第二次世界大戦期とは? わかりやすく解説

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第二次世界大戦期(1937年~1945年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 13:32 UTC 版)

日系アメリカ人市民同盟」の記事における「第二次世界大戦期(1937年1945年)」の解説

上述した1924年排日移民法制定切っ掛けに、昭和初め頃から悪化一途辿っていた日米関係は、1937年日中戦争勃発と、それに伴う10月25日ルーズベルト大統領による隔離演説12月12日パナイ号事件、翌1938年11月援蔣ルート完成などにより、いよいよ修復不可能なものとなりつつあった。加えて1938年7月26日アメリカ日米通商航海条約廃棄通告、翌1939年1月26日失効した。これにより、両国1855年2月21日日米和親条約発効以来初めての「無条約時代」に突入する事となった。 それに伴う形で、アメリカ社会日系人対す視線厳しいものとなり、特に反日団体は、二世による二重国籍問題を、攻撃標的とする様になった。こうした動き察知したJACLは、二世地位を守る為の具体的な行動要請すべく、二重国籍廃絶運動呼び掛けた同時に、ウォルター・ツカモト(塚本武雄会長による 「合衆国対す偽りなき忠誠という原則について、妥協有り得ない。そして、如何なる犠牲を伴おうとも、我々が最初から最後まで、常にアメリカ人である事を、忘れてならない」 といった声明発表したまた、日米開戦不可避な情勢となると、フレッド・タヤマJACLロサンゼルス支部長は、 「私達が、両親の国に向かって武器を取らなければならない日が来ない事を、私達はいつも願っております。しかし、万が一その日が来る様な事があれば、二世覚悟出来ております私達唯一つの旗“合衆国星条旗に対して忠誠を負うのであります」 といった声明発表し二世今や日本を敵と見做し、銃を向ける覚悟もある事を、アメリカ社会向けて明言した1941年12月7日に、真珠湾攻撃起きた数時間後より、FBIは主に一世日本語学校教師僧侶武術師範個人事業主といった、日系コミュニティ指導者見做し人物の逮捕開始したJACLは、日本への宣戦布告期に日系人着せられる事となった、第五列としての汚名をそそぐべく、当時城戸三郎会長は、 「我々は、アメリカ市民としての義務を、あくまでも果たすものである今こそ我ら誠心尽くすべき時が来た。日米開戦は、最も不幸な出来事であるが、戦場送られると言えども我ら忠誠不変である。我等父母は、法律の下にアメリカ市民たる事を許されないが、しかしアメリカ市民父母として、善良な居住民として、あくまでも我等と共に進む事を信じて疑わないのである」 といった声明発表した以降JACLは、政府公聴会等において「率直に日本縁を切る」事を声明したほか、忠実愛国的なアメリカ人としての二世実像喧伝した。また、多くメンバーが「日系コミュニティ政治的安全を守る為には、市民権持たない高齢一世が、ある程度犠牲を被る事は止むを得ない」と主張した事もあり、FBI海軍情報局が「危険人物」とおぼしき一世を、特定する事への捜査協力なども行った1942年2月19日ルーズベルト大統領が「大統領令9066号」に署名したに伴い日系人強制収容所送致する事が決定した際、JACL指導部は、反発する姿勢を示さなかった。寧ろ積極的に政府の方針従った方が、日系人母国への忠誠証明し延いては日系人敵視するアメリカ誤り正す事にも、繋がると考えたその事から、JACLは約12万人日系人対し冷静に立ち退き行い命令反発する者からは、距離を置く様に呼び掛けた立ち退き問題解決した後のJACLは、日系人家庭収容所から解放された後、工場農場における極度労働力不足が、深刻な問題となっていた中西部への再定住快適なものとすべく、住宅ローンサービスを提供したほか、シカゴ新たな事務所設置するなどした。 一方当時JACL拠点設置されていなかったハワイ準州においては大学勝利奉仕団による活躍はじめとして多く日系人達があらゆる銃後仕事をやり遂げ1942年6月12日には第100歩兵大隊創設された。これを受け、JACL本土日系人にも、アメリカ軍従軍する権利がある事を主張した。これに呼応する形で、1943年1月28日に、日系人による連隊規模部隊編制される事が発表され収容所内などにおいて、志願兵募集始められた。最終的には、ハワイからは大学勝利奉仕団活躍していた者を含む2,686人、本土収容所からは1,500人の志願兵入隊し第442連隊戦闘団創設される事となった。 しかし、収容所において徴兵拒否者を厳しく糾弾した事もあって、JACL大部分日系人達から批判を受ける事となった。この事は、JACL日系コミュニティの間に、戦後永らく感情的なわだかまりを残す事態招いてしまった。 また、公民権弁護士として知られるウェイン・M・コリンズ英語版)も、戦後インタビューにおいて、 「JACLは、日系人代弁者自称していましたが、同胞為に立ち上がろうとする様子窺えませんでした…。彼等は、まるで煩わしい群れでも扱うかの如く日系人強制収容所導きました」 と語り戦時中JACLによる一連の姿勢非難した

※この「第二次世界大戦期(1937年~1945年)」の解説は、「日系アメリカ人市民同盟」の解説の一部です。
「第二次世界大戦期(1937年~1945年)」を含む「日系アメリカ人市民同盟」の記事については、「日系アメリカ人市民同盟」の概要を参照ください。

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