天下茶屋の仇討とは? わかりやすく解説

天下茶屋の仇討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 15:40 UTC 版)

天下茶屋の仇討(てんがちゃやのあだうち)は、1609年慶長14年)に、林重次郎と源三郎の兄弟が父の仇である当麻三郎右衛門を大坂・天下茶屋で討った事件。

概要

備前国戦国大名宇喜多秀家の家臣・林玄蕃は、家中の長船紀伊守との争論が原因で、慶長5年(1600年)9月2日夜、当麻三郎右衛門のために闇討ちにあった。

その子・重次郎と源三郎の兄弟は敵をたずねもとめて苦心の末、当麻が伊藤将監と変名して豊臣氏の家臣・大野治長の家来となっているのをつきとめた。兄・重次郎は病態のために途中でむざんな返り討ちにあったが、弟・源三郎は家来の鵤幸右衛門(いかるが こうえもん)[1]の助力によって、慶長14年(1609年)3月3日、天下茶屋で首尾よく父と兄との仇を討った。

しかし、この事件は実在しなかったという見解が一般的である[2]平出鏗二郎は『敵討』(1909年)において天下茶屋の仇討を「事実か不明、または不確実」としている[3]。鵤幸右衛門は伏見人形の創始者と伝えられるが、これも疑わしい[4]

江戸時代の代表的な仇討ちの一つとして有名で、これを歌舞伎化した『敵討天下茶屋聚』(かたきうち てんがぢゃや むら、通称:『天下茶屋』)は人気演目の一つとなった。

関連項目

脚注

  1. ^ 鵤幸右衛門”. コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年12月25日閲覧。
  2. ^ 藤沢毅「翻刻『摂州天下茶屋敵討』」『尾道大学芸術文化学部紀要』第3号、尾道大学芸術文化学部、14頁、2004年。doi:10.18899/gei.03.02 
  3. ^ 平出鏗二郎『敵討』文昌閣、1909年、127-128頁。doi:10.11501/768796 
  4. ^ 陶器全集刊行会『陶器大辭典』 1巻、寶雲舎、1935年、190-191頁。doi:10.11501/1115001 




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「天下茶屋の仇討」の関連用語

天下茶屋の仇討のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



天下茶屋の仇討のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの天下茶屋の仇討 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS