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なまむぎ-じけん 【生麦事件】
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生麦事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/23 08:57 UTC 版)
生麦事件(なまむぎじけん)は、幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。
- ^ 同所にて平成22年12月より首都高速横浜環状北線建設のため、一時近隣の旧東海道東側に仮移転をした。
- ^ a b c d 『薩藩海軍史』
- ^ 『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より。ちょうど事件が自宅前で起こったため一部始終を間近に見た勘左衛門が、事件当日に神奈川奉行所に出した報告書である。
- ^ 神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書(嘉永文久年間見聞雑記)『薩藩海軍史』に収録
- ^ a b c d e f 『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』より
- ^ 当時京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾の実兄宛書簡は、喜左衛門の弟の奈良原喜八郎としている。ただし、行列の先を行っていた宮里孫八郎が事件の十数日後に鹿児島の家族に宛てた書簡は、当番供目付だった兄・喜左衛門の名を挙げており、久光の駕籠側にいた松方正義も証言を残しているので、リチャードソンへの一太刀目が兄の喜左衛門であったことは、定説となっている。
- ^ 主に海江田信義の著作と直話に基づく話のようである。
- ^ a b 『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』より
- ^ 『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』引用の「幕府側の所記」
- ^ 『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』が引用する越前藩中根雪江の記録『再夢記事』
- ^ 『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より。事件当時、戸塚の宿役人だった川島弁之助の後年の談話である。
- ^ 生麦事件のわずか9日前、ジャーディン・マセソン商会横浜支店のS.J.ガウアーは、ヴァイス領事に出していた報告書に「独立心に富んだ大名は、心底から攘夷を望んでいるのではなく、外国との交易をこそ望んでいる」と記している。
- ^ 5月4日及び9日の江戸城中における評議には、異例にも水戸藩家老の武田耕雲斎と大場一真斎が参加していた(『明治維新と世界認識体系』p.194)。
- ^ 早朝から各二千ドル入りの箱を積んだ荷馬車がイギリス公使館に到着し、公使館が集めた中国人の貨幣鑑定人が貨幣の検査や勘定を行った上、艦隊の甲板に運ばれた。この作業には3日がかかったという(『一外交官の見た明治維新(上)』)。
- ^ 『古き日本の暼見』より
- ^ よく誤解があるが、大名行列に遭遇して通行人が土下座を強いられたのは徳川御三家の場合のみであり、それ以外の大名行列の場合は通行人は脇に下がるだけでよかった。決して外国人に対して特別待遇で土下座を免除した訳ではない。
- ^ 『後は昔の記ー林董回顧録』
- ^ 板野正高「駐清英国公使ブルースの見た生麦事件のリチャードソン」(学士会報1974年、第723号)『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』より孫引き
- ^ 駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックは横浜の居留民社会を「ヨーロッパの人間の屑」と表現していた。
- ^ この当時の日本では、安全のために、武士であっても狭い市中での乗馬は禁止されていた。日本には去勢馬がおらず、馬が暴れて死人が出ることもまれではなかったためである。ところが外国人は条約を盾に、かまわず馬を乗り回した。結果、事故が頻発し、治外法権は一般庶民の恨みも買っていた。顕著な例としては、同じ文久2年に函館において、ロシア人の馬に蹴られた町人があばら骨を折り、眼球破裂で危篤状態になった事件がある。しかしロシア人は賠償に応じず、幕府が治療費を払った(谷口眞子著『武士道考―喧嘩・敵討・無礼討ち』角川学芸出版、2007発行)。
- ^ 原文が「決闘」ではなく「血闘」になっている。
[続きの解説]
固有名詞の分類
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