レイテおき‐かいせん【レイテ沖海戦】
【レイテ沖海戦】(れいておきかいせん)
1944年10月23日から25日にかけて、フィリピン及び同周辺海域で行われた一連の戦闘の総称で、シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦の4つの海戦を総称して「レイテ沖海戦」という。
これは日本とアメリカの主攻目標がレイテ島またはレイテ湾であったため、この名がついた。
連合軍の作戦名はキングⅡ作戦でレイテ島の奪還を目的とし、日本軍の作戦名は捷一号作戦で、アメリカ軍の進攻阻止を目的とした。
日本海軍の艦隊戦力はこの海戦での敗北を最後に事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動は不可能となった。
特筆すべき出来事
- 最後の艦隊決戦
この戦いにおいて、日本軍は「戦力が衰えた空母と基地航空隊を囮にして敵機動部隊の戦力をひきつけ、その間隙に戦艦を筆頭とする水上砲戦部隊を突入させる」という作戦を採っていた。
しかし、実際には各個の連携が取れておらず、各部隊がバラバラに行動していたため、優勢な連合国艦隊に捕まって各個撃破される羽目に陥った。
また、作戦目的も徹底されていたとはいえず、特にレイテ湾へ突入する任務を与えられていた主力艦隊(栗田艦隊)の上層部は作戦前「万一敵艦隊を発見したときは優先的にこれを攻撃する」という条件をだしたところ、連合艦隊参謀神重徳は、それを了承している。
実際には突入前「ヤキ1カに敵影あり」という電文を受け、反転しており、後年、このことは「栗田艦隊謎の反転」と呼ばれ多くの著書でその判断の是非を問われている。
近年までは「命令違反」「敵前逃亡」などと言われていたが、近年では米側の資料調査や客観的な判断により、栗田の判断は妥当であるという意見も多くなってきている。
これ以後、世界の戦史において戦艦・巡洋艦といった大型水上艦艇同士が艦隊を組んで砲火を交えるような戦闘は起きておらず、事実上「世界最後の艦隊決戦」ともなった。
またこの戦いは、日本の誇る超々ド級戦艦「大和」、及びビッグセブンの一艦であった「長門」にとって、生涯最初で最後の水上砲戦でもあった。
- ヤキ1カ電
レイテ沖海戦において触れない訳にはいかない話としてヤキ1カ電の存在である。
南西方面艦隊から出たとされるこの情報を元に栗田艦隊は反転した訳だが、栗田艦隊側の戦闘詳報以外にこの電報について記述がなく捏造ではないかとの説が出回っていた。
だが、ヤキ1カ電の受電記録が艦隊側しかないのはそうでも、この電報の目撃情報は複数の場所で目撃されている。
重巡「摩耶」主計長永末瑛一は救助された駆逐艦「島風」艦橋でこの電文を目撃している。
内地でも軍令部の作戦室の海図に、この頃ヤキ1カ地点の海域に敵艦隊ありの書き込みがあったことを記録員の野村実や部長の中沢祐が目撃し、中沢は手帳にその事を記載している。
また、基地航空隊である第一航空艦隊は、栗田艦隊からヤキ1カ地点の敵を攻撃して欲しいとの電報を受けると不審に思わずに直ぐ様全機出撃させているし、潜水艦部隊である第六艦隊はこの海域に貴下の潜水艦部隊を迎撃に向かわせている。
これらの行動はヤキ1カ電か、それに類する情報を得ていないと起こし得ない行動であり、もしヤキ1カ電が捏造や虚構であるというなら、これらのことへの説明がつかない。
また、知られてはいないが、「南西方面艦隊はヤキ1カ電を打っていない」という話の出所自体が不明であり、資料もない話である。
当事者達もこの電報の件を軍令部も連合艦隊司令部も、この時点では誰も問題視していない。
南西方面艦隊は、この海戦後に司令長官を含めて要員の多くが戦闘たけなわのなか人事異動している。このため詳細な記録を残す時間もなく、その後のマニラ市街戦などで失われたものもある。
当事者も戦死したり、戦後まもなく病死したりしていて詳細は不明な点が多い。
そんな中で「ヤキ1カ電は打っていない」という話が考証されぬまま勝手に一人歩きし、事実して世間に認知されてしまっている。
- 特攻がはじめて行われた。
この戦いの前、フィリピン周辺に展開していた日本軍の基地航空隊は壊滅状態にあった。
その原因は、先の「台湾沖航空戦」にて、搭乗員の錬度の低さや指揮系統の混乱などによる不確実な戦果報告が積み重なり、それを盲信した指揮官が再度の攻撃を決断したため、ほぼ無傷だった敵機動部隊の反撃で壊滅させられたためでもあった。
そのような状況の下で敵を迎え撃つ羽目になった第一航空艦隊(基地航空隊)は、通常の攻撃では戦果を挙げることが難しくなった、として、爆弾を搭載した攻撃機が機体もろとも敵に体当たりし、打撃を与える戦法を考案。
部隊は「敷島隊」以下4つの部隊に分かれ、体当たり攻撃を実施した。
当初、この戦法はこの一回限りで終わる予定であったが、「己の身を犠牲にして敵を屠る」という(英雄的に見える)行動が他の部隊にも波及し、最終的には陸海軍のほとんどの戦闘部隊が「特攻」を前提とした方針に転換することになった。
参加兵力(日本軍)
第二艦隊(旗艦:重巡「愛宕」→戦艦「大和」)
第三艦隊(空母艦載機116機、旗艦:空母「瑞鶴」→軽巡「大淀」)
第六艦隊
第五基地航空部隊
第六基地航空隊
南西方面艦隊
参加兵力(連合軍)
第3艦隊(旗艦:戦艦「ニュージャージー」)
- 第38任務部隊(旗艦:空母「レキシントン」)
- 第1群(旗艦:空母「ホーネット(CV-12)」)
- 第5巡洋艦戦隊
- 第10巡洋艦戦隊
- 第46駆逐隊:駆逐艦 12隻
- 第12駆逐隊:駆逐艦 3隻
- 第4駆逐隊(第30任務部隊2群):駆逐艦 6隻
- 第2群(旗艦:空母「イントレピッド」)
- 第7戦艦戦隊
- 第14巡洋艦戦隊
- 第52駆逐隊:駆逐艦 5隻
- 第104駆逐隊:駆逐艦 4隻
- 第50駆逐隊:駆逐艦 5隻
- 第106駆逐隊:駆逐艦 4隻
- 第3群(旗艦:空母「エセックス」)
- 第8戦艦戦隊:
- 第9戦艦戦隊:
- 第13巡洋艦戦隊:軽巡「サンタフェ」「モービル」「リノ」「バーミングハム」
- 第50駆逐隊:駆逐艦 5隻
- 第55駆逐隊:駆逐艦 5隻
- 第110駆逐隊:駆逐艦 4隻
- 第4群(旗艦:空母「フランクリン」)
- 第6巡洋艦戦隊
- 第6駆逐隊:駆逐艦 4隻
- 第12駆逐隊:駆逐艦 4隻
- 第24駆逐隊:駆逐艦 3隻
第34任務部隊
潜水艦部隊
第7艦隊
南西太平洋方面最高司令官指揮下(最高司令官:ダグラス・マッカーサー陸軍大将、旗艦:軽巡「ナッシュビル」)
第70任務部隊
第77任務部隊
- 第2群
- 支援射撃部隊(旗艦:重巡「ルイビル」、下記中央隊他はスリガオ海峡海戦時のもの)
- 中央隊(旗艦:戦艦「ミシシッピ」)
- 第2戦艦戦隊
- エクスレイ(Xray)駆逐隊:駆逐艦 6隻
- 左翼隊(オルデンドルフ少将直率)
- 第12巡洋艦戦隊
- 第56駆逐隊:駆逐艦 3隻
- 第112駆逐隊:駆逐艦 3隻
- 他(第3グループ):駆逐艦 3隻
- 右翼隊(旗艦:軽巡「フェニックス」)
- 第24駆逐隊:駆逐艦 6隻
- 第54駆逐隊(ピケット警戒の指揮を兼ねる):駆逐艦 8隻
- 第4群
- 護衛空母部隊(旗艦:護衛空母「サンガモン」)
レイテ沖海戦
レイテ沖海戦(スリガオ海峡海戦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/14 16:03 UTC 版)
「丁字戦法」の記事における「レイテ沖海戦(スリガオ海峡海戦)」の解説
レイテ沖海戦で西村艦隊(戦艦「山城」「扶桑」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦4隻の合計7隻)がスリガオ海峡からレイテ湾に夜間突入する際に、アメリカ海軍ジェシー・B・オルデンドルフ少将率いる戦艦部隊(戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻の合計79隻)が丁字戦法で待ちうけ、魚雷及びレーダー射撃による波状攻撃で、駆逐艦「時雨」を除く全艦を撃沈した。 アメリカ軍の損害は魚雷艇隊の損害10隻にとどまった。 西村艦隊の壊滅的な最期は、海戦史の中でも最も悲惨な殲滅戦となった。また、戦艦同士による砲撃戦が行われた最後の海戦となった。
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レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:57 UTC 版)
「山城 (戦艦)」の記事における「レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)」の解説
24日午後7時頃、最上と第4駆逐隊(満潮、山雲、朝雲)は掃討隊として先行した。午後11時、時雨はカミギン島の北方でアメリカ軍魚雷艇との交戦を報告する。魚雷艇1隻が時雨の砲撃で損傷したのみで双方に主な戦果はなく、魚雷艇は煙幕を展開して避退したが、オルデンドルフ提督への通報は1時間遅れた(受信0026)。10月25日午前0時前後、西村部隊掃討隊は魚雷艇3隻と交戦、被害は無かった。一連の戦闘で、アメリカ軍魚雷艇39隻のうち30隻が戦闘に参加、魚雷34本(海戦全体で160本とも)を発射したが、確実に挙げた戦果は志摩艦隊軽巡洋艦「阿武隈」中破のみである。1時、西村部隊は「〇一三〇『スリガオ』海峡南口通過『レイテ』湾ニ突入、魚雷艇数隻見タル他敵情不明」(第二戦隊機密第250100番電)と報告(栗田艦隊受信2時20分)。1時30分、掃討隊が西村部隊本隊に合流。2時になると針路を真北にとり、突入態勢をとった。同時刻、西村部隊とアメリカ魚雷艇群が砲雷撃を交わしたが、双方とも戦果はなかった。一連の戦闘で、魚雷艇1隻(PT493)が大破翌朝沈没、10隻が損傷し、6名が戦死した。 アメリカ軍魚雷艇群の攻撃を切り抜けた西村部隊は、先頭から満潮、朝雲、山城、扶桑、最上が一列に並び、山城左舷1.5kmに時雨、右同距離に山雲という単縦陣を形成した。午前2時50分以降、時雨はディガナット島寄りに駆逐艦3隻発見を報告、西村司令官は探照灯による照射攻撃を命じると共に単縦陣を令し、満潮、朝雲、山雲、時雨、山城、扶桑、最上という完全な単縦陣を形成した。西村部隊は3時10分前後に砲撃を開始した。アメリカ軍は、海峡東側(西村部隊右前方)を進む第54水雷戦隊3隻(リメイ、マクゴーワン、メルビン)が魚雷27本を発射。海峡西側(西村部隊左前方)を進む第108駆逐隊2隻(マクダーマット、モンセン)が魚雷20本を発射。アメリカ軍水雷戦隊は計47本の魚雷を発射した後、西村部隊の照明弾に照らし出されたものの離脱に成功した。 午前3時10分頃、扶桑は被雷して落伍、その後に爆沈した。離脱した扶桑の位置に最上がつき、山城に続行した。西村司令官は扶桑の落伍に気づかず、扶桑健在と判断したまま命令を発していた。逆に、時雨は脱落した戦艦を山城、戦闘可能な戦艦を扶桑と判断していた。 3時33分 - 3時40分、最上は山城の左舷に水柱2本が立つのを確認し、艦首付近に魚雷命中を認め、3時35分に山城の左舷に火災が発生しているのを確認した。護衛の駆逐艦も山雲が轟沈、満潮が被雷して航行不能、朝雲が艦首切断という大損害を受けて次々に落伍した。3時25分、アメリカ軍第24水雷戦隊の駆逐艦6隻が戦闘に加わり、駆逐艦キレンが山城に魚雷1本を命中させた。数本の魚雷は時雨の艦底を通過していった。西村は栗田艦隊や志摩艦隊に対し3時30分に「スリガオ水道ノ北口両側 敵d(駆逐艦)魚雷艇アリ 味方d2被雷遊弋中 山城被雷1戦闘航海ニ支障ナシ」(第二戦隊機密第250330番電)を発信した(栗田艦隊受信04時15分)。 この時点で戦列を維持していたのは、山城(中央)・最上(左)・時雨(右)の3隻のみであった。3時40分、西村司令官は山城から「われ魚雷攻撃をうく、各艦はわれをかえりみず前進し、敵を攻撃すべし」と命令した。これが山城からの最後の命令となった。 しかし、3時51分オルデンドルフ少将より全ての巡洋艦に対して射撃開始が下令され、デンバーが3時51分に距離14,447mより山城を目標に砲撃を開始したのを皮切りにミネアポリス、コロンビアも同一目標に対して射撃を開始し、ポートランドもそれに続いた。更に3時53分には戦艦部隊の内ウエスト・バージニアが距離 20,848mより射撃を開始し、3時55分にはテネシー、カリフォルニアもそれに続き射撃を始め、各艦は許される限りのAP弾全てを山城に対して発射した。アメリカ軍戦艦6隻(ペンシルバニアは発砲せず)の主砲発射弾数は計272発、アメリカ軍巡洋艦部隊は8インチ砲・6インチ砲計約3千発を発射したと記録されている。既に1本の魚雷を受け速力が12ktに低下した山城は艦橋付近に命中した敵弾により炎上、最上も艦橋への命中弾で艦長や航海長が戦死するなど戦闘力を喪った。なお時雨戦闘詳報では3時55分に炎上・航行不能となった戦艦を扶桑としているが、実際には山城であった。 同時刻、アメリカ軍の第56水雷戦隊駆逐艦9隻は山城が速力を落とし針路を北から西に変えるのをレーダーで探知、第1小隊のニューコム、アルバート・W・グラント、リチャード・P・リアリーの3隻の駆逐艦は、山城と並走しつつ距離約5580mで各艦魚雷5本(計15本)を発射、4時11分30秒に2つの爆発音を認めた。山城は副砲で応戦したが、アルバート・W・グラントに命中弾を与えたに留まった。 山城艦橋にいた江崎主計長によれば『午前3時30分頃に1本目の魚雷が山城の左舷後部に命中した。後部弾火薬庫爆発の危険が生じた為第五、第六主砲弾火薬庫へ注水が行われ、速力が低下し始めた。その頃から艦砲射撃を受け始め、艦橋付近に火災が発生し第三砲塔以下は使用不能となった。その後第一、二砲塔のみで応戦中、左舷中央部に魚雷1本が命中。一時速力が5ktに低下したものの停止するには至らず速力は12ktに回復(艦内通信遮断)、3本目の魚雷が右舷機関室に命中すると山城は艦首を南西に向けて停止、停止後唯一健在だった1番砲塔のみで応戦していた所、最後に4本目の魚雷が右舷に命中、取舵に転舵したまま急速に右舷へ傾斜しはじめた』という。 西村司令官が安藤先任参謀に「我レイテ湾に向け突撃、玉砕す」の電文作成指示を出すのを江崎は目撃しているが、この電文は栗田艦隊に届かなかったか、山城は通信能力を既に喪失していたと見られる。その後、総員退去が命じられたが、下令3分後の4時19分には横転して艦尾から沈没。西村司令官と篠田艦長は山城と運命を共にした。 山城の沈没後も戦場離脱に努力していた最上は避退中に第二遊撃部隊(志摩清英中将)旗艦那智と衝突、さらに9時前後に空襲を受け航行不能となり、曙の手によって雷撃処分された。また朝雲も12ノットで退避していたが、追撃してきたデンバー、コロンビアの2隻の軽巡洋艦、クラクストン、コニー、ソーンの3隻の駆逐艦に捕捉されてしまい、7時21分に撃沈された。西村部隊所属艦のうち、時雨のみが27日になってブルネイに帰着した。
※この「レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)」の解説は、「山城 (戦艦)」の解説の一部です。
「レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)」を含む「山城 (戦艦)」の記事については、「山城 (戦艦)」の概要を参照ください。
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