海上護衛総司令部とは? わかりやすく解説

海上護衛総司令部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/11 00:01 UTC 版)

海上護衛総司令部(かいじょうごえいそうしれいぶ、旧字体: 海󠄀上護衞總司令部)とは大日本帝国海軍において太平洋戦争後期に通商護衛を司った部署である。設置は1943年11月15日、廃止は1945年8月25日。正式な呼称は「海上護衛総司令部」であったが、しばしば海上護衛総隊(かいじょうごえいそうたい、旧字体: 海󠄀上護衞總隊󠄁)とも呼ばれ、また海護総隊(かいごそうたい、旧字体: 海󠄀護總隊󠄁)とも略称された。


  1. ^ 戦史叢書46海上護衛戦p112-114
  2. ^ 戦史叢書46海上護衛戦p202
  3. ^ 戦史叢書46海上護衛戦p308-309
  4. ^ 戦史叢書46海上護衛戦p342
  5. ^ 戦史叢書46海上護衛戦p343、385
  6. ^ a b ジョン・ウィンストン『米国諜報文書ウルトラin the パシフィック』光人社p266-267
  7. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期p583-584
  8. ^ ジョン・ウィンストン『米国諜報文書ウルトラin the パシフィック』光人社p274
  9. ^ 『日本海軍潜水艦物語』(鳥巣建之助著、光人社NF文庫)97-98頁
  10. ^ C08030583700 『昭和19年4月1日~昭和19年9月17日 軍艦雲鷹戦時日誌(3)』。 pp.49-51『七.(一)戦訓』、アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
  11. ^ 「第二次世界大戦影の主役」 (“Engineers of Victory”) Paul Kennedy p. 85
  12. ^ 「太平洋暗号戦史」J・W・ホルムズ、ダイヤモンド社、1980年、237頁
  13. ^ 「太平洋戦争 暗号作戦―アメリカ太平洋艦隊情報参謀の証言〈下〉」エドウィン・レイトン、1985年、TBSブリタニカ、315-316頁。
  14. ^ a b 昭和19年8月9日付 海軍辞令公報 甲第1558号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100500 
  15. ^ a b 昭和19年9月19日付 海軍辞令公報 甲 第1597号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100900 
  16. ^ a b 昭和20年5月14日付 海軍辞令公報 甲第1799号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104800 
  17. ^ a b 昭和20年6月12日付 海軍辞令公報 甲第1825号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072105200 
  18. ^ a b 昭和20年9月13日付 海軍辞令公報 甲第1911号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107400 
  19. ^ 昭和18年11月17日付 海軍辞令公報(部内限)第1263号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094400 
  20. ^ a b 昭和19年2月23日付 海軍辞令公報(部内限)第1337号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095900 
  21. ^ 昭和19年11月8日付 海軍辞令公報 甲第1638号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101800 
  22. ^ 昭和19年12月14日付 海軍辞令公報 甲第1668号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102300 
  23. ^ 『日本海軍編制事典』、p. 385。
  24. ^ 海上護衛総司令部戦時日誌(昭和18年11月15日-30日)。


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海上護衛総司令部

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大井篤」の記事における「海上護衛総司令部」の解説

1943年11月1日、海上護衛総司令部設立に伴い作戦参謀着任1944年昭和19年5月1日海軍大佐昇進1944年10月25日、兼連合艦隊参謀海上護衛一定の海域輸送船移動させる航路戦法採用されたが、大井はこれに対し航路帯を沿って終始哨戒してくれる兵力がないと効果がないことから賛同しなかったという。 1945年4月戦艦大和沖縄特攻作戦栄光ある水上部隊最後を飾るために護衛艦隊重油カットするという報告を受け、大井は「国を挙げて戦争に、水上部隊伝統何だ水上部隊栄光何だ馬鹿野郎」と嘆いた話している。戦後著書大和の元乗員が集まる大和会でも「日本太平洋戦争突入し滅んだのは大和・武蔵のせいだ」「貧乏人日本)の娘(海軍)がとんでもなく高い晴れ着大和・武蔵)を持っているようなものだ。それがあるばかりにテスト前日というのに着飾って帝劇行きたくなってくる。試験落ちるのは当たり前だ。こんな馬鹿なことはない」と公言して大和には批判的であった戦後海上護衛戦の失敗被害減らそうとした海上護衛総司令部の設立効果がなく、1944年10月ピークその後輸送する船が無くなったに関して大井シーレーン確保通商破壊対策について当時帝国海軍軽視したことによる戦力不足にあったまとめている。しかし、当時アメリカ太平洋艦隊潜水艦部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将は、日本輸送船団による定期的な暗号通信傍受することで潜水艦作戦成功大きな役割果たした話している。また、海上護衛指導した日本幕僚広大な太平洋で幸運や好判断だけで撃沈されていると考え通信情報なしにそのような撃沈結果を出すにはアメリカ資源でもまかなえないほどの潜水艦が必要であるという計算をしなかったことに対して批判もある。 1945年8月15日終戦大井によれば8月17日軍令部柴勝男大佐から「大井君、まだ日本負けとらん」と言われ天皇陛下詔勅出されではないかと言い返すと、が「あいつは臆病だったが我々の上には大元帥陛下がいるんだ」と言ったため、大井は「違う。大元帥陛下天皇陛下の下だ」と言い返したという。 GHQ歴史嘱託として連合国側から戦犯容疑者尋問を行う。公職追放経て高松宮宣仁親王日記編纂委員務めた。のち、NHKスペシャルドキュメント太平洋戦争』に協力している。1994年平成6年12月27日92歳で没した

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海上護衛総司令部

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大鷹 (空母)」の記事における「海上護衛総司令部」の解説

1943年昭和18年11月15日日本海軍海上交通保護および対潜掃蕩主任務とする海上護衛総司令部を設置した。主要職員は、司令長官及川古志郎海軍大将参謀長島本久五郎少将首席参謀後藤光太郎大佐作戦参謀大井篤中佐等。12月15日、海上護衛総司令部麾下第九〇一海軍航空隊編制される同日附で空母3隻(雲鷹海鷹大鷹)は海上護衛総司令部部隊編入12月20日には空母神鷹ドイツ客船シャルンホルスト改造空母)も編入された。だが大鷹入渠修理中で、また対潜哨戒機能力も不足かつ練度不充分であり直ち海上護衛任務に就くことは出来なかった。大井篤作戦参謀)は、「(本型空母使用方法について)楽しそう研究していた護衛総司令部参謀たちは、これには、スッカリ幻滅の悲哀感じざるを得なかった」と回想している。また、大井大鷹型を「不渡り手形」「栄養不良児」と表現している。 1944年昭和19年2月1日日本海軍護衛空母飛行機隊の訓練整備担当する部隊として、第九三一海軍航空隊司令大塚秀治中佐)を編成する2月15日大鷹艦長松野大佐から、別府明朋大佐当時空母千代田艦長)に交代3月20日日本海軍駆逐艦時雨初代艦長・第11駆逐隊司令軽巡球磨艦長沈没時)等を歴任した杉野修一大佐大鷹艦長任命する4月2日修理完了大鷹海上護衛総隊として本格的に行動することになった門司シンガポールを結ぶヒ船団護衛使用されることとなり、4月19日対潜哨戒用として第931航空隊所属九七式艦上攻撃機12機を搭載した5月3日本艦最初護衛航海としてヒ61船団指揮官佐藤勉第八護衛船団司令官輸送船11隻・護衛艦9隻〈空母大鷹〕、海防艦佐渡倉橋海防艦五号七号十七号〕、駆逐艦3隻〔電、響、朝顔〕〉)を編成し門司出港5月6日、仁栄丸が機関故障起こし海防艦2隻に護衛され高雄市台湾)に引き返した5月7日朝、油槽船1隻(あかね丸)が米潜水艦雷撃され小破する。米潜水艦ホー(USS Hoe, SS-258)の攻撃による戦果だった。5月9日、ヒ61船団速力11ノット落としマニラ寄港した同地で5隻(電、響、建川丸日栄丸、あずさ丸)を分離大鷹は残る船団護衛して5月18日シンガポール送り届けた5月14日、電は米潜水艦ボーンフィッシュの雷撃沈没した。)。 折り返し、ヒ62船団輸送船8隻・護衛艦6隻〈大鷹佐渡倉橋五号七号十三号〉)として、シンガポール5月23日出航したマニラ立ち寄り6月7日六連着、8日無傷門司到着した大鷹初めての船団護衛は、概ね成功終わった。ヒ61-62船団運航指揮官細谷大佐は、大鷹護衛について「大鷹護衛ニツキ昼間ハ少クトモ楽ナリ大鷹活動献身的ナリ」と高く評価したその後呉海軍工廠回航され修理従事した詳細は「ヒ68船団」を参照 7月9日修理完了空母3隻(大鷹海鷹神鷹)は航空機輸送任務にともない69船団旗艦香椎)に加入され、7月13日出航しマニラ第一航空艦隊再建用の機材合計124機)を輸送する7月20日、ヒ69船団マニラ到着荷揚げ後、大鷹シンガポール発のヒ68船団合流内地帰投することになった7月23日ヒ68船団マニラ出発7月30日六連着。だがヒ68船団米軍潜水艦複数隻(アングラーフラッシャー、クレヴァル)の襲撃により、沈没3隻(大鳥山丸、安芸丸東山丸)、聖川丸損傷という被害出した8月2日海上護衛司令長官及川古志郎大将軍令部総長転任後任野村直邦海軍大将となる(海上護衛司令長官横須賀鎮守府司令長官兼務)。 詳細は「ヒ71船団」を参照 8月8日大鷹門司および六連出撃駆逐艦3隻(藤波夕凪、〈馬公途中合流朝風〉)と海防艦複数隻(平戸倉橋御蔵昭南第十一号海防艦、〈馬公途中合流佐渡松輪、日振、択捉〉)とともにタンカー4隻(速吸、帝洋丸、永洋丸、あづさ丸)、陸軍特殊船貨物船多数給糧艦伊良湖などからなる重要船団ヒ71船団指揮官第六護衛船団司令官梶岡定道少将)を護衛していた。ヒ71船団の重要目的の一つは、ルソン島配備予定第26師団海上輸送であった陸軍将兵合計は約37,600名に達した。しかし、船団当初より米潜水艦3隻(レッドフィッシュ、ピクーダ、スペードフィッシュ)の追跡受けていた。8月18日朝、永洋丸が被雷し、駆逐艦夕凪護衛され高雄市引き返したヒ71船団南下続けるが、フィリピン西岸到達する頃には悪天候悩まされる同日午後10時28分(戦闘詳報記録10時25分)、大鷹ルソン島東方にてアメリカガトー級潜水艦ラッシャーUSS Rasher, SS-269)の雷撃遭ったレーダー船団捕捉していたラッシャーは、相手空母とは気付かぬまま浮上状態で艦尾発射管より魚雷2本を発射魚雷1本が大鷹右舷後部命中し艦底ガソリンタンク爆発により300mもの火柱あがった続いて火災大鷹弾薬庫誘爆させ、やがて左舷側のタンク爆発し大鷹艦長報告によれば午後10時40分に左舷重油庫に魚雷1本命中)、搭載していた九七艦攻12機ごと沈没した沈没地点記録北緯1812東経12022分 / 北緯18.200度 東経120.367度 / 18.200; 120.367。 ヒ71船団輸送船能登丸の二等運転士として船橋にいた宇野公一によれば大鷹輸送船団中央後方にいて、速力12ノット程度航行していたという。大鷹大爆発沈没ヒ71船団動転させた。ヒ71船団統制とれないまま思い思い方向四散し大損害を受けた大鷹含め艦船多数大鷹帝亜丸速吸、帝洋丸、東亜丸玉津丸)が沈没し損傷艦続出した大井篤海上護衛総隊参謀は「たった一夜まことに惨愴たる被害であった」と回想している。 8月30日杉野修一大佐大鷹艦長の任を解かれた。10月10日大鷹軍艦籍、大鷹型航空母艦それぞれから除籍された。 現在、大鷹慰霊碑長崎県佐世保市旧海軍墓地東公園にある。

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