ちゃく‐にん【着任】
着任
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1862年9月8日(文久2年8月15日)、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任した。当初、代理公使のジョン・ニール がサトウに事務仕事を与えたため、ほとんど日本語の学習ができなかったが、やがて午前中を日本語の学習にあてることが許された。このため、当時横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師・高岡要、徳島藩士・沼田寅三郎から日本語を学んだ。また、公使館の医師であったウィリアム・ウィリスや画家兼通信員のチャールズ・ワーグマンと親交を結んだ。サトウが来日した直後の9月14日(8月21日)、生麦事件が勃発した。生麦事件およびその前に発生した第二次東禅寺事件の賠償問題のため、ニールは幕府との交渉にあたったが、サトウもこれに加わった。但し、当時のサトウの日本語力では交渉の通訳はできず、幕府およびイギリス公使館がそれぞれのオランダ語通訳を介しての交渉であった。サトウが初めて「日本語通訳」としての仕事をしたのは、1863年6月24日(文久3年5月9日)付けの小笠原長行のニールへの手紙(5月10日をもって攘夷を行うと、将軍・徳川家茂が孝明天皇に約束したことを知らせる内容)を翻訳したことであった。
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着任
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「ローレンス・S・ロス」の記事における「着任」の解説
テキサス農業工業大学(現在のテキサス A&M 大学)には1880年代後半までに、「管理のまずさ、学生の不満、教授陣の不満、教官の派閥化、規律の問題およびキャンパスの醜聞」といった悪い噂が溢れた。大衆は科学的農業という概念について懐疑的であり、議会は大学の管理にほとんど自信が無かったので、キャンパスの改善に予算を充てることを渋った。理事会はテキサス AMCと呼ばれる大学が教員会議長ではなく独立した管理者の長によって運営される必要性があることを決定した。1890年7月1日、理事会はこの新しい職務を現職知事に提案することに全会一致で合意し、ロスにその職を即座に辞めることを求めた。ロスはその提案と、知事の3期目に出馬しないと宣言した後で受けた幾つかの提案とを検討することに合意した。匿名の人がロスはテキサス AMCの学長を引き受けるよう求められていると幾つかの新聞に伝え、新聞のそれぞれがロスはその役目に完璧に見合うものだと論評した。この大学は軍事と農業の知識を教えるために設立されており、ロスは軍隊と農夫としての優秀さを示していた。その知事としての仕事ぶりは管理技術に磨きを掛けており、常に教育に関する関心を表明していた。 ロスは利益の対立と思われることについて心配したが、彼を選出した理事会の多くを指名していたので、その役職を引き受けると宣言した。ロスが引き受けたという報せが州内に広まり、将来を期待される学生がテキサス AMCに群がり集まった。南北戦争の間にロスが監督した兵士の多くがその息子達に元指揮官の下で学ばせたいと考え、1890年から1891年に掛けての教育年の初めには500人の学生が入学しようとし、大学の施設は250人の学徒のために設計されたものだったが、326人が入学を認められた。ロスは2月2日に正式に学長を引き受けた。ロスが就任したときに、キャンパスには水道がなく、住居が不足し、不満を抱いた教官が教え、学生の多くは勝手気儘に振る舞っていた。
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着任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/24 19:31 UTC 版)
2005年12月発売の『星界の戦旗ドラマCDボックス』付録。『紋章3』のエピローグ直前のエピソード。ジントとサムソンとの出会いを描く。
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