アイユーブ朝とは? わかりやすく解説

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アイユーブ‐ちょう〔‐テウ〕【アイユーブ朝】


アイユーブ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/30 07:25 UTC 版)

アイユーブ朝(アイユーブちょう、アラビア語: الأيوبيون‎、クルド語:دەوڵەتی ئەییووبی )は、12世紀から13世紀にかけてエジプトシリアイエメンなどの地域を支配したスンナ派イスラーム王朝である[5]。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。


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アイユーブ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 18:47 UTC 版)

アレッポ城」の記事における「アイユーブ朝」の解説

サラディン息子アル=ザーヒル・アル=ガーズィー (al-Zahir al-Ghazi) は、1193-1215年の間アレッポ統治した。この時代城塞は、主要な再建要塞化、それに今日現在の城塞の複合体構成する新たな構造物追加経ていった。君主スルターン)ガーズィーは、上部城壁強化し、その露出した表面平らに整え入口付近斜面区域石材覆った。堀の深さ22メートルと、水路に繫がることでさらに増し今日城塞入口としての役割をする高い陸橋である橋梁けられた。13世紀初頭10年間に、城塞は、居住宮殿浴場)、宗教モスク聖堂)、軍事設備兵器庫訓練場防衛塔城門)、支持基盤貯水槽穀物倉)などの機能をもつ壮麗な都市へと発展した。最も顕著な改修1213年再建され城門である。君主ガーズィーはまた、城塞2つモスク修復し、そして南および東の郊外など都市防壁拡大するとともに、その壁以上に防備中心である城塞整備した

※この「アイユーブ朝」の解説は、「アレッポ城」の解説の一部です。
「アイユーブ朝」を含む「アレッポ城」の記事については、「アレッポ城」の概要を参照ください。


アイユーブ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 06:33 UTC 版)

ハッラーン」の記事における「アイユーブ朝」の解説

12世紀終わり頃、ハッラーンラッカはともにアイユーブ朝の王子たち置かれた。アイユーブ朝のジャズィーラ地方支配者だったアル=アーディルハッラーン城塞強化した

※この「アイユーブ朝」の解説は、「ハッラーン」の解説の一部です。
「アイユーブ朝」を含む「ハッラーン」の記事については、「ハッラーン」の概要を参照ください。

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