戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:39 UTC 版)
マリアナ沖海戦の勝利により制空・制海権を確保していたアメリカ軍は、上陸に先立ってグアム島に徹底した艦砲射撃と空爆を加えた。上陸を支援する艦船は合計で274隻を数え、7月8日から20日までに撃ち込まれた艦砲は16インチ砲836発、14インチ砲5,422発、8インチ砲3,862発、6インチ砲2,430発、5インチ砲16,214発、合計28,764発に達した。また、空爆に参加した空母は合計13隻、空爆は7月18日から上陸前日の20日まで延べ4,283機により1,310トンの爆弾が投下されている。 この激しい砲爆撃で、海岸のヤシの木は全て焼けただれ、見渡す限りの建物は全て破壊された。サイパンからの情報も活かし、相応の砲爆撃対策を行っていたが、上陸援護のアメリカ軍の砲爆撃は、日本軍の想定を遙かに超えており、サイパン同様に海岸線に構築された陣地の多くが破壊され、後方に作られた露天砲台も破壊された。しかし密林内、洞窟陣地内、多くのトーチカ、海岸より4km以上離れた場所に設置された野砲は破壊を逃れる事ができ、反撃の大きな戦力となった。 アメリカ軍は、これだけの砲爆撃を加えたにも関わらず日本軍に反撃できる能力が残っている事に驚き、 50cmの厚さを持つ永久トーチカは艦砲の直撃で半壊できるが、至近弾では破壊できない。 1mの厚さを持つ永久トーチカは艦砲では破壊できない。 谷やジャングル内の目標や距離が5,000ヤードを超えると艦砲の効果が低下する など分析し、グアム戦では90分であった上陸前の支援射撃を、沖縄戦の際は4時間延長して、効力不足を補うように対策している。 アメリカ軍は、支援部隊が砲爆撃している間に日本軍が苦心して作り上げた上陸障害物を工兵が次々と爆破して行った。爆破して除去した障害物は合計で940個にも上った。
※この「戦闘の経過」の解説は、「グアムの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「グアムの戦い」の記事については、「グアムの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/30 06:16 UTC 版)
「ハドリアノポリスの戦い」の記事における「戦闘の経過」の解説
378年8月9日早朝、ハドリアノポリスを出たローマ軍は南下する西ゴート族を求め北西に歩を進めた。日が昇り始めた頃、先行していた右翼が円陣を組んで防御に徹していたゴート族の1部族を発見し攻撃を開始した。ローマ軍は右翼・中央・左翼に騎兵団を展開する典型的なローマ軍の布陣、つまり会戦方式の陣形をとっていたが、複数の部族の集合体であった西ゴート族側は各部族が独立して攻めてくる陣形で攻撃したため、ローマ軍は意図する包囲戦の形へ持ち込めず、各軍がばらばらに攻防を展開することになった。 日没前にローマ軍は高官2名、大隊長(500名‐800名を統率)35名が戦死し、全軍の3分の2を失う惨敗を喫した。またウァレンス自身も負傷し、臣下に支えられながら逃げ込んだ小屋の中で、皇帝が中にいるとは知らずに火をかけたゴート族によって焼き殺された。
※この「戦闘の経過」の解説は、「ハドリアノポリスの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「ハドリアノポリスの戦い」の記事については、「ハドリアノポリスの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 17:00 UTC 版)
イングランド軍はヴァローヌを抜くと東下して軍勢を増やし7,000の軍勢でカーンへ向かった。それに対しマキと呼ばれる反英住民組織が妨害活動を行い、クレルモン伯もそれを支援しようとして援軍を送ったが、イングランド軍は撃退した。しかしクレルモンはイングランド軍がカーンとサン=ローとの中間地点にあるフォルミニー村で停止していることを突き止め、派兵で減少して戦力差が開いているにも関わらず、リッシュモン大元帥の軍との合流を待たずに4月15日に戦端を開いた。イングランド軍は急襲を予期しており、14日から急造ながらも野戦築城を施し、待ち受けていた。しかしながら、イングランド軍は近くにいる常勝リッシュモン大元帥の軍を警戒するために側面と後方に多くの兵を割かざるを得なかった。指揮官のキリエルは2つの橋を厳重に守り、騎兵突撃に備えた。 3倍の敵に対するクレルモンの攻撃は撃退された上に逆襲にあい、2門の大砲も奪われてしまった。また、イングランド軍のサマセット公の増援軍が近づいているという情報が両軍に入り、フランス軍は恐慌状態となり、イングランド軍の士気が上がった。しかしながら、戦場の南からイングランド軍の左翼に現れたのはクレルモンの攻撃意図を知らされたリッシュモン大元帥のフランス軍であった。 15日に攻撃の意図を知ったリッシュモン大元帥は現地に急行し、直ちにクレルモンの軍勢を掌握した後、兵力において劣勢ながら、縦に伸びたイングランド軍の中核に対し騎兵突撃を敢行した。また、ピエール・ド・ブレゼに別働隊を受け持たせ右翼軍とし、カーン方面への退路を遮断させるべく攻勢を取らせ、崩壊し圧力を受けている左翼には増援を送り支えた。それを受けてクレルモンは左翼を持ちこたえ、カーンへの退路を絶たれたイングランド軍は半包囲状態となり、中央部での圧力を支えきれずに崩壊した。 北のバイユー方面への敗退するイングランド軍にノルマンディーで被支配民としての苦杯を嘗め尽くしたフランス農民が襲いかかり、多くが虐殺された。イングランド軍は4,000人も戦死、司令官キリエルは乱戦の中で1,400人の兵と共に捕虜となった。クレルモンはリッシュモン大元帥により戦場で騎士叙勲を受け、戦いはフランス軍の大勝利に終わった。 数に劣るフランス軍が野戦でイングランド軍に勝利したのは初めてであり、2世紀以上続く陸戦におけるフランス優位を決定付けた戦いでもあり、フランスの軍制改革が実った形となった。また大砲が野戦に使われた嚆矢ともいえるが、有効に活用されたとは言えず、砲兵隊が重要な位置を占めるのは3年後のカスティヨンの戦いまで待たなければならない。
※この「戦闘の経過」の解説は、「フォルミニーの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「フォルミニーの戦い」の記事については、「フォルミニーの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/22 15:11 UTC 版)
グロスター岬上陸の準備は12月15日にはじまった。その日、アメリカ軍の第112騎兵連隊(英語版)は南岸のアラウエに上陸(英語版)、日本軍の補給の妨害とともに上陸作戦のカモフラージュとした。 アメリカの侵攻に対し、松田巌率いる日本軍第17師団、および松田指揮下の第65旅団と第51師団の一部が抵抗した。松田の拠点はグロスター岬飛行場から8キロメートルのカリンギにあった。 アメリカ海軍とオーストラリア海軍の援護、そしてアメリカ空軍とオーストラリア空軍の空襲の下、上陸作戦は12月26日に正式に開始した。アメリカウィリアム・リュパータス率いる第1海兵師団は煙幕の中、イエロー・ビーチとグリーン・ビーチに上陸した。上陸軍は沼地と密林に直面したが、日本軍の後方梯隊にしか遭遇せず、上陸は成功した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「グロスター岬の戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「グロスター岬の戦い」の記事については、「グロスター岬の戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/26 10:08 UTC 版)
王党派は敵の本軍が現れたことにも慌てなかった。ベイリーは敵がよく準備されたこと、自軍がフル装備で数マイル行軍したことを鑑みて、バントンに留まってラナークの援軍が現れるまで待つことを選んだ。もしラナーク軍が現れたら、王党派を挟み撃ちにでき、そこでモントローズがラナーク軍に攻撃することを選んだら自軍は後ろからモントローズ軍を攻撃できる、と踏んでの選択であった。さらにモントローズがカヴェナンター本軍を直接攻撃した場合、高地にある数で上回る敵を攻撃することになり、極めて不利である。 ベイリーの決定は正しかったが、彼の命令には身分委員会の批准が必要だった。この委員会にはアーガイル侯爵アーチボルド・キャンベル、クロフォード伯爵ジョン・リンジー、タリバーディン伯爵ジョン・マレー(英語版)、バルフォアのバーリー卿ロバート・バルフォア(英語版)、エルチョ卿デヴィッド・ウィームズ(英語版)、そして数人のカルヴァン派聖職者がいたが、彼らはモントローズ軍が逃走することを恐れてモントローズ軍への側面進軍を命令した。ベイリーは反対したが聞き入れられなかった。 カヴェナンター軍が進軍を開始すると、その左翼(側面進軍だったため、今や前方にいる)はモントローズ軍の左翼にあたるマクリーン氏族(英語版)の騎兵に攻撃し、右翼は王党派の騎兵を攻撃した。それ以外の兵士には特に命令がなく各自攻撃したため混戦となった。モントローズは機に乗じて騎兵とハイランダー軍を混乱したカヴェナンターの縦隊への攻撃に投入、王党派の騎兵も後にこの攻撃に参加した。ベイリー軍は破られ、逃げ出した。 カヴェナンター軍は約4分の3の損害を出した。ベイリー自身は騎兵の援護で南へ逃走したが、ケルビン川(英語版)近くのダラター湿原(英: Dallatur Bog)で捕まった。彼は騎兵を置いていかなければならなかったが逃走に成功し、無事スターリング城に着いた。後年、フォース・アンド・クライド運河(英語版)の工事中、このとき死亡した数人の兵士の遺体が引き上げられた。このうちの1人は乗馬したままだったという。
※この「戦闘の経過」の解説は、「キルシスの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「キルシスの戦い」の記事については、「キルシスの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 04:57 UTC 版)
ハンガリーに侵入したモンゴル軍本隊は、バトゥ率いる部隊とスブタイ率いる部隊に分かれており、バトゥ軍はドナウ河まで進んだ頃ハンガリー軍と遭遇した。数に大きく劣るバトゥの部隊は撤退を始め、これを追ってハンガリー軍はシャイオ川とヘルナッド川(英語版)の合流地点近くのモヒ(英語版)平原に入った。一方、スブタイ率いる部隊はバトゥの部隊とそれほど離れていなかったが、ハンガリー軍を包囲するためバトゥが使った石橋以外のシャイオ川の渡河地点を探して南方に進んだ。 ベーラ4世はモヒ平原に到着すると、素早くモンゴル軍の前衛部隊を撃破し、シャイオ川の石橋を奪い東岸に橋頭堡を得た。そこでベーラ4世は西岸に主力部隊とともに強固な防御円陣を築き野営した。ハンガリー軍は正面のバトゥ率いるモンゴル軍が自軍より数ではるかに劣るのに安心していたが、バトゥは翌朝7台の投石機(回回砲、トレビュシェット)を前線に投入し、シャイオ川東岸のハンガリー軍の橋頭堡に石弾と矢弾の集中攻撃を行った。「耳を裂くばかりの爆音と閃光」をともなって行われたこの射撃と連携して、モンゴル軍は騎馬隊を突撃させたためハンガリー軍は後退を始め、バトゥは石橋を再び奪取した。石橋を得たモンゴル軍は続々とシャイオ川を渡り進撃したが、数に勝るベーラ4世はモンゴル軍をシャイオ川に追い詰めようと主力を投入し、激戦が行われた。 ハンガリー軍の騎馬隊は何度も突撃を繰り返したが、そのたびにモンゴル軍は投石機と弓矢でハンガリー軍を撃退した。この時ようやくスブタイ率いる別働隊が戦場に到着し、ハンガリー軍を完全に包囲した。大軍を動かすにはモヒ平原は狭すぎ、身動きの取れなくなったハンガリー軍はモンゴル軍からあびせられる大量の石弾と矢弾によって壊滅的打撃を受けた。しばらくしてスブタイは西方のみ包囲を解き、意図的にハンガリー軍のための逃げ口を作った。ハンガリー軍のうち少数は武器や防具を放棄して包囲を脱したが、馬を乗り換えたモンゴル軍の軽騎兵に追いつかれ、ほとんどが討ち取られた。
※この「戦闘の経過」の解説は、「モヒの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「モヒの戦い」の記事については、「モヒの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/05 05:28 UTC 版)
堀江利真は敦賀を攻めて越前国内の甲斐派を追い出し、越前北部を制圧するなど、緒戦は守護側の勝利となった。これに対し義政は11月15日までに義敏と常治に関東に出陣するよう命令、合わせて常治の守護代職を保障したため、義政は義敏への譲歩を止めて常治支持を表明、11月4日に常治の息子敏光と朝倉孝景が近江に陣取り、義敏も近江に留まった。12月に義敏と常治は兵糧調達が出来ないことを幕府に伝え、動かなかった。 翌長禄3年(1459年)2月、幕府は両者の調停を図ったが、守護側が反対して失敗、敏光・孝景らが越前に入国して中央に打ち入り、義政も義敏を無視して改めて常治を越前守護代に任命、越前国人と若狭・能登・近江守護らに常治側の救援を命じ、守護代側に肩入れするようになる。 戦況不利になった状況の中、義敏は関東出兵の幕府命令を無視して、5月13日に常治側の金ヶ崎城を攻めて逆に敗れたことから、義政の怒りを買って周防の大内教弘の元へ落ちた。25日に越中・能登・加賀の軍勢が越前に乱入、敏光らも府中を押さえ、義敏方は越前から撤退していった。次の斯波氏当主は義敏の息子松王丸が継承した。 堀江利真は7月23日に坂井郡に陣取り抵抗を続けたが、8月11日、足羽郡和田荘の決戦で戦死、朝倉孝景の活躍により守護代側の勝利となる。
※この「戦闘の経過」の解説は、「長禄合戦」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「長禄合戦」の記事については、「長禄合戦」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 10:17 UTC 版)
「フェールベリンの戦い」の記事における「戦闘の経過」の解説
撤退戦と、それに参加しない部隊や荷車1500台以上にわたる大規模な輜重隊の撤退を支障なく遂行するため、ヴランゲル中将は7,000名(ドイツ語史料では11,000名から12,000名)を率いてハーケンベルク(ドイツ語版)のやや南に着陣した。指揮下の大砲38門はすでに先行させていたので、彼が投入できたのは急ぎ呼び寄せた7門のみであった。スウェーデン軍は8個旅団および騎兵24個中隊から編成されていた。これより前にスウェーデン軍は三回戦闘隊形をとったが、その都度それを解いている。 ブランデンブルク軍は約5,000の胸甲騎兵と大砲13門を伴う600の竜騎兵を擁していた。マスケット銃兵は騎兵隊の強行軍に追随できず、なお1日分遅れていた。この歩兵の不足はブランデンブルク軍の不利な点であった。ヴランゲル中将は指揮下の部隊を二つの戦列(ドイツ語版)に分け、古典的な陣形を組ませる。歩兵を中心に置き、騎兵を側面に配置したのである。この歩兵8個連隊は6個の旅団にまとめられていた。そして一つ目の戦列の隙間に砲兵が配置された。スウェーデン軍はハーケンベルクを背後に、リン湿地帯(英語版)を左翼に控え、右翼はデヒトウのトウヒ林に接していた。右側面の前方から少し離れた所には、カタリーネン沼があった。ブランデンブルク軍の左翼はカタリーネン沼に、右翼はリン湿地帯に接していた。ヴランゲル中将は右翼の方にあった丘を占領しなかった。フリードリヒ・ヴィルヘルムはこのミスを利用し、そこへ竜騎兵2個連隊に援護された砲兵隊を送りこみ、スウェーデン軍に側面から砲火を浴びせる。 ブランデンブルク軍が朝靄と雨に隠れて丘を占領した頃、ヘッセン=ホンブルク公子フリードリヒ2世(英語版)はブランデンブルク軍の右翼で戦い、分断の危機に瀕していた。朝の8時頃、配置に就いたブランデンブルク軍の砲兵が戦列を狙って砲撃を開始すると、スウェーデン軍の形勢は悪化し始める。この間に雨も靄も晴れ、ヴランゲル中将は丘から迫る脅威に気付いた。彼はスウェーデン軍に仕官していたマルツァーン中佐に、自軍右翼の騎兵および「ダルヴィヒ」歩兵連隊を率いて攻撃するよう命じる。スウェーデン軍は砲兵を援護していた予備の騎兵隊の撃退に成功した。その勢いは、ほぼ同時に選帝侯が来援するまで止まらなかった。デアフリンガー元帥はホンブルク公子と侍従のブーフ大尉を増援として送り込んだ。彼らはスウェーデン軍の側面を突き、敵を即時の撤退に追い込む。 ヴランゲル中将は左翼がホンブルク公子に脅かされなくなったので、そこから戦力を抽出して打撃を受けていた砲兵陣地を改めて攻撃した。この攻撃はパラッシュ(ドイツ語版)や騎兵銃を用いた白兵戦となる。デアフリンガー元帥を含む高級士官69名がその乱戦に身を投じた。元帥はホンブルク公子とメルナー(ドイツ語版)大佐によってこの危機から救出された。この時、メルナー大佐は戦死し、ヘンニゲス中佐が指揮を引き継ぐ。彼は味方の結束を保ち、スウェーデン軍に大きな損害を与えた。長く、双方が大きな被害を被った戦いの末にブランデンブルク軍は優勢を勝ち取り、スウェーデン騎兵を敗走に追い込む。これはスウェーデン軍の「ダルヴィヒ」歩兵連隊の孤立と包囲に繋がった。同連隊は完全に殲滅され、脱出に成功したのは20名のみであり、60名から70名が捕虜となった。そしてマルツァーン中佐は戦死した。 スウェーデン軍は大きな損害を被り、その騎兵は無秩序に陥り丘の奪取に失敗した。さらにブランデンブルク軍が、神聖ローマ帝国軍の来援を待っているという報告が入る。ヴランゲル中将はまだ退路が絶たれているにも拘らず、ハーケンベルクを経由してフェールベリンに撤退することを決意した。侍従ブーフの報告に拠ればスウェーデン側では2,100名が戦死し、さらに多くの者が負傷し、60名から70名が捕虜となる一方、ブランデンブルク側では218名が戦死し、280名が重傷を負ったとされる。 10時頃、スウェーデン軍は二つの戦列を整えるとフェールベリンへの退却を開始した。ブランデンブルク軍は左翼からこれを追撃し、スウェーデン軍と砲火を交えている。その一弾は選帝侯をかすめ、主馬頭エマヌエル・フローベン(ドイツ語版)の右膝から上を吹き飛ばした。その傷により、フローベンは1時間後に死亡している。しかしスウェーデン軍は左翼に強力な歩兵部隊を配し、地形も不適であったため、攻撃の機会は訪れなかった。ただ一度、すぐに防がれた小規模な攻撃が行われたのみである。昼頃、スウェーデン軍は防備の整ったフェールベリンに到着した。選帝侯は同地の砲撃を検討した、配下の進言を退けている。 その夜、スウェーデン軍は橋を応急的に修理した。こうしてフリードリヒ・ヴィルヘルムは明ける1675年6月29日の朝、スウェーデン軍の主力を湿地の対岸に見ることになった。「ゴータ」連隊のマスケット銃兵2個大隊が残り、この撤退を援護していた。デアフリンガー元帥は指揮下の前衛騎兵から1150名をこの銃兵隊の攻撃に差し向け激戦の末、竜騎兵の十字砲火をもって彼らを追い払った。退却の前、スウェーデン軍は貯蔵していた火薬に火を放っていた。それでも大砲5門、砲弾を積んだ荷車10台と弾薬を積んだ荷車4台、火縄9ツェントナーおよびマスケット銃の弾丸7ツェントナーが鹵獲されている。スウェーデン軍の残りはノイルピーンへ撤退した。応急修理された橋は戦闘で破壊されていたので、その追撃は不可能であった。 この会戦とその後の追撃によってスウェーデン軍から戦死者2,400名と捕虜300名から400名が出た一方、ブランデンブルク軍の死傷者は500名であった 。スウェーデン軍はアーダム・ヴァハトマイスター大佐、マルツァーン中佐の他に佐官5名、騎兵大尉6名、数名の尉官と准尉ならびに「ダルヴィヒ」連隊の全士官を失った。ブランデンブルク軍の戦死者にはメルナー騎兵大佐、ハンス・ヨアヒム・フォン・デア・マルヴィッツ少佐、アッセブルク大尉、バイアー大尉、ブルクスドルフ大尉、およびシューナーマルク大尉、数名の少尉と兵218名が含まれている。そしてズュードウ中佐、ケルナー中佐、シュトラウス中佐、ヘンニゲス中佐とブーフ大尉その他の者が負傷した。選帝侯はヘンニゲス中佐を戦場で貴族に叙し、大佐に昇進させた。 ブランデンブルク軍はラーテノウで竜騎兵の軍旗8本といくつかの太鼓を、そして丘の激戦で歩兵の軍旗8本、戦旗2本と大砲5門を鹵獲した。戦死者のほとんどは戦場に埋葬されている。
※この「戦闘の経過」の解説は、「フェールベリンの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「フェールベリンの戦い」の記事については、「フェールベリンの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 06:09 UTC 版)
「ブイル・ノールの戦い」の記事における「戦闘の経過」の解説
ブイル・ノールの東北80里、すなわちハルハ河北曲点にモンゴル軍が駐留していることを偵知した藍玉らは軽騎兵を選び、板を銜えさせて音を立てないようにし、モンゴル軍の不意を突いた。ウスハル・ハーンらは明軍が兵站の維持に苦労していることを把握していたため、明軍がモンゴル高原の奥深くまで進軍することはないだろうと油断しており、明軍の攻撃に対する備えを全くしていなかった。それに加え、この時強風によって砂がまいあげられており、明軍の接近を覆い隠してしまっていた。 明軍の奇襲を受けたウスハル・ハーンら首脳陣は北方に逃れようと車馬を整えたが、たちまち明軍が追いついてきた。モンゴル側ではマンジ太尉率いる部隊が殿として残り抗戦したが、衆寡敵せず数千人が殺され、金銀財宝・馬4万余りと5万人余りの捕虜が明軍の手に入った。 ウスハル・ハーンらは本拠地たるモンゴル高原中央部に逃れるためブイル・ノール北岸を西走したが、ここでもヨヨ司徒及び后妃ら4万人余りが明軍の捕虜となり、明軍は馬・駱駝1万5千を手に入れた。その後も明軍の通淵・何福ら率いる部隊はケルレン河まで追撃したが、ウスハル・ハーン及びティポド(天保奴)太子、ネケレイ知院、シレムン丞相ら首脳陣には届かず帰還した。 最終的に明軍はウスハル・ハーンの次男ティボド(地保奴)、故ビリクト・ハーンの妃や公主59人、呉王ドルジら2994人、軍士77037人、宝璽・図書・牌面149、宣勅・照会3390、金印1、銀印3、馬47000匹、駱駝4804頭、牛・羊102994頭、車3000を戦利品として獲得し、残された甲冑などは捕虜としたモンゴル兵たちに焼かせてしまった。 一方、明軍の追撃を振り切ったウスハル・ハーンはカラコルム方面を目指したが、トーラ河に至った所でアリク・ブケ王家のイェスデルの襲撃を受けた。この襲撃によってブイル・ノールの敗戦から逃れてきた残余の軍勢も潰走し、ウスハル・ハーンは僅か16騎とともに逃れてヨウジュ丞相とマルハザ太尉に迎えられた。ウスハル・ハーンは多数の人馬を擁するココ・テムルの下に逃れようとしたが、運悪く大雪に遭い、三日にわたって身動きがとれなかった。トーラ河でウスハル・ハーンを逃してしまったイェスデルは新たにホルフダスン大王とボロト王府官を派遣し、彼等に捕捉されたウスハル・ハーンは弓絃によって縊り殺されてしまった。
※この「戦闘の経過」の解説は、「ブイル・ノールの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「ブイル・ノールの戦い」の記事については、「ブイル・ノールの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 03:27 UTC 版)
明昌6年(1195年)11月、金の皇帝章宗はタタル部の叛乱を招いた夾谷清臣を更迭して皇族の完顔襄を起用し、北方のモンゴル高原方面に派遣した。明昌7年(1196年)、完顔襄は皇帝より「密詔」を受けて臨潢府を出発し、まずアラフマ(現在の西ウジュムチン旗南西一帯)で完顔安国率いる別働隊を東北方面の多泉子(タムサグ・ボラグ)に派遣した。その後、金朝の勢力圏を出た完顔襄は全軍を東軍と西軍にわけ、東軍は瑤里孛迭に率いさせ、自らは西軍を率いてそれぞれ北上した。 東軍・西軍はそれぞれ北上してケルレン河方面を目指したが、東軍はケルレン河畔のバルスに至ったところでタタル部の奇襲を受けて何重にも包囲されてしまい、これを知った完顔襄は東軍の下に急行した。戦場に近づいた西軍は疲労しきっており、諸将の中には援軍(完顔安国の部隊)を待つべきではないかと進言する者もいたが、完顔襄はタタル軍が外からの攻撃に警戒していない今こそ攻撃を行うべきであると主張し、間を置かずタタル部への攻撃を始めた。完顔襄の言葉通り、油断をつかれたタタル軍は混乱し、また包囲を受けていた東軍も呼応して攻撃を始めたたため、挟み撃ちにあったタタル軍は遂に敗走を始めた。 完顔襄は遅れて合流してきた完顔安国率いる別働隊をタタル部の追撃に派遣し、敗走するタタル部はウルジャ河まで逃れたが、そこで金朝の援軍要請を受けていたモンゴル・ケレイト連合軍がタタル軍を迎え撃った。『モンゴル秘史』の記述によると、金朝のオンギン・チンサン(「完顔丞相」がモンゴル語化したもので、完顔襄を指す)がタタル軍を追撃してウルジャ河方面に来たことを知ったチンギス・カンはトオリルに共に出兵するよう誘い、これに応えたトオリルは3日で軍勢を整えてチンギス・カンとともに出発した。メグジン・セウルトゥ率いるタタル軍はウルジャ河の畔のクストゥ・シトエンとナラトウ・シトエンという砦に立て籠もっていたが、モンゴル・ケレイト連合軍はこれを攻撃してメグジン・セウルトゥを殺し、銀製の乳母車や真珠や金糸で刺繡した衾などの宝物を手に入れた。 戦後、完顔襄はウルジャ河の戦いにおけるチンギス・カンとトオリルの功績を高く評価し、前者にはジャウト・クリという称号を、後者には「王(ong)」の称号を与え、これ以後トオリルは「王」に由来するオン・カンという称号を名のるようになる。元々、西遼派であったケレイト部君主は西遼に由来する「グル・カン」という称号を有していたが、この時漢語に由来する「オン・カン」を称したというのはケレイト部が西遼派から金朝派に転向したことを表す象徴的な出来事であったと言える。
※この「戦闘の経過」の解説は、「ウルジャ河の戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「ウルジャ河の戦い」の記事については、「ウルジャ河の戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:04 UTC 版)
永正3年7月、加賀一向宗は能登・越中の門徒も加え30万を超える兵(この数字は相当な誇張があると考えられる)で越前に侵攻。対する朝倉氏も朝倉宗滴を総大将とした兵8000から16000(諸説あり)で出陣し九頭竜川をはさんで対峙した。宗滴は敵の機先を制するべく夜半に渡河を決行し奇襲をかけた。これが功を奏し一向宗は打ち負かされ加賀に撤退した。勢いに乗った朝倉軍は越前吉崎御坊を破壊した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「九頭竜川の戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「九頭竜川の戦い」の記事については、「九頭竜川の戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 06:03 UTC 版)
「2020年西サハラでの衝突」の記事における「戦闘の経過」の解説
11月13日、モロッコ軍がゲルゲラトを通過する道路の支配権を掌握するために軍事行動を開始した。 11月14日、サハラ・アラブ民主共和国はモロッコと戦争状態であると宣言した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「2020年西サハラでの衝突」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「2020年西サハラでの衝突」の記事については、「2020年西サハラでの衝突」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 04:43 UTC 版)
1868年(慶応4年)閏4月3日の市川・船橋戦争に敗れた幕府軍の一隊は上総方面に南下、これを追って官軍も4日に検見川、6日に千葉(蘇我)へ追撃してきた。 同日夜に上総国八幡(市原市)辺りで薩摩藩兵二人が幕府軍によって殺害され、これを機に翌7日、幕府軍と新政府軍は養老川で対峙し五井戦争が勃発した。幕府軍は養老川の渡り船場の保持を村方に命じた。 新政府軍は、三方面に分かれて右翼隊が岡山藩兵と大村藩兵半隊が充当され、中央隊は薩摩藩兵、長州藩兵、大村藩兵が担当。そして左翼隊は津藩兵が東部台地上を本堂と並行する形で、養老川上流の権現堂へと向かった。 中央隊はまず村田川沿いに展開する敵を攻撃するために浜野の東方周辺に展開して前進し、右翼隊は本道から西側の海岸を散開して前進し敵に接近した。ここでは撤兵隊は頑強な抗戦をせず、徐々に養老川の線まで後退した。諸藩兵はこれを追撃して養老川右岸に進撃したが、幕府軍はここでやや強力な抵抗を展開した。 ここで右翼隊の大村藩兵が渡河を決行して養老川左岸に達し、幕府軍を側面より攻撃した。この側面攻撃によって幕府軍は崩れて退却を開始した。中央隊はこの機を逃さず、急迫して養老川の渡河を強行し、幕府軍の第二線陣地と想定された姉ヶ崎から真東に渡って伸びている高地の攻撃に移った。 正午を過ぎた当たりに新政府軍は姉ヶ崎東方の高地の攻撃を行った。薩摩藩兵2隊と一番砲隊が本道正面の旧幕府軍に向かい、薩摩藩兵1隊と長州藩兵1隊及び大村藩兵半隊は右翼隊を構成して、本道から西の地区より姉ヶ崎市街方面へと前進した。 また、新政府軍が東方高地の攻撃を開始した段階で佐土原藩兵が遅れて戦場に到着し、中央隊の左方向へと前進する中で意図せず岡山藩兵と合流して左翼隊を形成した。左翼隊は台地中央へと向かって前進したが、姉ヶ崎は義軍府の根拠地であったため攻め落とすことは容易ではなかった。 義軍府側の守備はこのように堅固であったものの、大砲はわずかに2門あったのみで砲兵の不足が深刻であった。一方の新政府軍は薩摩藩だけで砲5門と臼砲を投入しており、佐土原藩と岡山藩も砲を有していた。さらに戦場は遮るものがない開けた地であったため、諸藩兵は小銃の射程範囲外から砲撃を展開したので、精鋭とされていた撤兵隊も無力であった。従って砲弾が命中する度に旧幕府軍は激しく動揺し、射撃が弱まったため新政府軍は開闊地であるにも関わらず、容易に台地に接近した。 新政府軍右翼隊は、台地上から時々射撃を受けたものの砲兵の援護射撃もあって大損害には至らなかった。また、右翼隊は官軍切っての精鋭である薩摩、長州、大村の各藩兵で構成されており、これらは姉ヶ崎東北端の胸墻に急迫突入した。これに遅れて左翼隊の佐土原、岡山の両藩兵も中央台地を攻め登ったため、姉ヶ崎の義軍府陣地は午後二時過ぎにあっけなく陥落した。 一方、権現堂方面へ向かって東南台地上を前進していた津藩兵は市原八幡付近から分派して敵の小部隊を破り、幕府軍の駐屯地と思われた大師堂を焼いて、権現堂の対岸に達したものの、対岸西広付近に敵兵がおり防戦したため渡河攻撃は容易ではなかった。津藩はこれに迅速に対応し、一隊を西広北方の高地に派遣し、高地端より撤兵隊に俯瞰射撃を実施した。精鋭とされた撤兵隊もこれには手も足も出ず、川岸から撤退して村落内に秘匿した。津藩兵はこの好機を逃さず、渡河して左岸に登り権現堂村内へ突入した。このため幕府軍はここでも撃破され、津藩兵はさらに追撃して姉ヶ崎東方の北面高地を占領したが、既に新政府軍主力部隊が高地を占領した後であった。 この五井周辺の戦いで新政府軍側の損害が僅かに戦死1人、戦傷者28人程度であったのに対して幕府軍側の損害は戦死50~60人、戦傷者140~150人と壊滅的であった。
※この「戦闘の経過」の解説は、「五井戦争」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「五井戦争」の記事については、「五井戦争」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:53 UTC 版)
1938年7月、張鼓峰頂上にソ連兵が進軍し、兵力は次第に増強された。 ソ連軍(ソビエト軍)がこの時期に大攻勢に出た背景についてはっきりした結論は得られていないが、現在、有力な説として、事件の一ヵ月前、ゲンリフ・リュシコフが満州国に亡命したことの副産物だったのではないか、といわれている。ソ連の内務人民委員部 (NKVD) 所管下の国境警備隊が名誉挽回をめざした、というのである。 1938年7月6日、ポシェト地域のソ連軍司令官からハバロフスクのソ連軍司令部に送られた電文を日本の関東軍が傍受して解読した。その電文は、朝鮮の港湾都市羅津、そして朝鮮と満州を結ぶ戦略的に重要な鉄道を見渡せる高地を占領することはソビエトにとって有利であろうということを理由として、未だ誰も占領していないハサン湖の西側の高地、特に係争中の張鼓峰の高地をソ連兵が確保することを助言していた。 7月12日、ソビエト国境警備隊の小部隊がハサン湖の西側高地の領域に入り、山に砲床、観測壕、鉄条網、通信施設などを建設するなど、築城をはじめた。13日、これを監視中の松島伍長を不法に殺害した。 その地域の防衛を割り当てられていた日本の朝鮮軍は当初はソビエト軍の前進を無視していた。しかし、管轄地域が張鼓峰で重なっている関東軍は、ソビエト軍の企図に疑惑があるとして、もっと対応するよう朝鮮軍を後押しした。これを受けて朝鮮軍はこの件を東京に知らせ、ソ連に対して正式に抗議するよう助言した。 日本政府は7月15日、モスクワ駐在の日本の西代理大使を通じて、ハサン湖西方の沙草峰(ロシア名: сопка Безымянная, ベジミャナヤ) および張鼓峰(ロシア名: сопка Заозёрная, ザオジョルナヤ)はソビエトと朝鮮の間の国境地帯であるとして、これらの地域からソビエト国境警備隊を退去させるようソ連政府に要求した。満洲国も14日に同様の抗議をおこなった。しかしソ連側は、現地はソ連領であるとして譲らず、外交交渉は物別れに終わった。現地では、18日、軍使をもって、煙秋警備司令官に撤兵を要求したが、なんら回答はなかった。 ソ連軍は29日、張鼓峰北方の沙草峰にも越境し、陣地を構築しようとして日本守備隊に撃退された。 30日夜半から31日にかけて、張鼓峰および沙草峰付近に大挙してソ連軍が来襲してきたが、これに対して日本側守備隊は反撃を加え被占領地を奪回して満洲国領土を回復した。しかし、ソ連側はさらに兵力を増強し、執拗に侵攻を企て、朝鮮の古城、甑山などを砲撃した。 7月31日、ソビエト連邦陸海軍人民委員クリメント・ヴォロシーロフは第1沿岸軍に戦闘準備を下令し、併せて太平洋艦隊にも動員令を発した。 日本の第19師団はいくらかの満州国軍部隊とともに、グリゴリー・シュテルン指揮下のソビエト第39ライフル兵団(最終的には第32、第39、第40ライフル師団、および第2機械化旅団に編入される )と相対した。この時の日本側の指揮官の一人が、歩兵第75連隊長の佐藤幸徳大佐であった。佐藤の部隊は夜襲で丘にいるソビエト部隊を撃退した。ここで実施された夜襲戦法は日本軍が敵陣地を襲う際のモデルケースとなったものである。 また、張鼓峰事件の間に日本側は軽戦車と中戦車を組織して前線を攻撃したが、即座にソビエト軍の戦車と砲兵の反撃を受けたという報告もある。1933年には日本は臨時装甲列車を設計・製造していた。これが満州の第二装甲列車隊に配備されており、張鼓峰事件にも参加して、戦場に数千の兵を輸送した。 8月1日からはソビエト軍航空隊も出動し、日本側の第一線に爆撃を行い、さらに編隊を組んで朝鮮の洪儀、慶興、甑山、古城などを爆撃した。これに対して、日本側はソ連軍の猛攻に損害を受けつつも奮戦し、なんとか国境線を確保した。結果的にはソ連軍も大きな損害を被ることとなった。8月2日、ソビエト側の極東戦線司令官ヴァシーリー・ブリュヘルが前線に到着した。彼の指揮の下で増援部隊が紛争地域に送り込まれ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開された。一連の戦闘で日本軍は高地を維持しているも、大きな打撃を受け、停戦交渉を求めた。 8月10日、日本の駐ソ公使重光葵が停戦を申し入れ、マクシム・リトヴィノフの会談によって8月11日になってモスクワで停戦が合意され、交戦状態は8月11日に終了した。その結果、第19師団が両高地頂上を死守していた状態での停戦が決まった。
※この「戦闘の経過」の解説は、「張鼓峰事件」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「張鼓峰事件」の記事については、「張鼓峰事件」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 10:08 UTC 版)
閏4月3日の早朝午前5時頃、撒兵隊が八幡の岡山藩陣地を攻撃した。不意を突かれた岡山藩兵は大混乱に陥った。安濃津藩の援軍が駆けつけて市川方面から砲撃を仕掛けたものの、岡山・安濃津藩軍は総崩れとなり市川にて大砲2門を奪われ、後方の弘法寺で攻防が行われた。この間に市川宿が炎上して127軒が炎上した。ところが、昼頃に急を聞いて駆けつけた松戸方面から岡山藩の増援が、新宿方面から安濃津藩・薩摩藩の援軍が駆けつけたために戦況は一転し、撒兵隊は八幡・中山を放棄して船橋に撤収しようとした。 一方、鎌ケ谷にいた佐土原藩軍は、八幡方面からの砲声を味方である岡山・安濃津藩が撒兵隊に攻撃を仕掛けたと(実際とは反対に)勘違いをして木下街道から馬込沢を経由して船橋方面に進軍しようとした。途中、佐土原藩軍を待ち受けていた撒兵隊の別働隊が待ち構えており、馬込沢と夏見で衝突、一部の兵士は迂回を試みて近くの金杉(夏見の東側)や行田(同西側)でも衝突した。撒兵隊を駆逐した佐土原藩軍は昼頃に船橋に突入した。だが、これは結果的には双方にとって想定外であった。佐土原藩軍は既に安濃津藩軍などが船橋に入っているものと思っていたのに対して実際には味方の兵が船橋にはおらず、逆に船橋大神宮の本営では江原が市川で新政府軍を打ち破っているという報を受けていたために敵が突然船橋に現れたことに動揺を来たしたのである。 やむなく佐土原藩軍は単独での攻撃を決意、船橋大神宮の西に大砲を設置し、別働隊を大神宮の南側と北側に配置して砲撃と同時に大神宮への攻撃を仕掛けた。佐土原藩軍と撒兵隊は大神宮の北側にある「宮坂」で衝突して激しい戦いが繰り広げられたものの、船橋大神宮が砲弾の直撃を受けて炎上したため、総崩れとなった。その頃、行徳を出た福岡藩軍は薩摩藩の援軍の力を借りて二俣を経由して船橋の入り口にあたる海神に進出、中山と船橋の連絡を遮断した。これを知らずに船橋に撤退しようとしていた市川・中山方面からの撒兵隊は挟み撃ちに遭ってしまい潰走、負傷した隊長の江原さえもが放置される有様であった。更に船橋の街中で撒兵隊の残党がなおも抵抗を続けたために佐土原藩軍は船橋宿に火を放った。これが先の大神宮の火災と折からの強風が重なって予想以上の大火災となり、船橋を構成する3村で814軒が焼失してしまった。幸いな事に翌日の激しい雨の影響で火災は鎮火され、新政府軍は船橋の完全な制圧に成功したのである。公式の資料に明らかになっている死者は新政府側20名・旧幕府側13名だと言われている。
※この「戦闘の経過」の解説は、「市川・船橋戦争」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「市川・船橋戦争」の記事については、「市川・船橋戦争」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/26 06:11 UTC 版)
「ジョーウチ・ヴォーディの戦い」の記事における「戦闘の経過」の解説
1648年4月、政府軍の司令官達は貴族の諸部隊の到着を待つためにコールスニ町辺りに本陣を据え、ミコワイ・ポトツキの子息、ステファン・ポトツキ(英語版)が率いる1万人余りの先勢をフメリニツキーの根拠地へ派遣した。先勢は、4月29日にジョーウチ川(ドイツ語版)(ウクライナ語: Жовті Води - 英: Zhovti river)の辺りでフメリニツキーの8千人のコサックと1千5百人のタタール人の同盟軍と衝突した。 コサック・タタール同盟軍が優勢であったため、政府軍の先勢は速やかに陣地を要塞化し、そこに籠城して和平交渉を望んだ。しかし、交渉中に先勢にいた政府側の1千人余りの登録コサックは、同盟軍にいた同胞のコサックへ寝返り、交渉は中断してしまった。 5月15日の夜、先勢はコサックの軍の包囲を突破して脱出しようと試みたが、翌日にクニャージ・バイラークィという谷でコサック・タタール同盟軍に包囲され、コサックの鉄砲隊と砲兵隊の射撃によって壊滅した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「ジョーウチ・ヴォーディの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「ジョーウチ・ヴォーディの戦い」の記事については、「ジョーウチ・ヴォーディの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 19:35 UTC 版)
「カルタゴ・ノウァの戦い (紀元前209年)」の記事における「戦闘の経過」の解説
タッラコを発ってから10日後にカルタゴ・ノウァに到着したスキピオは、夕方にもかかわらず、陣営地の建設よりも先にタッラコに対する陸上からの封鎖網を築かせた。そして、レリウスの率いていた軍船によって海側を封鎖されたカルタゴ・ノウァは、干潟があった北側のみであった。この干潟は条件が良ければ徒歩で渡ることができるが、カルタゴ側は渡ることはできないと油断していた。翌朝、陸上側の城壁をめぐって戦闘が行われている間に、スキピオは北側の干潟を2千人の兵と共に渡ってカルタゴ・ノウァに攻め込んだ。それに対し、混乱したカルタゴ側は総崩れした。そして、陸上側の城壁も突破されたカルタゴ側は降伏した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「カルタゴ・ノウァの戦い (紀元前209年)」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「カルタゴ・ノウァの戦い (紀元前209年)」の記事については、「カルタゴ・ノウァの戦い (紀元前209年)」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:28 UTC 版)
1702年、バヴィルの補佐役で残虐な弾圧を進めていたシェーラ神父に対して民衆の怒りが爆発、7月24日にシェーラの屋敷を包囲して捕らえた彼を殺害、急遽かけつけたバヴィルと義兄のラングドック方面軍司令官・ブロイ伯ヴィクトル・モーリス・ド・ブロイが実行犯を処刑すると、プロテスタント達は森に隠れて徹底交戦する決意を固め、ピエール・ラポルト(通称ロラン)とジャン・カヴァリエを指導者にしてゲリラで対抗した。対するバヴィル・ブロイ伯は反乱者の家を焼き払ったり追跡しながら宮廷に援軍派遣を要請、当初は軽く見られ相手にされなかったが、1703年になると重大性を理解した宮廷からモントゥルヴェル侯率いる国王軍がセヴェンヌへ派遣された。 モントゥルヴェルは行く先々で虐殺と破壊を敢行、白カミザールという部隊を組織してラングドックを進軍したが、一層プロテスタントの反発を買いゲリラに苦しめられた。反乱側も外国への支援を要請、スペイン継承戦争でフランスと交戦していたイングランド・オランダに支援を要請したが、援助が具体化することは無かった。 翌1704年にヴィラールがモントゥルヴェルに代わりセヴェンヌに赴任、信教の自由を保障する和平交渉を呼びかけ反乱軍を分断する方針に出た。カヴァリエはヴィラールの和睦に乗り、ロランは宮廷がナントの勅令復活を明言しない限り無効だと拒絶したが、カヴァリエはセヴェンヌを退去して宮廷へ向かい、プロテスタント側も急進派を除いて妥協・和睦に踏み切り、徹底抗戦しようとしたロランは味方の裏切りで殺され、反乱は終息へ向かった。 ヴィラールはこの手柄で翌1705年にドイツのライン川戦線へ戻り、ベリック公が交代してラングドックの抗戦派を征討・平定した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「カミザールの乱」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「カミザールの乱」の記事については、「カミザールの乱」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 07:23 UTC 版)
「ブロア・ヒースの戦い」の記事における「戦闘の経過」の解説
ヨーク派の偵察隊は生垣の頂上に見えるランカスター家の旗を見て、すぐにソールズベリー伯に急を報告した。オードリー卿の軍が森林地帯から出現したとき、ソールズベリー伯は自分たちに倍する敵軍勢が待ち構えていたことを悟り、すぐさまランカスター軍の弓の射程圏外に出るよう指示した。彼は右側面の兵を守るために、補給用の荷馬車を密集させて右翼を保護し、円形のフォーメーションをとった。総崩れの心配から、ヨーク派軍人はこの場所を死に場所と覚悟して、地面にキスしたとも伝えられている。 両軍は約300mの距離を隔てて対峙し、広くて流れの急な小川が間を流れていた。小川は見るからにオードリー卿の進軍を阻んでいた。 最初、双方の指揮官は流血を避けるために停戦の討議を行い、多くの中世の戦いと同様に、両軍の弓兵同士の大弓での決闘によって勝敗を決めることになった。だが、ブロア・ヒースでの両軍の間の距離のため、この方法は決定的ではないと分かった。 そこでソールズベリー伯は、小川を渡っての攻撃が自殺的行為であると知っていたので、敵の方から彼を攻撃するよう促す策略を用いることにした。彼は自身の軍の中央部を、ランカスター派が「敵が撤退している」と信じ込むほどに後退させた。これを見たランカスター派は、装甲部隊の渡河による突撃に着手した。確実に渡り始めたところでソールズベリー伯は兵を戻し、渡河しかけたときを見計らってランカスター派を捕らえるよう命じた。この渡河突撃はオードリー卿の本来企図した命令ではなかった可能性があるが、ソールズベリー伯にとって非常に有利な、両軍の戦力差を均衡にする効果はあった。この突撃によってランカスター派に多くの死傷者が出た。 ランカスター派は引き下がって、そして再び(恐らく死傷者を救おうと試みて)襲撃を行った。この2度目の攻撃では、さらに多くのランカスター派が小川を渡ったので、ヨーク派はさらに大きな戦果を得ることが出来た。この激しい戦いは、オードリー卿自身が(恐らくエレスメア近くのストックスでロジャー・キーナストンによって)戦死したことで終止符を打たれた。 オードリーの死によってランカスター派の指揮は、約4,000人の兵を徒歩で指揮していた副司令官のダドリー卿ジョン・サットンに委ねられた。攻撃の失敗もあって、約500人のランカスター派の兵がヨーク派に合流し、味方を攻撃し始めた。残っているランカスター派の抵抗も失敗し、ヨーク派は敵を殲滅するためにただ進みさえすればよかった。 この殲滅戦は、ヨーク派が田舎道を夜通し逃げる敵を追いかけるという形で夜通し行われた。 ソールズベリー伯はランカスター派増援隊が近くにいることを心配していたので、ラドローへの進軍を望んでいた。そのため彼は追撃を中止し、ドライトンの丘の中腹で野営をした(後にこの場所には彼の名前がつけられることとなる)。兵を先に進めたいもののランカスター派の増援部隊の襲撃も避けたいソールズベリー伯は、ヨーク派がブロア・ヒースの上に未だ残留しているとランカスター派に見せかけるために、地元の修道士を雇って定期的に大砲を発射させた。 この戦闘で少なくとも3,000人が死亡し、ランカスター派の死亡者は2,000人以上といわれる。地元の言い伝えによれば、この小川ではその後3日間血が流れ続けたとされる。
※この「戦闘の経過」の解説は、「ブロア・ヒースの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「ブロア・ヒースの戦い」の記事については、「ブロア・ヒースの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 06:30 UTC 版)
「ウラーン・ホシューンの戦い」の記事における「戦闘の経過」の解説
6月7日、ウラーン・ホシューンにてオイラト軍と明軍は対峙し、両軍はともに高所に布陣した。両軍ともに遊牧国家伝統の中軍・右翼・左翼の3軍構成を取り、オイラト軍は3万余りの規模であったという。オイラト軍の側から動こうとはしなかったため、永楽帝は麾下の騎兵に命じてオイラト軍に突撃させ、これに答える形でオイラト軍も動きだし、戦端が開かれた。 まず、中軍どうしの戦いでは安遠侯柳升率いる部隊が突撃してくるオイラト兵に対して神機銃(火槍)を斉射し、数百人が負傷して混乱したオイラト軍に対して永楽帝自らが重騎兵を率いて突撃し、オイラト中軍は潰走した。オイラト左翼・明右翼の戦場では明の将軍武安侯鄭亨が流れ矢に当たって負傷し、また寧陽侯陳懋・成山侯王通らが奮戦してもオイラト軍をなかなか崩せなかったが、ここでも神機銃の連発によってオイラト左翼軍は敗走に追い込まれた。オイラト右翼・明左翼の戦場では唯一明軍側が劣勢にあり、指揮官の一人が戦死する事態に陥ったが、永楽帝が麾下の騎兵を援軍に回したため遂にオイラト軍は敗走を始めた。明軍は敗走したオイラト軍を追撃して北上し、トーラ河畔で再結集したオイラト軍は反転攻勢に出たが、ここでもオイラト軍は敗れマフムード、タイピンらは逃れた。 以上が明側の史料の伝える戦いの全容であり、明軍はオイラト軍に対して大勝利を収めたとされるが、実際には明側の損害も甚大であったようである。例えば、『朝鮮王朝実録』には「明軍はオイラト軍と交戦し、敗走したオイラト軍を追撃したところ、伏兵に後背を断たれて何十にも包囲されてしまい、神機銃を用いることでようやく攻囲を逃れることができた」という遼東の人々による報告が記録されている。これは第三者の記録であるが故に信憑性については疑問の余地があるものの、この記録が正しければオイラト軍の戦術は敗走してからが本番であり、明側の記録はオイラト側の攻勢を敢えて記録していないこととなる。 これを裏付けるように、永楽帝の第一次北征において明軍はオノン河でオルジェイ・テムル軍と、フルンボイル地方でアルクタイ軍と、それぞれ連戦できる余力があったにも関わらず、この第二次北征ではウラーン・ホシューンの戦いの後に追撃を主張する諸将を抑えてすぐに帰還している。また、「大勝利」からの帰還後も永楽帝はオイラトに対す防衛体制を強化するよう命じていることなども、「ウラーン・ホシューンの戦い」が決して明軍側の一方的勝利とは言えなかったことを示唆している。
※この「戦闘の経過」の解説は、「ウラーン・ホシューンの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「ウラーン・ホシューンの戦い」の記事については、「ウラーン・ホシューンの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 15:52 UTC 版)
戦闘は約2時間続き、序盤はリチャードの軍に有利だった。不幸にもウィリアム・スタンリー卿、トマス・スタンリー卿は積極的に参戦はせず、ヘンリーの側について参戦することに決めた。 リチャードの軍は先にアンビオン・ヒルに到着して兵士たちも休養が充分だったのに対して、ヘンリーの軍は足元がでこぼこの地面の上に整列するのにさえ手こずっていた(この理由については明確ではない)。リチャードは、おそらく混乱に陥ったランカスター派を徹底的に負かして、それから突進したのかも知れない。だが、結果的にこの突出が失敗につながった。 ヘンリーは準備が整うと、リチャードを丘の上から引き摺り下ろすために大砲と弓矢の間接攻撃を行った。リチャードの軍が突進する時、リチャードは右翼軍を指揮するノーサンバランド伯に戦闘に参加するよう命令を出した。だが、相変わらず中立を保つノーサンバランド伯は自らの軍隊をとどめて、この命令を拒否した(この行動によって、この日彼は逮捕されるが、間もなく新しいヘンリー7世によって釈放され、全ての爵位と所領を認められている)。戦闘の行方をヘンリー優勢に導いたのは、近くに待機していたスタンリー卿の決定であった。 リチャードの部隊指揮官であるノーフォーク公ジョン・ハワードが戦死し、中立を保っていたスタンリー卿とノーサンバランド伯も相手方に就いたため、リチャードは戦況をひっくり返すために勇敢な(だが自殺行為とも言える)突撃を敢行した。突撃する先は、主戦場から離れた所に帯陣していたヘンリーの部隊である。この突撃で、リチャードはヘンリーの旗手であるウィリアム・ブランドンを殺すほどに深く切り込んだ。だが、リチャードの視界にヘンリーが入ってきた時、スタンリー卿の軍隊が割って入って、リチャードの軍を包囲した。ここで、リチャード3世は殺される。32歳であった。 イングランド国王として戦死したのはリチャードが2番目であり(1番目は1066年のヘイスティングズの戦いでハロルド2世がノルマディー公ギヨームに殺された)、最後の王となる。リチャードの遺体は、不名誉にも勝利者によって埋葬された。 この戦闘によって、薔薇戦争の決着がついたといえる(実際にはこの2年後にストーク・フィールドの戦いが行われる)。
※この「戦闘の経過」の解説は、「ボズワースの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「ボズワースの戦い」の記事については、「ボズワースの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 23:06 UTC 版)
慶長2年(1597年)8月下旬、左軍に属した船手衆の藤堂高虎(兵数2,800)、加藤嘉明(2,400)、脇坂安治(1,200)、来島通総(600)、菅達長(200)と目付の毛利高政は全州占領後に艦船へ戻り、全羅道を北から南へと掃討を続ける陸軍に呼応して全羅道の南海岸沿いを西進し、先鋒は9月7日に於蘭浦沖に達する。碧波津(珍島の東北端の渡し口)に布陣していた李舜臣率いる朝鮮水軍はこれに対するため出撃したが、日本水軍先鋒が戦わずに立ち去ったため、追撃することができないままに碧波津に帰った。そもそも朝鮮水軍では大船が十二、三隻があるだけであり、戦力的に劣勢だったため、後続の日本水軍の集結を知るとひとまず鳴梁渡に退き、15日さらに右水営沖に移った。鳴梁渡は珍島と花源半島との間にある海峡であり、潮流が速く大きな渦を巻いている航行の難所である。 藤堂高虎らは敵の大船(本体)が近くにいることを知ってその捕獲を図り、9月16日、水路の危険を考えて全軍のうち関船(中型船)数十隻(朝鮮側記録では百三十余隻)だけを選抜して鳴梁渡へ向かった。これに対し朝鮮水軍は大船(板屋船)十二、三隻(その他後方に兵力を誇張するために動員された避難民の船百隻があったとされている。)で迎え撃つ。当初他の船は退いてしまい、一時は李舜臣の船一隻だけが立ちはだかった。帥字旗を掲げる李舜臣の旗艦は、海の中にそびえたつ城のように見えたという。旗艦の奮闘ぶりは朝鮮水軍を勇気づけ、僚船が次々と戦線に復帰した。欧米の歴史学者の認識も韓国の見解に近い。日本水軍は押し流され互いに衝突したり、密集しているところを朝鮮水軍の集中砲火を浴びた。日本水軍では来島通総以下数十人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの甚大な損害を受けた。毛利高政も海に落ちたが、藤堂水軍の藤堂孫八郎と藤堂勘解由に救助された。陸上の戦いではポルトガルより伝来していた火縄銃のおかげで有利な戦いを展開した日本軍であったが、水上の戦いは必ずしもそうではなかった。日本船は船底がV字型をしており速度が速く内海を航行するのに適していたが、波の荒い外洋には不向きであった。朝鮮船は船底が平たく、海が荒れても安定していたが松の厚板をつかっていたこともあり速度が遅かった。装備の面でも朝鮮水軍は船に大砲を搭載していたが、文禄の役に当初日本水軍にはなく一方的に砲撃を受けることがあったがやがて大型船には大砲を搭載した。さらに戦法の面でも日本水軍は敵船に乗り移っての白兵戦が得意であった。それに対して朝鮮水軍は近代的な艦隊運動と砲弾より火矢をつめた砲撃戦を主とした。この時代は明治維新の時期と異なり、両国の国力や技術力に大差がなかったのである。 この海戦における朝鮮水軍の損害は軽微であったとされるが、結局のところ衆寡敵せず、夕方になると急速に退却を開始し、その日の内に唐笥島(新安郡岩泰面)まで後退している。日本水軍は水路に不案内なため、帆を上げて戦場を離脱する朝鮮水軍を追撃することは行わなかったが、翌17日には藤堂高虎・脇坂安治らが前日の戦場を見回り、敵船の皆無を確認する。実はこの時点で、同日中に朝鮮水軍ははるか遠く於外島(新安郡智島邑)まで退却していた。 これにより朝鮮水軍の撤退後、日本水軍が鳴梁海峡を制圧した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「鳴梁海戦」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「鳴梁海戦」の記事については、「鳴梁海戦」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 19:19 UTC 版)
日本軍は迎撃の先鋒を立花宗茂・高橋直次(後の立花直次)兄弟とし、午前2時頃、先に森下釣雲と十時惟由ら軽兵30名が敵状を偵察、敵軍は未明の内に進軍すると予測し、午前6時頃碧蹄館南面の礪石嶺北側二所に布陣した。先鋒500を率いた十時連久と内田統続を正面に少ない軍旗を立てることで、査大受の率いる明軍2000を騙して進軍するよう誘致し、越川峠南面にて正面で連久らと交戦を開始した。そして宗茂と直次の本隊2000は、先鋒の連久らと中陣700の小野鎮幸、米多比鎮久を陣替する際に、直次と戸次鎮林を陣頭に立てて、左側面から敵後詰・高彦伯の朝鮮軍数千に奇襲を仕掛けて撃退に成功し、更に宗茂は800騎の備えを率いて明・朝鮮軍を猛烈追撃、戦果を拡大した。ここで日本軍は7千の敵軍と遭遇する。立花軍は奮戦するが、敵軍は次々に新鋭を繰り出し兵を入れ換えてくる。この最中、十時連久、内田統続、安田国継らは突撃を敢行、鑓を投げて数十騎を突落し、明・朝鮮軍を中央突破して回転突破したが、その際に中陣の戸次統直は強弓を引いて20餘の敵兵を射落し援護しながらも、連久が李如梅の毒矢を受けて、帰陣から間もなく戦死し、旗奉行の池辺永晟も連久負傷後は先鋒隊の指揮を暫任し中陣と替わるのを成功させたが、後の追撃戦で戦死した。寡兵の立花・高橋勢は奮戦してこれを撃退、越川峠北方右側にて兵を休ませ、この後に小早川隆景など日本軍先鋒隊が到着すると、疲労の深い立花勢を後方に下げて、西方の小丸山に移陣した。この戦端が開かれた時点では日本軍本隊はまだ漢城に在った。 午前10時頃、高陽原に明軍は左・右・中央の三隊の陣形で押し寄せた。日本軍先鋒隊は全軍を碧蹄館南面の望客硯に埋伏させ、同時に三方包囲策を進行し立花、高橋と吉川広家が左方、毛利秀包、毛利元康、筑紫広門と宇喜多秀家が右方から迂迴進軍する。午前11時頃、正面に出た隆景軍の先陣二隊の内、明軍の矢面に立った粟屋景雄隊が次々繰り出される新手を支えきれずに後退を始めると明軍はすかさず追撃に移る。しかし、戦機を待ってそれまで待機していたもう一方の井上景貞隊がその側背に回り込んで攻撃したことで明軍は大混乱となった。その機を逃さず立花、高橋勢が左方から、小早川秀包、毛利元康、筑紫広門勢が右方から側撃、隆景本隊と吉川広家、宇喜多家の家臣戸川達安、花房職之も正面より進撃し、明軍前衛を撃破して北の碧蹄館にいた李如松の本隊に迫って正午の激戦となった、この際立花軍の金甲の将・安東常久と一騎討ちして李如松自身も落馬したが、李如梅の矢を受けて常久は戦死した。落馬した李如松は小早川の部将井上景貞の手勢に迫られたが、側近の李有升が盾となってこれを助け、李如梅、李如柏らが救出した、李如松の親衛隊も李有升など80余名ほど戦死した。そこに明軍副総兵楊元が火軍(火器装備部隊)を率いて援軍として駆けつけ態勢を回復して防戦に努めるが、身動きもままならない狭隘地に三方から包囲される形となって壊走を始めたのは午後1時頃であった。 かくして日本軍本隊の本格的な戦闘参加を待たずに正午頃には戦いの大勢は決し、隆景らの日本軍は退却する明軍を碧蹄館北方の峠・恵陰嶺に午後2時から4時まで追撃し深追を止めたが、宗茂と秀家の軍勢はより北の虎尾里まで追討し、午後5時までに漢城へ引き上げた。なお、立花軍の金備え先鋒隊長小野成幸や与力衆の小串成重、小野久八郎と一門の戸次鎮林、そして高橋家中今村喜兵衛、井上平次、帆足左平、梁瀬新介も戦死し、宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、二つの甲首を鞍の四方手に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。また、秀包の家老の横山景義、下級武士の桂五左衛門、内海鬼之丞、伽羅間弥兵衛、手島狼之助、湯浅新右衛門、吉田太左衛門、波羅間郷左衛門なども戦死した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「碧蹄館の戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「碧蹄館の戦い」の記事については、「碧蹄館の戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 06:43 UTC 版)
1529年5月、スレイマン1世は大軍を率いて首都イスタンブールを発ちバルカン半島をドナウ川に沿って北上、8月に戦場だったモハーチでサポヤイと会見、彼の臣従およびハンガリー王位の保障を承認した。それから更に北へ進軍してブダを初めとするハンガリーの諸都市を陥落させたが、オーストリアの首都ウィーンにオスマン帝国軍が到達、包囲を完了したのは9月23日から27日の4日間であり、スレイマン1世が到着した27日は厳寒期で大雨が降っていたという記録が残っている。オスマン帝国は12万の歩兵を擁する大軍で300門の大砲も備え、2万頭のラクダで大砲などの輜重を運んだが、行軍中も悪天候で苦労し、包囲戦に間に合わなかった大砲もあった。 対するウィーンは歩兵2万、騎兵1000、70門の大砲を用意してオスマン帝国軍を待ち構えた。フェルディナントはウィーンから西のリンツへ退避してカール5世や諸侯の救援を切望して待機、カール5世も弟の危機に対応してスペインやドイツから援軍を派遣したが、それらは到底オスマン帝国軍に対抗出来る兵力ではなく、救援軍はオスマン帝国軍のウィーン包囲の報告を聞くと尻込みして進軍を停止、ウィーンは現地の守備軍任せになってしまった。 少ない兵力でオスマン帝国軍と対峙したウィーンでは防御体制の構築に全力を上げ、ニコラウス・フォン・ザルム(en)とヴィルヘルム・フォン・ロゲンドルフ(en)を指揮官とし、ウィーン外壁の家々を破壊して堡塁を設置、内部の萱葺き屋根は砲撃による火災を防ぐ目的で撤去、南と西の城壁の内側に土塁を築いて二重防衛線を敷くなど、オスマン帝国が迫る寸前に念入りに準備を整えた。また、北と東はドナウ川とウィーン川に阻まれ、攻撃位置は西と南に絞られるため、守備軍は南のケルンテン門に射撃の精鋭部隊を配置した。 オスマン帝国軍の攻撃は10月1日から始まり、城壁は敵の砲撃に晒されたが崩壊は免れ、ウィーン守備軍は攻撃をものともせず抵抗、東から坑道を掘り進めた大宰相パルガル・イブラヒム・パシャの部隊を奇襲して敗走させた。しかしオスマン帝国軍も黙って見ていた訳ではなく、6日(または7日)にケルンテン門から出撃した守備軍8000人を迎え撃ち500人を討ち取った。このような攻防戦はあったが、ウィーンはオスマン帝国軍の攻撃を跳ね返し、敵軍が地下道を掘り進めたり、地雷で城壁を爆破してそこから突撃しても直ちに対処、それらを木材などで埋めたり修理していった。 やがて雪が降り始め補給不足で兵士達の不満が高まると、スレイマン1世は14日を最後の攻撃と定め、オスマン帝国軍はケルンテン門付近で攻めかかったが失敗に終わり、14日夜から翌15日まで大雪が降ったこともあり、ウィーン陥落を諦めたスレイマン1世は17日に撤退した。包囲失敗の原因として、ウィーンの守備が整っていたことに加え、オスマン帝国軍の補給線が延びきっており、補給がうまくいかなかった事と、既に寒さが厳しくなって来ている9月から10月の出来事で、寒さに慣れていないオスマン兵では包囲戦がうまくいかなかった事が挙げられる。
※この「戦闘の経過」の解説は、「第一次ウィーン包囲」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「第一次ウィーン包囲」の記事については、「第一次ウィーン包囲」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 05:35 UTC 版)
「エッジコート・ムーアの戦い」の記事における「戦闘の経過」の解説
緒戦は、夜のうちに数マイル離れた近隣の村に滞陣したデヴォン伯のウェールズ人弓兵によって、一方的な展開となった。反乱軍は川を渡って攻撃し、ペンブルク伯に後退を余儀なくさせた。ペンブルク伯は後退してもなお攻撃を受けたが、デヴォン伯が到着するまで勇敢にも防ぎぬいた。 午後1時、ペンブルク伯は待ち焦がれていた、「デボン伯が全軍を率いて急速進軍」との知らせを受け取った。しかしそれと同時に、ウォリック伯の前衛部隊も戦場に到着したのだ。 これによって反乱軍の士気は直ちに上がった。敵軍の中にウォリック伯軍の姿を見たペンブルク伯軍の兵士たちは、ウォリックの精兵達の力の方が自分たちよりも上であると推測した。国王軍は(恐らくデボン伯が到着する前に)四散し、戦場から逃亡した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「エッジコート・ムーアの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「エッジコート・ムーアの戦い」の記事については、「エッジコート・ムーアの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 00:59 UTC 版)
「ノーサンプトンの戦い (1460年)」の記事における「戦闘の経過」の解説
先に戦場に到着していた国王軍はノーサンプトンにネーネー川を背にして防御的な陣を敷いた。これは戦術的に危険だったが、塹壕を掘り杭や大量の野戦砲も配備して防御を固め、10,000~15,000の強兵を揃えていた。一方、ヨーク派は豪雨の中の行軍で兵士が疲弊していた。 接近する間に、ウォリック伯は自分の代理としてヘンリー6世と交渉するために使者を送った。だがランカスター派指揮官のバッキンガム公ハンフリー・スタッフォードは「ウォリック伯は国王の面前には出て来る事はない。来ようとすれば、彼が死ぬだけだ」と答えた。ウォリック伯はノーサンプトンへの前進の間、2度も国王への取次ぎを拒否されている。一度など「2時には私は、国王と話をしているか死んでいるかだ」とも取れるメッセージを送っている。 2時、ヨーク派は進軍を開始した。左翼をフォーコンバーグ卿、右翼をマーチ伯、中央をウォリック伯が率いて縦列で進軍したが、打ち付ける激しい雨のため、思うように進軍できなかった。ランカスター派に接近した時、ウォリック伯に激しい矢の雨が降り注いだ。運の良いことに、ランカスター派の大砲は雨で役に立たなくなっていたのだった。 ウォリック伯がランカスター派の右翼側面に着いたとき、グレイ卿の指揮する部隊がヨーク派に寝返った。グレイ卿の軍は武器を放棄し、ヨーク派を本陣まで導いた。それはランカスター派にとっては、致命的ともいえる一撃であった。この後、戦いは30分ほど続いたが、陣を守る事も出来なくなったランカスター派の防衛軍は、ヨーク派の攻撃に撹乱されて隊列も維持できない状態で戦場から離脱した。 バッキンガム公、シュルーズベリー伯ジョン・タルボット、イグレモント卿、ボーモン卿らはヘンリー6世をヨーク派から守るため、王のテントをかばって戦死した。この戦いで約300人のランカスター兵が殺されヘンリー6世は捕らえられ、再びヨーク派の操り人形となった。ロンドン塔に残った守備隊も降伏、スケールズは逃亡に失敗して群衆に殺害され、ヨーク派が優位に立った。しかし、マーガレット王妃は戦場から離脱してウェールズに逃れ、そこで抵抗を続けた上、10月に議会でヨーク公が王位を要求したが受け入れられず、完全な決着がつかないまま両派の戦闘は継続していった。
※この「戦闘の経過」の解説は、「ノーサンプトンの戦い (1460年)」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「ノーサンプトンの戦い (1460年)」の記事については、「ノーサンプトンの戦い (1460年)」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 06:26 UTC 版)
23日、高崎藩の部隊200名は山側の永井宿の裏山(唐沢山)から、吉井藩および佐野藩の部隊180名は谷側の法師から、司令官の豊永は道案内の前橋藩を含む本隊の200名を率いて本道(三国街道)を進み、三方から大般若塚を銃撃した。会津側は地形上有利な高地に陣取り、民兵も投石や目潰しで援護した。しかしこの日の戦闘は雨によって中断した。官軍は日没前に周囲を偵察し、夜間のうちに一部の障害物を撤去する工作を行った。この偵察部隊には龍門寺住職の牧野再龍も加わっていた。 24日未明、濃霧の中、佐野藩の砲撃によって官軍が総攻撃を開始した。会津藩兵は前日の戦闘の後に何らかの理由で一旦後方の三坂茶屋まで引き上げており、不意を突かれた形となった。彼我の戦力差から、源之助は撤退して小千谷か小出島で守りを固める案を立てたが、久吉は「会津武士に退くという言葉は無い」と強く反対した。そして源之助の制止を聞かず久吉を一番槍に5人の若武者が濃霧の中を突っ切って官軍の軍勢へ突入した。久吉は蒲生氏郷伝来の大身槍を手に果敢に戦い、前橋藩隊まで迫ったところで半隊司令官の八木始(萩原朔太郎の祖父)が手にした拳銃に撃たれたが、撃たれてなお立ち上がり、向かってくる久吉を官軍の兵士が取り囲み、銃撃し、さんざんに斬って倒した。久吉は満身に銃創・剣創をうけて戦死。享年17歳。槍の名手であり、また美男子であった久吉は官軍によってその遺体の一部を食われたという(武勇に優れた者の身体を取り込むことで武勲がつくという迷信による)。この時官軍に従軍していた地元の猟師が鉄砲で同時に射掛けたが、晩年まで悪夢にうなされたという。 この時の久吉の戦いぶりを当時前橋藩砲兵指南役だった陸軍少将の亀岡泰辰(久吉と同年齢)が後の大正9年、雑誌『武侠世界』に寄せて「その勇気は賞賛するに余りある」と回想している。なお源之助(主水)もこの時になって初めて弟の死に様を知った。 会津側は午後(未の刻)まで持ちこたえたが、多勢に無勢であり、やがて総崩れになり、撤退行動に移った(井深隊からの伝令で北陸軍の進軍具合が伝えられたためとも言う)。 吉井藩の藩兵善吉は隊の先頭に立ち、大木で作られた柵を破壊しながら進路を切り開いたが、敵の銃弾から隊長をかばって戦死した。 記録に残る会津側の死者は藩士4名(町野久吉、好川瀧之助、古川深次郎、湯浅六弥)、負傷者1名(小桧山包四郎)。藩士以外の死傷者は不明。 官軍側の記録上の死者は3名(高崎藩・深井八弥、堀田藩・伊島吉蔵、吉井藩・吉田善吉)、負傷者3名。
※この「戦闘の経過」の解説は、「三国峠の戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「三国峠の戦い」の記事については、「三国峠の戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 06:26 UTC 版)
「マルジュ・ラーヒトの戦い (684年)」の記事における「戦闘の経過」の解説
マルワーン1世のカリフ位への選出は、ジュンド・ディマシュク(英語版)(ダマスカス)総督のアッ=ダッハーク・ブン・カイス・アル=フィフリー(英語版)の下に集結したカイス族の反発を招いた。二人のカリフ位の主張者の間で態度が揺れ動いていたダッハークはイブン・アッ=ズバイルを認めるように説得され、ダマスカス近郊のマルジュ・アッ=サファル(英語版)の平原に自身の軍隊を集め始めた。これに対してウマイヤ朝の連合軍はダマスカスに進軍し、ダマスカスはガッサーン族(英語版)の手によってウマイヤ朝側に明け渡された。 双方の軍隊は684年7月中旬にマルジュ・アッ=サファルの平原で最初の衝突を起こし、カイス軍はダマスカスの北東約17キロメートルのマルジュ・ラーヒト(現代の都市のドゥーマー(英語版)とアドラ(英語版)の間に位置する)の平原まで押し込まれた。双方の陣営の間で小競り合いが20日間続き、8月18日に最後の戦闘が行われた。双方の戦力がどの程度の規模であったかははっきりとしていない。北部イラン出身の歴史家のタバリー(923年没)はマルワーン1世の部隊を6,000人とし、他の伝承ではマルワーン1世とダッハークの部隊をそれぞれ13,000人と30,000人としている。一方、ハリーファ・ブン・ハイヤート(英語版)(854年没)の記録ではその規模がそれぞれ30,000人と60,000人にまで膨らんでいる。しかし、伝えられている史料からはウマイヤ朝軍がカイス軍よりもかなり規模で劣っていたことで一致している。マルワーン1世の軍の指揮官は、アッバード・ブン・ズィヤード(英語版)、アムル・ブン・サイード・ブン・アル=アース(英語版)(アシュダクの尊称で知られる)、そしてウバイドゥッラー・ブン・ズィヤードであった(別の伝承ではウバイドゥッラー・ブン・ズィヤードが騎兵隊を指揮し、マーリク・ブン・フバイラ・アッ=サクーニーが歩兵を指揮したとしている)。一方、ダッハークの軍の指揮官は、ズィヤード・ブン・アムル・ブン・ムアーウィヤ・アル=ウカイリーの名が唯一知られている。 戦闘に関する数多くの逸話と個人による記録や詩が残されているものの、8月18日にダッハークを含むカイス族の主要な指導者たちが戦死し、ウマイヤ朝軍が圧倒的な勝利を収めたという結果を除いて戦闘自体の詳細はよく判っていない。歴史家のニキータ・エリセーエフは、ウマイヤ朝のカリフがシリアの支配権を確立することを強く望んでいたカイス派の部族の裏切りを戦闘前の数週間の間に取り付けていたことがウマイヤ朝軍の成功につながったと説明している。さらにエリセーエフは、ウマイヤ朝が依然としてダマスカスの国庫を支配しており、このことが部族を買収してウマイヤ朝側に引き込むことを可能にしたと指摘している。カイス軍の残存者はズファル・ブン・アル=ハーリス・アル=キラービー(英語版)の支配下にあったカルキースィヤー(英語版)に逃れ、マルワーン1世はダマスカスで正式にカリフとして宣言された。
※この「戦闘の経過」の解説は、「マルジュ・ラーヒトの戦い (684年)」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「マルジュ・ラーヒトの戦い (684年)」の記事については、「マルジュ・ラーヒトの戦い (684年)」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 07:49 UTC 版)
ハインリヒ王子は神聖ローマ帝国軍をザクセンから駆逐するため、会戦を決意する。10月28日から10月29日にかけての夜、プロイセン軍は4個の部隊に分かれて、防備を固めた帝国軍の陣地を目指した。 ベリンク少将が最初の攻撃を指揮し、ある高地の占領に成功した。そこは帝国軍の右翼を砲撃するべく、1個砲兵中隊を配置できる場所であった。いよいよプロイセン軍の前衛部隊がヴェーゲファート(Wegefarth)からオーバーシェーナ(英語版)を経由して前進する。そしてそこに配置されていたフザールを追い払うと、帝国軍の左側面に回った。帝国軍はこの迂回行動から逃げず、砲撃戦を展開するだけであった。 その間にプロイセンの歩兵は、帝国軍陣地への経路を確保する。そしてザイトリッツ中将率いる騎兵隊が攻撃を敢行すると、帝国軍の歩兵はついに撃退された。両軍とも粘り強く戦ったものの、2時間後には戦闘が終結する。帝国軍はムルデ川(英語版)を渡り、退却せねばならなかった。
※この「戦闘の経過」の解説は、「フライベルクの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「フライベルクの戦い」の記事については、「フライベルクの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 01:49 UTC 版)
本記事では便宜上、ドイツ中央軍集団の担当戦区を「北部戦線」、南部軍集団の担当戦区を「南部戦線」と呼称する。 作戦発動日前日の7月4日、南部では午後から第LII軍団、第48装甲軍団が、深夜から第2SS装甲軍団が観測所を確保するため小規模な攻撃を開始した。5日未明、捕虜の情報からドイツ軍の攻撃を午前2時と知った赤軍は1時20分から30分間ドイツ軍の準備地域に大規模な破砕射撃を行った。しかし実際の攻撃開始時刻は午前3時半で、ドイツ軍は殆ど陣地に居らず、若干の損耗と北部で2時間、南部で3時間程度作戦開始が遅れただけであった。
※この「戦闘の経過」の解説は、「クルスクの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「クルスクの戦い」の記事については、「クルスクの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 08:43 UTC 版)
18日未明、露梁津を抜けようとした日本軍は南海島北西の小島、竹島の陰に潜んだ明水軍と同じく南海島北西の湾、観音浦に潜んだ朝鮮水軍とに出口で待ち伏せされ、南北から挟撃される形で戦闘が始まった。 戦の開端は夜明の際、偵察に用心している立花、高橋軍は一番に明、朝鮮水軍と交戦、立花家臣の池辺貞政は明の陳璘の戦船に乗り込んで一番乗りの功を挙げたが、串刺に遭れて戦死した。日本軍の奮戦により明・朝鮮水軍先鋒は観音浦へと後退し、先鋒が後退したのを見て前進してきた明水軍主力と島津本隊、および後続他家入り乱れての混戦となる。先陣を切っていた島津軍に損害が大きく、島津の将樺山久高率いる一隊は、海峡突破に成功したものの本隊と分断され、当初に朝鮮水軍の潜んでいた観音浦に逆に押し込められ、浅瀬に座礁して船を失い、徒歩で南海島を横断して東岸へ脱出せざるを得ないという状況にもなった。主将の島津義弘の乗船も潮に流されて後落し、敵船から熊手などを掛けられ切り込まれそうになる窮地に陥り、他家の救援も得てようやく脱出できたと伝えられる。この戦いについて、島津家臣の川上久国は自身の日記で海戦にも敵の偵察を用心し、善戦した立花高橋軍に比べ自軍の死傷甚大を嘆いていると記述した、また、宗茂は朝鮮船六十隻を捕獲して日本軍の撤退に用いた。このように戦況は日本軍に不利であり、夜が明けるころには大勢は決し、日本側の撤退により戦闘は終結した。 朝鮮王朝が編纂した『宣祖実録』には、「日本船百隻捕捉、二百隻焼破、斬首五百、捕虜百八十余、溺者数知れず」とあり、『宣祖実録』の別の記事では、「日本船の総数300隻、その内200隻が沈没、残りの日本船100席が撤退。日本側千人の死傷。溺死した者は数えることが出来ない。 」とある。朝鮮の宰相である柳成龍が記した「懲毖録」では「焚賊舟二百餘艘。殺獲無算。」とある。 明・朝鮮側資料では勝利を強調しているが、明・朝鮮軍側では、明軍の副将鄧子龍や朝鮮軍の主将李舜臣、さらに李英男(加里浦僉使)、方徳龍(樂安郡守)、高得蒋(興陽県監)、李彦良といった将官が戦死し、一時突出した明軍の主将陳璘も日本軍の包囲から危うく逃れたとされ、明・朝鮮水軍が退却する日本軍を追撃したり、あるいは再び順天を封鎖することは適わなかった。日本軍側に将官クラスの戦死者はおらず、主力の島津軍戦死者数も征韓録では実名を26名あげ、高麗軍覚でも実名を39名を載せ50余人が戦死したとし、その他の日本軍の戦死者数を加えても損害は100人に満たないと推定されている[誰によって?]。
※この「戦闘の経過」の解説は、「露梁海戦」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「露梁海戦」の記事については、「露梁海戦」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 02:49 UTC 版)
北海道南部に拠った箱館政権の艦隊は回天丸を中心に、蟠竜丸、千代田形丸の3隻の軍艦から成っていた。 それに対して新政府軍は、甲鉄艦を旗艦として、朝陽丸、春日丸、陽春丸、延年丸、丁卯丸の6隻の軍艦から成り、艦砲射撃で陸上の要塞を破壊して陸上部隊の上陸を支援する事を主任務としていた。 6月10日(旧暦4月30日)に千代田形丸が新政府側に拿捕され、箱館政権の軍艦は回天丸と蟠竜丸だけになる。両艦とも数多くの命中弾を受けながらよく戦ったが、6月16日(旧暦5月7日)に回天丸の機関部が損傷。弁天台場付近で意図的に座礁させ、砲台的に利用されるようになる。 6月20日(旧暦5月11日)の箱館総攻撃の折には、蟠竜丸が新政府軍の朝陽丸の弾薬庫に砲弾を命中させ、朝陽丸は爆発、轟沈。これによって箱館政権軍の士気を大いに高めるが、蟠竜丸も損傷を受け、浅瀬に乗り上げて放棄された。 この戦闘で箱館政権は全ての軍艦を喪失し、箱館戦争における海戦は終了。戊辰戦争の最終舞台は陸戦へと移った。制海権を掌握した新政府軍は、甲鉄艦により箱館政権軍が拠点とした五稜郭への艦砲射撃を、旧暦5月12日に開始。同月18日に箱館政権は降伏した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「箱館湾海戦」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「箱館湾海戦」の記事については、「箱館湾海戦」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 08:18 UTC 版)
日本軍は桜井省三中将率いる第33師団を主力として1942年5月4日にアキャブ方面を全面的に制圧していた。1942年9月以降は、インドとビルマ西岸の国境付近に一個大隊を除く第55師団所属歩兵第213連隊主力(宮脇支隊)を配備するようになった。 しかし1942年末に、日本軍部隊に対してインド領内のイギリス軍の1個師団(第14インド師団)及び1個旅団基幹が攻撃を開始した。さっそく同連隊の基幹がこれを迎撃した後、アラカン山脈の反対側からあらかじめ基幹から分離してあった残りの一個大隊が基幹に加わり、南北方向から英軍部隊を挟み撃ちした。さらにとどめとして、第55師団部隊がベンガル湾から上陸した陸戦部隊などをもって支援した結果、英軍旅団長を捕獲・捕虜としたうえ英軍側に甚大な被害を与えて日本軍側が圧勝した。
※この「戦闘の経過」の解説は、「第一次アキャブ作戦」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「第一次アキャブ作戦」の記事については、「第一次アキャブ作戦」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 14:17 UTC 版)
「マンスーラの戦い (1250年)」の記事における「戦闘の経過」の解説
Ashmum(現在のAlbahr Alsaghir)に到達した十字軍は、ナイル川を挟んでアイユーブ軍と対峙した。ルイ9世は渡河に苦慮し、船舶を解体した材木を使用して橋を架けたが、なおも渡河は困難を極めた。 2月8日にルイ9世と3人の弟は現地の人間から教えられた浅瀬を通り、ブルゴーニュ伯と現地の騎士たちを陣営の守備にあたらせた。テンプル騎士団とソールズベリーのウィリアム2世・ドゥ・ロンジェスピー(英語版)が率いるイングランドの分遣隊と共に運河を渡った。十字軍はマンスーラから約3km離れたGideilaでアイユーブ軍に奇襲をかけ、この襲撃によってファフルッディーン・ユースフは戦死した。奇襲の成功を確信したルイ9世は退却を命じるが、ロベールは反対を押し切り、決死隊を率いてマンスーラ市内に突入した。 アイユーブ軍は事態の把握と軍の再編に努め、アイユーブ朝の全権を掌握するシャジャル・アッ=ドゥッルはバイバルスの立てた計画を承認した。バイバルスはマンスーラの門を開けて十字軍の兵士を町の中に誘導し、決死隊は放棄されたように見えるマンスーラに殺到した。市内に突入した決死隊は四方からバイバルスの率いるマムルーク軍団に包囲され、退路も塞がれていた。ロベールは民家の中に逃げ込み、ウィリアム2世は多くのテンプル騎士団員と共に戦死する。突入した先遣隊290人のうち生存者はわずか5人、アイユーブ軍は戦死したロベールが付けていた紋章を見つけて「ルイ王を討ち取った」と勝利を宣言した。10日の午後から日没にかけての間に、戦場には1,500に及ぶ十字軍兵士の遺体が棄てられていたと伝えられている。ルイ9世は橋の防備に専念するが撤退を余儀なくされ、逃走兵の多くは運河で溺死した。 翌2月11日よりアイユーブ軍は反撃に転じ、カイファーから帰還したトゥーラーン・シャーの軍もエジプト防衛に加わる。十字軍は物資の欠乏と疫病に悩まされ、同年4月のファルスクールの戦い(英語版)においてルイ9世はアイユーブ軍の捕虜とされた。
※この「戦闘の経過」の解説は、「マンスーラの戦い (1250年)」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「マンスーラの戦い (1250年)」の記事については、「マンスーラの戦い (1250年)」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/15 13:12 UTC 版)
イサキオス2世はブルガリアへの報復のため、1190年の夏に3度目のブルガリア遠征の準備に取り掛かった。過去の遠征と同様に、東ローマ軍はバルカン山脈を越えてブルガリアに進入し、黒海沿岸のポモリエを通過するように見せかけた。東ローマ軍はRishを通過して西に向かい、プレスラフ(英語版)を目指して進軍した。ブルガリアの首都タルノヴォを包囲するため、東ローマ軍はさらに西進する。また、ブルガリア北部のクマン人の援軍を阻むため、イサキオス2世の本隊とは別に東ローマの艦隊がドナウ川(ダニューブ川)を進んでいた。しかし、東ローマ軍内にクマン人の援軍が到着した噂が流れるとイサキオス2世は撤退し、東ローマ軍のタルノヴォ包囲は失敗に終わる。 イヴァン・アセン1世は、撤退する東ローマ軍はトリャヴナ峠を通過すると予測した。東ローマ軍は徐々に南に後退していき、隊列は数キロメートルにわたる長さになっていた。ブルガリア軍は狭い峡谷の上で待ち伏せ、東ローマ軍の前列が通過した時に奇襲を仕掛ける。東ローマの指揮官はイヴァン・アセン1世が指揮を執る中央部に攻撃を集中したが、両軍の兵士が衝突した後、高所に陣取っていたブルガリア兵が東ローマ軍に矢や岩を浴びせかけた。混乱に陥った東ローマ軍は崩壊し、命令を無視して逃亡した東ローマ兵はブルガリア兵によって殺害される。イサキオス2世は辛うじて戦場から脱出したものの、財宝と帝権の象徴である王冠、笏、衣装はブルガリアの手に渡る。 戦勝の直後に、ブルガリアは一時的にヴァルナを占領するが、後にヴァルナは東ローマに返還された。
※この「戦闘の経過」の解説は、「トリャヴナの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「トリャヴナの戦い」の記事については、「トリャヴナの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/18 16:17 UTC 版)
イギリス軍は野営中でちょうど昼ご飯を食べようとしたフランス軍を奇襲した。フランス軍のフサールはすぐに逃げ出し、2個歩兵大隊は陣形を形成して戦おうとしたがヘッセン大隊の集中砲火を受けた。グラウビッツ男爵は1個大隊をマールブルクへ送り返し、残りの軍勢とともにキルヒハインへ撤退しようとしたが、逃げ道の大半はルックナーと軽部隊に塞がれた。撤退していたフランス軍にイギリスの第15軽騎兵連隊が突撃し、フランス兵士1,650以上を捕虜にする結果をもたらした。
※この「戦闘の経過」の解説は、「エムスドルフの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「エムスドルフの戦い」の記事については、「エムスドルフの戦い」の概要を参照ください。
戦闘の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/24 03:22 UTC 版)
詳細な戦場の位置、編成と兵数と出来事等については不明であるが、しかしこの戦闘は比較的無血であったと思われる。 ランカスター派の陣は、ヘクサムのやや南、デヴィルズ・ウォーター(Devil's Water)に架かるリネルズ橋(Linnels Bridge)の近くにあった。ヨーク派は5月12、13日の夜にタイン川(Tyne)の南の土手を越えて、14日の朝にはヘクサムを攻撃可能な位置に陣取っていた。恐らくヨーク派の進軍速度のあまりの速さにランカスター派の偵察部隊からの警鐘が遅れて、ランカスター派には充分な戦闘準備の時間はなかった。 サマセット公は彼の軍隊をリネルズ橋の近くまで急いで移動させ、横並びの3軍に分かれるよう再編成した。彼としては、ヨーク派がヘクサムに入る前に、何とかして街の外での戦闘に持ち込みたかった。ランカスター派より早く布陣の完了していたヨーク派は、ランカスター派よりもやや優位な高い丘に陣取っていて、そこからランカスター派の陣に突撃した。ヨーク派の前進を見るや否や、ルーシュ卿によって指揮されたランカスター派の中央部隊は向きを変えて、衝突もしないうちに橋を渡ってヘクサムの中に逃げ込んでしまった。ランカスター派の士気は崩壊し、若干の残存兵も名ばかりの抵抗の後に川に追い落とされた。この日の死傷者の大半は、この川で溺死したか、川から上がってヘクサムの街に向かって土手を登る最中に殺された。しかし大部分は、ただ進軍するだけのヨーク派に捕獲され、捕虜にされた。
※この「戦闘の経過」の解説は、「ヘクサムの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の経過」を含む「ヘクサムの戦い」の記事については、「ヘクサムの戦い」の概要を参照ください。
- 戦闘の経過のページへのリンク