最終案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 02:27 UTC 版)
こうして、1990年9月、最高会議に市場移行プログラムが提出されることになったが、政府案、「500日計画」案の2つの市場移行プログラムを大統領案として一本化する作業が行われる必要が出てきた。エリツィンは500日計画に完全な支持を与えた一方でゴルバチョフは、より慎重な支持(というよりも懐疑の念)を与えた。 大統領案作成は、加速化戦略を立案したソ連科学アカデミー会員でゴルバチョフの経済ブレーンであったアベル・アガンベギャンによって行われた。アガンベギャンは、「500日計画」案を全面的に受け入れた形で大統領案をまとめた。これに対して、ルイシコフ首相、アバルキン副首相らは大統領案に反対を表明した。ゴルバチョフは保守派と急進改革派の間に立ち、妥協的な政権運営をしてきたが、この場面でもゴルバチョフは動揺することとなる。 さらに最高会議は、政府案、「500日計画」案、大統領案の一本化を求め、採択を引き延ばした。ゴルバチョフは再度、アバルキンにより政府案に近い折衷案を作成させた。こうして出来上がったのが、より穏健な経済改革案「国民経済の安定化と市場経済への移行の基本方針」である。1990年10月最高会議は基本方針を採択した。 基本計画は、市場経済化を目指し、経済の安定化と市場経済への移行をはかるため、段階的に民営化、価格体系の見直しなどを掲げ、社会民主主義的な市場経済路線を確定した。一方で、基本計画の問題点として、具体的な期間が設けられておらず、連邦政府と各共和国間の権限委譲にも触れていなかった。運用に幅が設けられていて抽象的であり、どのようにも取れる内容を含んでいた。このため、政府案、「500日計画」案、双方の作成に当たった人々に不満を残す結果となった。特にエリツィンら急進改革派はゴルバチョフが500日計画に示された抜本的なソ連経済・社会システムに踏み切ることができなかったことを激しく批判した。さらに致命的だったことは、本来、ゴルバチョフ派であった中道派もゴルバチョフの優柔不断な態度に離反を始め、保守派は秩序維持を掲げて独自に動き始めたことであった。
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