来島通総とは? わかりやすく解説

来島通総(くるしま みちふさ) 1561~1597

村上氏 牛松丸 助兵衛 出雲
◇父:来島通康 子:来島長親
 伊予河野氏臣で来島通康4男。伊予来島城主。しかし河野氏による幕府への公用銭横領等で、両者の関係悪化。後に背いて羽柴秀吉仕え四国征伐先鋒担って戦功をあげた。水軍の将として活躍するが、朝鮮出征慶長の役の際、戦死した

来島通総

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/18 03:23 UTC 版)

来島 通総(くるしま みちふさ)は、安土桃山時代伊予国武将大名


  1. ^ 西尾和美「戦国末期における芸予関係の展開と婚姻」「織田政権の西国侵攻と瀬戸内海賊衆」(『戦国期の権力と婚姻』清文堂出版、2005年)2005年、75-94・215-220.
  2. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」(『駒沢史学』49号、1996年)
  3. ^ 小川 2020, p. 167.


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来島通総

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 23:06 UTC 版)

鳴梁海戦」の記事における「来島通総」の解説

このとき戦死した伊予の来島通総は、海戦参加した大名(注・江戸時代以降カテゴライズである「1万石以上の知行」という区切り)としては唯一の戦死者となった家督次男来島長親継いだ日本捕虜となっていた姜沆は「通総が全羅水営戦死した時も、弟が代わってその城に居ることになった」と少々誤認含んだ上で、“家督相続により、その指揮系統継承される日本式風習記している。なお通総の庶兄得居通幸も、朝鮮水軍との海戦死亡している。

※この「来島通総」の解説は、「鳴梁海戦」の解説の一部です。
「来島通総」を含む「鳴梁海戦」の記事については、「鳴梁海戦」の概要を参照ください。

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