死亡者数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 23:33 UTC 版)
「エンプレス・オブ・アイルランド」の記事における「死亡者数」の解説
乗客・乗員の生存者数・死亡者数について確かな数字は事故調査までは確定しなかった。これは乗客名簿に記載された名前と生存者からの情報に不一致が見られたためだった。結果として、初期の報道では不正確な数字が記載された。 乗客・乗員数および死亡者数乗客 / 乗員 人数 比率 死亡者数 生存者数 生存率 乗員 420 28.4% 172 248 59.0% 乗客 1,057 71.6% 840 217 20.5% 合計 1,477 100% 1,012 465 31.5% 等級別 一等級 87 8.2% 51 36 41.4% ニ等級 253 23.9% 205 48 19.0% 三等級 717 67.8% 584 133 18.5% 年代および性別 女児 73 6.9% 70 3 4.1% 男児 65 6.1% 64 1 1.5% 成人女性 310 29.3% 269 41 13.2% 成人男性 609 57.6% 437 172 28.2%
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死亡者数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:57 UTC 版)
事故死亡者の統計は、警察が集計した事故による被害者が事故発生から24時間以内に死亡した場合のものが主に用いられており、下記の人数も基本的には24時間以内死者数である。警察の統計としては、その他に30日以内に死亡した場合のものもある。更に、厚生労働省の人口動態統計から陸上で起こった交通事故を原死因とする事故発生後1年以内の死者数から、明らかに道路上の交通事故ではないと判断された者を除いた数を「厚生統計の死者」として計上している。 2021年の24時間以内交通事故死者数は2,636人で、2021年11月末時点の国内の自動車保有台数が約8,254.0万台なのと比較して、まだ戦後間もなく自動車保有台数が約38万台程度だった1950年の4,202人より少なく、いかに死者が激減しているかを物語っている。これは、1949年の24時間以内死者数3,790人よりも少なく、1948年の統計開始以降もっとも少ない人数である。また、救急医療の発達によって24時間以上生存しているだけで死者数はあまり減少していないという誤った認識が存在するが、2020年の30日以内死者数は3,416人、2019年の1年以内死者数は4,181人と、どちらも24時間以内死者数と同様に減少している。30日以内死者数は統計を取り始めた1993年以降、1年以内死者数は統計を取り始めた1965年以降もっとも少ない人数となっている。 年齢をみると、2021年の65歳以上の高齢者が交通事故の死者数で占める割合は約57.7%と過去で最も多い割合であった。高齢者人口の増加と高齢者の致死率がほかの年代より高いことが要因となっている。また、2016年6月の交通事故総合分析センターの調査によると、歩行者の死傷者数では(歩行者に違反のない事例を含め)7歳が突出して多く、成人の2.5倍、高齢者の約2倍である。原因としては、交通ルールや危険を察知する能力が十分身につかないまま、登下校など保護者のもとを離れて行動する機会が増えることが挙げられる。 2020年の交通事故による人口10万人当たりの1年以内死者数は2.9人であり、これは他の死亡原因と比較すると、火事の0.7人、他殺の0.2人より多いが、地震の14.9人(東日本大震災のあった2011年の数値)、自殺の16.4人よりは少ない。 2021年4月8日には、1日ごとの交通事故の統計を取り始めた1968年以降初めて、1日を通して全国で交通事故による死者が1人もでなかったことが発表された。
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死亡者数
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「中華人民共和国大飢饉」の記事における「死亡者数」の解説
中国の公式統計によると、当時の食糧と結婚へのインセンティブが不足していたため、1961年の中国の人口は約6億5859万人で、1959年よりも約1458万人減少している。出生率は2.922%(1958年)から2.086%(1960年)に減少し、死亡率は1.198%(1958)から2.543%(1960)に上昇している。なお、その後の1962年から1965年の平均数は、それぞれ約4%と1%である。右の人口調査データのグラフに示すように、出生率と死亡率は1961年前後でクロスし、その後急速に回復している。 非公式な死者数の見積もりはさまざまであるが、研究者は飢饉の犠牲者の数を1,500万から5,500万人と推定している。 信陽に本拠を置く新華社の記者である魯宝国は、自らの体験とそれを報じなかった理由を、同じく新華社の上級記者であった楊継縄(英語版)に次のように説明した: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}1959年後期、私は長距離バスで信陽からに羅山を経て固始に行った。バスから外を見ていると、道端の溝に一つまた一つと死体があったが、乗客は誰一人、餓死者のことを話そうとしなかった。羅山県城西門外で遺体を一つ見たので羅山県委員会に電話し状況を伝えた。光山県の餓死者が一番多く、3分の1が死に、家族単位で全滅していた。至る所に餓死者がいるのに、指導幹部は盛大に飲み食いしていた。私は固始県委員会の招待所に泊まったが、県委員会書記の楊守績は客を食事に招待し、たらふく食べていた。 (「新華社の記者なら中央に報告する義務がある、どうして『内部参考』を書かなかったんだ」との楊継縄からの問いかけに対し)本当のことを話す人間があんなにひどい目にあうのをこの目で見て、『内部参考』が書けるかい? 1959年と1960年に信陽地区の専員であった余徳鴻は、次のように述べている。 我が家から5キロ離れた防胡はそこら中が死体で、100以上が埋められずに野外に放置されていた。河原の両側の蘆の中にも100を超す遺体を見た。遺体は犬に食われたとか、人を食べた犬は目が血走っているとか言われていたが、それは事実じゃない。犬はとっくに人間に食べられていた。あの頃、犬なんかどこにもいやしなかった。 中国科学院は1989年に、少なくとも1500万人が栄養失調で死亡したと結論づけた。 中華人民共和国国家統計局の元大臣である李成瑞(中国語版)は、死亡者数を2200万人(1998年)と推定している 彼の死亡者数推定は、アンスレー・J・コール(英語版)による推定(2700万人) と、元全国人民代表大会常務委員会副委員長である蔣正華(中国語版)の推定(1700万人) に基づくものである。 全米産業審議会(英語版)の世界人口統計担当ディレクターであるジュディス・バニスターは、1958年から1961年までに3,000万人の過剰死亡があったと推定している。 イギリスの学者ジャスパー・ベッカー(英語版)は、著書『餓鬼(英語版)』の中で餓死者の推計の多くは3000万人から6000万人の範疇であることを示唆している。 上海交通大学特別教授の曹樹基(中国語版)は、3250万人と推定している。 楊継縄は、飢餓による死亡者は3600万人であり、さらに4000万人が生まれなかったため、「大飢饉による中国の総人口損失は7600万人になる」と結論付けている。養父をこの飢饉で失った楊は、執念で『墓碑―中国六十年代大飢荒紀実』をまとめたが、中国本土では発禁となっている。 中国の経済学者で2012年にケイトー研究所の「ミルトン・フリードマン自由賞」を受賞した茅于軾(中国語版)は、死者数を3,600万人と発表した。 中共中央党史研究室(中国語版)元副主任の廖蓋隆(中国語版)は、飢饉による4000万人の「不自然な」死者を報告している 中国の元高官で元中国共産党中央委員会総書記の趙紫陽の顧問を務めた陳一諮(中国語版)が属した制度改革委員会は、飢饉で4300万人から4600万人が死亡したと結論づけている。党幹部の会議では5000万人から6000万人の犠牲者が出たという報告もあったという。陳一諮は、8000万人が不慮の死を遂げ、その多くが大躍進後の飢饉の犠牲者であるとする共産党内部資料を見たとしている。 香港大学人文科学特別招聘教授であり、『毛沢東の大飢饉(英語版)』の著者であるフランク・ディケーター(英語版) は、2000年代に公開された地方の党公文書から得られた知見として、大躍進期間中に少なくとも4500万人が飢餓・過労・国家の暴力によって死亡したと推定している。また彼の研究によれば、国家の暴力が死者数を悪化させたとみられ、犠牲者のうち少なくとも250万人が、殴られたり拷問されたりして死亡したとされる。しかしながら、自らを初めて公文書の調査・利用を実施して執筆をした人物であるとするディケーターの主張は、他の一部学者により疑問視されている。ディケーターは、ある家族の一員が食べ物を盗んで捕まった後に何が起こったかについて、生々しい事例を提供している: サツマイモを盗んだ廉で有罪となったLiu Deshengは、尿にまみれていた…… 彼の妻と彼の息子もまた排泄物の山の中に強制的に投げ入れられた。排泄物を飲み込むことを拒否すると、口をトングでこじ開けられた。彼は3週間後に死亡した。 無所属の中国歴史家であり、中国共産党中央党校の元教官である余習広は、飢饉のために5500万人が死亡したと推定している。彼の結論は、20年間のアーカイブ研究に基づいている。 他方で、低めに見積もられた推定としてはインドのマルクス経済学者ウトサ・パトナイク(英語版)による1,100万人がある。彼女はエッセイの中で中国の「いなくなった数百万人」を、少子化により生まれなかった人としてではなく、飢饉による死亡と同一視していることを批判した。他には中国人数学者孫経先(中国語版)の250万人説がある 。
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死亡者数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:10 UTC 版)
「向精神薬#死亡者数」も参照 アメリカでは、医学審査官や検視官によって提出された詳細な死因ファイルに基づいた調査数が判明している。2010年には、アメリカで薬物の過剰摂取に起因する38,329人の死亡があった。22,134人(57.7%)が医薬品によるものである。その16,451(74.3%)が意図的でない死亡であり、自殺企図は3,780人(17.1%)に過ぎない。オピオイド系鎮痛薬によるものが16,651人と大半であるが、ベンゾジアゼピン系薬物6,497人、抗うつ薬3,889人、抗てんかん・抗パーキンソン病薬1,717人、抗精神病薬および神経弛緩薬1,351人と精神科の薬による死亡もまた合計するとオピオイドに匹敵する。 1999年から2010年の、アメリカの全50州の死亡証明書の分析により、州ごとの医療大麻の合法化に伴って、その州のオピオイド系鎮痛薬の過剰摂取による死亡者数は低下している。共に鎮痛作用は主な作用である。 イギリスでは、2010年の薬物に関連する死亡は、合計2597人であり、すべてのベンゾジアゼピン系薬物で307人、鎮痛薬のトラマドールが132人、合法ドラッグによるものが22人という報告がある。イギリス薬物政策委員会の報告では、乱用薬物による死亡は2010年はヘロイン/モルヒネ1,061人(共にオピオイド)、メサドン503人(オピオイド)、コカイン180人、アンフェタミン50人、エクスタシー9人、テマゼパム38人である。 日本では、2010年に東京都区部内で死亡した死因不明の異状死の14,396件のうち、司法解剖された2938名の調査がある。血液から複数の薬物が検出されたのは過半数の54%である。2010年の内訳では、医薬品など841人(28%)、エタノール(アルコール)654人(22%)、一酸化炭素61人、青酸37人、覚醒剤など31人である。医薬品の内訳は、睡眠薬306人、精神神経用薬302人、抗てんかん薬79人、解熱鎮痛消炎薬25人である。2006年から2010年の「5年間で」MDMA6件、モルヒネ1件(オピオイド)、コカイン1件の検出である。この分析は、検出された薬物の動向の分析により、不慮の中毒死、自殺、また乱用防止に寄与するという目的がある。 アメリカにおける薬物過剰摂取死亡(2014年)ヘロイン オピオイド 10,863 23.1%% コカイン 精神刺激薬 5,856 12.4% オキシコドン オピオイド 5,417 11.5% アルプラゾラム ベンゾジアゼピン 4,217 9.0% フェンタニル オピオイド 4,200 8.9% モルヒネ オピオイド 4,022 8.5% メタンフェタミン 精神刺激薬 3,728 7.9% メサドン オピオイド 3,495% 7.4 ヒドロコドン オピオイド 3,274 7.0% ジアゼパム ベンゾジアゼピン 1,729 3.7%
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死亡者数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 14:47 UTC 版)
大粛清の犠牲となった死者は800万~1000万人とも推定される。ペレストロイカ後の情報公開によれば、1930年代のスターリンによる大粛清では、250万人が逮捕され、そのうち68万余が処刑、16万余が獄死したことが確認できる。後述するNKVDの1953年統計報告によれば、1921年から1938年までの間に処刑されたのは74万5220人にのぼる。 ただし、ソ連時代の統計の開示や、第三者による検証を経ても、粛清された人物の合計数は今もなお公式に確定していない。
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死亡者数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 23:16 UTC 版)
「ベルゲン・ベルゼン強制収容所」の記事における「死亡者数」の解説
SSが解放直前に関係書類などを焼却処分したことから、ベルゲン=ベルゼンの正式な犠牲者数は現在でも不明である。エーベルハルト・コルベ (de) は解放直前の数カ月だけで5万人に達すると見積もっている。P.G.ファッシーナ (P.G.Fassina) は収容所開設から1944年12月31日までの間に12万469人が死亡、1945年分も含めると17万人以上が死亡したとしている。
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