満洲国軍
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満洲国軍(まんしゅうこくぐん)は、満洲国の軍隊である。1932年(大同元年)創設。1945年(康徳12年)解体。
- ^ a b c 『満洲国政府公報日譯』第2号、1932年(大同元年)4月15日、5頁
- ^ 『満洲国政府公報邦譯』第1号、1932年(大同元年)4月1日、7-10頁
- ^ 『政府公報日譯』号外、1934年(康徳元年)3月1日、2-4頁
- ^ 『満洲国政府公報日譯』第46号、1932年(大同元年)9月16日、6-7頁
- ^ 『政府公報日譯』第80号、1934年(康徳元年)6月8日、53-57頁
- ^ 実際には陸軍武官等級表(第一號表)、陸軍兵等級表(第二號表)の2つの表で規定されている。
- ^ 『政府公報』第1445号、1939年(康徳6年)2月2日、23-25頁
- ^ a b 実際には陸軍軍官官等表(附表第一表)、陸軍准尉官軍士官等表(附表第二表)、陸軍兵等級表(附表第三表)の3つの表で規定されている。
- ^ 『政府公報』第2237号、1941年(康徳8年)10月22日、388-390頁
- ^ 『政府公報日譯』第213号、1934年(康徳元年)11月15日、209-210頁
- ^ 『満洲国政府公報日譯』第82号、1932年(大同元年)12月28日、3-20頁
- ^ 『政府公報』第933号、1937年(康徳4年)5月12日、163-172頁
- ^ 『政府公報日譯』第246号、1934年(康徳元年)12月24日、215-249頁
- ^ 『政府公報日譯』第38号、1934年(康徳元年)4月19日、151-152頁
- ^ 実際には海軍武官等級表(第一號)及び海軍兵等級表(第二號)の2つの表で規定されている。
- ^ 『政府公報』第888号、1937年(康徳4年)3月18日、335-337頁
- ^ 実際には海軍士官等級表(第一表)、海軍准士官下士官等級表(第二表)及び海軍兵等級表(第三表)の2つの表で規定されている。
- ^ 『満洲国政府公報日譯』第2号、1932年(大同元年)4月15日、5-6頁
- ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター「満洲国軍事顧問並軍事教官一覧表外の件」
- ^ 『政府公報日譯』第221号、1934年(康徳元年)11月24日、333-334頁
- ^ a b 『政府公報』第1456号、1939年(康徳6年)2月17日、261頁
- ^ 『政府公報日譯』第120号、1934年(康徳元年)7月26日、195頁
- ^ 血書 軍官志願 半島の若き訓導から 満洲新聞 1939年3月31日付
- ^ 일 육사 졸업 뒤 항일연합군 공격“임정 입장서 박정희는 적군 장교”민족문제연구소 ‘박정희 친일 행적’ 신문 공개 ハンギョレ 2009年11月5日
- ^ 日本陸軍士官学校卒業後 抗日連合軍を攻撃 ハンギョレサランバン 2009年11月5日
- ^ 박정희 만주군관학교 지원때 “목숨바쳐 충성” 혈서 사실로 민족문제연구소, 당시 신문 공개 ハンギョレ 2009年11月6日
- ^ 朴正熙 満州軍官学校 志願の時 "命捧げて忠誠" 血書は事実 ハンギョレサランバン 2009年11月6日
- ^ a b c d e f 王文鋒(星名宏修訳)「偽満州国軍の潰滅」 植民地文化学会編『近代日本と「満州国」』、不二出版、2014年、ISBN 978-4-8350-7695-9、P.258-269。
- ^ a b c 情報局『写真週報』第180号、1941年8月6日発行、16頁。
- ^ 「満洲国指導方針要綱」、昭和8年8月8日閣議決定。
- 1 満洲国軍とは
- 2 満洲国軍の概要
- 3 組織
- 4 国軍としての実態
- 5 戦役
満州国軍
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ジョンジュルジャップ(正珠爾礼布) 満洲国軍中校。蒙古族。父親は満蒙独立運動(中国語版)で戦死したパプチャップ。川島芳子の元夫であるカンジュルジャップの弟。日本名・田中正。1945年8月11日、ソ連侵攻下ハイラル郊外のシヘニイで反乱を起こす。多数の日本軍官を殺害し、ソ連及び中国の戦犯となる。釈放後の1968年に病死。 作中では陰謀家として描かれており、当初はジャムツと旧知の間柄のウムボルトの存在を危険視し、その命を狙う。蒙古の誇りを捨て関東軍に取り入るような姿勢を見せているため興安軍の面々から警戒をされているが、その一方で凌陞事件(蒙古独立を画策したとして関東軍に処刑された事件。作中では妻の父としている)における日本側の対応に不満を抱き、その仇を討つ機会を狙っている。 野田又雄 日本陸軍少佐、興安南警備軍特別顧問。 典型的精強な日本軍人として描かれる。史実では十月事件に参加し、離反する青年将校が多い中最後まで橋本欣五郎側につく。離反した末松太平や大蔵栄一らは、彼と袂を別ったのにも関わらず、著書に彼への好印象を書いている。大蔵によればジョンジュルジャップと交友があったという。ノモンハン事件では通遼の興安南警備軍の特別顧問として部隊を指揮する。ウムボルトは当初、野田を兵士を戦場で死なせる冷酷な人物として嫌っていたが、次第に野田の優しい人柄に気づきはじめる。戦場でモンゴル人部隊の扱いをめぐり花谷と激しく対立する。ノモンハンで負傷、その傷が元で翌年死亡する。 須藤 日本陸軍中尉、興安軍官学校教導隊所属。山上らとは異なり、志願して軍官学校へ配属されている。モンゴルや大陸に関心があり、くすぶっている蒙古の人々を奮起させたいと意気込んでいる。おおらかな性格で、ウムボルトの良き相談相手、教導隊の面々の良き兄貴分となる。ノモンハン事件ではソ連軍による夜間砲撃の直撃に遭い戦死する。 山上 日本陸軍中尉、興安軍官学校教導隊所属。須藤中尉の弁によれば、意に反して軍官学校へ配属されることになったため、ひねくれている。ウムボルトが興安軍の配属となった当初は憎まれ口を叩くことが多かったが、次第に打ち解けるようになる。 寺崎 日本陸軍中尉、興安南警備軍所属。戦場馴れをしているが、威圧的なタイプではなく、蒙古少年隊の面々の面倒を見ている。ノモンハン事件ではソ連軍戦車部隊の攻撃を受けた際、支隊司令部を守るため蒙古少年隊を連れて、肉薄攻撃を試みるも、BT戦車の下敷きとなり戦死する。
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満州国軍
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1939年の教師失職後、師範学校時代の恩師である有川中佐の推薦を受け軍人になることを決意、日本国籍のまま1940年に満州国の首都新京の満州国陸軍軍官学校に合格者240人中15番目の成績で合格した。 満州軍官学校入校の翌1941年に創氏改名で高木正雄の日本名を名乗った。朴正煕が合格した満州国軍軍官学校2期生には、朴正煕を含め12人の朝鮮人学生がおり、彼らは満系生徒として生徒中隊に配属された。朴は第3中隊第3区隊(中隊長:愛新覚羅溥傑少校、区隊長:張連芝中尉)の所属だった。1942年3月に非日本人の首席で卒業、満州国皇帝溥儀から恩賜の金時計を授けられている。当時満州国軍中尉だった丁一権は朴正煕と親しく、新京で会う際にはしばしば、いずれ日本帝国主義が滅び、韓国が独立するとの旨を朴正煕から酒の席で聞いたと証言している。 満州国軍軍官学校卒業後、日本の陸軍士官学校に留学、第57期生編入を経て、1944年に卒業した。日本陸軍士官学校卒業後、チチハルの関東軍工兵下士官候補者隊を経て東寧駐屯の第120師団工兵隊(通称号:満州第635部隊) に見習士官として配属され、3か月間勤務した。1944年7月に満州国軍少尉に任官、朴正煕は満州国軍第5軍管区隷下 の歩兵第8団(所在地:熱河省興隆県半壁山鎮(中国語版)、団長:唐際栄上校)の朝鮮人将校4人のうちの一人 となった。1944年7月下旬から8月初旬ごろまで行われた八路軍討伐作戦では第8団第2連排長として参加。しかし朴の部隊は八路軍と交戦しなかったという。1945年7月に中尉に昇進、ソ連対日参戦により1945年8月9日にソ連軍が満州国に進攻した後、1945年8月15日の日本の降伏時は第八団の副官を務めていた。副官には甲乙の2種類があったが、朴は乙種副官であり、主に隷下部隊への作戦命令通達や団旗の管理をしていた。
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