時代劇復興
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『柳生一族の陰謀』(1978年)は、岡田と深作、日下部の三人の話で、「久しぶりに時代劇をやりたい。山本薩夫の『忍びの者』(1962年、大映)みたいなのはどうや」という岡田の一言が切っ掛けでスタートしたもの。かつては時代劇の切り捨てに辣腕を振るったが、本作の大ヒットで東映は「時代劇復活」の狼煙を上げた。 詳細は「柳生一族の陰謀 」を参照 元気づいた錦之助はこの後、同じ深作欣二監督で『赤穂城断絶』をやったが、錦之助が深作の言うことを聞かず、深作の方が岡田に降りたい、と泣きついてきたが、今度は深作を何とか説得して完成させた。1996年、萬屋が文化庁から表彰される事になった際、萬屋は真っ先にこの件を岡田に報告し、感謝したという。岡田は、晩年の錦之助を歌舞伎の家流に定着させようとして『俺が言っておくから、松竹の永山武臣会長のところに行ったらどうだ。そうすれば一門の人たちも助かるだろうし、お母さんも喜ぶだろう』と言ったが、錦之助は『俺は映画の錦之助として死にたい』と言ったという。 1996年のパーフェクTV!、1997年ディレクTV開局とCSのチャンネルが一気に増え、「こんなにたくさんのチャンネル誰が見るんだ」と、専門色を出さないといけないだろうなと考えていたところ、1997年にC.A.Lの加地隆雄社長が岡田を訪ねて来て、「時代劇で一つのチャンネルを開きたいんだ。いま時代劇衰退だといわれとるから時代劇を守りたいんだ」と訴えたため、「分かった。加地君がそういうならやろう」と、多チャンネル時代を視野にいれ〈人気低下が目立ち始めた時代劇の復活〉を掲げ、C.A.L、電通と組み、岡田が音頭を執り、東映、C.A.L以外に時代劇のコンテンツを持つ国際放映、三船プロ、ユニオン映画、Gカンパニーに声をかけ、1997年11月14日、加盟6社で「時代劇コンテンツ推進協議会」を立ち上げ会長に就任。各社の持つ時代劇コンテンツを各種メディアに供給の他、加盟6社が持つ映画やテレビの時代劇ソフトのデータベース作りと管理、著作権への対応、海外への作品供給等、膨大な過去の財産からビジネス・チャンスを作り出し、日本独自文化である時代劇の維持と再発展を目標にした。時代劇映画製作の構想もあった。 当時、日本テレビの時代劇ドラマが、明石家さんまのバラエティに衣替えしたり、テレビの時代劇番組はどれも視聴率が10%前後と苦戦を強いられ、時代劇を取り巻く環境は年々、厳しさを増していた。岡田は「確かに今はトレンディドラマやバラエティに押され気味ですが、プロ野球を見ている人は年配層だし、お年寄りに時代劇ファンはまだ多い筈です。一社で番組を売るより、みんなで協力した方がいい。今は苦しくとも、長い目で見れば、時代劇が見直される日は必ず来ると思います」と述べた。島野功は「協議会のメンバーは時代劇をマンネリ化させた張本人たちです」と皮肉った。 1997年12月1日からディレクTVでワンダーキャストが経営する委託放送事業「時代劇チャンネル」に対する作品供給を始め、同チャンネルはトップクラスの人気を誇った。多チャンネル時代のソフト確保は、著作権問題が課題で、これ以後、衛星放送の時代劇ソフトを巡る動きが急展開した。1998年5月7日に東宝と松竹も協議会の参加を決め、これにより国内で時代劇に係る製作会社と関連ソフトを持つほとんどが同協議会への加入した。1998年7月からスカパー!の「時代劇専門チャンネル」を運営するスカイエンターテインメント社(現・ジェイ・スポーツ)にも同協議会から番組を供給した。
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