代の歴史的戦いと言われた年一回の一高戦で1919年、6回決勝点となる三塁打を放ち名投手・内村祐之に完敗した前年の屈辱を晴らした。1920年に来日したハーバート・H・ハンターらのいたコーストリーグを主体としたアメリカの職業野球チームに、日本の第一線級投手はことごとく打ち込まれたが、新田のみが互角に渡り合い接戦を演じた。同年秋、打率.333を打ち首位打者。1921年3月13日には、芝浦球場の球場開きとして行われた早慶戦復活の前哨戦、三田倶楽部-稲門倶楽部戦で、OBに混じり慶應義塾の現役選手として出場、三田のエース兼不動の4番としてチームを勝利に導いた。この三田-稲門定期戦は、現在の巨人-阪神戦以上の人気を集めたといわれる。とりわけ慶應義塾と早稲田のエースや強打者は時代の寵児としてもてはやされ、1922年には、1910年の初来日以降、早慶相手に27戦無敗であったシカゴ大学を新田の好投で初めて破る。同年、初めて"選抜チーム"として来日した大リーグ相手にもスピットボールを武器に健闘した。慶應では小野三千麿の後のエースとなり、満州・朝鮮遠征中に関東大震災があった1923年には主将も務める等、小野、森秀雄らと慶應野球部の黄金時代を築いた。主将時代には格好の捕手がいなかったため、自らマスクをかぶり、その年入部してきた永井武雄、浜崎真二、長浜俊三ら新人投手の育成にあたった。この時、それまでの針金マスクからはじめて現在のような捕手マスクを大学で使用したといわれる。1931年発行の『六大学野球全集』では「多士済々の慶應野球部にあって第十五次主将の印綬を帯びた天才児新田恭一程器用な野球選手はいないだろう」「彼こそは正に球界の麒麟児、稀有の万能選手であった」と評している。リーグ戦通算53試合出場、189打数56安打、打率.296。
※この「学生野球」の解説は、「新田恭一」の解説の一部です。
「学生野球」を含む「新田恭一」の記事については、「新田恭一」の概要を参照ください。
学生野球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:58 UTC 版)
大学野球 大学野球では2011年の全日本大学野球選手権大会(第60回全日本大学野球選手権記念大会)から決勝を除く全試合で採用されている。これは同年3月に発生した東日本大震災の影響、節電対策の一環として導入された。9回を終えて同点の場合、延長10回から適用され、1死満塁の設定で始まる。東京六大学野球連盟でも新人トーナメント(1・2年生対象の大会)の大会で採用されている(決勝・3位決定戦以外 ただし、無死一・二塁から開始)。東都大学野球連盟では2019年秋季リーグ戦より採用されることになった(9回終了時同点の場合、延長10回からノーアウト1・2塁の継続打順で決着がつくまで行う)。 なお2020年は前述の新型コロナウイルスの流感対策として、多くのリーグ戦で延長10回からタイブレーク(例・関西学生野球リーグでは、「延長10回以後、ノーアウト1・2塁から。打順は9回終了時の継続打順」としている)を採用している。 高校野球(硬式) 高校野球では、選手の体調等への考慮から、国民体育大会や明治神宮野球大会においてこの制度が導入されており、大学野球と同様に、9回を終えて同点の場合、延長10回から1死満塁の設定で始まる。 甲子園大会では選手の健康管理を考慮し、2013年夏から準々決勝翌日に休養日を設定したが、雨天が続いた場合および延長戦引き分けによる再試合が発生した場合には、日程の順延により休養日が消滅し大会後半は過密日程となることから、対策を検討していた。先行的に2014年から一部の春季大会の地区大会や都道府県大会、新チーム結成直後の新人戦でも採用したが、これを春の選抜高等学校野球大会、夏の全国高等学校野球選手権大会にも導入するか否かについて議論するため、同年7月、各都道府県高校野球連盟を通じて全加盟校に対しアンケートを行った。アンケート結果は同年8月末までに集計し、11月の理事長会議で、最短で2015年から導入し、甲子園大会前の各都道府県予選大会から実施するとしていた。 その後、2015年度は、春季都道府県・地区ブロック大会に限り、試験的に延長10回から、1死満塁の設定でタイブレークを行うことを決めた。ただしこの時点では、任意打順制にするのか、9回終了時からの継続打順制にするのかについては未定であった。夏季の全国高等学校野球選手権大会と、それの出場権をかけた地方大会、および、翌春の選抜高等学校野球大会と、それの出場校選定審査の参考材料となる秋季都道府県・地区ブロック大会については当面タイブレーク制は導入しないが、2016年度以後については春季都道府県・地区ブロック大会を含め検討するとしていた。 2017年3月の第89回選抜高等学校野球大会で、2試合連続延長15回引き分け再試合が起きたことを受け、高野連は延長タイブレーク制度についての検討を始め、全国各都道府県の参加連盟からアンケートを取ったところ、40都道府県から回答があり、38都道府県は導入に賛成。残り2都道府県は反対、7都道府県は未回答・不明だった。この他、34都道府県では、春季都道府県大会でそれを採用しており、一定の成果があることが確認されたことから、2018年春季の第90回記念選抜高等学校野球大会および夏季の第100回全国高等学校野球選手権記念大会(地方大会を含む)からタイブレーク(延長13回から無死一・二塁の設定)を採用することになった。両大会共に決勝戦ではタイブレーク方式を採用せず、延長15回で引き分けた場合は1回に限り再試合とするが、再試合では準決勝までと同じ形でタイブレーク方式を採用する。 甲子園大会ではタイブレーク方式の導入に伴い、決勝戦を除き延長回数の制限規定は廃止され無制限となった。このため、状況によっては、延長16回以降の攻撃を決着が着くまで実施することになる関係上、試合時間が長くなることもあり、1試合で同じ投手が登板可能なイニング数は1試合当たり最大で通算15回までとすることとなった(例:3回から連続して登板している投手はタイブレーク突入後の延長17回終了までに降板をする必要がある。また、一度降板して捕手や野手に回った選手が、投手として再登板した場合でも、1試合当たり通算15イニングまでしか投球できない)が、投球制限による降板後も捕手や野手に守備位置を変更すれば、ベンチに下がらない限りは、同一の試合に継続して出場することは可能である。 2021年春季の第93回選抜高等学校野球大会および夏季の第103回全国高等学校野球選手権大会からは決勝戦でもタイブレーク方式が導入される。 本戦では第90回記念選抜高等学校野球大会での適用事例はなかったが、第100回全国高等学校野球選手権記念大会第2日目において、1回戦の旭川大学高等学校対佐久長聖高等学校戦で、甲子園における全国大会では春夏通して史上初めて適用された。選抜大会は2021年春季の第93回選抜高等学校野球大会第5日目において、1回戦の常総学院高等学校対敦賀気比高等学校戦で適用された。 地方大会決勝では2021年夏季の第103回全国高等学校野球選手権千葉大会で適用された。 高校軟式野球 高校軟式野球の全国大会では2015年より導入されている。導入の契機となった試合は、前年(2014年)8月に開催された第59回全国高等学校軟式野球選手権大会の準決勝・崇徳対中京戦である。この試合は両校とも本塁が遠く、無得点のまま試合が進み、8月28日から31日の4日間にかけて50イニングを戦うという長丁場となった。この試合を受け、選手の体調面が懸念され、高野連はタイブレーク制の導入を検討。そして、2015年1月22日の高野連軟式委員会で、「決勝戦を除き、延長13回以降はノーアウト1・2塁から継続打順で開始」とするタイブレーク制を導入することが決定された。第60回大会(2015年)の準決勝・能代対上田西戦で初めて適用された。
※この「学生野球」の解説は、「タイブレーク」の解説の一部です。
「学生野球」を含む「タイブレーク」の記事については、「タイブレーク」の概要を参照ください。
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