とうきょうろくだいがく‐やきゅうれんめい〔トウキヤウロクダイガクヤキウレンメイ〕【東京六大学野球連盟】
東京六大学野球連盟
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一般財団法人東京六大学野球連盟(とうきょうろくだいがくやきゅうれんめい、英: TOKYO BIG6 BASEBALL LEAGUE)は、東京を所在地とした6校の大学の硬式野球部で構成された大学野球リーグである。全日本大学野球連盟傘下。
- ^ 慶応側は「慶早戦」と呼んでいるが、一般的に両大学を総称するときには「早慶」と併称されており、本記事も従う。
- ^ 『東京六大学野球』 - コトバンク
- ^ 明立戦、立明戦とも言われる。
- ^ 一般財団法人 東京六大学野球連盟 『東京六大学野球連盟について』
- ^ 摂政時代の昭和天皇から下賜された「摂政杯」を受け継いだもの。天皇杯は原則として一競技につき一つしか下賜されないため、日本プロ野球の日本選手権シリーズ優勝チーム(一般的に「日本一」とされるチーム)ではなく東京六大学リーグ優勝チームが天皇杯受賞チームとなる。
- ^ 1957年秋には春優勝の立教と2位の慶應(この試合で長嶋茂雄がリーグ新の8本塁打を達成)、1993年秋には春優勝の明治と2位の早稲田が対戦した。
- ^ 1964年は、1964年東京オリンピックのため10月初旬に前倒し。2020年・2021年は2020年東京オリンピック(2020年は新型コロナウィルスのため開催されず1年順延)などの関係で11月下旬に繰り下げ
- ^ 1964年-1987年に国鉄スワローズと入れ替わる形で後楽園を本拠地化(ただし、1962年・1963年も上記の取り決め上、春と秋の学生野球開催日を中心に後楽園を一部併用していた)
- ^ 1952-63年までは前身の国鉄スワローズが本拠としていた。
- ^ 1992年は1978年同様1・2・6・7戦、1993年は3・4・5戦
- ^ この年は3・4・5戦
- ^ 日本シリーズが神戸に戻ってくる?:コロナ禍の後ろ倒し日程での日本シリーズ開催球場について考える 阿佐智
- ^ 東京6大学野球秋季リーグ9・10開幕 例年より1週多い9週制 明大と東大、早大と法大が対戦(日刊スポーツ)
- ^ 東京六大学野球 秋季リーグは9週制で実施 日本シリーズ開催を想定(デイリースポーツ)
- ^ 東京6大学野球、神宮が日本シリーズとの併用で試合開始を午前10時に変更
- ^ ただし2020年は春季は1回戦総当たり。秋季リーグ戦は2回総当たり戦で9回終了時点で同点の場合は引き分け。勝ち点も試合毎に異なり、勝利1、引き分け0.5、負け0として実施した
- ^ 助監督を置く明治・法政・立教・東大は40、OBコーチを置く慶應は50をそれぞれ使用。OB指導者が監督のみの早稲田は学生コーチ3人が40・50・51を使用している。
- ^ a b 出典・スカイ・エー「アッピィーチャンネル」(2010年4月第2週放送回)・枝松順一アナのコメント
- ^ 『立教大学新聞 第31号』3面 (印刷は第36号と誤植)1926年(大正15年)4月25日
- ^ ステンドグラス:慶早戦の歴史
- ^ 慶應義塾体育会野球部 » 戦歴
- ^ 慶應義塾三田ベースボール倶楽部員
- ^ 日清戦争頃の校内文献には「ベース、ボール」という文字が散見されるが、どんな選手がどこで試合をしたのかは全く不明である(早稲田大学大学史編集所 『早稲田大学百年史』 第二巻、1981年、564-565頁)。
- ^ 慶應義塾機関誌|三田評論 2011年1月号 綱町グラウンド(上)
- ^ 当初慶應はこれを偽チームではないかと疑ったが、「部長は安部磯雄で、横浜の外国人チームにも勝っている」との説明を受けてようやく納得したという(『早稲田大学百年史』 第二巻 568頁)。
- ^ 早慶戦 – 早稲田大学 競技スポーツセンター
- ^ 早慶戦勝敗一覧|慶應義塾体育会
- ^ 飛田穂洲 『早稲田大学野球部史』 明善社、1925年、47-60頁
- ^ 森茂雄ほか 『六大学野球部物語』 ベースボール・マガジン社、1956年、21頁
- ^ 横田順彌 『早慶戦の謎 空白の19年』 ベースボール・マガジン社、1991年、93-96頁
- ^ 『早慶戦の謎 空白の19年』 130頁
- ^ 飛田穂洲 『球道半世記』 博友社、1951年、203頁
- ^ 日本球界初のリーグ戦で、早稲田大学が制したが、この年限りで解散(『早稲田大学野球部史』 86-87頁)。
- ^ 野球部紹介|立教大学野球部
- ^ 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、学校法人明治大学、1992年、565頁
- ^ 野球評論家の大和球士は明大有志チームと対戦した後の中央大学について「その後に、正式な野球部を発足させないまま、校内の野球熱が冷却してしまったことは惜しい」と述べている(大和球士 『真説 日本野球史 《昭和篇 その1》』 ベースボール・マガジン社、1977年、297頁)。
- ^ 1906年、伴清吉なる人物が同志を集めて野球チームを結成したが、明治大学ではそれを正式な野球部とは認めなかった(『六大学野球部物語』 87頁)。
- ^ 横井春野 『日本野球発達史』 美津濃、1922年、116-117頁
- ^ 『早稲田大学野球部史』 142-143頁
- ^ 『早稲田大学野球部史』 155-156頁
- ^ JOC - JOCについて|JOC年表 1909 - 1920
- ^ 横井春野 『日本野球戦史』 日東書院、1932年、212頁
- ^ 『東京朝日新聞』 1925年3月7日
- ^ 『早稲田大学野球部史』 183-184頁
- ^ 『東京朝日新聞』 1914年11月3日付5面
- ^ 「はじめは、校内でキャッチボールをしていたのを、学校当局と交渉して用具をそろえ、放課後靖国神社の広場で練習していた。その後中野にグラウンドができてから、早大野球部の八幡恭助をコーチとして本格的練習にはいることになったという。」(法政大学 『法政大学八十年史』 1961年、716頁)
- ^ 『早稲田大学野球部史』 198-199頁
- ^ 明治大学学報発行所 『明治大学五十年史』 1931年、30頁
- ^ 大和球士 『真説 日本野球史《大正篇》』 ベースボール・マガジン社、1977年、87-88頁
- ^ 広瀬謙三 『日本の野球史』 日本野球史刊行会、1964年、21頁
- ^ 「法政は新しいグラウンドを中野の新井薬師近くに作ったものの、工事はかどらずとあって、神田橋にほど近い中央気象台の敷地予定地を一時借りて仮グラウンドとしたのであった。神田橋グラウンドは法政の中野球場が完成するまでのあくまで仮のグラウンドであった。」(『真説 日本野球史《大正篇》』 100頁)
- ^ 『六大学野球部物語』 106頁
- ^ 野球部紹介|立教大学野球部
- ^ 朝日新聞社 『運動年鑑 大正九年度』 1920年、105-106頁
- ^ 「法政の球場──実は試合のための借球場は一時一ッ橋内にあつたが大正八九年頃となつて球場はまだ麦畑に包まれてゐた中野の新井薬師裏に移つた、移つたといふより戻つて来たといふ方が適切であるかも知れない、なぜなら、このグラウンドは大正四年に野球部の創立と共に誕生してゐたからである」(『東京朝日新聞』 1936年9月9日)
- ^ 「立教ティームが池袋に呱々の声を挙げた時、私は懇望されて同ティームをコーチし、その後立教が整頓してからでも、常に相談に預り、立教がリーグに加盟する場合にも尽力するなど、私と立教ティームとはかなり古い関係があつた。」(飛田穂洲 『熱球三十年』 中央公論社、1934年、376頁)
- ^ 『早稲田大学野球部史』 434-437頁
- ^ 『早稲田大学野球部史』 479頁
- ^ 「その頃の五大学リーグ会議といふものは、シーズンの初めに一回だけ明治大学で開かれたのであるが、試合組合せの抽籤になると、早慶戦はざる片輪リーグの不便さは、いつも苦情の種となった。協議事項などは殆んどないのであるから、組合せが主なるもので、各ティムの代表者はこれが為に夜の十二時までも引張られる。なぜ早慶戦をやらないのかと、明治、法政、立教がぶつぶついふ。たうとう[大正]十三年の春になって、此の不平が爆発した。」(『球道半世記』 210頁)
- ^ 『球道半世記』 211頁
- ^ 『球道半世記』 213頁
- ^ 『運動年鑑 大正十五年度』 1926年、11頁
- ^ 『球道半世記』 213-214頁
- ^ 『球道半世記』 214-216頁
- ^ 早慶戦復活に最後まで反対したのは三井財閥の池田成彬であったという(『球道半世記』 215頁)。
- ^ a b c 『東京朝日新聞』 1925年6月20日
- ^ 『真説 日本野球史《大正篇》』 278頁
- ^ 「若林投手除名につき リーグから声明 情義においてしのびぬが 将来の弊を考へて」(『東京朝日新聞』 1928年4月23日)。なお、若林は日本の中学校卒業後、法政大学への入学とリーグ戦出場が認められた。
- ^ 『官報』 1932年4月28日
- ^ 「『悪例を残す』とて 審判は変更せず リーグ理事会で決定」(『東京朝日新聞』 1933年10月21日)
- ^ 山室寛之 『野球と戦争』 中央公論新社、2010年、47頁
- ^ 『東京朝日新聞』 1936年10月6日
- ^ 赤尾好夫 『野球大観』 旺文社、1949年、60頁
- ^ 戦時学徒体育訓練実施要項を制定(昭和18年3月30日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p45 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 「立教がマネーヂャーを加へて七人、早稲田はそれでも十三人を残してゐた。立教の七人に早稲田の二人を加へ、これを一ティムに編成し、早稲田と練習試合を行ったが、これこそ早立両大学が戸塚に集まってなした練習最後のものであり、その後いくばくもなく、立教の全員は動員され、早稲田も遂に六人となってしまった。」(『球道半世記』 172頁)
- ^ 『朝日新聞』 1946年11月2日
- ^ 歴史 | 東京大学運動会応援部
- ^ 伊丹安広 『学生野球』 旺文社、1950年、14-15頁
- ^ 『朝日新聞』 1952年4月17日付朝刊4面
- ^ 『21世紀スポーツ大事典』 大修館書店、2015年、764頁
- ^ 『朝日新聞』 1965年1月31日夕刊
- ^ 朝日新聞、1997年10月15日朝刊35面
- ^ 朝日新聞、1997年10月16日朝刊29面
- ^ 六大学各校応援団員(男子リーダーやチア)の合同選抜メンバーによる応援に合わせた地元高校の吹奏楽部による六大学各校応援歌・マーチの演奏も華を添えた。
- ^ 東京六大学野球少年野球教室開催のご報告
- ^ 東日本大震災復興親善試合
- ^ オールスターゲーム in 南魚沼
- ^ “東京六大学野球春季リーグ戦日程変更による開催について”. 東京六大学野球連盟 (2020年4月14日). 2020年4月14日閲覧。
- ^ “東京六大学野球春季リーグ戦開催について”. 東京六大学野球連盟 (2020年7月10日). 2020年7月11日閲覧。
- ^ 「早稲田大学応援部HP 東京六大学野球 早慶戦」[リンク切れ]
- ^ 東大応援部では「イントロビクトリー」という名称で使用されている。
- ^ 球場の優先使用に関しては明治神宮野球場にも詳細を記述。
- ^ 65歳以上(証明書提示)、また同伴の女性、小学生以下は1名まで無料
- ^ 東京六大学 一般ファンも学生席で観戦できる
- ^ それ以前の優勝大学は下記を参照。
東京六大学野球連盟 歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~) - ^ 東京6大学リーグ中継で元阪神スカウト菊地氏ら解説 - 日刊スポーツ・2018年4月9日
- ^ 但し、2001年秋季リーグ戦に優勝した慶應のパレードが社会情勢の不安から中止になった(「野球部 優勝パレードは中止に」『慶應塾生新聞』2001年10月号 [1])
- ^ 2004年春季リーグ戦に優勝した明治は駿河台キャンパス周辺のみ [2] で、2006年春季リーグ戦・2009年春季リーグ戦に優勝した法政は市ヶ谷キャンパス周辺のみ [3] で優勝パレードを実施した。
- ^ 試合結果 六大学野球連盟
- ^ 『立教大学新聞 第91号』 1930年(昭和5年)9月25日
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