猟官制
猟官運動
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宝暦10年(1760年)、当時の関白・近衛内前の養女である年子(惇姫。広幡長忠の娘)を正室に迎える。なお、年子は重村のはとこにあたる。 国目付の派遣も終わり、重村による藩政が本格的に始動することとなったが、重村は藩財政の建て直しに取りかかるどころか、薩摩藩主・島津重豪への対抗意識から側近・古田良智を通じて猟官運動に狂奔し、莫大な工作資金を投じて藩の負債をさらに膨れ上がらせた。 もともと仙台藩主は、同格とみなす薩摩藩主に官位で差をつけられることを嫌い、薩摩藩主が昇進するたびに自身もこれと同格に引き上げるよう求めていたが、明和元年(1764年)11月に重豪が従四位上・左近衛権中将に叙任されると、3歳年下の重豪に先を越されたことで自尊心を傷つけられた重村は、早急に官位昇進を実現するため、松平武元(老中筆頭)・田沼意次(御側御用取次)・田沼意誠(一橋徳川家家老)・高岳(大奥老女)の4人へ多額の金品を贈り、さらには将軍・幕閣の御機嫌取りのため、藩財政が危機的状態に瀕しているにもかかわらず手伝普請を積極的に買って出て、明和3年(1766年)に費用捻出のため家禄30石以上の藩士に年貢米の一部上納を命じ、これを諫めた登米伊達村良は勘気を蒙り、50日間の蟄居に処される始末であった。 重村は翌明和4年(1767年)に関東諸川の普請手伝役を務めた功により、ようやく幕府からの推任を得て同年12月に従四位上・左近衛権中将への昇進を果たしたが、普請に要した費用は実に22万両余に達したため、赤字補填のため領民に対して献金を募り、これに応じた農民・商人ら300人余を士分に取り立てて知行を与えた。
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「猟官運動」の例文・使い方・用例・文例
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