第二次世界大戦期(1937年~1945年)
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「日系アメリカ人市民同盟」の記事における「第二次世界大戦期(1937年~1945年)」の解説
上述した1924年の排日移民法制定を切っ掛けに、昭和の初め頃から悪化の一途を辿っていた日米関係は、1937年の日中戦争勃発と、それに伴う10月25日のルーズベルト大統領による隔離演説、12月12日のパナイ号事件、翌1938年11月の援蔣ルート完成などにより、いよいよ修復が不可能なものとなりつつあった。加えて、1938年7月26日にアメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告、翌1939年1月26日に失効した。これにより、両国は1855年2月21日の日米和親条約発効以来、初めての「無条約時代」に突入する事となった。 それに伴う形で、アメリカ社会の日系人に対する視線も厳しいものとなり、特に反日団体は、二世による二重国籍問題を、攻撃の標的とする様になった。こうした動きを察知したJACLは、二世の地位を守る為の、具体的な行動を要請すべく、二重国籍廃絶運動を呼び掛けた。同時に、ウォルター・ツカモト(塚本武雄)会長による 「合衆国に対する偽りなき忠誠という原則について、妥協は有り得ない。そして、如何なる犠牲を伴おうとも、我々が最初から最後まで、常にアメリカ人である事を、忘れてはならない」 といった声明を発表した。 また、日米開戦は不可避な情勢となると、フレッド・タヤマJACLロサンゼルス支部長は、 「私達が、両親の国に向かって武器を取らなければならない日が来ない事を、私達はいつも願っております。しかし、万が一その日が来る様な事があれば、二世は覚悟が出来ております。私達は唯一つの旗“合衆国星条旗”に対して忠誠を負うのであります」 といった声明を発表し、二世は今や日本を敵と見做し、銃を向ける覚悟もある事を、アメリカ社会へ向けて明言した。 1941年12月7日に、真珠湾攻撃が起きた数時間後より、FBIは主に一世の日本語学校教師・僧侶・武術師範・個人事業主といった、日系コミュニティの指導者と見做した人物の逮捕を開始した。JACLは、日本への宣戦布告を期に日系人へ着せられる事となった、第五列としての汚名をそそぐべく、当時の城戸三郎会長は、 「我々は、アメリカ市民としての義務を、あくまでも果たすものである。今こそ、我らの誠心を尽くすべき時が来た。日米開戦は、最も不幸な出来事であるが、戦場に送られると言えども、我らの忠誠は不変である。我等の父母は、法律の下にアメリカ市民たる事を許されないが、しかしアメリカ市民の父母として、善良なる居住民として、あくまでも我等と共に進む事を信じて疑わないものである」 といった声明を発表した。 以降のJACLは、政府の公聴会等において「率直に日本と縁を切る」事を声明したほか、忠実で愛国的なアメリカ人としての、二世の実像を喧伝した。また、多くのメンバーが「日系コミュニティの政治的安全を守る為には、市民権を持たない高齢の一世が、ある程度の犠牲を被る事は止むを得ない」と主張した事もあり、FBIと海軍情報局が「危険人物」とおぼしき一世を、特定する事への捜査協力なども行った。 1942年2月19日にルーズベルト大統領が「大統領令9066号」に署名した事に伴い、日系人を強制収容所へ送致する事が決定した際、JACLの指導部は、反発する姿勢を示さなかった。寧ろ、積極的に政府の方針に従った方が、日系人の母国への忠誠を証明し、延いては日系人を敵視するアメリカの誤りを正す事にも、繋がると考えた。その事から、JACLは約12万人の日系人に対し、冷静に立ち退きを行い、命令に反発する者からは、距離を置く様に呼び掛けた。 立ち退き問題が解決した後のJACLは、日系人家庭が収容所から解放された後、工場や農場における極度の労働力不足が、深刻な問題となっていた中西部への再定住を快適なものとすべく、住宅ローンサービスを提供したほか、シカゴに新たな事務所を設置するなどした。 一方、当時JACLの拠点が設置されていなかったハワイ準州においては、大学勝利奉仕団による活躍をはじめとして、多くの日系人達があらゆる銃後の仕事をやり遂げ、1942年6月12日には第100歩兵大隊が創設された。これを受け、JACLは本土の日系人にも、アメリカ軍へ従軍する権利がある事を主張した。これに呼応する形で、1943年1月28日に、日系人による連隊規模の部隊が編制される事が発表され、収容所内などにおいて、志願兵の募集が始められた。最終的には、ハワイからは大学勝利奉仕団で活躍していた者を含む2,686人、本土の収容所からは1,500人の志願兵が入隊し、第442連隊戦闘団が創設される事となった。 しかし、収容所において徴兵拒否者を厳しく糾弾した事もあって、JACLは大部分の日系人達から批判を受ける事となった。この事は、JACLと日系コミュニティの間に、戦後も永らく、感情的なわだかまりを残す事態を招いてしまった。 また、公民権弁護士として知られるウェイン・M・コリンズ(英語版)も、戦後のインタビューにおいて、 「JACLは、日系人の代弁者を自称していましたが、同胞の為に立ち上がろうとする様子は窺えませんでした…。彼等は、まるで煩わしい鳩の群れでも扱うかの如く、日系人を強制収容所へ導きました」 と語り、戦時中のJACLによる一連の姿勢を非難した。
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