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しまづ-ひさみつ 【島津久光】
近代日本人の肖像 |
島津久光 しまづ ひさみつ
鹿児島生まれ。父は鹿児島藩主島津斉興。斉興の長子、斉彬との家督争いに敗れるが、安政5年(1858)に斉彬が没し、自身の長子忠義が襲封すると、国父として藩の実権を握る。公武合体運動の中心的な存在となり、文久2年(1862)藩兵千余を率いて上京。尊攘激派を抑える一方、江戸へ下り幕政改革を推進。帰途、生麦事件を起こし、薩英戦争の引金となる。後、西郷隆盛や大久保利通が台頭すると、かれらに政局をゆだねた。維新後、左大臣に迎えられるが、政府の欧化政策に反対し辞官、郷里に隠棲。
| キーワード | 公家・旧大名 |
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島津久光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/10/18 04:33 UTC 版)
島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。玉里島津家初代当主。
位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。
島津氏27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男。同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄。同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男久治は宮之城家、四男珍彦は重富家、五男忠欽は今和泉家をそれぞれ相続した。曾孫に香淳皇后。玄孫に今上天皇。
- ^ 『島津氏正統系図』では種子島氏の養子になった事実が省かれている。
- ^ 安政5年(1858年)5月13日に幕府軍艦咸臨丸が鹿児島を訪問したおり、斉彬は勝海舟に忠教を紹介している。
- ^ 文久元年(1961年)10月、大久保と伊地知(堀)を御小納戸役に抜擢し、岩下を軍役奉行兼趣法方掛に、海江田と吉井を徒目付とした。
- ^ 4月16日、久光は非公式に京都の近衛邸を訪問。近衛忠房や議奏・中山忠能、正親町三条実愛と会談。同日、久光へ滞京して浪士鎮撫の任にあたるよう勅命が下る。翌17日、久光は公式に京都錦小路の薩摩藩邸に入る。
- ^ 老中水野忠精の官名・和泉守との同名を避けるための処置とされる。
- ^ 久光(薩摩藩)にとっての幕政改革における主要目標は、「三事策」のうち自身の主張である第3条を実現することにあったと考えられる(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第8章参照)。
- ^ 事件発生前に、アメリカ人貿易商ユージン・ヴァン・リードも久光の行列と遭遇しているが、彼は日本の慣習に通じていたため、行列に道を開けて下馬・脱帽し表敬の挨拶をしたので大事には至らなかった。
- ^ この官位は、歴代の薩摩藩主と同等の格式に相当する。官位を得るまでの久光は、薩摩藩の最高実力者ではあったものの、あくまで藩主の実父という存在であって、形式上、幕府(将軍)や朝廷(天皇)から見れば陪臣に過ぎなかった。
- ^ 長州再征を期して、征夷大将軍徳川家茂が慶応元年(1865年)5月16日に江戸城を出陣、閏5月25日に大坂城へ入り征長の本営とする。
- ^ 大坂滞在中の将軍以下幕閣および京都の朝廷に対して通商条約の勅許と兵庫(現兵庫県神戸市)開港を要求するため、イギリス公使パークス、フランス公使ロッシュ、アメリカ代理公使ポートマン、オランダ総領事ファン・ポルスブルックが、慶応元年(1865年)9月13日に軍艦9隻を率いて横浜を出帆、16日に大坂湾へ来航し兵庫沖に艦隊を停泊させる。欧米列強の軍事的威圧の下で10月5日、一橋慶喜らの説得を容れた孝明天皇が、通商条約は勅許、ただし兵庫開港は承認せずという内容の勅諚を降下する。
- ^ 兵庫開港については、慶応元年10月の条約勅許の際に孝明天皇によって差し止められた経緯があったものの、文久2年(1862年)締結のロンドン覚書による取りきめ上、1868年1月1日(慶応3年12月7日)の開港が予定されており、開港期日の6カ月以前に開港予定を布告するよう義務づけられていた。そのため幕府としては、布告期限までに兵庫開港の勅許を得る必要があった。
- ^ 朝廷は10月15日、慶喜の大政奉還を勅許、あわせて10万石以上の諸侯に対して上京を命じ、久光のほか、前尾張藩主・徳川慶勝、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、広島藩主・浅野茂長、前佐賀藩主・鍋島閑叟、岡山藩主・池田茂政を特に指名して召集した。
- ^ 東京奠都により明治2年3月、天皇が京都から東京へ再幸、東京城が「皇城」となり、太政官も東京へ移る。
- ^ これに困惑した西郷隆盛の周旋により願い出は揉み消される。
- ^ この巡幸の最大の目的は、久光を慰撫することにあったと考えられる(佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』第2部第3章参照)。巡幸には、西郷隆盛のほか、西郷従道・川村純義・吉井友実・高島鞆之助等、鹿児島藩の出身者が多数随行していたにもかかわらず、久光への挨拶がなくその怒りを買う。久光に非礼を詫びるために、西郷隆盛が同年11月に帰郷し、翌年5月まで東京を離れている。
- ^ この建言書については、『島津久光公実紀』巻7によると、翌年6月22日に久光が注釈書を政府へ提出したとされるが、実際に注釈書が提出されたかについては疑問がある(芳即正『島津久光と明治維新』第9章参照)。
- ^ 玉里家に伝わった史料・典籍は、後に「玉里文庫」として鹿児島大学付属図書館の所蔵となる。
- ^ なお宮尾登美子『天璋院篤姫』では於哲の妹とされているが、これは誤伝である。
- ^ 徳川家定継々室候補の一人となったが、島津斉彬の選抜によって島津忠剛の娘・一(かつ、後の天璋院)を擁立することが決まり外れた。
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