満洲
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満洲(まんしゅう、拼音: 、英語: Manchuria)は、黒竜江(アムール川)・松花江流域を中心とするユーラシア東北部[1]、現在の中国東北地方からロシア沿海地方にかけての地域を指す呼称。「満州」と表記されることも多いが、語源上「満洲」が正式な漢字表記である[2][注釈 1](後述)。
注釈
- ^ 「満洲」は語源が地名ではなく、本来は民族名であり、国名でもあるところから地名に転用された語なので、「満州」と表記するのは間違いではないにせよ、正式には「満洲」としなければならない。しかし、満洲の名前はかつての傀儡政権を想起させるため嫌がる人も多いことも注意されたし[3]。
- ^ 現在の行政区分では、「東四盟」と呼ばれる赤峰市(旧ジョーオダ盟)・通遼市(旧ジェリム盟)・フルンボイル市(旧フルンボイル盟)・ヒンガン盟に相当する。
- ^ 北京条約はアロー戦争終結のためのイギリス・フランスとの講和条約であった一方、ロシアが清と英仏との講和を斡旋したことから、ロシアの要求を受け入れて同国と結んだ条約である[11]。
- ^ 1950年代以降の中国共産党政府による民族識別工作では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを「蒙古族」や「漢族」に区分するのではなく、「旗人」全体をまとめて「満族」と区分した。
- ^ 実際に、近年の中国史の概説書の多くは「満洲」表記を用いている[31][32][33][34][35]。
- ^ 雍正帝時代の1727年には西方でキャフタ条約を結んだ[41]。ネルチンスク条約・キャフタ条約が正式に破棄されたのは、1860年の北京条約においてであった[41]。
- ^ 清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増したともいわれるが、清朝崩壊前と後では人口増加率に大きな違いはない。
- ^ ただし、人口増加率で見ると満洲建国前と大差はないといわれている。
- ^ その被害は8億ドルとも20億ドルともいわれる[56]。
- ^ この経済圏は中国東北部、華北、華東にまたがり、瀋陽市、青島市、大連市、煙台市など黄海沿岸の渤海沿岸地域に隣接する都市も経済圏内に含まれる[63]。
出典
- ^ 杉山(2008)p.238
- ^ “読むページ | 生活の中の仏教用語 | 満洲”. www.otani.ac.jp. 大谷大学. 2021年1月14日閲覧。
- ^ a b 小林(2008)pp.16-17
- ^ 中見立夫(2012)『二〇世紀満洲歴史辞典』解説p.2
- ^ 中見立夫(2012)『二〇世紀満洲歴史辞典』解説p.4
- ^ 精選版 日本国語大辞典『満州・満洲』「清初、中国を支配した満州族が旧俗称女真を廃して用い」「その居住地域をもさした」[1]
- ^ 大谷大学東洋史助教授の浅見直一郎によれば、満洲とは元はマンジュリという仏であり、中国ではこれに文殊師利、満殊尸利、曼殊室利などの漢字をあてた『文殊菩薩』のことであり、ヌルハチが女直(女真)人の国を建てたときの国名をマンジュ国と言い、これが当時女直人の間に広まっていたマンジュシリ(マンジュ)に対する信仰を背景にし、それに由来して命名されたものであることは間違いがない、とする。“読むページ | 生活の中の仏教用語 | 満洲”. www.otani.ac.jp. 大谷大学. 2021年1月14日閲覧。。なお異説もある→(#呼称としての満洲)
- ^ 塚瀬進『マンチュリア史研究 「満洲」六〇〇年の社会変容』吉川弘文館、2014年11月1日、ISBN 978-4-642-03837-9、1頁。
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満州
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日本が1932年に建国した満州国では、1936年に満州映画協会(満映)が設立され、映画製作が執り行われた。満映では日本の文化啓蒙を目的とした映画と一般の劇映画が製作され、一部は日本に持ち込まれるなどした。1940年に『支那の夜』に登場した李香蘭(山口淑子)はその美貌と歌唱力、演技力などで一躍スターとなった。 1942年ごろより、自由な映画製作を求め、木村荘十二や内田吐夢など日本人映画監督が次々と渡満してくる。全編がロシア語で構成された島津保次郎の『私の鶯』(1943年)など、自由闊達な映画が企画・製作された。 1945年に満州国が崩壊すると満映の施設はソビエト連邦に接収され、満映スタッフは日本や台湾、香港へと散り散りに去っていった。日本では根岸寛一やマキノ光雄などによりこうした満映引揚者が迎え入れられ、後の東映の基礎を形作った。
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満州
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満州壹圓紙幣、1944年 大同元年(1932年)、満州国建国宣言の3ヵ月後の6月11日に満州国貨幣法が施行され、「純銀ノ量目23.91グラムヲ以テ貨幣ノ単位ト為シ之ヲ圓ト称ス」と通貨単位として「圓(Yuan)」が規定された。当初は形式上、旧来の中国の幣制に倣った銀本位制であったが、康徳2年(1935年)から中華民国政府は不換紙幣である法幣を発行し、満州国圓は同年11月から金本位制に基づく日本の通貨に対し固定相場制として等価に定められた。ただし満州中央銀行が発行した紙幣(満州中央銀行券)は不換紙幣であり、当時兌換が停止された日本の通貨と同様、金本位制は名目上のものであった。 通貨補助単位は圓の1/10が「角(Chiao)」、1/100が「分(Fen)」、1/1000が「釐(Li)」であった。満州に入植した当時の日本人は圓を「エン」と呼んだ。1945年8月、第二次世界大戦の日本の敗戦により満州国は崩壊し、1948年には約120億圓の満州中央銀行券が回収された。
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満州
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「旧外地の高等教育機関」の記事における「満州」の解説
詳細は満州国・関東州の高等教育機関の項目を参照のこと。 建国大学・大同学院・新京工業大学・新京法政大学・新京医科大学・新京畜産獣医大学→中華民國の國立長春大學(1949年中華人民共和国建国のため壊滅) 満州医科大学→(ソ連、次いで中国側に接収)中長鉄路医科大学→中国医科大学 哈爾濱学院(ハルピン学院)→終戦時廃校 満州教育専門学校(教専)→1933年廃校 北満学院→終戦時廃校 在満師範学校
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満州
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「旧制中等教育学校の一覧 (旧外地)」の記事における「満州」の解説
日本人子弟対象の学校は、そのほとんどが南満州鉄道によって、同社の附属地に設置された。満州国成立以後は附属地の行政権移譲により、中等学校に関しては関東局内に置かれた在満学校組合連合会に移管され、日本大使館教務部からの監督を受けることとなった。 満州国崩壊によって以下の学校も廃止されたが、一部の学校の校地や施設については、中華民国を経て中華人民共和国に受け継がれ、現在も同国の学校が使用していることがある。 なお、一覧作成に当たっては満州日報社編『満洲年鑑 昭和20年版』(満洲日報社奉天支社、1944年刊)を主に参考にした。
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満州
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固有名詞
語源
「満州」の例文・使い方・用例・文例
- 満州事変.
- 中国の満州王朝に対する共和主義の革命
- ロシアとの戦いでの日本の勝利は、日本に韓国と満州に対する支配力を与えた(1904年−1905年)
- 日本人は、満州で彼らの囚人を行進させた
- 満州またはその国民または彼らの文化の、満州またはその国民または彼らの文化に関する、あるいは、満州またはその国民または彼らの文化に特徴的な
- 満州人侵入
- 947年から1125年まで満州の大部分と北東中国を統治した王朝
- 1635年に満州支配者によって併合されて、1911年に中国の不可欠な地域になった中国北東部の自治区
- 黄海と日本海を分けるアジアの半島(満州沖)
- 満州のモンゴル族の満州語を話す人の一員
- 中国の政治家で、1911年から1912年に国民党を組織し、満州王朝を打倒する革命を導いた(1866年−1925年)
- 小さな白または褐色の穀粒(食料に使われる)と、乾燥した髄のある茎(かいば、燃料、屋根ふき材料に使われる)を持つ、中国と満州のモロコシ
- 中国と満州の落葉樹で、テレビン油の香りがし、秋には黄色に色づく均整のとれた複葉と、深い亀裂の入ったコルクのような樹皮を持つ
- 中国で,満州族を滅ぼして漢族の国を興すということ
- 満州事変という,日本の中国に対する侵略戦争
- 遼という10世紀に契丹族により満州に建てられた国
- 満州という,中国大陸の地域
- 赤塚さんは1935年に満州(現在の中国北東部)で生まれた。
- >> 「満州」を含む用語の索引
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