東映株式会社
東映
東映
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新作2本立ての量産体制を強行するために子供向けの連続活劇形式の短編を長編に併映する。中村錦之助、東千代之介出演の『新諸国物語 笛吹童子』シリーズ(1954年・三部作)、『新諸国物語 紅孔雀』シリーズ(1954年 - 1955年・五部作)が子供達に圧倒的に受ける。また、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介、大友柳太朗出演の、大人向け時代劇も活性化。中村錦之助、大川橋蔵主演作とともに、東映は時代劇王国としての地位を築く。現代劇でも東映ニューフェイスから、中原ひとみ、高倉健、水木襄、佐久間良子、梅宮辰夫、千葉真一などの主演スターが輩出した。今井正監督『米』(1957年)、『純愛物語』(同)などの現代劇の秀作、ヒット作も残した。また1958年10月、日本初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』を公開するなど、日本アニメ映画の中興の祖としての役割、東映シネマスコープの導入で日本映画のワイド時代を招聘した役割なども特筆的である。
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東映
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観客動員No.1となった東映は、1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、製作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代から1970年代初めは鶴田浩二、高倉健、藤純子らを擁して仁侠ブームを作った。このジャンルの開祖は沢島忠の『人生劇場 飛車角』(1963年)といわれ、義理と人情の板挟みにあいながらも自己犠牲を貫く内容だった。以降、『博徒』、『日本侠客伝』、『網走番外地』、『昭和残侠伝』、『緋牡丹博徒』といった任侠シリーズは人気を博し、1972年頃まで製作され、内藤誠の『不良番長シリーズ』もヒットした。一方で1969年にはオールスターキャストの『日本暗殺秘録』(主演:千葉真一・監督:中島貞夫)を封切り公開し、東大紛争・安保闘争など騒然とした当時の世相を反映させている。
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東映(70年代)
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学生運動の衰退に伴い、東映の任侠モノは色あせた映画と評されるようになった。伊藤俊也の『女囚さそりシリーズ』の公開後、1973年には実録路線の『仁義なき戦い』シリーズや、格闘映画の『ボディガード牙』シリーズなどが大ヒットし、以降次々とシリーズ化され、実録・格闘路線は経営を支える二本柱となった。特に千葉真一の格闘映画は欧米・東南アジアでも大ヒットした。1975年には日本国内では初めてのパニック映画である『新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では高い評価をされて大ヒットした。同年には松竹の『男はつらいよ』シリーズに対抗した『トラック野郎』が、『新幹線大爆破』より日本での興行収入を上回ったことからシリーズ化され、菅原文太はヤクザ映画から脱却するきっかけとなった。1978年には『柳生一族の陰謀』が大ヒットし、『赤穂城断絶』など次々と時代劇復興を掲げた作品が製作された。1970年代後半からは角川映画、オフィス・アカデミーなどの独立プロを盛んに取り込んだ。
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東映
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東横映画は大映との提携を解消する頃に、当時大映に所属していて永田雅一社長と衝突していた片岡千恵蔵と市川右太衛門を引き抜き、やがて千恵蔵と右太衛門は東映となった後に取締役に就任した。全くスターがいなかった東横映画にとってはそれこそ観客を呼べる看板スターを持ったことになり、その後の東映においてスター中心のシステムを作るきっかけとなった。 戦後のそれまで千恵蔵は『多羅尾伴内』や『金田一耕助』などの現代劇シリーズに出演し、右太衛門は時代劇だが『お夏清十郎』『お艶殺し』などのいわゆる艶ものに出演していた。1950年に千恵蔵はいち早く従来の時代劇を復活させて渡辺邦男監督で初めて『いれずみ判官』の『桜花乱舞の巻』『落花対決の巻』を出し、翌1951年にはマキノ雅弘監督で『女賊と判官』を出した。右太衛門は松田定次・萩原遼監督で『旗本退屈男』の『旗本退屈男捕物控七人の花嫁』『旗本退屈男捕物控毒殺魔殿』を出し、それぞれが後の東映のドル箱シリーズとなった。1954年に二本立て興行に移り、毎週新作二本の製作体制になり、長編と東映娯楽版と言われる中編の連続物を組み合わせて、それに日舞出身の東千代之介、歌舞伎出身の中村錦之助をデビューさせて『笛吹童子』が大ヒットし、翌年には同じ歌舞伎から大川橋蔵がデビューした。 そして1956年(昭和31年)に松田定次監督『赤穂浪士』が大ヒットして、この年から業界トップに躍り出た東映は、マキノ雅弘監督が『次郎長三国志』『仇討崇禅寺馬場』、伊藤大輔監督が中村錦之助主演『反逆児』および『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』、内田吐夢監督が片岡千恵蔵主演『血槍富士』および『大菩薩峠』三部作、そして中村錦之助主演『宮本武蔵』五部作、松田定次監督はオールスターで『忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻』などが製作されて、時代劇スター中心のプログラムを組んで多数の時代劇映画を量産した。 東映は片岡千恵蔵、市川右太衛門の両者を重役にして、ベテランの月形龍之介、大友柳太朗、そして若手の中村錦之助(のち萬屋錦之介)、東千代之介、大川橋蔵らが育ち、きらびやかで豪快な東映時代劇を築いていく。片岡千恵蔵と市川右太衛門は御大と呼ばれ、千恵蔵が『いれずみ判官』(遠山の金さん)を、右太衛門が『旗本退屈男』といったそれぞれシリーズを持ち、月形龍之介は『水戸黄門』、大友柳太朗は『快傑黒頭巾』『丹下左膳』『右門捕物帖』、中村錦之助は『一心太助』『殿様弥次喜多』『宮本武蔵』、東千代之介は『鞍馬天狗』『雪之丞変化』、大川橋蔵は『若さま侍捕物手帖』『新吾十番勝負』の各シリーズを持ち、加えて正月には『忠臣蔵』や『任侠清水港』『任侠東海道』『任侠中仙道』、お盆には『旗本退屈男』(1958年)『水戸黄門』(1960年)など歌舞伎の顔見世のようにオールスターキャストの時代劇を製作して、1950年代後半(昭和30年代前半)は東映時代劇の黄金期であった。そしてこの量産時代の東映にあって作品を作り続けた監督には伊藤大輔、マキノ雅弘、松田定次、内田吐夢以外には田坂具隆、佐々木康、沢島忠、加藤泰、河野寿一、工藤栄一、などがいた。
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