ヒ71船団
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ヒ71船団(ヒ71せんだん)は、太平洋戦争後期の1944年8月-9月に日本からシンガポールへ航海した日本の護送船団である。高速タンカー中心の優秀輸送船20隻を空母を含む艦隊で護衛した、日本としては最大級の護送船団であったが、アメリカ海軍潜水艦の襲撃で大損害を出した。日本側の死者は乗船中の陸軍将兵ら約8000人に上った。
- ^ ヒ20船団など欠航となった便があるため、実際の運航順は通算71番目や往路36番目ではない。
- ^ 第二水雷戦隊・第32駆逐隊の藤波はタンカー旭東丸の護衛を兼ね、リンガ泊地進出を命じられていた[11]。
- ^ 大井篤は第39号駆潜艇も護衛に加わっていたとするが[12]、同艇は1944年2月16日にすでに戦没している[13]
- ^ 戦史叢書によれば、分離した輸送船は5隻で、代わりに別の1隻が加入した[9]。
- ^ 帝洋丸撃沈はラッシャーによるものになっているが(#Roscoep.547)、ラッシャーは当時魚雷を撃ちつくしており、また当該時刻に対敵行動をとっていない(#SS-269, USS RASHER_Part1p.298-299、#駒宮p.227-228)。帝洋丸の被雷時刻と、ブルーフィッシュが「2番目のタンカー」を攻撃していた時刻が近いことから、帝洋丸はブルーフィッシュの戦果と思われる(#SS-222, USS BLUEFISH, Part 2p.26-29)。
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室(1971)、378頁。
- ^ 戦史叢書81巻24頁「四 緊急戦備の実施」
- ^ a b 戦史叢書81巻159-163頁「捷号作戦準備進捗綜合状況」
- ^ 戦史叢書81巻29-30頁「第十四軍の強化」
- ^ a b 戦史叢書41巻131-132頁『第二十六師団船団』
- ^ a b c d e f g h 岩重(2011)、90-91頁。
- ^ 大井、海上護衛戦 2014, pp. 323–324.
- ^ a b c 日本海防艦戦史 1994, p. 72.
- ^ a b c 防衛庁防衛研修所戦史室(1971)、384-385頁。
- ^ a b c d 特攻船団戦記141頁
- ^ 戦史叢書37 1970, pp. 386a-387第三十二駆逐隊
- ^ a b 大井、海上護衛戦 2014, p. 319.
- ^ 駒宮(1987)、22頁。
- ^ 海軍護衛艦物語 2009, pp. 263–265「大鷹」被雷沈没
- ^ 駒宮(1987)、225頁。
- ^ a b 特攻船団戦記142頁
- ^ a b c d 海軍護衛艦物語 2009, p. 264.
- ^ 特攻船団戦記143頁
- ^ a b c d 戦史叢書48巻194-195頁『挿表第二十一 船舶損耗一覧表(昭和十九年八月一日~二十八日)』
- ^ a b c The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
- ^ a b 陸軍運輸部残務整理部 『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』 1946年、アジア歴史資料センター Ref.C08050112500 画像29-31枚目。
- ^ a b 駒宮(1987)、226-227頁。
- ^ 護衛空母入門 2005, pp. 247–249「大鷹」
- ^ a b 特攻船団戦記145-146頁
- ^ 特攻船団戦記147、150頁
- ^ a b c 駒宮(1987)、228頁。
- ^ a b 特攻船団戦記156-157頁
- ^ a b 日本海防艦戦史 1994, p. 73.
- ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 74–75.
- ^ 大井、海上護衛戦 2014, p. 322.
- ^ 戦史叢書37 1970, p. 387.
- ^ 海軍護衛艦物語 2009, p. 265.
- ^ 戦史叢書81巻192-193頁「船舶損耗と作戦準備への影響」
- ^ 護衛空母入門 2005, p. 249.
- ^ a b 大内(2004)、339頁。
- ^ 戦史叢書48巻193頁
- ^ 戦史叢書48巻167頁
- 1 ヒ71船団とは
- 2 ヒ71船団の概要
- 3 結果と影響
- 4 船団の編制
ヒ71船団
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詳細は「ヒ71船団」を参照 1944年(昭和19年)8月上旬、日本海軍は南方向け重要船団ヒ71船団(指揮官、第六護衛船団司令官梶岡定道少将)を編成する。空母大鷹(艦長杉野修一大佐)、駆逐艦2隻(夕雲型駆逐艦藤波、神風型駆逐艦夕凪)、海防艦複数隻を護衛に附け、第三掃蕩小隊(佐渡、松輪、日振、択捉)と駆逐艦朝風も台湾からヒ71船団に加わることになった。8月17日、松輪を含め護衛艦艇(佐渡、松輪、日振、択捉、朝風)は馬公市(台湾)でヒ71船団に合流する。だが同船団はアメリカ潜水艦複数隻に狙われていた。マニラに向け航行中の8月18日朝、米潜水艦レッドフィッシュの雷撃で永洋丸が被雷。駆逐艦夕凪護衛下で高雄に引き返した。同日夜、悪天候でヒ71船団の陣形が乱れる中、空母大鷹が米潜水艦ラッシャーに雷撃されて北緯18度12分 東経120度22分 / 北緯18.200度 東経120.367度 / 18.200; 120.367地点で沈没。混乱したヒ71船団を、米潜水艦は次々に襲撃。速吸沈没(潜水艦ブルーフィッシュによる)、帝亜丸沈没(潜水艦ラッシャーによる)、帝洋丸沈没(潜水艦ブルーフィッシュによる)、玉津丸沈没(潜水艦スペードフィッシュによる)、能代丸損傷(ラッシャーによる)と阿波丸損傷(ブルーフィッシュによる)という大被害を出した。択捉は損傷した「能代丸」の護衛をおこなった(19日に合流)。 第三掃蕩小隊(佐渡、松輪、日振)は遭難現場に留まり、潜水艦の掃討にあたったが成果は無く、21日には現場を引き払いマニラへ向かう。8月22日0400ごろ、小隊の各艦は北緯14度25分 東経120度00分 / 北緯14.417度 東経120.000度 / 14.417; 120.000のバターン半島マリベレス(英語版)の西方50キロ地点でアメリカ潜水艦「ハーダー」と「ハッド」に発見された。海防艦はルソン島寄りから松輪、日振が平行し、佐渡はその後ろを航行し、三角形の陣形を成していた。攻撃は、0500時-0830時までの間に行われた。まず、ハーダーが日振と松輪を目標に、ハッドが佐渡を目標に攻撃し、3隻は損害を受ける。松輪はハーダーからの魚雷1本が命中して艦体を両断され、艦橋より前方を喪失して航行不能となった。その後、ハーダーの二度目の攻撃でさらに被雷し、沈没した。松輪と同航していた佐渡 および日振 も、ハーダーとハッドにより撃沈された。松輪では、海防艦長の土取英少佐以下乗員134名が戦死、12名が負傷した。残存艦が擇捉のみとなった第三掃蕩小隊は、24日に編成を解かれた。同日、ハーダーもマニラ湾において、第二十二号海防艦と第102号哨戒艇により撃沈された。マニラ到着以後のヒ71船団は、加入船舶12隻を護衛艦艇6隻(平戸、倉橋、二号海防艦、御蔵、藤波、28号駆潜艇)で護衛し8月26日同地出発、9月1日シンガポールに入港した。 10月10日、海防艦2隻(松輪、佐渡)は占守型海防艦、帝国海防艦籍 のそれぞれから除籍された。
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