見せかけの逃走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 11:01 UTC 版)
「ヘイスティングズの戦い」の記事における「見せかけの逃走」の解説
午後の早くにおそらく小康状態が生まれ、休息や食事のための中休みが必要とされたことであろう。ギヨームはまた、あるいはイングランド軍の追撃とそれに続くノルマン軍の手にかかった潰走から着想を得た、新たな戦術を実行するために時間を必要としていたこともありうる。ノルマン軍が楯壁(英語版)に対して騎兵を送り、次いでイングランド軍をさらなる追撃へ引き込むことができれば、イングランド軍の戦列に開口部が生ずるかもしれない。ポワチエのウィリアム(英語版)は、この策が2度に渡って用いられたと述べる。この策に関する年代記作者連の記述が、ノルマン軍部隊の戦闘からの逃走を弁明する意味合いであったかという点で議論がなされているものの、先立った逃走は言いつくろわれておらず、それはなさそうである。この策略は同時代に他のノルマン軍も用いたものであった。一部の歴史家は、意図的な策として見せかけの逃走を用いたという話は、戦いの後になって着想されたものであると論じる。しかし大半の歴史家は、ノルマン軍によるヘイスティングズでの利用という点に同意している。 見せかけの逃走が戦列を崩すことはなかったにせよ、おそらくはイングランド軍の楯壁内のハスカールを減じさせたものであった。フュルド(英語版)の者がハスカールに取って代わり、楯壁は維持された。公が率いた騎兵と歩兵による攻撃の前とその最中に、再び弓兵が用いられたようである。12世紀の資料は、弓兵が楯壁の正面を越して射るように高角度での射撃を命じられたと述べるものの、より同時代に近い記録にはそのような行動の形跡は存在しない。イングランド軍戦列に対して敢行された襲撃の回数は不明であるが、いくつかの資料は午後の戦闘の間に起きた、ノルマン兵とイングランド兵の様々な行動を記録している。『ヘイスティングズの戦いの詩(英語版)』はギヨーム公が戦闘中に2頭の乗馬を殺されたとするが、ポワチエのウィリアム(英語版)の記録は3頭であったとしている。
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