太平洋で
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「ハムマン (駆逐艦)」の記事における「太平洋で」の解説
真珠湾攻撃時、ハムマンはアイスランドにあったが、燃料および物資補給のためバージニア州ノーフォークに急遽帰還し、1942年1月6日に太平洋に向けて出航した。パナマ運河を経由し1月22日にサンフランシスコに到着、2月25日にフレッチャー中将率いる第17任務部隊の一部として南太平洋に向けて出航した。 3月前半はニューカレドニアで訓練演習に参加し、任務部隊は27日に珊瑚海へ向けて出航した。ハムマンは航空母艦レキシントン (USS Lexington, CV-2) の護衛として同行し、4月20日にトンガタプ島に帰還した。任務部隊は4月27日に再び珊瑚海へ向かい、ツラギ島を攻撃する日本軍部隊と対峙した。 5月4日、空母ヨークタウンから発進した攻撃隊(のべ60機以上)はツラギ島の日本艦隊を攻撃、「巡洋艦3隻を含む14隻を撃沈もしくは大破」という大戦果を報告した(実際は、駆逐艦菊月・掃海艇2隻・輸送船1隻沈没)。この時、米軍攻撃隊は3機の損害を出した。 空母の護衛中にハムマンはガダルカナル島北方65kmで撃墜された戦闘機パイロット2名を救助した。ハムマンは全速力で航行し、夕暮時に海岸に到着、パラシュートを確認した。艦載艇が準備されたが寄せ波のため降ろすことができず、パイロットはボートからの綱を使って救助された。その後戦闘機の機体の破壊が試みられたが、海が荒れていたため不可能であった。ハムマンはレキシントンの護衛に戻り、その夜は同任務に従事した。
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太平洋で
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「アンダーヒル (護衛駆逐艦)」の記事における「太平洋で」の解説
1945年1月末、アンダーヒルはフィリピンの第7艦隊への配属が命じられ、2月8日にニューロンドンを出航、パトローラー (HMS Patroller, D07) を護衛し共にパナマ運河地帯へ向かう。その後パナマ運河、ガラパゴス諸島およびボラボラ島を経由してアドミラルティ諸島に向かい、1945年3月15日にゼーアドラー湾に到着した。 最初の船団護衛でリンガエン湾に到着すると、同湾で4日間のレーダーピケット任務を行う。その後ホーランディア、ビアク島に向かった。1945年6月5日にアンダーヒルはホーランディアを出航し、ジェネラル・M・B・スチュワート (USS General M. B. Stewart, AP-140) の護衛としてレイテ湾に向かった。 1945年6月10日、アンダーヒルはレイテ島を出航しホーランディアに向かったが、その途中B-24爆撃機からの救難通信を受け取る。アンダーヒルはサデウス・パーカー (USS Thaddeus Parker, DE-369) と共にフィリピン・シー・フロンティア司令官の命を受け事故海域に向かった。アンダーヒルを始めとする艦艇および多数の航空機が同海域の捜索を行ったが、捜索は6月12日に打ち切られた。サデウス・パーカーと航空機が同海域を去った後、アンダーヒルの哨戒要員が水面に浮かぶ緑のダイマーカーと糧食缶を発見した。さらなる探索の結果、生存者3名が発見された。生存者は筏に乗らず救命胴衣を着け60時間を海上で過ごしていた。アンダーヒルは彼らを07:59に救助し、ホーランディアへ送り届けた。 アンダーヒルはマヌス島、ボラボラ島、パラオ間で船団護衛を行い、その後補給および兵員輸送のための大船団に参加した。7月9日にレイテ湾を出航し、1945年7月14日に沖縄に到着した。沖縄ではレーダーピケット任務に割り当てられ、その後7月21日に中城湾からレイテ湾に向かう第99.1.18任務部隊の護衛に参加した。船団は1隻の兵員輸送艦と6隻の戦車揚陸艦から成り、第96師団の兵員を休養と補給のためフィリピンへ送り届ける任務にあった。船団の護衛は沿岸哨戒艇 PC-1251、PC-803、PC-804、PC-807、駆潜艇 SC-1306、SC-1309、指揮護衛艇 PCE-872から成った。
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太平洋で
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「ヒューストン (重巡洋艦)」の記事における「太平洋で」の解説
1932年(昭和7年)に第一次上海事変が生じると、ヒューストンは2月3日にアメリカ人の生命および財産を保護するため上海に向かう。海兵隊および海軍陸戦隊を上陸させ事態の安定化を支援する。1933年(昭和8年)1月、ウィリアム・バグレー艦長が着任した。3月にフィリピン、5月に日本へ親善訪問を行っている。6月2日から9日まで横浜港に寄港し、各種歓迎を受ける。横浜停泊中の6月5日、テイラー長官とバグレー艦長はジョセフ・グルー米国大使同伴のもとで皇居に赴き、昭和天皇に謁見した。6月10日から14日まで神戸港に滞在した。同年8月、フレッチャー参謀長は、海軍作戦部へ栄転した。11月17日、姉妹艦オーガスタ (USS Augusta, CA-31) とアジア太平洋艦隊旗艦の任を交代する。ヒューストンは11月20日横浜港に入港、24日に出発した。その後は偵察艦隊に合流するためサンフランシスコに向かい、続いて太平洋で艦隊演習および訓練に従事した。 第二次世界大戦が始まるまでの間、ヒューストンはしばしば特別の巡航を行った。1934年(昭和9年)7月1日にルーズベルト大統領がメリーランド州アナポリスで乗艦し、カリブ海、オレゴン州ポートランドを経由してハワイまで12,000海里の航海を行った。その巡航にはヘンリー・L・ルーズベルト海軍次官補も乗艦した。ヒューストンは1935年(昭和10年)5月15日に帰還した。 アラスカ海域での短い巡航の後に、ヒューストンはシアトルに帰還し1935年10月3日に再び大統領を乗艦させる。大統領の一行は休暇のためセロス島、マグダレナ湾(英語版)、ココ島、サウスカロライナ州チャールストンを巡航した。ヒューストンはまた1937年(昭和12年)5月28日にサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ落成記念式典に参加した。1938年(昭和13年)7月14日には観閲式に参加するルーズベルト大統領を乗せサンフランシスコを訪れている。 ヒューストンは1938年9月19日に艦隊旗艦となり、クロード・C・ブロック(英語版)少将が座乗した。旗艦任務は12月28日まで継続し、その後偵察艦隊に復帰した。通常の訓練演習任務に就いたヒューストンは1939年(昭和14年)1月4日に演習「Fleet Problem XX」に参加しサンフランシスコからノーフォーク、キーウェストまで巡航を行う。キーウェストでは大統領と海軍作戦部長のウィリアム・リーヒ提督が乗艦し、演習を視察した。4月7日にテキサス州ヒューストンに到着、続いてシアトルに向かい5月30日に到着した。 オーバーホールと整調後、ヒューストンはハワイ分遣隊の旗艦に指定され、1939年(昭和14年)12月7日に真珠湾に到着した。1940年(昭和15年)2月17日にメア・アイランド(英語版)に帰還した。再びハワイに戻り、11月3日にフィリピンに向けて出航したが、世界情勢は悪化の途をたどっていた。ヒューストンは11月19日にマニラに到着、アジア艦隊司令官トーマス・C・ハート提督の旗艦となる。
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