建造中止
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「クロンシュタット級重巡洋艦」の記事における「建造中止」の解説
最終案が出た時に本級の主砲は設計は完了していたが製造遅延の問題が起こったため建造の進捗が遅らされ、1940年10月19日には事実上の建造停止状態に陥った。この時期に同年2月に独ソ通商協定が締結されたことに伴い、ドイツより技術導入が可能になった。本級にも、ビスマルク級戦艦の主砲として採用されたSK C/34 38cm(47口径)砲(英語版)を砲塔ごと提供される予定となったため、ドイツ製38cm連装砲塔を搭載するよう改設計が急遽行われ、この設計案は「69i型重巡洋艦」と呼称された。しかし、ドイツは自国海軍に優先的に艦砲を製造し、ソ連には38cm砲は届かないため、結局主砲搭の搭載は未定のまま建造が進められた。さらに、1941年6月22日の独ソ戦(大祖国戦争)勃発に伴いドイツ軍が迫る中、約10%しか建造が進んでいない本級は建造中止となった。建造中だった2隻の船体や建造資材は陣地構築のために転用され、残った船体の一部も戦後解体されてしまった。
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建造中止
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1945年(昭和20年)10月の竣工を目指して、1940年(昭和15年)11月7日に111号艦は起工した。だが「大和」の残工事が予想以上に残っており、さらに同艦の竣工時期を1942年(昭和17年)6月上旬から1941年(昭和16年)12月上旬に繰り上げたため、呉海軍工廠の努力は111号艦ではなく「大和」に集中した。111号艦の工事は「大和」の目途がついた1941年(昭和16年)3月頃から順調に進むようになったが、二重底を設置して舷側甲鉄を組み上げ、前後防御囲壁設置工事中に工事中止指令が出される。太平洋戦争直前の日本海軍内では時間を要する大型艦の建造よりも軽艦艇・輸送船舶の急造や損傷艦艇の修復計画が優先されており、1942年(昭和17年)初頭の真珠湾攻撃やマレー沖海戦などで航空攻撃により戦艦が撃沈されることが証明されるよりも前に、110号艦や本艦の建造中止がすでに決定されていた。 1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に喪失、横須賀海軍工廠の110号艦(信濃)は空母に改造されることになった。一方、呉海軍工廠は改大鳳型航空母艦2隻と改飛龍型航空母艦5隻の建造を割りあてられ、造船ドックから111号艦をどけなくてはならなくなった。呉工廠は寸法を縮めた空母改造試案を出したが断念し、111号艦の二重底は5つに分解され、ポンツーン(浮桟橋)として再利用された。また111号艦以降の超大和型戦艦も、同様に計画中止となった。
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建造中止
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1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)に起工され1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)に竣工する予定であったが、ミッドウェー海戦による空母の損失を埋めるべく、より工期の短い雲龍型の建造が優先され1番艦である5021号艦の起工は昭和19年にずれ込んだ。このことは雲龍型では反映できなかったミッドウェー海戦の戦訓を改大鳳型に盛り込むことを可能としたが、昭和18年8月の第三戦備計画の策定により、5隻とも建造中止となった。 この後に日本海軍が計画・設計した空母は、簡易設計のG18型やタンカー改造の特TL型のみであり、結果的に改大鳳型は日本海軍が設計した最後の本格的空母となった。
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