ヘイスティングズの戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヘイスティングズの戦いの意味・解説 

ヘイスティングズの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 01:41 UTC 版)

ヘイスティングズの戦い英語: Battle of Hastingsフランス語: Bataille d'Hastings[注釈 1]は、1066年10月14日ノルマンディー公ギヨーム2世のノルマン・フランス軍とアングロ・サクソンハロルド・ゴドウィンソン指揮下のイングランド軍との間で戦われ、イングランドにおけるノルマン征服の端緒となった。ヘイスティングズのおよそ11キロ(7マイル)北西、今日のイースト・サセックスバトルの近くで行われ、ノルマン人が決定的な勝利を挙げた。


注釈

  1. ^ 古英語では「Gefeoht æt Hæstingum」、ノルマン語では「Batâle dé Hastings」である。
  2. ^ この地域のヴァイキングは「北の民」(Northmen)[5]として知られるに至り、「ノルマンディー」「ノルマン人」の由来となった[4]
  3. ^ 厳密な日付に関する大元の資料群には些少の混乱が見られる。おそらく1月5日であったが、いくつかの同時代の資料は1月4日としている[18]
  4. ^ 他の競争者も後から役割を演じた。まずはエドガー・アシリングで、エドワード懺悔王の甥の息子であり、エドマンド2世(剛勇王)の父方の後裔であった。エドマンド2世の息子であるエドワード・アシリング(亡命者)の息子で、クヌート1世(大王)イングランド征服後に父が逃走した先であったハンガリー[25]に生まれた。家系の結局のイングランド帰還と1057年の父の死があった後で[26]、エドガーは断然に強力な王座の相続請求権を備えていたものの、エドワード懺悔王の死の時期には13歳あるいは14歳に過ぎず、支援する家人もほとんどなく、彼の請求は賢人評議会には顧みられなかった[27]。いま一人の競争者はデンマークスヴェン2世[28]で、スヴェン1世(双叉髭王)の孫かつクヌートの甥として王座の請求権を備えていたものの[29]、王座を得ようと試みるのは1069年に至ってのことであった[30]トスティ・ゴドウィンソン1066年初頭の攻撃は王座を狙う試みの手始めでもあったかもしれないが、エドウィンモーカ英語版の前に敗北し、追随者の大半から見捨てられた後に、彼はハーラル3世と運命をともにした[31]
  5. ^ 現存する船団表は、異なる14家系のノルマン貴人が貢納した776隻を記載している[48][49]。この表は、ギヨームが妻であるフランドルのマティルダ[50]から贈られた旗艦モラ号を含んでいない。バイユーのタペストリーには獅子の船首像を備えたモラ号が描かれている[51]
  6. ^ 彗星の出現はバイユーのタペストリーに描かれており、ハロルドの戴冠と結びつけられているものの、彗星が現れたのはより後の、4月24日から5月1日にかけてであった。タペストリーの画は、現存する最初期の画像によるハレー彗星の表現である[54]
  7. ^ ほとんどの近代の歴史家はこの日付に同意しているが[58][59][60][61][62][63]、いくつかの同時代資料はギヨームの上陸を9月29日としている[64]
  8. ^ ほとんどの同時代の記録はギヨームペヴェンジーに上陸したとしており、『アングロ・サクソン年代記』の「E写本」のみが上陸をヘイスティングズで起きたこととしている[64]。ほとんどの近代の記録もまた、ギヨームの軍勢がペヴェンシに上陸したと述べる[51][59][60][61][62][65][66][67][68][69][70][71]
  9. ^ この35名の中、5名が戦いで死んだことが判っている。ヴィトのロベール、レーグルのエンゲヌルフ、ロベール・フィッツエルネア、トゥラルドの息子ロゲ、(吟遊詩人の)テイルファフランス語版[81]である[82]
  10. ^ 「霜白色」(hoar)は灰色を意味し、おそらくは地域の目印であったらしい、地衣類で覆われた野生林檎の樹を指している[90]
  11. ^ 40万の数字はウァースルー物語』で示され、120万の数字は『ヘイスティングズの戦いの詩英語版』から採られている[93]
  12. ^ 名を挙げられたこれらの者の中で、8名が戦いで死んだ――ハロルド、ギリス、レオフウィン、国王役人のゴドリック[98]、バークシャーのサーキル、ブリーム、そして「ヘロックの息子」としてのみ知られている人物である[82]
  13. ^ 一部の歴史家はスノッリ・ストゥルルソンの13世紀の見解に基づいて、イングランド軍は時折は騎兵として戦ったと論じる。『アングロ・サクソン年代記』のような同時代の記録は、イングランド兵が騎乗での戦いを強いられた場合、彼らは1055年ヘレフォード近傍においてのように、通常は総崩れとなっていたと記している[99][100][101]
  14. ^ ヴィクトリア朝時代の歴史家で、戦いに関する権威ある記録の一つを執筆したエドワード・フリーマン英語版[110]が世に広めた名である[111]
  15. ^ 「サンドラク」(Sandlacu)は、現代英語では「砂の池」(sandlake)と訳しうる[110]
  16. ^ 「センラック」(Senlac)は古英語で「砂の池」(sand lake)を意味し、ノルマン人征服者たちはそれを(フランス語で)「サングラック」(sanguelac)と呼んだと、 フリーマン英語版は解釈を示す。「サングラック」の英語訳が「血の池」(blood lake)であることから、フリーマンは語呂合わせとしての語法と見ている[112]
  17. ^ 「ヘスタ(Hæsta)という者の一族または従士(その集落)」が、「ヘイスティングズ」(Haestingas、Hastinges)の語源とされている[114][115]
  18. ^ ヘイスティングズにおける最初の戦闘は、テイルファフランス語版という名の吟遊詩人と数名のイングランド人戦士の間で行われたとする、『ヘイスティングズの戦いの詩英語版』、ウァースルー物語[133]ハンティングドンのヘンリーによる12世紀の記録という3種の資料から採られた逸話が存在する[123]。この逸話には2通りの形態があり、一つはテイルファが戦いに先立って剣を用いた曲芸でノルマン軍をもてなし、しかし続いて彼を殺すために送り込まれたイングランド兵士を殺したとしている。もう一つは吟遊詩人がイングランド軍へ突進し、2名を殺した後に自らも死んだとする[117]
  19. ^ 見せかけの逃走の利用例は、1052年前後のアルクの戦い、1060年メッシーナの戦い、1071年カッセルの戦いフランス語版に見られる[138]
  20. ^ 19世紀のタペストリーの修復が、眼を射抜く矢を追加し、あるいは場所を移動させたことで場面を変化させたという根拠が存在する事実があって、この論点はさらに混乱をきたしている[147]
  21. ^ アマトゥスイタリア語版の記録は、ヘイスティングズでギヨーム公が10万の兵士を指揮していたとも述べており、信頼が置けるというほどではない[149]
  22. ^ 近代の図上演習は逃走するノルマン勢を追撃しない選択の正しさを示しており[157]、歴史家クリストファー・グラヴェット英語版は、図上演習においてハロルドにノルマン勢への追撃を許せば、対戦相手は「即座にそして当然に、鋭い反撃をもってそのような軽率さを罰し、それが戦闘の転換点となることとなった――ちょうど、1066年におけるようにである」と述べた[160]
  23. ^ ハロルドの顔は見分けることができず、ハロルドの事実婚上の妻であった金髪のエディス英語版[162]が戦場に連れてこられ、彼女のみが知る特徴でその遺体を確認したと、12世紀の伝承は述べている[153]
  24. ^ 現在に修道院がある位置に、墓地が置かれた可能性はある[166]
  25. ^ 戦闘でギヨームの側において戦った6万人の中で、1万5000人が死んだと彼は述べる[167]
  26. ^ 180番の数字が振られたこの骸骨は、頭蓋後部の6か所に剣による致命傷を受けており、また暴力による外傷を被っていた5体の骨格の1つであった。各個人の正体についてさらに厳密な像を構築するため、他の遺体について分析が続けられている[168]
  27. ^ 「アシリング」(Ætheling)は、何らかの王座への請求権を備えた王家の子息を指す古英語である[171]
  28. ^ ギヨームは増援と合流するためにこの経路を辿ったようであり、ポーツマスに上陸していた彼らとはロンドンウィンチェスターの間で落ち合った。北へ回り込むことで、ギヨームはロンドンを増援から遮断した[174]
  29. ^ タペストリーに関する最初の言及記録は1476年であるが、形式において後期のアングロ・サクソン写本の図表と類似があり、イングランドで構想され完成されたものでもありうる[185]。タペストリーは現在、フランス・バイユー以前の司教館フランス語版に展示されている[186]
  30. ^ オドフランス語版バイユーの司教で、ギヨーム(ウィリアム1世)の異父弟であった。ヘイスティングズの戦いの場で司教杖をかざしてノルマン勢を鼓舞する姿が、「バイユーのタペストリー」第54場に描かれている[184]

出典

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヘースティングズの戦い」の解説”. コトバンク. 2021年9月18日閲覧。
  2. ^ 鶴島 (2015), p. 83.
  3. ^ Bates (1982), pp. 8-10.
  4. ^ a b Crouch (2007), pp. 15-16.
  5. ^ 鶴島 (2015), p. 267.
  6. ^ Bates (1982), p. 12.
  7. ^ Bates (1982), pp. 20-21.
  8. ^ Hallam, Everard (2001), p. 53.
  9. ^ 鶴島 (2015), p. 205.
  10. ^ Williams (2003), p. 54.
  11. ^ Huscroft (2005), p. 3.
  12. ^ 鶴島 (2015), p. 209.
  13. ^ 鶴島 (2015), pp. 215-216.
  14. ^ 鶴島 (2015), pp. 218-221.
  15. ^ Stafford (1989), pp. 86-99.
  16. ^ 鶴島 (2015), p. 89.
  17. ^ Fryde, Greenway, Porter, Roy (1996), p. 29.
  18. ^ Barlow (1970), p. 250 and footnote 1.
  19. ^ a b Higham (2000), pp. 167-181.
  20. ^ Walker (2000), pp. 136-138.
  21. ^ 佐藤 (2003), pp. 26-27.
  22. ^ Bates (2001), pp. 73-77.
  23. ^ Higham (2000), pp. 188-190.
  24. ^ Huscroft (2005), pp. 12-14.
  25. ^ 鶴島 (2015), p. 277.
  26. ^ Huscroft (2009), pp. 96-97.
  27. ^ Huscroft (2009), pp. 132-133.
  28. ^ 鶴島 (2015), p. 105.
  29. ^ Stafford (1989), pp. 86-87.
  30. ^ Bates (2001), pp. 103-104.
  31. ^ Thomas (2007), pp. 33-34.
  32. ^ a b 鶴島 (2015), p. 213.
  33. ^ Walker (2000), pp. 144-145.
  34. ^ Walker (2000), pp. 154-158.
  35. ^ 鶴島 (2015), p. 227.
  36. ^ a b Nicolle (1999), pp. 69-71.
  37. ^ a b c Marren (2004), pp. 55-57.
  38. ^ Coredon (2007), p. 154.
  39. ^ 鶴島 (2015), pp. 229-231, 268-269.
  40. ^ 鶴島 (2015), pp. 226, 268.
  41. ^ a b c Gravett (1992), pp. 28-34.
  42. ^ 鶴島 (2015), pp. 228-229.
  43. ^ 鶴島 (2015), pp. 225-228.
  44. ^ Walker (2000), pp. 144-150.
  45. ^ Walker (2000), pp. 158-165.
  46. ^ 鶴島 (2015), pp. 92-94.
  47. ^ a b c Bates (2001), pp. 79-89.
  48. ^ 鶴島 (2015), pp. 101-102, 240.
  49. ^ a b c d e Gravett (1992), pp. 20-21.
  50. ^ 鶴島 (2015), p. 300.
  51. ^ a b c Marren (2004), pp. 91-92.
  52. ^ Huscroft (2009), pp. 120-122.
  53. ^ Douglas (1964), p. 181 and footnote 1.
  54. ^ Musset (2005), p. 176.
  55. ^ Porter (2020), pp. 4, 26-27.
  56. ^ Douglas (1964), p. 192.
  57. ^ 佐藤 (2003), p. 27.
  58. ^ Gravett (1992), p. 50.
  59. ^ a b Huscroft (2009), p. 123.
  60. ^ a b Barlow (1988), p. 81.
  61. ^ a b Stenton (1971), p. 591.
  62. ^ a b Thomas (2007), p. 35.
  63. ^ Douglas (1964), p. 195.
  64. ^ a b Lawson (2002), p. 176.
  65. ^ Bennett (2001), p. 37.
  66. ^ Gravett (1992), pp. 47-49.
  67. ^ Huscroft (2005), p. 15.
  68. ^ Stafford (1989), p. 100.
  69. ^ Bates (2001), p. 86.
  70. ^ Walker (2000), p. 166.
  71. ^ Rex (2005), p. 221.
  72. ^ 鶴島 (2015), pp.123-124, 257.
  73. ^ Lawson (2002), p. 179.
  74. ^ 鶴島 (2015), pp. 112, 117.
  75. ^ Bennett (2001), p. 25.
  76. ^ a b Lawson (2002), pp. 163-164.
  77. ^ Bennett (2001), p. 26.
  78. ^ Marren (2004), pp. 89-90.
  79. ^ Gravett (1992), p. 27.
  80. ^ Marren (2004), pp. 108-109.
  81. ^ 鶴島 (2015), p. 274.
  82. ^ a b c Marren (2004), pp. 107-108.
  83. ^ Gravett (1992), pp. 15-19.
  84. ^ Gravett (1992), p. 22.
  85. ^ Gravett (1992), pp. 24-25.
  86. ^ Carpenter (2004), p. 72.
  87. ^ Huscroft (2009), p. 124.
  88. ^ Marren (2004), p. 93.
  89. ^ 大沢 (2012), p. 223.
  90. ^ a b Marren (2004), pp. 94-95.
  91. ^ a b Lawson (2002), pp. 180-182.
  92. ^ a b Marren (2004), pp. 99-100.
  93. ^ Lawson (2002), p. 128 footnote 32.
  94. ^ Lawson (2002), p. 128 and footnote 32.
  95. ^ Lawson (2002), pp. 130-133.
  96. ^ Marren (2004), p. 105.
  97. ^ 鶴島 (2015), p. 303.
  98. ^ 鶴島 (2015), pp. 197, 270.
  99. ^ 大沢 (2012), p. 208.
  100. ^ 鶴島 (2015), pp. 212-213.
  101. ^ a b Gravett (1992), pp. 29-31.
  102. ^ Marren (2004), p. 52.
  103. ^ Bennett, Bradbury, DeVries, Dickie, Jestice (2006), pp. 21-22.
  104. ^ a b c Lawson (2002), pp. 183-184.
  105. ^ Marren (2004), p. 114.
  106. ^ Lawson (2002), pp. 212-213.
  107. ^ a b Gravett (1992), p. 91.
  108. ^ 鶴島 (2015), p. 158.
  109. ^ Marren (2004), p. 101.
  110. ^ a b Lawson (2002), p. 57.
  111. ^ Lawson (2002), p. 129.
  112. ^ Freeman (1869), pp. 743-751.
  113. ^ Marren (2004), p. 157.
  114. ^ ミルズ (1996), p. 260.
  115. ^ Harper, Douglas (2018年). “Hastings” (英語). Online Etymology Dictionary. 2023年3月19日閲覧。
  116. ^ a b c d Gravett (1992), p. 59.
  117. ^ a b Marren (2004), p. 116.
  118. ^ 鶴島 (2015), p. 135.
  119. ^ a b Lawson (2002), pp. 186-187.
  120. ^ Huscroft (2009), pp. 125-126.
  121. ^ a b Bennett (2001), p. 40.
  122. ^ a b Lawson (2002), pp. 190-191.
  123. ^ a b c d e f g h Gravett (1992), p. 64.
  124. ^ Hare (1984), p. 11.
  125. ^ English Heritage. “Research on Battle Abbey and Battlefield” (英語). English Heritage. 2021年9月18日閲覧。
  126. ^ Battlefields Trust. “Battle of Hastings: 14 October 1066” (英語). UK Battlefields Resource Centre. 2021年9月18日閲覧。
  127. ^ Lawson (2002), p. 192.
  128. ^ a b c d e f g Bennett (2001), p. 41.
  129. ^ 鶴島 (2015), pp. 252-254.
  130. ^ 鶴島 (2015), pp. 96-97.
  131. ^ 鶴島 (2015), p. 301.
  132. ^ 鶴島 (2015), p. 175.
  133. ^ 鶴島 (2015), p. 164.
  134. ^ a b Gravett (1992), pp. 65-67.
  135. ^ a b Bennett (2001), p. 42.
  136. ^ Gravett (1992), p. 68.
  137. ^ 鶴島 (2015), p. 168.
  138. ^ a b c d e Gravett (1992), pp. 72-73.
  139. ^ Marren (2004), pp. 127-128.
  140. ^ 鶴島 (2015), p. 171.
  141. ^ a b c d Bennett (2001), p. 43.
  142. ^ Marren (2004), p. 130.
  143. ^ a b c d e Gravett (1992), pp. 76-78.
  144. ^ Marren (2004), pp. 131-133.
  145. ^ Marren (2004), p. 135.
  146. ^ 鶴島 (2015), p. 183.
  147. ^ a b Lawson (2002), pp. 207-210.
  148. ^ Marren (2004), p. 138.
  149. ^ a b Rex (2005), pp. 256-263.
  150. ^ Marren (2004), p. 137.
  151. ^ Walker (2000), pp. 179-180.
  152. ^ 鶴島 (2015), pp. 188, 274-275.
  153. ^ a b Gravett (1992), p. 80.
  154. ^ 鶴島 (2015), p. 186.
  155. ^ a b c Lawson (2002), pp. 217-218.
  156. ^ a b c Huscroft (2009), p. 130.
  157. ^ a b Marren (2004), p. 152.
  158. ^ a b Lawson (2002), pp. 219-220.
  159. ^ Walker (2000), pp. 180-181.
  160. ^ Marren (2004), quoted in p. 152.
  161. ^ Nicolle (1987), p. 20.
  162. ^ 鶴島 (2015), pp. 213, 303.
  163. ^ Rex (2005), p. 253.
  164. ^ a b c Huscroft (2009), p. 131.
  165. ^ a b Gravett (1992), p. 81.
  166. ^ a b c Marren (2004), p. 146.
  167. ^ a b Marren (2004), pp. 147-149.
  168. ^ a b Livesay (2014), p. 6.
  169. ^ Barber, Sibun (2010), pp. 79-109.
  170. ^ 鶴島 (2015), pp. 187, 189.
  171. ^ Bennett (2001), p. 91.
  172. ^ Douglas (1964), pp. 204-205.
  173. ^ a b Douglas (1964), pp. 205-206.
  174. ^ Bennett (2001), p. 45.
  175. ^ 鶴島 (2015), p. 260.
  176. ^ Douglas (1964), p. 212.
  177. ^ Bennett (2001), pp. 49-50.
  178. ^ Bennett (2001), pp. 51-53.
  179. ^ Bennett (2001), pp. 57-60.
  180. ^ Coad (2007), p. 32.
  181. ^ Coad (2007), pp. 42-46.
  182. ^ Coad (2007), p. 48.
  183. ^ Marren (2004), p. 165.
  184. ^ a b 鶴島 (2015), pp. 193-194.
  185. ^ a b Coad (2007), p. 31.
  186. ^ Gravett (1992), p. 99.
  187. ^ “Normans fight Saxons... and the rain” (英語). BBC News. (2000年10月13日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/970522.stm 2021年9月18日閲覧。 
  188. ^ Richards, Stuart (2006年10月14日). “King Harold and William square up” (英語). BBC News. http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/southern_counties/6050986.stm 2021年9月18日閲覧。 
  189. ^ Banet, Remi「ヘイスティングスの戦いから950年、古戦場で再現イベント 英」『AFPBB News』、2016年10月16日。2021年9月18日閲覧。
  190. ^ 英国でヘイスティングスの戦いを再現、950周年で熱気ひとしお」『ロイター通信』、2016年10月17日。2021年9月18日閲覧。
  191. ^ “Battle of Hastings returns after two years off” (英語). ITV News. (2021年10月10日). https://www.itv.com/news/meridian/2021-10-10/battle-of-hastings-returns-after-two-years-off 2021年11月20日閲覧。 
  192. ^ 池 紀彦 (2021年10月29日). “「Age of Empires IV」レビュー”. GAME Watch. 2021年11月20日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヘイスティングズの戦い」の関連用語

ヘイスティングズの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヘイスティングズの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヘイスティングズの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS