対馬丸
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対馬丸(つしままる)は、日本郵船のT型貨物船の一隻で、総トン数6,754トンの貨物船[4]。旧字体の表記は對馬丸[4]。
注釈
- ^ 1916年(大正5年)2月1日にアメリカ船と衝突して、翌2日に沈没した(#郵船100年史 p.164)
- ^ 船舶運営会使用船並びに自営船(#戦時遭難史)
- ^ 香港船渠で建造中に香港の戦いによって日本側に接収され、のちに日本側の手により竣工(#野間 (2004) p.350、“1/700戦時輸送船模型集・暁空丸”. Rosebury Yard. 岩重多四郎. 2012年12月7日閲覧。)。なお、この事件を扱った大城立裕の『対馬丸』では、対馬丸がイギリスからの分捕り品のように表現されているが明らかに誤りで、正真正銘のイギリスからの分捕り品は暁空丸である。
- ^ #駒宮 (1987) p.232 に梅とあるのは誤記
- ^ 大城立裕の説によると、対馬丸には那覇市・首里市(現:那覇市)、暁空丸、和浦丸には豊見城村(現:豊見城市)を中心とする本島北部・南部の民間人が乗船していたとされている。しかし、後に遺族会や日本郵船が調べたデータでは、各船ともに大きな人数のばらつきがあり、現在ではこの大城説は正しいとは言えないとされている。正確な乗船者数が、対馬丸記念館、日本郵船ともに細かく把握しきれていない理由としては、「乗船間際になって、急遽乗船を取りやめた人や学校がいくつかあった」「出港間際の「割り込み乗船」があった」とするが、真相ははっきりしない。
- ^ 内地(#郵船戦時上 p.808)、本州
- ^ 大城の対馬丸では、ナモ103船団の目的地が鹿児島になっており、「残りの2隻が予定を変えて長崎に着いた」と表現されている。しかし、ナモ103船団に関して言えばこれは誤りで、艦艇による疎開輸送には鹿児島着があった(#田村 p.90、#安達 p.182)。
- ^ 1941年(昭和16年)から1946年(昭和21年)までの気象観測の記録がないため、大城の見解に拠った。しかし、大城の見解と救出された船員や砲兵隊員の証言とでは大きな食い違いが何ヶ所もある。
- ^ 「立ち上がった子供は足元が定まらず、よろけて海中に転落する。」(#郵船戦時上 p.811)
- ^ 対馬丸資料館発表、氏名判明者のみ
- ^ 参議院予算委員会第一分科会(1975年(昭和50年)3月29日)における秋山進・総理府賞勲局長の答弁による。
- ^ 政府が引き揚げを拒否した背景には船が巨大すぎること、また船の眠る海域が、現在でも度々漁船が転覆する海の難所「七島灘(しちとうなだ)」であることが挙げられる。さらに、水深が深すぎることに加え、船齢の古さ、魚雷攻撃による被害など引き揚げに耐え切れるだけの船体強度が期待できないことなどが、政府の引き上げに関する検討書に報告されている。
出典
- ^ a b c “Russell & Co.建造船 對馬丸型”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2018年5月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j #日本汽船名簿
- ^ Lima_Maru_Class
- ^ a b 喪失一覧(3)p.10『昭和19年8月(1944年)B |22|a|對馬丸|6,754|日本郵船|雷撃|29-30N 129-30E 』
- ^ “奄美で対馬丸慰霊祭 「平和な日々が続くよう願う」”. 産経ニュース (2022年8月27日). 2022年8月27日閲覧。
- ^ a b #日本郵船株式会社百年史 p.179
- ^ #郵船100年史 p.142
- ^ #日本郵船株式会社百年史 p.275
- ^ #日本郵船株式会社百年史 p.325, 328, pp.330-331
- ^ #日本郵船株式会社百年史 p.320, pp.327-328
- ^ #日本郵船株式会社百年史 p.344
- ^ a b c d #郵船戦時上 p.813
- ^ #駒宮 (1987) p.28
- ^ #駒宮 (1987) p.29
- ^ #SS-197, USS SEAWOLF, Part 1 p.270, 290
- ^ #36哨 p.3
- ^ #江蘇丸
- ^ #SS-283, USS TINOSA, Part 1 pp.23-24
- ^ #SS-197, USS SEAWOLF, Part 1 pp.270-271
- ^ #36哨 pp.6-7
- ^ #SS-283, USS TINOSA, Part 1 pp.8-9, p.18, 41
- ^ #対馬丸
- ^ #一護1810 p.10
- ^ #駒宮 (1987) p.180
- ^ a b #安達 p.180
- ^ #田村 p.90
- ^ #呉鎮1907 pp.43-44
- ^ #ろ号作戦
- ^ #郵船戦時上 pp.807-808
- ^ a b #駒宮 (1987) p.219
- ^ #陣中日誌 p.2
- ^ #陣中日誌 pp.2-3
- ^ #20掃1907 pp.22-23
- ^ #20掃1908 p.40
- ^ #陣中日誌 pp.7-8
- ^ a b c d #駒宮 (1987) p.232
- ^ #駒宮 (1987) p.236
- ^ a b #遭難部隊資料(陸軍)(2) p.16〔 番號:20|船名(總屯数):對馬(六,七五四)|事故年月日(程度):一九.八.二二(沈没)|事故場所(原因):N三九.三二 E一二九.三〇沖縄(潜)|出港地 同年月日:那覇一九.八.二一|目的港:長崎|乗船部隊(乗船地):便乗者(引揚邦人)一,六六一|損害:一,四八四|輸送指揮官:少尉 西村博一|摘要:(空欄)|〕
- ^ a b c d #郵船戦時上 p.807
- ^ 「昭和19.7.1~昭和19.8.31太平洋戦争経過概要その9/19年8月21日~19年8月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C16120644800 p.2〔 十九.八.二十二(略)對馬丸(A6757t 人員1677名)2220那覇→長崎/第五杉丸(A1983t)1855「ポートブレア」碇泊中}(潜水艦)(魚雷)(沈) 〕
- ^ 対馬丸資料館調べ
- ^ #郵船戦時上 pp.813-185
- ^ a b #岩重 pp.28-29
- ^ a b c d e f g #郵船戦時上 p.808
- ^ #SS-287, USS BOWFIN, Part 2 pp.10-11, p.42
- ^ #四護1908 pp.27-28
- ^ #SS-287, USS BOWFIN, Part 2 pp.11-14
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- ^ a b c #SS-287, USS BOWFIN, Part 2 p.16
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- ^ a b c #SS-287, USS BOWFIN, Part 2 p.18
- ^ a b c d e #郵船戦時上 p.809
- ^ a b c #SS-287, USS BOWFIN, Part 2 p.19
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- ^ #SS-287, USS BOWFIN, Part 2 pp.20-21
- ^ #駒宮 (1981) p.91
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- ^ a b c d #郵船戦時上 p.811
- ^ #SS-287, USS BOWFIN, Part 2 p.21
- ^ #SS-287, USS BOWFIN, Part 2 pp.21-22
- ^ 喪失一覧(2) p.32〔 昭和18年12月(1943年)B |21|C|湖南丸|2,627|大阪商船|雷撃|30-26N 129-53E 〕
- ^ 喪失一覧(2) p.32〔 昭和18年12月(1943年)B |21|b|柏丸|515|宇和島運搬|雷撃|奄美大島附近 〕
- ^ #駒宮 (1987) p.118
- ^ #佐防戦1812 p.5
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- ^ a b c d e #郵船戦時上 p.812
- ^ #駒宮 (1981) p.95
- ^ #駒宮 (1981) p.97
- ^ 撃沈から72年「対馬丸の悲劇」を深く知るQ&A「子どもら約1500人が死亡」史実に何を学ぶか東洋経済オンライン
- ^ “戦後70年 隠された子どもたちの犠牲 対馬丸事件 – 全日本民医連”. www.min-iren.gr.jp. 2020年9月28日閲覧。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所戦史室 『沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1968年、616頁。
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- ^ 第162国会 衆議院予算委員会第五分科会 2005年2月25日、川内博史衆議院議員の発言。
- ^ 喪失一覧(3) p.15〔 昭和19年9月(1944年)C |18|a|暁空丸|6,854|拿捕船|雷撃|35-02N 124-24E 〕
- ^ #駒宮 (1987) p.257
- ^ #駒宮 (1981) pp.119-125
- ^ 「沖縄の戦跡(付.沖縄戦における学徒従軍記)(防衛省防衛研究所)/小桜之塔」 アジア歴史資料センター Ref.C11110241100
- ^ a b c “慰霊塔(碑)一覧”. 沖縄県. 2022年7月18日閲覧。
- ^ 対馬丸遺族に年金 悲劇の学童疎開 やっと願いかなう『朝日新聞』1977年(昭和51年)1月20日夕刊、3版、10面
- ^ 学童乗せて沈没の対馬丸 対象遺族亡くなり支出金終了へ 朝日新聞デジタル、2021年3月19日
- ^ 「対馬丸、奄美に刻む 漂着地・宇検に慰霊碑」琉球新報、2017年3月20日
- ^ “対馬丸碑に平和誓う 犠牲者多い垣花小で除幕式”. 琉球新報 (2022年7月14日). 2022年7月18日閲覧。
- ^ “あゝ学童疎開船対馬丸 : 記録と証言”. 国会図書館. 2020年10月28日閲覧。
対馬丸(初代)
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1923年4月19日関釜航路から転属発令。砕氷船に改造後、6月8日就航。1925年12月17日擱座沈没。
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