アメリカ海軍作戦部長
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アメリカ海軍作戦部長(アメリカかいぐんさくせんぶちょう、Chief of Naval Operations: 略称CNO)は、アメリカ合衆国海軍省における最高位の軍人で[1]、統合参謀本部議長または副議長が海軍から出ていない場合は、アメリカ海軍における最高位の士官である。他の軍種の参謀総長等と同じく、作戦上の指揮権限は有しておらず、海軍の戦力整備に責任を有する。
- 1 アメリカ海軍作戦部長とは
- 2 アメリカ海軍作戦部長の概要
海軍作戦部長
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戦争終結後の1946年、カーニーは中将に昇進する。1950年2月まで海軍作戦副部長の職にあり、東海岸方面で第2艦隊の運用方法に関する研究も行った。1950年10月2日に大将に昇進し、1951年から1953年まではイタリア、ギリシャおよびトルコの各国軍を管轄する南ヨーロッパ方面NATO部隊司令官と第6艦隊司令長官を兼任し、ナポリに滞在した。ナポリ滞在中の1951年7月21日、時の海軍作戦部長フォレスト・シャーマン大将(アナポリス1918年組)がNATO内の問題解決のためナポリを訪れていたが、オペラ鑑賞後に二度の心臓発作を起こして翌7月22日に急死し、カーニーはシャーマン夫人とともにその最期を看取った。 翌1952年6月14日、カーニーはアメリカ軍関連の部門をジェラルド・ライト(英語版)中将(アナポリス1918年組)に委ねてロンドンに創設した新司令部移動させ、以降はNATO関連の職務に専念して1953年3月にジョン・キャサディ(英語版)中将にポストを譲って退任した。帰国後の1953年5月13日、カーニーはアイゼンハワー大統領によって海軍作戦部長に任命され、1955年に任期を全うしたことをもって退役した。 退役後はバス鉄工所会長など、主に防衛産業にかかわる企業の会長職を歴任した。1985年にアナポリスの歴史学名誉教授だったE・B・ポッター(英語版)によってハルゼーの伝記 "BULL HALSEY" (日本名『キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』)が出版された際には、「簡単にはこの本を置くことはできなかった」と賛辞を寄せた。1990年6月25日、カーニーはワシントンD.C.で95年の生涯を終え、アーリントン国立墓地に埋葬された。 アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の14番艦「カーニー」 (USS Carney, DDG-64) はカーニーを記念して命名された。
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海軍作戦部長
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海軍作戦部長
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「フォレスト・シャーマン」の記事における「海軍作戦部長」の解説
戦争が終わるとキング大将は合衆国艦隊司令長官の職を廃止し、海軍作戦部長も退いて第一線から去っていった。キング大将は自分の後任としてニミッツを推薦したが、海軍長官ジェームズ・フォレスタルはニミッツとは互いの海軍次官、航海局長時代から不仲で、海軍作戦副部長リチャード・S・エドワーズ大将か航空担当海軍作戦部次長ミッチャー中将を望んだ。フォレスタル長官は「平和の時代の海軍作戦部長には、例えばニミッツのような英雄的な大物は不向き」とも考えていたが、ニミッツの猟官運動とキングのトルーマン大統領に対する直訴などにより、キングの後任はニミッツとなった。海軍作戦部長に就任したニミッツはここでもシャーマンの力を必要とした。 1945年12月、中将に昇進したシャーマンは海軍作戦部次長(作戦部門担当)に就任した。戦後のアメリカ軍は三軍の統一問題から事実上スタートした。シャーマンはCINCPAC-CINCPOA司令部参謀副長時代には、ニミッツとともに統合に賛成していた。シャーマンはまた対ソ連戦略の重要性を説いた。次いで1947年12月には地中海艦隊司令長官に就任する。1947年から1949年にかけて、三軍の統一問題余波から空軍の巨大戦略爆撃機B-36「ピースメーカー」の配備か、海軍の大型空母ユナイテッド・ステーツ (USS United States, CVA-58) の建造かをめぐって大規模な論争が起こっていた。そこに権限の弱い国防長官となっていたフォレスタル(フォレスタル自身、統合に反対して国防長官の権限を弱めさせた一人だった)が「神経衰弱」となって執務不能になったことから起きたフォレスタル解任劇と、ルイス・A・ジョンソン(英語版)の国防長官就任、ユナイテッド・ステーツ建造に関わる調整からくる、後年「提督たちの反乱」と呼ばれた海軍の将官たちの反発などからきたフォレスタルの自殺という出来事も絡み(これによって国防長官の権限が強められた)、海軍はガタガタになっていた。ジョン・ローレンス・サリヴァン海軍長官はユナイテッド・ステーツの建造中止に抗議して辞任し、ニミッツの後任だった海軍作戦部長ルイス・デンフェルド大将(アナポリス1912年組)もまた、湧き上がる海軍の将官たちの反発を抑えきることができず更迭された。 1949年11月、シャーマンは大将に昇進の上でデンフェルドの後任として海軍作戦部長に就任し、海軍部内の建て直しに当たった。53歳という年齢は歴代の海軍作戦部長の中でも最年少で、生え抜きのパイロット出身者としては初めての海軍作戦部長でもあった。内には海軍の将官たちへの処罰や復権に苦慮し、外では1949年10月の中華人民共和国の成立や、翌1950年6月の北朝鮮の軍事侵攻による朝鮮戦争の勃発があり、ヨーロッパでの冷戦と極東での熱戦にも対処しなければならなかった。海軍内に関してはその他、1900年にジョン・デイヴィス・ロング海軍長官の諮問機関として創設されたアメリカ海軍将官会議(英語版)の廃止を進言して、同会議は1951年3月限りで解散した。これら内外の重大問題やその対処は、次第にシャーマンの健康面に影響を与えていた。 1951年7月、シャーマンは北大西洋条約機構(NATO)関連の問題解決のためスペインとイタリアに出張した。7月21日、ナポリ滞在中のシャーマンは妻とともにオペラを鑑賞してからホテル戻ったが翌7月22日朝に心臓発作を起こし、いったんは持ち直したものの午後に発作が再発してわずか54歳で急逝した。
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海軍作戦部長
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「エルモ・ズムウォルト・ジュニア」の記事における「海軍作戦部長」の解説
1970年4月14日、リチャード・ニクソン大統領は、ズムウォルトを次期海軍作戦部長に指名し、同年7月1日に第19代海軍作戦部長に就任する。 在任中は第二次世界大戦期の老朽水上艦代替艦の更新を推進した。制海艦構想にみられるようなハイ・ローな計画内容はハイマン・G・リッコーヴァーを筆頭に海軍内派閥の反発にあう。リッコーヴァーは必要数の主力艦艇と、多数の平凡な機能を持つ艦艇をそろえることを希望した。これに対しズムウォルトは4種類の艦艇を提示した。結局、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートとペガサス級ミサイル艇だけが現実化した。 1974年6月29日に退役する。
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