ヒ72船団とは? わかりやすく解説

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ヒ72船団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/27 05:22 UTC 版)

ヒ72船団(ヒ72せんだん)は、大東亜戦争後期の1944年9月にシンガポールから門司へ航海した日本の護送船団である。アメリカ軍潜水艦と陸上航空機による攻撃を繰り返し受けたため、輸送船のほとんどが脱落し、護衛艦にも大きな損害が出た。撃沈された輸送船には捕虜移送中の船が2隻含まれ、捕虜多数が遭難した。


注釈

  1. ^ ヒ20船団など欠航となった便があるため、実際の運航順は通算72番目や復路36番目ではない。
  2. ^ マモ03船団の輸送船3隻は往路はヒ73船団の一部として門司からマニラに到着したもので、うち吉備津丸はヒ71船団から故障脱落してヒ73船団に組み込まれたという経緯だった[3]
  3. ^ 一部の日本以外の文献では楽洋丸だけで2000人以上と主張している[5]
  4. ^ 南海丸では乗員138人と便乗中の輸送人員525人が乗っていたうち、乗員13人と便乗者183人が戦死した[12]。ボーキサイト6500トン・航空用ガソリン4000缶・ひまし油170トンなど搭載物資7406トンは全損[13]
  5. ^ その後、山形県酒田市の捕虜収容所で終戦を迎え、帰国後は産業医、スポーツ医として活躍したリチャード軍医は、米潜水艦が我が物顔に猛威を振るっていた危険な海域で、身の危険をも顧みず、艦を停止して救助してくれた日本の海防艦の艦長や家族にお礼を言いたいので、是非捜して欲しいとPOW研究会に依頼し、同研究会は読売新聞社に依頼して一ノ瀬志朗艦長の消息を探したが、見つかることはなかった。
  6. ^ 『南海丸戦闘詳報』では第19号駆潜特務艇となっている[9]
  7. ^ 駒宮(1987年)では海防艦択捉第26号海防艦の名も挙がり、代わりに第20号海防艦がいない[10]

出典

  1. ^ a b c d 岩重(2011年)、91頁。
  2. ^ 『南海丸戦闘詳報』、画像42枚目。
  3. ^ 駒宮(1987年)、225・238-239頁。
  4. ^ a b c 陸軍運輸部残務整理部 『船舶輸送間における遭難部隊資料(陸軍)』 JACAR Ref.C08050112500、画像62枚目。
  5. ^ a b c d 岩重(2011年)、62頁。
  6. ^ a b c d e f g h The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  7. ^ 大井(2001年)、428-429頁。
  8. ^ 大井(2001年)、324頁。
  9. ^ a b 『南海丸戦闘詳報』、画像44-46枚目。
  10. ^ a b c d e 駒宮(1987年)、247-248頁。
  11. ^ 『南海丸戦闘詳報』、画像48枚目。
  12. ^ 『南海丸戦闘詳報』、画像51枚目。
  13. ^ 『南海丸戦闘詳報』、画像43枚目。
  14. ^ a b 『第一海上護衛隊戦時日誌』、画像12-13枚目。
  15. ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、画像24・28枚目。
  16. ^ a b 『第一海上護衛隊戦時日誌』、画像7枚目。
  17. ^ 吉川利治『泰緬鉄道』 同文館出版 1994年 p104
  18. ^ 『第一海上護衛隊戦時日誌』、画像23・27枚目。
  19. ^ a b 『第一海上護衛隊戦時日誌』、画像45枚目。


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