野辺地戦争
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野辺地戦争(のへじせんそう、明治元年9月23日(グレゴリオ暦1868年11月7日))は、会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。
- ^ 大田(1980: 380)
- ^ 大田(1980: 384) 馬門村へ向かったのは「小島左近、笹権六郎の2小隊に千葉平弥の砲隊1小隊」によって編成された60名
- ^ 竹内司郎『戊辰野辺地戦争の悲運・津軽軍と南部軍の戦死者は何人か』
- ^ 大田(1980: 382)「同盟を破るのは不本意なことであるが、近衛家と弘前藩は古来より特別の関わりがあり、その命令に背くことはできなかった。我が藩は小藩であるがゆえ、国内警備に専念して領外に出兵しない」
- ^ 大田(1980: 381)
- ^ 大田(1980: 382)「わが藩にも援兵を出しておき、いまも、ともに謀るところがあるので、津軽進撃の儀は見合わせていただきたい」
- ^ 大田(1980: 382)
- ^ 大田(1980: 383)
- ^ 大館市史 p.363
- ^ 大館市史 p.377
- ^ 大田(1980: 384)
- ^ 大田(1980: 384)「新政府軍の弘前藩という既成事実のバスに乗り遅れる懸念」
- ^ 大館市史。大館周辺の戦いも参考。また、津軽藩は奥羽鎮撫隊の副総監の澤為量隊を矢立峠の巨木を倒し峠を封鎖して通過させない措置をとっていた。
- ^ 大田(1980: 379)
- ^ 大田(1980: 379) 著者私見
- ^ 大田(1980: 380) 迎撃に利用された野辺地砲台は三本木の水路開発をした新渡戸傳、新渡戸十次郎親子の設計によるものであり、台場を掘り下げて海からの目視を難しくするなどの工夫が施されていた。
- ^ 大田(1980: 380)「津軽の動静に少しく疑うべきところあるを以て」
- ^ a b c 大田(1980: 385)
- ^ 相馬大作事件で盛岡藩を裏切った刀匠の一人である喜七の義理の息子である。喜七は1821年野辺地門馬村の藩境を越え狩場沢陣所に書簡を届けた。その後、小島嘉兵衛貞勝と改名して弘前藩に仕官することになる。
- ^ 戊辰野辺地戦争の悲運 〜津軽軍と南部軍の戦死者は何人か〜
- ^ [1][リンク切れ]
- ^ 大田(1980: 386)「津軽が最初に放火したとはいえ、まず使者をもって応接すべき場面であり、降伏したにも関わらず応戦したのは、元から新政府に対する戦意を失っていなかったからだ」
- ^ 大田(1980: 386)
- ^ a b 大田(1980: 387)
- 1 野辺地戦争とは
- 2 野辺地戦争の概要
- 3 戦後処理
- 4 参考文献
野辺地戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/12/24 08:47 UTC 版)
戦闘の経過については野辺地戦争#経過を参照。 野辺地戦争では、戦士の様子について異なる三説が存在する。一説に野辺地軍事局付近の白岩口で砲弾により戦死したという。また一説に銃弾により負傷し、退却途中盛岡藩の倉館可納と遭遇、お互い悪口雑言を浴びせ、ついに首を打たれたという。また一説に盛岡藩の星合千之助に銃殺されたという。野辺地に他の戦死者と共に葬られた。
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野辺地戦争
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戦闘の経過については野辺地戦争#経過を参照。 盛岡藩士小原末造と一騎討ちになり、南部方の雑兵が丸太棒により足払いをして、助太刀し、戦死した。戦死の際に着用していた兜はその雑兵の手に渡ったが、その後故あって野辺地八幡宮に奉納された。なお、一説には退却しようとしていた左近を末造が大声で呼び止め、剣術に優れていた左近が応戦し、末造は右手を負傷したが、左近の額を斬りつけた。そして、逃走しようとする左近の脇腹を刺し、仕留めたともいう。また一説に、初め盛岡藩の倉館喜助と戦い、喜助が銃を捨て、逃走、末造が討ち取ったともいう。戦死の際の服装は、猩猩緋の陣羽織、藤色織物の小袴、白羽二重の具足下着、陣笠を着用していたという。野辺地の野辺地戦争戦死者の墓所に他の戦死者26名と共に葬られた。
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