撃沈とは? わかりやすく解説

げき‐ちん【撃沈】

読み方:げきちん

[名](スル)艦船攻撃して沈めること。「敵艦を—する」

「撃沈」に似た言葉

撃沈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/06 04:41 UTC 版)

撃沈(げきちん)とは、何らかの攻撃によって艦船沈没させることである。




「撃沈」の続きの解説一覧

撃沈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 10:45 UTC 版)

りすぼん丸」の記事における「撃沈」の解説

9月27日午前8時過ぎ、「りすぼん丸」は香港出港した目的地宇品で、門司経由地予定した捕虜乗せていることを考慮して防諜上の理由馬公への寄港避けたため、護送船団には組み込まれず、直接護衛無し単独航行だった。対潜警戒之字運動をしつつ速力10ノット大陸沿岸航行して初め4日間は平穏な航海だった。捕虜基本的に薄暗い船倉生活したが、初日上甲板1時間過ごすことが許され上甲板設置されトイレ使用管理捕虜中の下士官へすぐに委ねられた。航行中食事朝夕米飯タマネギ入り汁物支給されたほか、初め2日間の夕食には捕虜たちが出港前に共同購入したコンビーフ付いた飲料水各自水筒1日2回支給されたが、洗面に使う無き等しかった10月1日午前7時15分、「りすぼん丸」は、舟山群島沖の.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯3017東経12313分 / 北緯30.283度 東経123.217度 / 30.283; 123.217(アメリカ側記録北緯2957東経12256分 / 北緯29.950度 東経122.933度 / 29.950; 122.933)の地点航行中アメリカ潜水艦「グルーパー」の雷撃受けた。「グルーパー」は目標捕虜乗船していることに気付いていなかった。「りすぼん丸」には魚雷2発が命中。うち機関室付近に命中した1発は不発だったが、右舷船尾スクリュー付近に命中したもう1発が爆発スクリュー伝い機関室浸水、舵も破壊され航行不能陥った命中時に日本兵1人戦死、4人が負傷している。浸水は緩やかで、沈没まで時間がかかる考えられた。 緊急通信受けた日本海軍は、すぐに航空機偵察連絡対潜制圧発進させた。10月1日午前12時20分に支那方面艦隊所属駆逐艦」が現場到着し特設砲艦百福丸」、「第十雲海丸」、「豊国丸」も続いた捕虜監視兵や船員を除く日本人乗船者は、午後5時過ぎから、「百福丸」、「豊国丸」へ移動した一方捕虜乗船部隊指揮官相談した護送隊の少尉指示日本人退船中混乱避けるため船倉戻され船倉口はハッチ閉じた上にターポリン覆い布)まで被せ封鎖された。船長はこの措置反対したが、護送指揮官命令により実行された。日本俘虜情報局作成内部報告書では、捕虜代表のスチュワート中佐ピット少佐曳航する旨の説明をして了解得て、肉の缶詰等を配布した主張している。午後8時50分から「豊国丸」が「りすぼん丸」の海岸への曳航開始した同日夜から翌朝にかけて「第一黄浦丸」、「笠島丸」、「正生丸」、「利根丸」も現場到着している。 翌10月2日浸水船体後部から船体中央の第3船倉まで広がり沈没迫った日本兵苦情訴えて無視され続けた捕虜たちは、午前8時頃にスチュワート中佐指示で第2船倉ハッチ破壊して脱出した甲板出た捕虜は第1船倉ハッチ開いたが、第3船倉はすでに海面下に没しており開けられなかった。日本人船員一人は、いよいよ最後という時に浸水圧力船倉ハッチ水柱上げて吹き飛び遺体生存捕虜飛び出してきたと述べている。監視兵は捕虜に対して発砲したが、午前8時55分に監視兵や船員退去移り午前9時7分に「りすぼん丸」は東福山から方位角352度・距離約104kmまたは衢山島三星灯台から方位角136度・距離約31kmの地点沈没した水深浅かったため、マスト煙突先端水面から飛び出した状態で残った周囲にいた日本軍艦船により救助作業が行われて現場報告では644人が収容された。近在中国漁船救助駆け付けた捕虜一部付近の島上陸したが、10月3日414人が日本海軍救出後に捕えられたと報告されるなど、日本軍捜索活動によりほとんどが救出後に再拘束された。日本側の記録では捕虜845人が溺死判定されたが、実際に少なくとも3人の捕虜付近にいた漁船中国人救助されることで逃亡成功していた。日本側の人的被害捕虜監視1人戦死1人が行不明となったほか、便乗していた歩兵第82連隊第1機関銃中隊1人戦死した

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宮古丸」の記事における「撃沈」の解説

宮古丸」の最後の航海となったのは、沖縄本島に向かう定期航海であった。「対馬丸」などと並んで沖縄戦関連戦没船として数えられることがあるが、疎開船としての運航ではない。乗客343人で、船舶通信部隊や軍鳩輸送担当軍人70人・軍属50人・女子挺身隊13人を含んでいた。貨物は、軍需品44トン郵便物120個を積んでいた。 8月5日午前7時前、「宮古丸」は加計呂麻島俵港を那覇港向けて出港した。他の商船船団組んではおらず本船1隻に対し第一号型駆潜特務艇である第25・第27・第43号駆潜特務艇が護衛として付けられた。護衛艦木造漁船型の低性能なもので、「宮古丸」が先頭立って護衛艦3隻を引率するような隊形航行した航行速力も「宮古丸」のみなら9.5ノット航行可能であったが、護衛艦合わせて6.5ノット抑えた駒宮七郎は、前路警戒不十分な隊形であり、護衛艦能力が直衛には不適切であった評している。 雷撃予防するため之字運動C法のジグザグ航行進んだが、乗客らが昼食取っていた同日12時35分頃、徳之島南方11km付近日本記録北緯2734東経12855分 / 北緯27.567度 東経128.917度 / 27.567; 128.917、アメリカ側記録北緯2736東経12854分 / 北緯27.600度 東経128.900度 / 27.600; 128.900)でアメリカ潜水艦バーベル」の雷撃受けた魚雷船体中央後部命中し船首直立させた状態となりながら急速に沈没した乗客緊急時以外に甲板へ出ることを禁じられていたこともあって脱出難しく救助され乗客73人だけで、残る270人が死亡した船員52人のうち15人と海軍警戒隊員4人も戦死し死者総計289人に上った遭難連絡受けた奄美大島大島防備隊司令副島冨士太郎大佐)は、翌6日早朝特設掃海艇宝永丸」、特設監視艇北洋丸」「第一海洋丸」および漁船4隻を対潜掃討出撃させたが、「バーベル」を捕捉できなかった。 1987年昭和62年)に那覇市若狭旭が丘公園に「海鳴りの像」と題する慰霊碑建立され2007年平成19年)には犠牲者名を記した刻銘板が設置されている。また、2001年平成13年)には、日本政府主催で「対馬丸遺族などと合同洋上慰霊祭客船「ふじ丸」使って行われた

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ルシタニア (客船)」の記事における「撃沈」の解説

ルシタニアアイルランドのケープ・クリア島(英語版)沖30 マイル (48 km) の地点航行していたが、遭ったため18ノット減速しアイルランド南部航行していた。そして14時10分、U-20前方さしかかったU20のシュヴィーガー艦長雷撃命令し、2本の魚雷発射された。ルシタニア減速転舵して進路U20方にとってしまい、攻撃射程入っていた。1本の魚雷右舷ブリッジ直下命中した。そしてその直後魚雷爆発続いて2度目の大爆発生じた。その衝撃破片と煙が舞い上がり5番救命ボート損傷した無線士はSOS発信しターナー船長総員退船を決定した。 縦通隔壁 (船を左右に分ける壁、本来は船の沈没遅らす為の構造) の影響で、浸水区画偏りルシタニア右舷15度傾斜した船長ターナーは船の針路変え意図的に座礁させることを試みたが、舵がきかなかった。魚雷衝撃操舵システム破壊され操船不能の状態になっていた。しかし、動力機関動いていたため、ルシタニア18 ノット保ったまま航行しその結果大量海水船内入り続け結果となってしまった。 ルシタニア右舷傾斜したことで、救命ボート降ろすのが困難となってしまった。右舷ボート傾斜により船体から離れてしまい、搭乗難しくなってしまった。左舷にあったボートは、船体外板接合する際に使用したリベットボートが当たり、ボート損傷してしまった。ボート転覆沈没によって、海に投げ出され死亡する乗客相次いだまた、船員怠慢原因で、ボート転落したり、乗客落水する事例もみられた。ルシタニアには救命ボート48隻あり、全ての乗客乗務員乗せられたが、無事着水したのはわずか6隻で、その全て右舷から降ろされたものだった船長ターナー操船減速試みたが、船内伝声管破壊されていたため、機関室や舵室が応答せず、さらに船内大混乱となっていた。U-20のシュヴィーガー艦長潜望鏡ルシタニア様子確認したあと、14時25分潜望鏡戻し現場離れた6分後、ルシタニア船首楼甲板水没し傾斜激しくなっていった魚雷受けてから10分後、救命ボート降ろ作業始まったが、左舷では、乗客パニックに陥り救命ボート押しかけ手すり飛び越えて乗ろうとしていた。右舷では、幾つかのボート流されてしまっていた。乗務員詰め掛けてくる乗客圧倒され転落する者も現れた。このことで、さらにボート降ろすことが困難になってしまった。人が押しかけるためボートから転落する乗客ボート飛び乗る乗客もいた。無事に着水できたのは先述したごく少数救命ボートだけである。 船長ブリッジ戻り、船と運命共にするつもりであったが、水流によってドア破壊され船外流され浮いていた椅子しがみついた船長はやがて意識失い椅子と共に漂流していたが、3時間後に救助された。ルシタニア船体水深100m海底船首部着底したが、船体巨大であったため、着底した船首によって支えられ沈没後しばらくは船尾部水面にあったその後ボイラー爆発と船の傾斜により第3煙突崩壊し残り煙突次々傾斜により倒壊した (当時煙突は、背が高く重量があり、鋲で組み立てられ甲板ワイヤー固定されていた薄い筒であった)。ターナー船長雷撃直前2分前に現在位置確認しており、沈没時の速度などを覚えていたため、戦後正確な沈没位置証言することができた。 ルシタニアはわずか18分で南部アイルランド8 マイル (13 km) の地点沈没し、1,198名の乗客犠牲となった。その中には100人の子供も含まれていた。事故浮上していた遺体ルシタニア目的地であったクイーズタウンに移動され教会手厚く葬られたが、収容されなかった遺体も多い。

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撃沈

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大洋丸」の記事における「撃沈」の解説

太平洋戦争開戦後日本陸軍輸送船となった1942年5月5日民間人を含む1360名、物資2300tを乗せ宇品港出港。他4隻と特設砲艦1隻の船団組み、9ノットシンガポール向けて航行中5月8日午後8時40分頃に長崎県男女群島に近い.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯3045分 東経12740分 / 北緯30.750度 東経127.667度 / 30.750; 127.667の東シナ海で、アメリカ潜水艦グレナディアー」等の雷撃を受け、浸水し55分後に沈没した南方作戦占領地インフラ整備召集され鐘淵紡績小野田セメント三菱商事住友商事三井物産などの営業マンや、台湾烏山頭ダム八田與一をはじめとした技術者乗客軍属船員817名が殉難した。 海底に眠る船体2018年発見された。

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帝亜丸」の記事における「撃沈」の解説

交換船としての役目終えた帝亜丸は、陸軍運送船に復帰した1944年昭和19年8月10日帝亜丸シンガポールへの陸軍部隊輸送任務ヒ71船団加入し伊万里湾出港した帝亜丸乗船者は主に南方軍向けの補充要員軍政要員第3航空軍関係者で、軍人軍属4,936人と日本の民間286人だった。だが、ルソン島北西岸.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯1809東経11956分 / 北緯18.150度 東経119.933度 / 18.150; 119.933に差し掛かった8月18日夜、帝亜丸アメリカ潜水艦ラッシャー雷撃遭った午後1112分頃に右舷2番船倉右舷機関室後部魚雷1発ずつが命中破損個所からの大浸水機関部爆発ののち左舷傾斜午後1140分頃に船尾から沈没したこの間自衛のため乗船していた陸軍船舶砲兵野砲機関銃発砲したが、戦果無かった魚雷命中直後船内停電状態になったため、帝亜丸乗船者暗闇の中で脱出を図ることになり多数犠牲者生じた死亡者数諸説あるが、駒宮七郎によれば2,369人または2,685人、竹野弘之によれば2,665人とされており、軍人軍属2,387人、民間人32死亡とする記録もある。大内健二によれば帝亜丸死者は2,654人に上り第二次世界大戦中の日本輸送船としては8番目に多い犠牲者数となった

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コノトープ (ミサイル艇)」の記事における「撃沈」の解説

トビリシは、その後グルジア海軍在籍していたが、2008年8月13日南オセチア紛争の際にポティ港へ入ったロシア軍によって火を付けられ、破壊された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 07:39 UTC 版)

浅間丸」の記事における「撃沈」の解説

その後浅間丸は再び海軍徴用され輸送船として活躍したこの際自衛武装として三年8cm単装高角砲2門、九六式25mm機銃、九三式13mm機銃、九二式7.7mm機銃水中聴音機1基、爆雷16個を装備した浅間丸級は空母改造対象船舶であった。だが改造工事着手できないまま、龍田丸鎌倉丸沈んでしまった。 1944年(昭和19年)2月23日午前3時頃、ヒ40船団の1隻として錫やタングステンなどを満載して台湾近海蘇澳沖を北上中、アメリカ潜水艦グレイバック魚雷により左舷船首被弾損傷したが、よろめきながら台北北東位置する基隆港外港避難入港し沈没免れた浅間丸基隆港務局築港部長吉村善臣(1902~1995年)の奮闘により修理受けて、約2ヶ月後神戸向けて出港した1944年10月にはマモ04船団としてレイテ島の戦い用の増援部隊である第1師団マニラまで送り届ける重要任務成功した。ところがその帰路11月1日マニラから高雄向けて護衛艦とともにバシー海峡北上中にアメリカ潜水艦アトゥルの発射した魚雷命中して沈没した1000人以上が救出されたものの、500人以上が死亡した

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晃和丸」の記事における「撃沈」の解説

晃和丸」の最後の航海が行われた1945年当時朝鮮半島沿岸でも日本海上交通危険な状態にあり、同年4月14日には済州島翰林港沖にアメリカ海軍潜水艦「ティランテ」が侵入してモシ02船団の「壽山丸」と護衛の「能美」・第31海防艦撃沈していた。 1945年5月7日午前7時、「晃和丸」は済州港から最後の航海出航した韓国文化放送済州放送局制作ドキュメンタリー番組晃和丸悲鳴』(1993年8月15日放送によれば定員350に対して疎開希望者が殺到し750人以上が乗船したという。韓国文化放送晃和丸悲鳴』は「晃和丸」を日本軍疎開命令による済州島からの疎開船第1号としているが、山辺1999年によれば晃和丸」は定期旅客船で、軍が関与した疎開船第1号1945年7月の「豊栄丸」である。また、ハンギョレによれば日本軍徴兵者も乗船していた。 5月7日午前10時から10時30分頃、「晃和丸」が湫子島に入港直前アメリカ軍機が飛来し1回目空襲受けた人的損害はなかった。しかし、湫子島を出港して午後1時頃にフェンガン島付近通過しようとする時、再びアメリカ軍機が飛来し爆撃受けた。1発目の爆弾船長室脇の2等船室命中、2発目の爆弾機関室命中して船体炎上沈没した船客民間旅客船であることを示そうと白いチマ振ったりしたが、アメリカ軍機は旋回しつつ甲板海上漂流中の乗客機銃掃射加えた日本軍艦艇による救助活動が行われたが、『ハンギョレによれば257人が死亡韓国文化放送晃和丸悲鳴によれば死者は520-600人に上る船員戦死者2人であった。なお、5月5-7日、朝鮮半島近海では「虎丸」(宇和島運輸503トン)・「辰千代丸」(辰馬汽船、6873トン)・「第二宏山丸」(山本汽船、6886トン)・「丸」(日本製鐵、884トン)など日本多数空襲で撃沈されている。

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武洲丸」の記事における「撃沈」の解説

武洲丸最期訪れたのは、太平洋戦争後期1944年昭和19年9月である。9月8日台湾基隆港那覇港に向け出港したタカ808船団加入し途中でアメリカ潜水艦スペードフィッシュ襲撃僚船4隻が沈没しながらも、武州丸無事に那覇到着した。そして、徳之島から九州本土疎開する民間人を運ぶため、船団とは別れて奄美大島へ向かった当時アメリカ軍の上陸備えるため、南西諸島各地女性子供高齢者本土および台湾疎開勧告されていた。 奄美大島古仁屋到着した武洲丸は、鹿児島港から奄美大島名瀬港経由で来た姉妹船相洲丸と合流古仁屋で、小船によって徳之島から集合していた疎開者の搭乗開始した15歳未満の子77人を含む民間人154人が乗り込んだほか、陸海軍関係者24人が便乗した乗員側は、軍属船員36人と自衛火器操作する海軍警戒隊人数不明)である。船倉居住区画として使用したほか、船倉内は暑いため上甲板にも3番デリック中心に日除けテント張って寝泊まりした。なお、相洲丸は先に名瀬港杭木500トン積んでおり、疎開者の家財類を担当した9月24日朝、武洲丸と相洲丸の2隻で編成され臨時ナカ502船団は、第89号潜特務艇と第200号潜特務艇の護衛奄美大島から出航した。7.5ノットゆっくりした速度で、26日午前鹿児島到着予定であった。2晩目に入った25日午後9時2分頃、諏訪之瀬島北西13km付近洋上雷雨をついて航行していた武洲丸は、アメリカ潜水艦バーベルから雷撃された。バーベル魚雷命中した武洲丸急速に浸水し北緯2946東経12940分 / 北緯29.767度 東経129.667度 / 29.767; 129.667の地点沈没した。相洲丸は爆雷反撃しつつ離脱し護衛艦救助活動行った収容されたのはわずかで、疎開148人・便乗軍関係者18人・軍属船員11人・海警戒隊員5人の計182人が死亡した。なお、日本海軍は第453海軍航空隊沖縄海軍航空隊古仁屋派遣隊水上機出動させて27日まで対潜掃討行ったが、成果無かった

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阿里山丸」の記事における「撃沈」の解説

マタ30船団」も参照 10月20日阿里山丸含め輸送船12から成るマタ30船団は、護衛艦5隻に守られマニラ出港したルソン島沖には多数アメリカ潜水艦待ち伏せており、船団は7隻の潜水艦から集中攻撃受けた23日午後5時半以降加入輸送船次々と撃沈された。 10月24日阿里山丸は、右舷から打ち込まれ魚雷4発、左舷からの魚雷3発をかろうじて回避した。が、さらに右舷から来た魚雷かわしきれず、3発が命中した。うち2本の命中個所船体中央よりやや後方で、日本船員らが乗っていた第3船倉推定される。もう1本は船尾命中している。船体船尾被雷部分分断されて、午後7時40分頃、ルソン島北西洋上船尾から沈没した戦後阿里山丸アメリカ潜水艦スヌーク(USS Snook, SS-279)の戦果として認定されたが、スヌーク午前5時ごろの四度目の攻撃以降何ら戦闘行動起こしていないため、シャーク(USS Shark, SS-314)の雷撃による戦果思われる沈没時、輸送指揮官である陸軍中尉捕虜船倉閉じ込めたまま沈めてしまうよう指示した。しかし船長指示従わず船倉扉を開けて捕虜解放した捕虜証言によると、看守退去前に船倉出入り縄梯子切断してしまっていたが、捕虜たちが修理した。ほとんどの捕虜船倉から脱出でき、食糧漁りつつ洋上逃れた捕虜には、部隊輸送使った竹製救命胴衣事前に支給されていた。 護衛駆逐艦竹は他の沈没船遭難者収容して限界状態だったが、阿里山丸船員収容した直後漂流船商船曳航命令受けて現場離れた護衛艦艇は救助活動行っていたが、捕虜たちが救助求めて近づくと、棒などで突き戻された。また、捕虜中には日本軍に再収容されることを拒み、自ら泳いで救助艦から離れる者もいた。捕虜たちは海面残っていた救命ボートや筏などに掴まって漂流続けたが、ほとんど行方不明となり死亡したと見られる生存確認されているのは、4-5日後に通りかかった日本船に救助された4人と、救命ボート航行して中国民間船救助された5人だけである。中国船に救助された5人は、昆明市所在アメリカ14空軍送り届けられた。日本船に救助された4人のうち、1人台湾軍病院11月9日死亡した阿里山丸乗船者のうち日本人乗員である船員のうち2人輸送中の遭難船204人中22人、捕虜護送隊員40人中5人および船舶砲兵第1連隊所属85人中13人が死亡または行方不明となったアメリカ人捕虜は1781人のうち救助された9人を除くと1772人(収容死亡含めると1773人)が死亡したことになる。これは、1隻の船の戦時沈没によるアメリカ人死者数としては最大事例である。 捕虜多数死亡したことについて、戦後日本関係者対す戦争犯罪責任の追及がされた。船長取調べ受けたが、不起訴となっている。護衛駆逐艦艦長田中弘少佐水雷長の志賀博大尉も、捕虜救助しなかった件についてイギリス海軍取り調べ受けたが、特に問題視されず、起訴されることなく釈放された。 駆逐艦竹の水雷長志大尉回想によれば阿里山丸には捕虜輸送中の緑十字標識描かれており、日没前のため明瞭に識別できる状態だった。志賀によればアメリカ軍潜水艦捕虜乗船標識無視して阿里山丸撃沈したことになる。他方阿里山丸について調査している乗船捕虜遺族であるウィリアム・ボーエンによれば阿里山丸に特別の標識はされていなかった。日本軍捕虜待遇などについて研究しているPOW研究会三輪祐児によれば当時戦時国際法上、病院船異なって捕虜輸送船を示す標識規則存在しなかったと思われ日本軍捕虜輸送船にも何ら標識掲示されていなかった。

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撃析係まず立合開始の柝を入れて仮の約定値段を示し、その値段での売買枚数を各市場代表者から申し出させる。端を表示するとともに、値段を上下させる。売りと買いと対比して、売り枚数が多いときは「何枚買える」または「何枚買」といって値を下げ、逆に買い枚数が多いときは「何枚売れる」または「何枚売」といって値を上げる。売り枚数と買い枚数が同じ枚数になった場合には、「無出入」と唱え、その値段をもって本約定値段の成立を宣言する。「売りハナ」または「買いハナ」の場合、市場代表者の「みんな売った」または「みんな買った」の申出により、その値段をもって本約定値段の成立を宣言する。撃析係というのは、仮約定値段の提示者であり、売りと買いの枚数が一致するまで新しい値段を提示する役目を果たすわけである。見張り係、読上げ

撃析係市場内の売買取引の状況を観察して、市場代表者が個々に表示している値段のうちから最も妥当であると思われる値段を表示する。この場合、売りの勢力が強いときには「何円ヤリ」と表示し、買いの勢力が強いときには「何円カイ」と表示する。上記1において、場況の変化により、売りの勢力が一方的になった場合にはセリ下がり、買いの勢力が一方的になった場合にはセリ上がる。上記1および2のセリが進行し、売りと買いの枚数が一致して、他に成行もしくはその値段以下の売り注文、および成行もしくはその値段以上の買い注文がなくなった場合、その値段をもって約定値段の成立を宣言する。このとき、成行注文はもちろん、その約定値段より高い指値の売り注文および安い値段の買い注文は、すべて成立することとなる。上記1および2のセリの途中において、たとえば8,750円の売り注文と8,740円の買い注文だけが残り、「5ヤリ」と「4カイ」が対峙して、市場の売買が一時膠着状態となるときがある。この場合、撃析係は「4カイ・5ヤリ」と「極まり手」を宣言する。「極まり手」とは二者択一の状態をいい、その後の売買によって枚数の合致したほうの値段が約定値段となる。このため、極まり手のあとから出された注文は、たとえそれが40円以下の売りまたは50円以上の買いでその状態に適合する注文であっても、その全部が履行されない場合もある。極まり手の方法をとらないで、あくまでも売りと買いの枚数が一致した場合にのみ約定値段を成立させる方法をとっている取引所もある。この方法によると、約定値段が成立する以前の注文はすべて履行される長所がある反面、立会時間が長びく欠点がある。見張り係

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