海上護衛総司令部
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海上護衛総司令部(かいじょうごえいそうしれいぶ、旧字体: 海󠄀上護衞總司令部)とは大日本帝国海軍において太平洋戦争後期に通商護衛を司った部署である。設置は1943年11月15日、廃止は1945年8月25日。正式な呼称は「海上護衛総司令部」であったが、しばしば海上護衛総隊(かいじょうごえいそうたい、旧字体: 海󠄀上護衞總隊󠄁)とも呼ばれ、また海護総隊(かいごそうたい、旧字体: 海󠄀護總隊󠄁)とも略称された。
- ^ 戦史叢書46海上護衛戦p112-114
- ^ 戦史叢書46海上護衛戦p202
- ^ 戦史叢書46海上護衛戦p308-309
- ^ 戦史叢書46海上護衛戦p342
- ^ 戦史叢書46海上護衛戦p343、385
- ^ a b ジョン・ウィンストン『米国諜報文書ウルトラin the パシフィック』光人社p266-267
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- ^ ジョン・ウィンストン『米国諜報文書ウルトラin the パシフィック』光人社p274
- ^ 『日本海軍潜水艦物語』(鳥巣建之助著、光人社NF文庫)97-98頁
- ^ C08030583700 『昭和19年4月1日~昭和19年9月17日 軍艦雲鷹戦時日誌(3)』。pp.49-51『七.(一)戦訓』、アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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- ^ a b 「昭和19年8月9日付 海軍辞令公報 甲第1558号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100500
- ^ a b 「昭和19年9月19日付 海軍辞令公報 甲 第1597号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100900
- ^ a b 「昭和20年5月14日付 海軍辞令公報 甲第1799号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104800
- ^ a b 「昭和20年6月12日付 海軍辞令公報 甲第1825号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072105200
- ^ a b 「昭和20年9月13日付 海軍辞令公報 甲第1911号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107400
- ^ 「昭和18年11月17日付 海軍辞令公報(部内限)第1263号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094400
- ^ a b 「昭和19年2月23日付 海軍辞令公報(部内限)第1337号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095900
- ^ 「昭和19年11月8日付 海軍辞令公報 甲第1638号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101800
- ^ 「昭和19年12月14日付 海軍辞令公報 甲第1668号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102300
- ^ 『日本海軍編制事典』、p. 385。
- ^ 海上護衛総司令部戦時日誌(昭和18年11月15日-30日)。
- 1 海上護衛総司令部とは
- 2 海上護衛総司令部の概要
- 3 歴史
- 4 海上護衛司令長官・参謀長
- 5 参考文献
海上護衛総司令部
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1943年11月1日、海上護衛総司令部設立に伴い、作戦参謀に着任。1944年(昭和19年)5月1日、海軍大佐昇進。1944年10月25日、兼連合艦隊参謀。海上護衛で一定の海域を輸送船に移動させる航路帯戦法が採用されたが、大井はこれに対し、航路帯を沿って終始哨戒してくれる兵力がないと効果がないことから賛同しなかったという。 1945年4月、戦艦大和の沖縄特攻作戦で栄光ある水上部隊の最後を飾るために護衛艦隊の重油をカットするという報告を受け、大井は「国を挙げての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」と嘆いたと話している。戦後の著書や大和の元乗員が集まる大和会でも「日本が太平洋戦争に突入し、滅んだのは大和・武蔵のせいだ」「貧乏人(日本)の娘(海軍)がとんでもなく高い晴れ着(大和・武蔵)を持っているようなものだ。それがあるばかりに、テスト前日というのに着飾って帝劇に行きたくなってくる。試験に落ちるのは当たり前だ。こんな馬鹿なことはない」と公言して大和には批判的であった。 戦後、海上護衛戦の失敗(被害を減らそうとした海上護衛総司令部の設立も効果がなく、1944年10月をピークにその後は輸送する船が無くなった)に関して、大井はシーレーン確保や通商破壊対策について当時の帝国海軍が軽視したことによる戦力不足にあったとまとめている。しかし、当時のアメリカ太平洋艦隊潜水艦部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将は、日本の輸送船団による定期的な暗号通信を傍受することで潜水艦作戦の成功に大きな役割を果たしたと話している。また、海上護衛を指導した日本の幕僚が広大な太平洋で幸運や好判断だけで撃沈されていると考え、通信情報なしにそのような撃沈結果を出すにはアメリカの資源でもまかなえないほどの潜水艦が必要であるという計算をしなかったことに対して批判もある。 1945年8月15日、終戦。大井によれば、8月17日に軍令部で柴勝男大佐から「大井君、まだ日本は負けとらん」と言われ「天皇陛下は詔勅を出されたではないか」と言い返すと、柴が「あいつは臆病だったが我々の上には大元帥陛下がいるんだ」と言ったため、大井は「違う。大元帥陛下は天皇陛下の下だ」と言い返したという。 GHQ歴史課嘱託として連合国側から戦犯容疑者の尋問を行う。公職追放を経て、高松宮宣仁親王日記の編纂委員を務めた。のち、NHKスペシャル『ドキュメント太平洋戦争』に協力している。1994年(平成6年)12月27日、92歳で没した。
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海上護衛総司令部
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1943年(昭和18年)11月15日、日本海軍は海上交通保護および対潜掃蕩を主任務とする海上護衛総司令部を設置した。主要職員は、司令長官及川古志郎海軍大将、参謀長島本久五郎少将、首席参謀後藤光太郎大佐、作戦参謀大井篤中佐等。12月15日、海上護衛総司令部麾下に第九〇一海軍航空隊が編制される。同日附で空母3隻(雲鷹、海鷹、大鷹)は海上護衛総司令部部隊に編入、12月20日には空母神鷹(ドイツ客船シャルンホルスト改造空母)も編入された。だが大鷹は入渠修理中で、また対潜哨戒機の能力も不足かつ練度不充分であり直ちに海上護衛任務に就くことは出来なかった。大井篤(作戦参謀)は、「(本型空母の使用方法について)楽しそうに研究していた護衛総司令部の参謀たちは、これには、スッカリ幻滅の悲哀を感じざるを得なかった」と回想している。また、大井は大鷹型を「不渡り手形」「栄養不良児」と表現している。 1944年(昭和19年)2月1日、日本海軍は護衛空母の飛行機隊の訓練・整備を担当する部隊として、第九三一海軍航空隊(司令大塚秀治中佐)を編成する。2月15日、大鷹艦長は松野大佐から、別府明朋大佐(当時、空母千代田艦長)に交代。3月20日、日本海軍は駆逐艦時雨初代艦長・第11駆逐隊司令・軽巡球磨の艦長(沈没時)等を歴任した杉野修一大佐を大鷹艦長に任命する。4月2日、修理完了。大鷹は海上護衛総隊として本格的に行動することになった。門司とシンガポールを結ぶヒ船団の護衛に使用されることとなり、4月19日に対潜哨戒用として第931航空隊所属の九七式艦上攻撃機12機を搭載した。 5月3日、本艦最初の護衛航海としてヒ61船団(指揮官佐藤勉第八護衛船団司令官、輸送船11隻・護衛艦9隻〈空母〔大鷹〕、海防艦〔佐渡、倉橋、海防艦五号、七号、十七号〕、駆逐艦3隻〔電、響、朝顔〕〉)を編成し、門司を出港。5月6日、仁栄丸が機関故障を起こし海防艦2隻に護衛されて高雄市(台湾)に引き返した。5月7日朝、油槽船1隻(あかね丸)が米潜水艦に雷撃されて小破する。米潜水艦ホー(USS Hoe, SS-258)の攻撃による戦果だった。5月9日、ヒ61船団は速力11ノットに落とし、マニラに寄港した。同地で5隻(電、響、建川丸、日栄丸、あずさ丸)を分離、大鷹は残る船団を護衛して5月18日にシンガポールに送り届けた(5月14日、電は米潜水艦ボーンフィッシュの雷撃で沈没した。)。 折り返し、ヒ62船団(輸送船8隻・護衛艦6隻〈大鷹、佐渡、倉橋、五号、七号、十三号〉)として、シンガポールを5月23日に出航した。マニラに立ち寄り、6月7日六連着、8日に無傷で門司へ到着した。大鷹の初めての船団護衛は、概ね成功に終わった。ヒ61-62船団運航指揮官の細谷大佐は、大鷹の護衛について「大鷹ガ護衛ニツキ昼間ハ少クトモ楽ナリ、大鷹ノ活動ハ献身的ナリ」と高く評価した。 その後、呉海軍工廠に回航され修理に従事した。 詳細は「ヒ68船団」を参照 7月9日、修理完了。空母3隻(大鷹、海鷹、神鷹)は航空機輸送任務にともないヒ69船団(旗艦香椎)に加入され、7月13日に出航しマニラへ第一航空艦隊再建用の機材(合計124機)を輸送する。7月20日、ヒ69船団はマニラ到着。荷揚げ後、大鷹はシンガポール発のヒ68船団に合流、内地に帰投することになった。7月23日、ヒ68船団はマニラを出発、7月30日、六連着。だがヒ68船団は米軍潜水艦複数隻(アングラー、フラッシャー、クレヴァル)の襲撃により、沈没3隻(大鳥山丸、安芸丸、東山丸)、聖川丸損傷という被害を出した。8月2日、海上護衛司令長官及川古志郎大将は軍令部総長へ転任、後任は野村直邦海軍大将となる(海上護衛司令長官と横須賀鎮守府司令長官の兼務)。 詳細は「ヒ71船団」を参照 8月8日、大鷹は門司および六連を出撃、駆逐艦3隻(藤波、夕凪、〈馬公で途中合流の朝風〉)と海防艦複数隻(平戸、倉橋、御蔵、昭南、第十一号海防艦、〈馬公で途中合流の佐渡、松輪、日振、択捉〉)とともに、タンカー4隻(速吸、帝洋丸、永洋丸、あづさ丸)、陸軍特殊船、貨物船多数、給糧艦伊良湖などからなる重要船団ヒ71船団(指揮官:第六護衛船団司令官梶岡定道少将)を護衛していた。ヒ71船団の重要目的の一つは、ルソン島配備予定の第26師団の海上輸送であった。陸軍将兵の合計は約37,600名に達した。しかし、船団は当初より米潜水艦3隻(レッドフィッシュ、ピクーダ、スペードフィッシュ)の追跡を受けていた。8月18日朝、永洋丸が被雷し、駆逐艦夕凪に護衛されて高雄市に引き返した。ヒ71船団は南下を続けるが、フィリピン西岸に到達する頃には悪天候に悩まされる。 同日午後10時28分(戦闘詳報記録10時25分)、大鷹はルソン島東方にてアメリカのガトー級潜水艦のラッシャー(USS Rasher, SS-269)の雷撃に遭った。レーダーで船団を捕捉していたラッシャーは、相手が空母とは気付かぬまま浮上状態で艦尾発射管より魚雷2本を発射。魚雷1本が大鷹の右舷後部に命中し、艦底部ガソリンタンクの爆発により300mもの火柱があがった。続いて火災が大鷹の弾薬庫を誘爆させ、やがて左舷側のタンクも爆発し(大鷹艦長の報告によれば午後10時40分に左舷重油庫に魚雷1本命中)、搭載していた九七艦攻12機ごと沈没した。沈没地点記録北緯18度12分 東経120度22分 / 北緯18.200度 東経120.367度 / 18.200; 120.367。 ヒ71船団の輸送船能登丸の二等運転士として船橋にいた宇野公一によれば、大鷹は輸送船団の中央後方にいて、速力12ノット程度で航行していたという。大鷹の大爆発と沈没はヒ71船団を動転させた。ヒ71船団は統制のとれないまま思い思いの方向に四散し、大損害を受けた。大鷹を含め艦船多数(大鷹、帝亜丸、速吸、帝洋丸、東亜丸、玉津丸)が沈没し、損傷艦も続出した。大井篤海上護衛総隊参謀は「たった一夜でまことに惨愴たる被害であった」と回想している。 8月30日、杉野修一大佐は大鷹艦長の任を解かれた。10月10日、大鷹は軍艦籍、大鷹型航空母艦のそれぞれから除籍された。 現在、大鷹の慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。
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