戦いの後
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本戦闘は砲撃から白兵戦に至るまでの激戦であり、新政府軍の死者は26名、怪我人は160名を数え、仙台藩の死者は32名、怪我人78名を数えた。新政府軍はとうとう仙台藩領に進出し、占領した駒ヶ嶺に兵力を集結させた。仙台藩はついに領内へ新政府軍を迎えることになり、大きく動揺する。これまで仙台藩の戦闘は他藩領での戦闘であり、退却を繰り返していたが、新政府軍のいる位置はもはや退くことのできない地点だった。特に新政府軍は徴兵制を始めたばかりであり、中村藩の農兵のような増援が予測できるだけに、一刻も早く総力をもって新政府軍を領内からたたき出す必要があった。だが、東北戦争に共通した特徴として仙台藩の戦略は鈍重であり、この戦闘において旗巻峠の部隊を動かすことができなかった。
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戦いの後
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この戦闘は独立戦争の中で唯一デラウェア州で行われたものである。コーンウォリス将軍の前衛隊がクーチ橋を占領し、コーンウォリス将軍自身はトマス・クーチの家を接収した。イギリス軍はフィラデルフィアに向けた前進を続け、9月11日にブランディワインの戦いで両軍は激突した。この戦闘に勝利したイギリス軍にはフィラデルフィア入城への道が開け、9月26日に占領した。しかしこの成功はハドソン川に向かった遠征隊の失敗で相殺された。バーゴイン将軍は1777年10月のサラトガの戦い後にその軍隊と共に降伏した。バーゴイン軍降伏の報せは戦争そのものを変えた。その結果(およびフィラデルフィア占領後に起こったジャーマンタウンの戦い)は1778年にフランスがアメリカとの同盟で参戦を決断する重要な要因になった。
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戦いの後
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大陸軍側は自軍の捕虜交換を実行しなかった。正式には大陸会議がジョージ・ワシントンの抗議にも拘わらず同意事項を否定し、フォースターが捕虜をインディアンに渡すことで虐待したと非難した。エチケット違反を糾弾する手紙が、イギリス軍総司令官で植民地総督のガイ・カールトンではなく、ジョン・バーゴイン中将に宛てて送られた。この大陸軍の行動は、当時モントリオールにいた大陸会議代表団の一員チャールズ・キャロルから「100人以上のアメリカ兵が野蛮人に残酷に殺害された」という過剰に悲惨さを伝える証言によって、悪い方に動いた可能性がある。この事件に関するアーノルドの報告書には、2人の捕虜がフォースターのインディアンに殺されたという根拠の無い陳述が含まれていた。この事件に関する歴史資料では(例えば1882年のジョーンズ(Jones)による史料)インディアンによるかなりの残虐行為に関する証言が含まれているが、これを支持する証拠はほとんど見つかっていない。この大陸会議による拒否は1781年の捕虜交換のときに事態を複雑にした。このときはイギリス軍のバーゴインと、サウスカロライナ州出身の大陸会議代表でロンドン塔に拘禁されていたヘンリー・ローレンスの交換だった。ローレンスはチャールズ・コーンウォリス解放の交渉を援助する約束と引き換えに解放された。 アーノルドは当初この敗北の責任をベデルに負わせた。アーノルドはベデルとバターフィールドを指揮系統から外し、軍法会議のためにソレルに送った。大陸軍がソレルから撤退したために、2人の軍法会議は1776年8月1日になってタイコンデロガ砦で行われた。2人共に有罪とされ軍隊から解雇された。ベデルは志願兵として従軍を続け、1777年10月にバーゴインが降伏した後、大陸会議から新しい任官を与えられた。
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戦いの後
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北軍は数百名の南軍兵を捕虜にしたが、なお数百名は暗闇の中でバーンズビル道路を逃亡した。その中にはフォレスト、アームストロング、ロディの各将軍が入っていた。その西では、多くの南軍兵が追跡する北軍と戦いながら、バレー・クリークの東岸まで後退した。彼等はバレー・クリークがアラバマ川に合流する地点近くで暗闇の中を泳いで川を渡り、逃亡した。今日、この場所でセルマの戦いの再現が行われている。フォレストはこの市内から逃亡する時に北軍兵を1人殺しており、南北戦争の戦闘中に自ら殺した30人目の者になった。このセルマの戦いで北軍は359名の損失を出し、一方南軍の損失は2,700名以上となったが、その大半は捕虜になった者達だった。また大砲32門も奪われた。 勝ち誇った北軍はその夜市内を略奪し、多くの企業や民家を焼いた。。翌週は武器庫や海軍製鉄所を破壊するために使われた。最後にセルマを離れてアラバマ州の州都モンゴメリーに移動し、復活祭の日曜日(4月16日)にはジョージア州コロンバスの戦いを戦い、ジョージア州メイコンまで進んで戦争が終わったことを知った。5月10日、この部隊はジョージア州アーウィンズビルでアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスを捕まえた。
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戦いの後
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フィリップス大佐は戦闘の後の夜にカンザス砦と呼ばれる地で宿営した。このときまでにカンザス第14騎兵隊隊の残り部隊が援軍には来ないことが分かっていた。翌日、フィリップスは自隊を2つに分けた。ウィレッツ少佐に騎兵隊をつけて南に派遣し、逃亡する南軍兵の追撃とコルバート知事の捜索を行わせた。ワトルズ大佐には歩兵隊の指揮を執り、ホームズ砦まで進軍するよう命じた。 2月15日、フィリップスは自隊にポントトク郡庁舎と、コクランの町にある南軍とチカソー族の建物全てを燃やすよう命じた。戦前はチカソー族の学校であり、南軍兵の収容に使われていたコルバート・インスティテュートの破壊も命令した。 アトカ郡歴史協会が毎年この戦闘の様子を再現して、ミドルボギーの戦いを祝している。2015年は2月15日に行われた。
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戦いの後
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「チェルシークリークの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
この小戦闘はアメリカ独立戦争で植民地軍が始めて野砲を使ったものとなった。植民地軍に戦死者はおらず、少数の者が負傷しただけであり、その士気はダイアナを捕獲し破壊したことで大いに上がった。この戦闘はイズラエル・パットナムの名も上げ、この戦闘の報告書のお陰もあって第二次大陸会議はパットナムの大陸軍将軍への推挙を全会一致で承認した。 ゲイジ将軍はロンドンに送った報告書で、「2名が戦死し、数名が負傷した」と書いた。しかし、他の史料は明らかに誇張して、より大きな損失を報告している。「イギリス正規軍は200名足らずの戦死と負傷を含め多くの損失を蒙ったと言われている。この損失は恐らく大きく誇張されているが、植民地には大きな効果があった。この戦闘は植民地人にとって小さな勝利というだけではなく、かつてないくらい勇気付けられるものになった。」ゲイジはボストンのコップの丘に大砲を据えるよう命じ、グレイブス中将にはボストンとチャールズタウンの間の浅い水域に停泊していたHMSサマセットを、ボストンより東の深い水域に移動させ、陸からの砲撃があった場合により操船が容易になるようにした。また遅ればせながら分遣隊をヌードル島確保のために派遣した。植民地軍はそれより先に島にある価値ある物はなんでも取り去るか破壊するかしていた。
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戦いの後
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「プレーリーグローブの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
北軍の損失は1,251名、南軍の損失は1,317名だった。さらに南軍は士気が酷く落ち、この作戦中および後で多くの徴集兵を失うことになった。 この戦闘そのものは戦術的に引き分けだったが、北軍は戦場に留まり、南軍はアーカンソー州北西部の資源を大きく失うことになったので、戦略的には北軍の勝利だった。
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戦いの後
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「北バージニア方面作戦」の記事における「戦いの後」の解説
北バージニア方面作戦は、リーの小さな軍隊がその資源を慎重に使ったものの、両軍共に高いものについた。北軍75,000名の損失は16,054名(戦死1,724名、負傷8,372名、不明又は捕虜5,958名)となり、2ヶ月前の七日間の戦いの損失に相当するものになった。南軍48,500名の損失は9,197名(戦死1,481名、負傷7,627名、不明又は捕虜89名)だった。 北バージニア軍はその勢力の2倍に相当する大きな士気の高揚を得た。それはアポマトックスでの降伏まで失われることはなかった。また、軍隊におけるリーの自信とリーに対する軍隊の自信は、誰もどちらが大きいと言えないくらい等しいものだった。 エドワード・ポーター・アレクサンダー、南軍のために戦う この方面作戦はリーとその主要な2人の部下の勝利となった。軍事歴史家ジョン・J・ヘネシーは、リーの最大の方面作戦だったとして、「彼がかってなした中でも戦略と戦術の幸福な結婚」と表現した。リーは大胆な行動と適切な用心深さのバランスを取り、その部下の役割を効果的にする方法を選んだ。ジャクソンの回り込み行動は(36時間で54マイル (86 km)を行軍して北軍の後に回った)、「この戦争でこの種の行動としては最も大胆なものであり、ジャクソンならではそつなく実行できた。」8月30日のロングストリートの攻撃は「時機を得、力強くまた迅速であり、これまでに無いぐらい北軍を崩壊の瀬戸際に追い込んだ。」 リーに翻弄されたポープは事実上ワシントンで包囲された。もしポープがリンカーン大統領に政治的および個人的に密接な繋がりが無かったとすれば、彼の軍人としての経歴は完全に終わっていただろう。ポープはその代わりに、ウィスコンシン州ミルウォーキーに転任させられ、北西方面軍の指揮に就き、1862年のダコタ戦争を戦った。ジョージ・マクレラン少将はワシントン周辺の全北軍の指揮官となり、そのポトマック軍は1862年9月12日に解体されたバージニア軍を吸収した。 ポープがもはや脅威でなくなり、マクレランはその軍隊を再編した一方で、リーはその軍隊を西方と北方に向け、9月4日にポトマック川を越えてメリーランド州に入り、メリーランド方面作戦およびハーパーズ・フェリーの戦い、サウス山の戦いおよびアンティータムの戦いへ向かって行った。
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戦いの後
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ハル軍降伏の報せは前線の両側で驚きをもって迎えられた。アメリカ側では多くのインディアンが武器を持って立ち上がりアメリカ人開拓地を攻撃し、軍事基地を孤立させた。アッパー・カナダでは、住民と民兵が勇気づけられ、特にハル軍に脅威を与えられていた西部地区はなおさらだった。ブロックは地元民兵が以前は任務に就くこを躊躇していたのを見逃し、その基地に留まっていた民兵には報償を与えた。さらに実際的に、ハル軍から捕獲した2,500挺のマスケット銃を、それまで装備の整っていなかった民兵に配った。 イギリス軍はアメリカ領内で重要な基地を確保し、その後ほぼ1年間ミシガン準州とデトロイト地域を支配した。ブロックは英雄としてもてはやされ、テカムセのインディアン連合に対する影響力が強化された。ブロックはアマーストバーグとデトロイトの指揮官としてヘンリー・プロクター大佐を残し、ナイアガラ川に移動して、川を渡ってくるアメリカ軍の攻撃を予測してニューヨーク州に先制攻撃を掛けるつもりだった。しかしジョージ・プレボストが手配した一時的休戦に邪魔された。休戦が終わると、アメリカ軍がクィーンストン近くを攻撃してきた。それに続くクィーンストン・ハイツの戦いで、アメリカ軍に占領された砲台を奪い返そうと急遽反撃を率いているときに、ブロックが戦死した。 ハル将軍はデトロイトでの行動で軍法会議に掛けられ、死刑を宣告されたが、そのアメリカ独立戦争での貢献が認められマディソン大統領が減刑し、陸軍から追放された。 アメリカ側がデトロイトを回復しようという試みは通信のお粗末さ、戦場で民兵隊を維持していくことの難しさによって邪魔され続けた。1813年9月10日のエリー湖の湖上戦でアメリカ海軍が勝利し、状況が変わった。その結果、イギリス軍はアマーストバーグとデトロイトで供給線を絶たれて孤立したので、撤退を強いられた。ハルの後継者ウィリアム・ハリソンは後退するイギリス軍とインディアン部隊を追撃し、テムズの戦いで破った。この戦闘でテカムセが戦死した。
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戦いの後
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ウェイン砦が包囲されたことで、ハリソンはマイアミ族に対する報復遠征を命じることになり、それは1812年12月のミシシネワの戦いで頂点に達した。マイアミ族の影響力ある酋長パカンは最近まで中立に留まっていたが、マイアミ族の多くの集落(多くは中立側のものだった)が破壊された後は、公然とイギリス側に就くことを宣言した。 ハリソン砦の戦いに続いてウェイン砦でも勝てなかったことで、インディアンはその酋長達への信頼を無くした。その多くは影響力の強かった指導者テカムセのところに向かい、その連邦に加わった。この戦争の残り期間で、インディアナ準州ではインディアンによる大きな攻撃が無かったが、インディアンによる脅威が実際に取り払われたのは、テムズの戦い(1813年10月)でテカムセが敗北したときだった。 . 1813年7月7日、リチャード・メンター・ジョンソン大佐が、700名の竜騎兵、および物資を積んだ平底船の船隊と共にウェイン砦に到着した。しかし、最後の船が砦の視界に入ったときに、突然攻撃され、船に乗っていた者3名が殺された。ジョンソンの竜騎兵がその攻撃者達を10マイル (16 km) 以上追跡したが、捕まえられなかった。ジョンソンはこの攻撃に対する報復として、ファイブメダルズ酋長の集落などインディアンの集落幾つかを襲撃したが、軍隊が近づくと全ての集落から人が居なくなっていた。夏の豪雨のために竜騎兵が集落を焼くこともできなかった。ジョンソンはインディアンを見つけられなかったことに憤慨し、空になった平底船を護衛してオハイオ州に戻った。ジョンソンは知らなかったことだが、インディアンの集落を破壊しようとした数日後に、ロバート・ディクソンの指揮するインディアン1,000名以上の部隊が、ホワイトピジョンの町を抜けて、デトロイトのテカムセ部隊に合流すべく向かっていた。 ウェイン砦包囲戦に参加していた第1歩兵連隊について、その後継であるとする部隊が現在のアメリカ陸軍に3部隊ある。
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戦いの後
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このハリソン砦の戦いは、アメリカ軍の損失が大きかったが、砦を守ったことで、米英戦争でアメリカ軍が初めて勝利した陸上での戦いと考えられている。その直後にアメリカ軍はウェイン砦を救出し、この戦争の残り期間ではインディアナ準州に対するインディアンからの脅威を取り去った。 このハリソン砦への攻撃と、9月3日に起きたピジョン・ルースト虐殺への報復のために、ラッセル大佐はインディアナ・レンジャーズと共にイリノイに侵攻を続け、ピオリア湖でキカプー族に対する遠征を率いた。 ザカリー・テイラー大尉はハリソン砦での功績によって少佐への名誉昇進を果たした。 ウィリアム・ハリソンとザカリー・テイラーの2人がハリソン砦の指揮を執ったことがあったので、インディアナ州の歴史家達はこの砦を「2人の大統領の砦」と呼ぶことになった。 この戦闘が行われてから長い月日が経った後で、ある男性が木の幹にフェアバンクス中尉の刀傷を見つけた。それはインディアナ州博物館に寄贈された。 1908年、インディアナ州アメリカ独立戦争の息子達協会が、ハリソン砦の跡を国定歴史公園に指定しようとした。 ハリソン砦包囲戦に参加していた第7歩兵連隊について、その後継であるとする部隊が現在のアメリカ陸軍に2部隊ある。
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戦いの後
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「サン・ビセンテ岬の月光の海戦」の記事における「戦いの後」の解説
捕獲艦のうちの2隻、 - 「サン・フリアン」と「サン・エウヘニオ」 - は、指揮を取ったイギリス士官が海岸線に関する知識を持たず、強風を衝いて航行させるためにスペインの艦長の助けを借りる必要があったために、スペイン人乗組員により奪還されてしまった。「サン・フリアン」の艦長は捕獲後も艦に残っていたが、自らの指揮権を回復することなく手助けをすることを拒んだのである。 捕獲された残り4隻のうち「フェニックス」は「ジブラルタル」と改名され、他の3隻は元の名前のままで、イギリス海軍に編入された。
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戦いの後
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シャーマンのカロライナ方面作戦は50日の間に425マイル (684 km)を踏破し、ジョージア州を抜けた海への進軍に似ていたが、体力的には大変だった。しかし、対抗する南軍はかなり勢力を減らしており、士気も落ちていた。4月半ばにゴールズバラでジョセフ・ジョンストンがジェファーソン・デイヴィス大統領に合ったとき、次のように語った。 我が軍は戦争に疲れており、鞭打たれるように感じ、戦いたいとは思わなくなっている。我が国は蹂躙され、その軍事資源は大きく減少した。敵の軍事力や資源は決して大きくはなかったが、望むだけ増やすことができた。...私の小さな軍隊は太陽の前の雪のように溶けてしまおうとしている。 4月18日、エイブラハム・リンカーン大統領の暗殺から3日後、ジョンストンはノースカロライナ州ダーラム駅近くの農家、ベネット・プレイスでシャーマンとの休戦協定に調印した。シャーマンはグラント将軍や北部政府の承認無しで、ジョンストンに軍事的なことだけでなく政治的なことも含めた降伏条件を提示していたので、政治的な苦境に陥った。この問題による混乱は4月26日まで続き、ジョンストンが軍事的条件のみを飲んで、その軍隊と両カロライナ州、ジョージア州およびフロリダ州の全南軍の降伏に正式に同意した。この月の中で2つめの意味ある降伏だった。4月9日には、ロバート・E・リー将軍がアポマトックス・コートハウスで北バージニア軍とともに降伏していた。ミシシッピ川地域にはまだ夏まで小さな戦力が残っていたものの、実質的に南軍の終焉だった。
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戦いの後
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この比較的流血の少ない北軍の勝利は、若いマクレラン将軍に国民のスポットライトを当てさせることになり、間もなく北軍全軍の指揮を任されることになった。この戦闘はバージニア州の西部で合衆国からの脱退に対する抗議の声を強めることにもなった。数日後にホイーリングで開かれた会議ではバージニア州の脱退条例を無効化し、フランシス・ハリソン・ピアポントを知事に指名した。 南軍には2人の者が重傷を負った。両者とも戦場で切断手術を受けたが、これらは南北戦争で初めてのそのような手術と考えられている。兵士の1人はバージニア士官学校の士官候補生、フォーントルロイ・デインジャーフィールドだった。もう一人の若い南軍兵は18歳の大学生、ジェイムズ・E・ハンガーだった。ハンガーは快復後、バージニア州の故郷に戻った。彼は独力で樽板から膝に関節のある義足を作った。その工夫がうまく行き、バージニア州議会は負傷した南軍古参兵のために「ハンガー・リム」を製造するよう発注した。ハンガーはその義足の特許を取り、現在ハンガー・オーソペディック・グループとなっている会社を設立した。2007年時点で、ハンガー・オーソペディック・グループは義足製造者としてアメリカ市場の指導的存在である。 この戦闘後、ポーターフィールド大佐はバージニア州西部の南軍指揮をロバート・S・ガーネット准将と交代させられた。フィルーピーにいた南軍新兵の中隊は、第9バージニア歩兵大隊、第25バージニア歩兵連隊、第31バージニア歩兵連隊、第11バージニア騎兵隊および第14バージニア騎兵隊など様々な部隊に組み入れられた。ウィリアム・ジェンキンス大尉が指揮するバーバー・ライトハウス騎兵隊はフィルーピーからの撤退後に解隊された。 北軍の新兵として戦闘に参加したアンブローズ・ビアスは、のちにジャーナリスト・短編小説家となり、痛烈な皮肉・諷刺で知られることとなった。ビアスは戦いの20年後、自叙伝的断片『ある山で』 (On a Mountain) において、次のように記している。 我々はこの貴族的任務、際限のない軍隊的雰囲気に身を任せた。我々の何人かは上着のボタンを留めず髪を梳らないままにするところまで行った。我々は戦ってもいた。「この戦争で最初の戦闘」フィルーピーでは南軍兵の足を撃った。ローレルヒルやキャリックスフォードでは1ダースもの兵士を失った。敵が我々から逃れる為にどこへ逃げ出したかは神のみぞ知る。 この引用はもっと悲惨な経験をしたビアスとその仲間の古参兵が「最初の戦闘」という呼び方を尊重したに違いない皮肉を示している。
※この「戦いの後」の解説は、「フィルーピーの戦い」の解説の一部です。
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戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/30 00:15 UTC 版)
この海戦後、ローマ軍は兵士の休息や修理の期間をとるために、いったんシチリアに上陸した。その休息の間に、ローマ軍は拿捕したカルタゴの軍船の船首を、市民への海戦勝利を報告のためにローマ本国へ送った。ミレ海戦の際に始められた儀式に従い、カルタゴの船首はフォロ・ロマーノに掲げられた。2人の執政官のうちウルソ・ロングスは、1年の任期が切れるためにいったん帰還し、本国で凱旋式を行った。準備を整えたローマ軍はもう1人の執政官アンティリウス・レグルスに指揮され、その年のうちに北アフリカへ再出発した。この後の第一次ポエニ戦争の舞台は、カルタゴ本国の北アフリカに移る。
※この「戦いの後」の解説は、「エクノモス岬の戦い」の解説の一部です。
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戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 10:13 UTC 版)
「アポマトックス方面作戦」の記事における「戦いの後」の解説
アポマトックス方面作戦はグラントとシェリダンによる優れた執拗な追撃と操軍の例だった。その技量はゲティスバーグの戦いでのジョージ・ミードや、アンティータムの戦いでのジョージ・マクレランといった以前の将軍達には不足していたものだった。リーは与えられた環境で最善を尽くしたが、その物資、兵士および運が最後に力尽きた。リー軍の降伏は南軍野戦部隊の1つが失われたことに過ぎなかったが、南部が立ち直ることのできない心理的打撃だった。残った軍隊も1865年6月までに抵抗を止めた。
※この「戦いの後」の解説は、「アポマトックス方面作戦」の解説の一部です。
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戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/15 16:18 UTC 版)
アメリカ軍は捕獲した軍需物資を5月2日に送り出そうとしたが、強風のためにヨークの港で閉じこめられた。5月8日に悪天候の中でヨークを出発し、ナイアガラ半島のナイアガラ砦で休息の期間を必要とし、その後に次の行動に移る容易ができた。 シーフの部隊はキングストンまでの陸路を14日掛けて撤退し、同じくらい惨めな状態に耐えた。植民地議会の議員やその他著名な市民は、ヨークでのシーフの全般的な行動と戦闘中の行動について、シーフを酷評した。例えば、民兵隊士官チューウェットとアレン、ストラチャン牧師などは5月8日にプレボスト長官に手紙を書き、シーフが「森の中から後退した後で兵士達から遠く離れたままであり、彼等を活気づけたり鼓舞したりすることもなく、ましてや心から同類であるという個人的な行動も見せようとしなかった」と記していた。シーフはこの敗北の結果として軍隊の職もアッパー・カナダの公的な職も失った。 しかし、アメリカ軍からオンタリオ湖のプロビンシャル・マリーンに決定的なダメージを受けた訳では無かったので、優勢な敵と戦って正規兵を犠牲にするよりも、シーフがその小さな部隊を温存することで、アメリカに決定的な勝利を与えなかったことは認められた。陸軍長官のアームストロングは「イギリス軍指揮官は防衛的姿勢を強いられ、その政策をシーフが採用したものであり、指揮下の部隊を温存することを好み、中核を持ち去り殻のみを残すためにあらゆる手段を尽くしたと考えざるを得ない」と記していた。 ヨークを占領したことの最も重要な効果はおそらくエリー湖に対してのものだった。そこのイギリス戦隊に送られる筈だった軍需物資など補給品が奪われ、その結果が後のエリー湖の湖上戦における敗北に繋がったと考えられる。 現在のアメリカ陸軍には、この戦闘に参戦したアメリカ軍数個連隊の後継部隊であるとする部隊が5個存在する。 この戦争から200周年を期してロン・ウィリアムソンの指導で行われた発掘調査では、この戦闘に新しい光が当てられた。火薬の破壊とそれがアメリカ軍に及ぼした被害の証拠が出てきた。アメリカ軍は爆発の衝撃波と瓦礫が飛んでくる正にその距離にいたことが分かった。ドキュメンタリー映画『1812年爆発』では、この戦闘が以前に考えられていたよりもかなり大きな影響を与えたとしている。戦闘終了後にアメリカ軍がカナダ市民に対して行った虐待、民兵によるねばり強い抵抗、およびイギリスの象徴と建築物を燃やしたことが、カナダ人の一般的な見解を硬化させることに繋がった。
※この「戦いの後」の解説は、「ヨークの戦い」の解説の一部です。
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戦いの後
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「ビックスバーグ方面作戦」の記事における「戦いの後」の解説
南軍はビックスバーグの戦いと包囲での死傷者は2,872名と比較的少なく、北軍は4,910名の損失を出したが、グラントが南軍の1軍隊全部を降伏させることは2回目(1回目はドネルソン砦の戦い)であり、29,495名を捕虜にした。南軍兵の大半は釈放された。北軍はかなりの分量の大砲、小火器および弾薬も捕獲した。3月29日から始まったビックスバーグ方面作戦全体では北軍の死傷者10,142名に対し、南軍は9,091名だった。 この結果は1863年の夏に南軍が受けた2つ目の大きな打撃だった。7月3日、ロバート・E・リー将軍による北部侵攻はゲティスバーグの戦いで崩壊した。7月4日、星条旗がビックスバーグに掲げられた。南軍にとって独立記念日の降伏は痛い敗北だった。北軍は行儀良く振舞い、南軍兵と混じって飢えた兵士達に食糧を渡した。食糧を確保し高い価格で売ろうと思っていた投機家はその倉庫がこじ開けられ、貯蔵品が飢えた反乱兵のために通りに投げ出されるのを見た。グラントはその自叙伝で「両軍の兵士はあたかも同じ側で戦っていたかのように親しく交わった」と書いた。しかし、わだかまりは長引いた。ビックスバーグ市はその後81年間、7月4日の独立記念日を祝うことを拒み続けた。 この方面作戦の最も重大な結果はミシシッピ川の北軍による支配であり、それはポートハドソンの陥落で完成された。ポートハドソンは5月27日以降バンクス軍に包囲されていたが、ビックスバーグ陥落の報せに接して7月9日に降伏した。南軍はこれで2つに分けられた。1週間後1隻の武装していない舟がセントルイスから川を下って何の支障もなく北軍が確保するニューオーリンズに到着した。リンカーン大統領は「水路の父が再び怒られもせずに海に通っている」と宣言した。 グラントはシャーマンに50,000名の部隊を付けてジャクソンのジョンストン軍31,000名の向かわせた。ジョンストンはシャーマン軍を正面対決に誘い込もうとしたが、シャーマンはビックスバーグでそのようなことを行った結果を見てきた。シャーマンは直接対決を避け、市の包囲を始めた。ジョンストンはその軍隊を脱出させ、ペンバートンが成したことよりも大きなことではあったが、ミシシッピ州中部の全部がシャーマンの支配下に落ちた。シャーマンはその後のメリディアンに対する作戦行動では、後にジョージア州を抜ける海への進軍、続いてサウスカロライナ州で採用した焦土作戦の前触れとなった行動を採った。 包囲戦の最中にグラントが取った行動の一つに長引くライバル関係の解消があった。5月30日、マクラーナンド将軍はその部隊に自画自賛の文章を書き、近付く勝利は自分達の功績が大きいと主張した。グラントはこの方面作戦初期アーカンソー・ポストの戦い頃の衝突以来6ヶ月間、マクラーナンドが口を滑らすのを待ち構えていた。グラントは遂に6月18日、マクラーナンドを解任した。マクラーナンドの第13軍団はエドワード・オード少将に任された。1864年5月、マクラーナンドは遠くテキサス州の指揮官に据えられた。 グラントはビックスバーグ方面作戦の明白な勝者だった。1863年7月4日付けで正規軍の少将に昇進することでこの勝利に報いられた。また通常とは異なる手紙を受け取った。 親愛なる将軍私は貴方と私が以前に会ったとは思えない。私は貴方がこの国のためになした貴重な貢献に感謝の意を表すためにこれを書いている。さらにある言葉を送りたい。あなたがビックスバーグ近くに初めて到着した時、貴方が最後に成し遂げたことをするべきと私は考えた。軍隊に半島の首を横切らせ、輸送船で砲台の下をくぐり、下流に行くことだった。私は貴方が私より良く知っていた一般的な期待を除いてヤズーパス遠征などの試みが成功するとは思ってもいなかった。下流に着いてポートギブソン、グランド湾およびその近郷を奪ったときに、貴方はさらに下流に行ってバンクス将軍と合流すべきと思った。貴方がビッグブラック川の東北東に向きを変えたとき私は失敗を恐れた。今私は貴方が正しく私が間違っていたということを自ら認めたいと思う。敬白 — A・リンカーン グラントはチャタヌーガで包囲されていた北軍に向かいこれを救出し、その後ハレックに変わって北軍の総司令官の地位に就き、そのころ復活されたばかりの中将の位に昇った。戦争全体の究極の成功にも拘らず、ビックスバーグは想像力に富んだ、大胆な、容赦ない操軍の傑作として、その最良の作戦と考えられている。 歴史家スティーブン・E・ウッドワースは、ペンバートンが「南部で最も憎まれた男という肩書きに強い主張をしたが、確かに南軍の制服を着るのを嫌がられた者だった」と書いた。適当な物資は手近にあったはずであり、降伏したのは彼の裏切りに過ぎないという告発があった。南軍の将軍リチャード・テイラーは戦後、「彼は南部を売る目的を発現するために南部に加わり、ヤンキーの神聖な日である7月4日に降伏したという事実でそれが明らかに証明されている」と書いた。 ビックスバーグを失ったことに対する責めはジョン・ペンバートンだけでなく、過度に慎重なジョセフ・ジョンストンにも行った。ジェファーソン・デイヴィスはこの敗北に付いて「そうだ、内部の食糧の不足と外部の戦おうとしなかった将軍のためだ」と言った。包囲されて飢えに苦しめられた兵士や市民はジョンストンが救援に来てくれるという望みを持っていたが、彼は来なかった。1862年の半島方面作戦依頼ジョンストンを悩ませた臆病という告発は、シャーマンに対する1864年のアトランタ方面作戦まで追いかけてくることになった。しかしビックスバーグ方面作戦の時にジョンストン軍は数で遥かに負けていた。ジョンストンはグラントが尊敬する数少ない南軍の将軍だったが、ジョンストンは戦術で負けていた。
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戦いの後
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「USSコンステレーション対ラ・ベンジェンス」の記事における「戦いの後」の解説
両艦とも損失が大きく、どちらも損傷が激しかったので、双方の指揮官は敵艦を沈めたと思っていた。ラ・ヴァンジャンスの索具の大半が吹き飛ばされ、前檣下段、ミズンマスト下段、船首斜檣の帆のみが操作できた。ピトーはキュラソーに進路を採り、沈没を避けるためにそこで座礁させた。フランス艦の人的損失は不明である。公式報告書は戦死28名、負傷40名となっているが、キュラソーの情報では160名の水兵を失ったことになっていた。キュラソーに入ってしまうと、それ以上の問題に患わされた。そこのオランダ当局から艦の修理に必要な支援を得ることが難しく、数か月も動けないままになった。フランスがキュラソーを占領するために遠征隊を派遣したことで、修繕に必要な物資を確保できたが、島に対する攻撃支援を求められたピトーは、それを拒否してグアドループに戻った。 コンステレーションも乗組員の15名が戦死し、25名が負傷、そのうち11名は後に死亡という大きな損失を被っていた。修繕のためにジャマイカのポート・ロイヤルに入ったが、海軍用物資が不足していたために必要とされる修繕を完了できなかった。1週間後にジャマイカを後にしたときは、主檣を取り替えただけだった。本国に戻る14隻の商船団を護送した後、ハンプトン・ローズに行って修繕をすることにした。アメリカ合衆国に戻ってきたときに、敵艦ラ・ヴァンジャンスが沈没していなかったことも分かった。トラクスタンは本国で英雄と見なされ、その功績についてかなりの称賛を受けた。ピトーのフリゲート艦との戦闘に対して、アメリカ合衆国政府は、その戦闘の様子を描いた議会金メダルをトラクスタンに与えた。
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戦いの後
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「第二次ブルランの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
第二次ブルランの戦いに参加した北軍の損失は、62,000名のうち10.000名が戦死又は負傷となった。南軍50,000名の内、約1,300名が戦死、7,000名が負傷した。北軍はセンタービルに集合したが、リーは次の作戦を立てた。ポープ軍とワシントンの間にその軍を割り込ませるためにジャクソン軍をもう一度回り込ませる動きをさせた。ポープはこの動きに反応し、両軍は9月1日にシャンティリーの戦い(オックスヒルの戦いとも言われる)で最後の決戦をした。リーはその後すぐ北バージニア軍の先導隊がポトマック川を越えた9月3日に次の作戦を始め、メリーランド方面作戦にあたったポトマック軍との運命の戦い「アンティータムの戦い」に向かうことになった。 素晴らしい軍隊がほとんど士気をくじかれた。多くの大衆資産が放棄されるか破壊された。我々の部隊の多くの生命が無目的に犠牲となった。私は敢えて私が感じ思うようなこのポープという指揮官について語る自分を信用しない。横柄で傲慢で無知で気取り屋が一人の男に集まることはないと言えば十分だ。一番小さな太鼓打ちの少年から一番背の高い将官まで、彼の軍に友人は居なかったと真実言うことができる。 アルフェウス・S・ウィリアムズ准将(第2軍団の師団指揮官) ポープは1862年9月12日に指揮官職を解任され、その軍隊はポトマック軍に合流されて、マクレランの指揮でメリーランドに進んだ。ポープは戦争の残り期間、ミネソタ州の北西部方面軍で過ごし、ダコタ戦争に対処した。ポープはその敗北の責を負わせるスケープゴートを探した。1862年11月25日、フィッツ・ジョン・ポーターが逮捕され、8月29日の行動で軍法会議に掛けられた。ポーターは命令不服従と不正行為の廉で1863年1月10日に有罪を宣告され、1月21日に軍隊から除籍された。ポーターは残りの人生をこの宣告に対する戦いで過ごした。1878年、ジョン・M・スコフィールド将軍の下での特別委員会は、ポーターがロングストリート軍に対する攻撃を躊躇ったことでおそらくポープのバージニア軍をさらに大きな敗北から救ったとして、ポープの容疑を晴らした。8年後、チェスター・A・アーサー大統領はポーターに対する判決を撤回した。 ロングストリートは戦闘中の功績について批判され、戦後の「南部の失われた大義」の主張者は彼の鈍さ、攻撃の躊躇い、および8月29日にリー将軍に従わなかったことが、1863年7月2日のゲティスバーグの戦いで出てきた議論を呼ぶ行動の前触れだったと主張した。リーの伝記作者ダグラス・サウソール・フリーマンは「ゲティスバーグの多くの悲劇の種はこの瞬間に撒かれた。リーがロングストリートに屈し、ロングストリートがそうできることを発見した瞬間である。」と書いた。
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戦いの後
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「セントメアリー教会の戦い」の記事における「戦いの後」の解説
グレッグの師団は、後に残された者達を除けば、比較的無傷で逃亡した。捕虜になった者の中にはペンシルベニア第8騎兵隊のペノック・ヒューイ大佐が居た。ホック軍の損失は約350名、南軍は約250名だった。シェリダン軍は、ハンプトンの騎兵部隊に行く手を塞がれていたので、6月25日に撤退し、チャールズシティ郡庁舎を通ってドゥサットの上陸点に行き、平底船に輜重隊を乗せ、ジェームズ川を渡した。6月27日と28日に騎兵隊がその後を続いた。南軍の騎兵隊は新たな攻撃のために陣取ろうとしたが、北軍が強力であり、南軍の騎兵は疲れすぎていた。ハンプトンはロバート・E・リーから、できるだけ早くピーターズバーグに進んで、その南にある鉄道に対するウィルソン=カウツの襲撃に対処するよう命令を受けた。その部隊はやはり6月27日と28日にチャフィンの崖に掛けた舟橋でジェームズ川を渡った。 ハンプトンはその暑く乾燥した夏に輝いていた。戦士としての武勇を示し、その馬や兵士に現れたもので僅かばかりに拘束されただけであり、バージニア全土で北軍騎兵を追いかけ、会戦の度にそれを打ち砕いた。南軍騎兵に関する初期歴史家は、トレリビアンの襲撃が「ハンプトン指揮下の南軍騎兵隊が進取的であり、勇敢であり、熱狂的であり、J・E・B・スチュアート少将の下で戦ったときは勇猛で不屈だったことを改めて示した」と語っていた。 Eric J. Wittenberg, Glory Enough for All シェリダンがトレリビアン・ステーションを襲撃し、ポトマック軍に戻ったことで、複合的な結果になった。グラント軍がジェームズ川を渡るときに南軍の注意を逸らすことに成功したが、南軍の首都リッチモンドとリー軍にとって重要な供給線であるバージニア・セントラル鉄道を遮断するという目的は達しなかった。またかなり大きな損失を、特にその士官達に受けており、戦闘と暑さによる疲労で多くの馬も失っていた。それでもシェリダンはその襲撃が否定できないほどの勝利だと主張した。1866年に提出したこの作戦に関する公式報告書で、「この結果は一様な成功であり、反乱軍騎兵隊の全滅に繋がるものである。我が軍は思いつく時と所に行軍し、常に攻撃する部隊だった。常に成功だった」と記していた。 ハンプトンの騎兵隊がシェリダン軍に対して起こした行動の結果も複雑なものだったが、シェリダンのものよりも肯定的に見られるのが通常である。鉄道を守ることに成功し、間接的にリッチモンドを守っていた。トレリビアン・ステーションの戦いの2日目とサマリア教会でのグレッグに対しては戦術的な勝利を得ていたが、北軍騎兵隊あるいはその輜重隊を破壊することはできなかった。8月、ハンプトンは南軍北バージニア軍騎兵軍団長に任命され、J・E・B・スチュアートの戦死後に空いたままだった地位に就いた。
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戦いの後
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ゲインズミルの戦いは激しい戦闘であり、七日間の戦いの中でも最大となり、半島方面作戦の中で唯一はっきりとした南軍の戦術的勝利となった。北軍の損失は、投入兵力34,214名のうち、6,837名(戦死894名、負傷3,107名、不明または捕虜2,836名)となった。南軍は投入兵力57,018のうち、損失7,993名(戦死1,483名、負傷6,402名、不明または捕虜108名)となった。南軍の攻撃が北軍のほんの一部(第5軍団、北軍の5分の1)に対して行われたので、南軍は全体に比較的良い形で戦闘を遂行できた。リーとしてはこの戦争で初めての勝利であったが、ストーンウォール・ジャクソンの事故が無ければもっと完璧に勝っていたことだろう。歴史家のスティーブン・W・シアーズは、ジャクソンの方向を誤った行軍やその参謀のお粗末な行動もあったが、リーが午後7時に掛けさせた主攻撃があと3,4時間早く起こっていればと仮説をたてた。そうすれば、最後の瞬間の補強や闇の訪れも無く、ポーター軍団はかなり危険な状態になったはずだった。南軍の著名な砲兵士官で戦後歴史家になったエドワード・ポーター・アレクサンダーが「ジャクソンが到着して直ぐ、あるいはA・P・ヒルの攻撃中に攻撃しておれば、我々は比較的容易に勝利したことだろう。さらにポーターの部隊の大半を捕獲できたことだろう。」という発言を引用した。 しかし、マクレランは既にその補給基地をジェームズ川に移すことを考えていたが、この敗北で狼狽し、大慌てでリッチモンドへの前進を中止し、全軍をジェームズ川に撤退させた。ゲインズミルの戦いとチカホミニー川を越えての北軍の撤退は南軍の心理的勝利となり、リッチモンドの危機は去った。
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戦いの後
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シャーマンが勝利し、フッドは南軍の中で最も向こう見ずに攻撃的な将軍としての評判を確立してしまった。この方面作戦での両軍の損失は、絶対数ではほぼ同数である。北軍の総損失31,687名(戦死4,423名、負傷22,822名、不明または捕虜4,442名)に対し、南軍は34,979名(戦死3,044名、負傷18,952名、不明または捕虜12,983名)となった。しかし、南軍の損失率を考えれば遥かに大きなものである。フッド軍は約3万名の軍隊でこの地域を離れ、シャーマン軍は約81,000名で占領した。シャーマンの勝利は、当初の任務である南部のテネシー軍を崩壊させるに至らなかったので弱められ、敵を逃がしたことで批判されてきた。しかしアトランタの占領は北部の士気を大きく上げることに貢献し、エイブラハム・リンカーン大統領を再選させる大きな要因となった。 アトランタ方面作戦の後は北軍の主導で2つの方向に向かった。ほぼ直後には北西方向にフッド軍を追跡したフランクリン・ナッシュビル方面作戦、11月の大統領選挙後はシャーマンの海への進軍に続いた。
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戦いの後
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大陸軍後衛の散開した残兵は本体に合流するためにラトランドに向けて大変な道を進んだ。フレーザー隊の斥候やインディアンに攻撃され、食料やテンとも無く、このときエドワード砦に接近していた本体にたどり着くまでに5日間を要した者もいた。ヘイル大佐や70名の分遣隊は残敵を掃討していたイギリス軍に捕獲された。フランシス大佐は敵軍の敬意を受けながらブラウンシュヴァイク兵の死体と共に埋葬された。 リーデゼルとブラウンシュヴァイク兵は翌日スケンスボロに向けて進発し、フレーザー将軍を大いに悔しがらせた。その進発によって、フレーザー隊は600名の疲れ切った兵士にかなりの数の捕虜と負傷兵、およびほとんど物資も無いままに残され、「アメリカで最も不満の大きい地域、あらゆる者がスパイ」と考えられる地域に残された。7月9日、フレーザーは捕虜が逃げようとするなら報復するぞと脅して、少数の護衛を付けた捕虜300名をタイコンデロガの方向に送り、フレーザー自身は疲れた兵士と共にキャッスルトン、さらにスケンスボロ方向に進発した。 セントクレアが戦闘の支援のために送り出したリビングストンとダンは、戦闘が終わった後にキャッスルトンに撤退中の大陸軍兵に出遭った。彼らは悪い報せを持ってキャッスルトンに戻ったが、本隊は出発した後であり、最終的に7月12日にエドワード度砦の大陸軍宿営地に到着した。
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戦いの後
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「スタンウィックス砦包囲戦」の記事における「戦いの後」の解説
アーノルド隊は友好的インディアンの到着で補強され、8月23日にスタンウィックス砦まで約10マイル (16 km) の所まで進んでいた。そこでガンズヴォートからの伝令がセントリージャー隊の出発を知らせに来た。これに力を得たアーノルド隊はその日の夜に砦に到着した。翌日早く、アーノルドは500名の部隊を派遣してセントリージャー隊を追撃させた。セントリージャー隊は以前は支援を受けていた同盟インディアンから嘲りや嫌がらせも受けていた。アーノルド隊の前衛が激しい雨の中をオナイダ湖岸に到着した時、セントリージャー隊の最後の船が岸を離れるときだった。アーノルドは砦とモホーク川沿いの小さな基地に守備隊を残し、1,200名の部隊を率いて大陸軍主力と合流するために急いで引き返した。 セントリージャーはオナイダ湖にある時に、インディアンの伝令からアーノルド隊の真の勢力を知らされた。8月27日、オスウェゴからバーゴインに宛ててシャンプレーン湖を経て本隊に合流するつもりであることを伝えた。セントリージャー隊は9月29日にタイコンデロガ砦に到着したが、このときは既にバーゴイン軍を救援するには遅すぎた。 バーゴインはその作戦が失敗した原因について、セントリージャーがモホーク川を抜けることに失敗したこと、およびロイヤリストからの支援が無かったことに一部を帰させていた。バーゴインはアップステート・ニューヨークで所を得たロイヤリストの蜂起があれば大陸軍の資源を分散させ、自軍あるいはセントリージャー隊のどちらかの進軍が成功するだろうと考えていた。またセントリージャー隊がタイコンデロガ砦に到着すれば、自軍の退却を支援してくれるとも期待していた。しかしセントリージャー隊がタイコンデロガ砦に到着したときは既に、自軍が包囲されており、ベミス高地の戦い(第二次サラトガの戦い)後に降伏することになった。バーゴインは降伏後の分析で、ウィリアム・ハウ将軍がバーゴイン軍を支援できなかったことで、ジョージ・ワシントン将軍がニューヨーク市周辺の地域からその資源を回すことを可能にし、スタンウィックス砦の救援とサラトガへの援軍双方を可能にしたと記している。 スタンウィックス砦自体はこの包囲戦後ほとんど戦闘が無かった。1779年春、大陸軍はこの砦を出発点として、オノンダガ・キャッスルを破壊した。1780年、砦守備隊はジョセフ・ブラントの指揮するインディアン大部隊の攻撃を受けた。この戦闘は十分に防御を施した砦と、武装が粗末なロイヤリスト・インディアンの間で3日間のこう着状態になった。また戦争全体を通じてモホーク川流域を移動するロイヤリスト襲撃隊の標的になり続けた。最終的に1781年春、洪水と火事で砦の大半が破壊され、大陸軍は砦を放棄した。
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「ウェインズボロの戦い (バージニア州)」の記事における「戦いの後」の解説
カスター隊は10マイル以上も潰走した南軍を追撃したが、暗闇が訪れてその追跡が終わった。北軍の士官は1,000名ないし1,800名の兵士、11門ないし14門の大砲、150両ないし200両の荷車、16本の軍旗(北軍の軍旗を取り戻したものも含む)を捕獲したと主張することになった。アーリーはその主張を詰っていたが、証拠(ウェインズボロで捕獲した軍旗を引き合いに出した名誉勲章15個の授与理由を含む)によって北軍側の主張が真実に大変近いことを示唆している。正確な数字はどうあれ、あらゆる資料では、アーリー軍がその大砲、荷車、救急車の全てを失い、その歩兵隊が粉々になったので、戦争の残り期間も実質的に戦える戦力を形成できなかったことでは、見解が一致している。カスターは自軍の損失を、戦死負傷者合わせて9名と報告した。 シェリダン軍はブルーリッジ山脈を越えてシャーロッツビルに至り、その南部を襲撃し、ゴックランド・コートハウスに近いジェームズ川運河の閘門を破壊した。3月26日にはピーターズバーグ近くでポトマック軍と合流し、アポマトックス方面作戦に繋げた。戦争の残り期間で、アーリーが新たな戦闘任務に就くことは無かった。 ニューヨーク第22騎兵隊のクリストファー・C・バートン大尉は、この戦闘でアーリーの作戦本部旗を捕獲したことで、後に議会名誉勲章を贈られた。 ニューヨーク第8騎兵隊G中隊のアンドリュー・クーダー少尉も、特別の英雄的行為と軍旗の捕獲により議会名誉勲章を贈られた。
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「スペンサーズオーディナリーの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
シムコーは部隊の負傷兵に休戦旗を持たせて酒場に残し、ウィリアムズバーグに向かう道路を下り、約2マイル (3.2 km) 進んだ所でコーンウォリス本隊と合流した。大陸軍はタイアーのプランテーションにあったラファイエットの宿営地に撤退した。シムコーは酒場に戻り、負傷兵を回収できた。 シムコーは自軍の損失を戦死11名、負傷25名、大陸軍の損失を戦死9名、負傷14名、捕虜32名と報告した。ラファイエットは敵軍60名を殺害し100名を負傷させたと主張したが、コーンウォリスはイギリス軍の戦死負傷合わせて32名と主張した。コーンウォリスの挙げた数字は歴史家のフライアとドラコットが挙げたドイツ兵の損失を除いた数字と一致している。 戦場跡は現在のウィリアムズバーグ市にあるジェイムズシティ郡のフリーダム公園敷地内にある。公園が発行している資料には正確な戦場跡が記されているか明らかでない。
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「マルバーンヒルの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
D・H・ヒルは後に、「これは戦争では無かった。殺人だった。」と記した。リー軍はこの損耗戦で5,355名の損失を出した(北軍は3,214名)が、ハリソンランディングまでの全行程で北軍の追跡を続けた。エドマンド・ラフィンの資産の一部だったエベリントン高地では、南軍が北軍宿営地を見下ろす機会があり、ジェームズ川岸の北軍の陣地を潜在的に維持できないものにするところだった。南軍のその陣地は北軍海軍の艦砲で攻撃できる所だったが、この高地は格別に強固な防御地点であり、北軍が歩兵で占領するのは大変難しかった。騎兵隊指揮官J・E・B・スチュアートは高地に到着してジョン・ペルハム大尉の砲兵隊から1門の大砲で砲撃を始めた。これが北軍にとって潜在的な危険性を警告することになり、北軍は南軍の歩兵が到着する前にその高地を占領した。 マルバーンヒルで半島方面作戦は終わった。マクレラン軍がリッチモンドに脅威を与えることを止めたとき、リーはラピダン川沿いの北軍ジョン・ポープの軍隊に対抗するためにジャクソンを派遣し、かくして北バージニア方面作戦が始められた。
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戦いの後
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大陸軍はプリンストンに入った後、イギリス軍が放棄した物資荷車と町そのものを略奪した。コーンウォリスがプリンストンに接近しているという報せに接して、ワシントンはプリンストンを放棄しなければならないと判断した。ワシントンはニューブランズウィックに向かってイギリス軍の軍資金7万ポンドを押収しようと思ったが、ヘンリー・ノックスとナサニエル・グリーン各少将が思い留まらせた。その代わりにサマーセット・コートハウスに部隊を動かし、翌日の1月6日午後5時にはモリスタウンに移った。この戦いの後、コーンウォリスはニュージャージーの拠点の多くを放棄し、ニューブランズウィックに撤退するよう命じた。
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戦いの後
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「トマスクリークの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
エルバート隊はこの戦闘の2日後に東フロリダに到着し、アメリア島の北端に上陸した。トーニン総督がこれに対抗するためにセントメアリーズ川に小さな戦隊を送ったが、風のために海に流され、1隻は私掠船との戦闘に巻き込まれていたことをエルバートは知らないまま、重大な出来事も無くアメリア島に到着できていた。エルバートは5月19日にベイカー隊の兵士13名と出逢い、戦闘の報告を受けた。捕虜状態から逃げ出した3名の兵士がその2日後に到着し、仲間の5名が見張りに立っていたインディアから冷血にも殺されたと報告された。この報せと、トーニン総督の小戦隊がいること、さらに自隊の船はアメリア島と本土の間の狭い海峡を通れそうになかったこともあり、エルバートは遠征の中止を決め、5月26日にはサバンナに戻った。 セントオーガスティンの軍事指揮官オーガスティン・プレボスト准将(マーク・プレボストの兄)はこの戦闘の成果について正規兵に全面的な功績を認めた。ベイカー隊の残兵をブラウンのレンジャーとインディアンが追撃できなかったことを批判し、「インディアンは略奪品に捉われ、レンジャーは牛に注意を向けた。正規兵は問題なく任務を遂行した」と書いて、ブラウン隊への報償を拒否した。 ブラウン隊はジョージアへの襲撃を再開し、それがジョージア植民地での対応を新たにさせることになった。ブラウン隊の襲撃が効果を挙げたことで、トーニン総督は北アメリカイギリス軍総司令官のウィリアム・ハウ将軍に働きかけ、ジョージアを再度支配するための遠征を促すことになった。1778年、アメリカ側のロバート・ハウ将軍と、当時ジョージア議長のジョン・ハウスタンが再度東フロリダに対する遠征を企画した。この遠征も指揮権の問題で損なわれ、フロリダに到着した少数の部隊も、アリゲーターブリッジの戦いに敗れて退却した。1778年12月、イギリス軍がニューヨーク市から派遣した部隊によってサバンナ市が占領され、その直後にはセントオーガスティンから送られた部隊も合流し、ジョージアにはイギリス政府の支配が再度確立された。 トマスクリークの戦いの戦場は現在、ジャクソンビルのトマスクリーク保存地にあり、ティムキュアン生態系歴史保存地の一部になっている。戦場跡は開発されておらず、近くを通るアメリカ国道1号線には、戦闘を記念する標識が立っている。
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戦いの後
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「バウンドブルックの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
詳細は「フィラデルフィア方面作戦」を参照 大陸軍は即座に反応した。ワシントンはナサニエル・グリーン少将の指揮でバウンドブルックを奪還するために大部隊を派遣した。この部隊がバウンドブルックに到着した時には、イギリス軍は既に退却した後だった。グリーンはその後衛を襲うために分遣隊を派遣した。その部隊はラリタン・ランディング近くでイギリス軍に追いつき、そこで8名を殺し、16名を捕虜にした。 ハウ将軍は、大陸軍兵約30名が戦死し、80ないし90名を捕虜にしたと報告したが、リンカーン将軍はその兵士の60名が戦死または負傷と報告していた。ハウはイギリス兵とドイツ兵には死者が無く、負傷者は7名と報告した。ワシントンは「敵はその日11時には前進基地を失い、わが軍がそこを取り戻した」ことと、自軍の損失は「些細なもので言うほどのこともない」と報告していた。しかしワシントンは35ないし40名が戦死または捕虜になり、大砲3門が失われたとも報告していた。グリーン将軍はその妻に「イギリス軍の将軍が朝食を摂ったのと同じ日に私は同じ家で(夕食を)摂った。」と伝えていた。 ワシントンはこの攻撃がその年の作戦シーズンの早めの開始を告げるものであることを心配し、その軍隊がイギリス軍の大きな行動に対応できる位置にまだ居ないことを悩んでいた。その2週間後、特に大きな動きは無かった後に、大陸軍は「敵は6月初めに戦場に出てくる」ことを知った。 ワシントンはバウンドブルック自体が守るに難しい場所であることを認識した。5月26日には守備隊を引き上げさせ、5月28日にその軍隊の一部をモリスタウンからバウンドブルックより北のミドルブルックに近い新しい防御を施した宿営地に移動させた。そこは第1と第2のワチャング山地の間にあり防御に都合が良かった。その他の部隊はプリンスン近くに駐屯した。ワチャング山地の頂上からはワシントンがイギリス軍の動きを偵察しており、その間に両軍は小競り合いを続けた。両軍共に情報の収集も行い、その勢力と敵の意図の探索に努めた。 6月12日、ハウはニューブランズウィックからかなりの勢力(18,000名以上)を出撃させ、バウンドブルックを通ってサマセットまで進み、明らかにワシントン軍を丘陵部から引き出そうとしていた。ワシントンはハウが軍隊の重い物資を後方に残していることに気付き、騙されず、動こうとはしなかった。ハウは6月19日に突然ピスカタウェイまで後退したので、ワシントンは幾らかの部隊に後を追わせて、ワシントン自身も丘陵部から降りてきた。その1週間後、ハウはワシントン軍分遣隊の1隊を罠に掛けて大陸軍の丘陵部への退路を遮断しようとした。この動きは6月26日のショートヒルズの戦いで撃退された。ハウはこの失敗の後でその軍隊を船に乗せ、南のフィラデルフィアを占領する意図を持ってチェサピーク湾に向けて出港した。 バウンドブルックの戦場跡には標識と解説銘板が置かれている。
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戦いの後
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民兵達は、ギアリーの制服のうち剣やギアリーの名前が刻まれた帽子の銀盤など一部を着服した。その後物資を得るために派遣されたイギリス兵が地元住民に尋ね、辺りを捜索したが、ギアリーの遺骸は見つからなかった。民兵達は遺骸を隠しており、翌日には浅い墓に埋葬した。 イギリス軍のジョン・バーゴイン将軍は第16竜騎兵隊長の大佐として、ギアリー提督に次のように書き送っていた。 貴方自身に関わるアメリカからの報せをお伝えする今ほど痛切な痛みを感じたことはこれまで無かった。私の権限があまりに出来過ぎていることを怖れる。貴方のご子息は軍人としての運命に遭遇された。災難を経験し、心の琴線に触れるものを諦めるためにそれを表現するとして、最良の態度をもってしても貴方を慰めたり忠告したりはできないだろう。時間と回想だけが貴方を救える。それ故に部隊の涙に付け加えたい。かけがえのない両親の息子に対する私の個人的な悲嘆と、私が抱く尊敬の念を請け合うことが、彼の記憶に加えられる — バーゴインからフランシス・ギアリー提督に、1777年2月26日 この待ち伏せと類似した民兵による攻撃によって、トレントンから約4マイル (6 km) の範囲を超えて動くことは危険になったので、イギリス軍はその偵察範囲を狭めることになった。このことは、ワシントンがデラウェア川を渡る前に河沿いに船を集め始め、最終的に1776年12月26日のトレントンの戦いに集約される動きにとって重要な要素となった。ギアリーの部隊は河と渡河の出発地となったマルタ島からは、僅か5マイル (8 km) の所に駐屯していた。
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戦いの後
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プライスの部下たちはこのように騙されたことに激怒し、指揮官に逃げ出した北軍兵を追撃するよう要求した。しかし、プライスはそれを否定した。プライスはこの実りの無い行動のために、勢力の10%以上と貴重な3日間を費やしており、セントルイスを占領したいと言う願望はこのときはっきりと砕かれていた。ユーイングによる大胆な砦の防衛と、プライスの包囲線を抜けての脱出は、西部戦線全体の新聞の見出しとなり、ユーイング自身はエイブラハム・リンカーン大統領自らの感謝状を受けた。 南軍の損失について性格な数字は分かっていないが、歴史家達はそれが約1,000名に昇ったと推計している。当時の証言ではもっと大きな数字を挙げているものもあった。北軍は200名の損失を出し、そのうち28名が戦死だったことと対照的だった。 プライスの部隊は馬に乗って北への進軍を再開し、最後は州都ジェファーソンシティのある西に転じた。ジェファーソンシティが厚く要塞化されているのを発見した後はさらに西に進み、戦いながらカンザスシティとレブンワース砦に進んだ。最終的にウェストポートの戦いでプライスは壊滅的な敗北を喫し、ミズーリ襲撃を止めるしかなくなった。その後、南北戦争の中では最大級の騎兵戦であり、カンザス州では唯一北軍と南軍の会戦となったマインクリークの戦い(10月25日)で、プライスの軍隊は実効的な部隊としては事実上形をなさなくなった。9月に襲撃を始めたときの半数以上を失い、ほうほうの体でアーカンソー州に戻った。
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戦いの後
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「ジョンソンビルの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
フォレストは大変少ない労力で敵に大きな損傷を与えた。損失は戦死2名と負傷9名と報告した。北軍の損失は砲艦4隻、輸送船14隻、艀20隻、大砲28門、670万ドル相当の物資に加え、捕虜150人と報告した。ある北軍の士官は損失額を約220万ドルと言っていた。この襲撃のその後の展開により、北軍の指揮官層は、シャーマンがフッドやフォレストと直接対峙する代わりに、ジョージア州を抜けて移動する作戦について、次第に危惧するようになっていった。フォレストの部隊は豪雨で動きを遅らされながら、テネシー州ペリービルに進み11月10日にはコリンスに到着した。この襲撃の間の11月3日、南軍の戦線指揮官P・G・T・ボーリガード将軍が、フランクリン・ナッシュビル方面作戦にあたるフッドのテネシー軍にフォレストの騎兵隊を割り付けた。フッドは、フォレストが11月16日に自軍と合流できるまで、アラバマ州タスカンビアから北のテネシー州に入るのを遅らせた。
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戦いの後
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「ビューフォートの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
捕まえた捕虜(史料によって7名から12名となっている)に加えて、イギリス軍は40名が戦死または負傷したと報告された。ただし、脱走兵によれば、ガードナー隊の半数近くが大陸軍の銃砲火で撃たれたとしていた。対する大陸軍は8名が戦死、22名が負傷しただけだった。 ガードナーは迷って船から遠くまで行ってしまったために、その部隊が受けた損失でプレボストから酷評された。しかしロイヤリストの支援が無かったのはガードナーの失点ではなかった。大部分が民兵の部隊が正規兵のイギリス軍に勝利したことで、アメリカ側の士気を大いに揚げた。しかし、3月初旬に続いて起きたブライアクリークの戦いで大きな損失を出し、ジョージアにいるプレボストの軍隊に対抗して行くはずだった大陸軍の作戦を遅らせた。4月にリンカーンがオーガスタに向けて移動を始めると、プレボストはチャールストンに向けて軍隊を動かした。しかし、チャールストン市を短期間封鎖する以上のことはできず、サバンナまで後退した。この作戦の間にポートロイヤル島はイギリス軍に再度占領された。 戦場に近いアメリカ国道21号線の標識には、この戦闘のことが記されている。リトルトン砦の廃墟はアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。
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戦いの後
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この戦闘はフッドの野戦指揮官として大きな欠陥を示すことになった。つまり適切な偵察も無しに攻撃を掛けようという傾向だった。フッドはこの後も同じ誤りを犯すことになる。そのときは軍の指揮官としてであり、アトランタ方面作戦の中で、ピーチツリークリークの戦い、アトランタの戦い、エスラ教会の戦いと続き、相当に重い結果となった。 北軍の側では勝利を得たものの、シャーマンとフッカーの間の摩擦が大きくなり災いした。南軍の最後の攻撃が止んだ後間もなく、シャーマンが状況報告を求める伝令を送ると、フッカーは次の様に答えた。 「 我々は2回の激しい攻撃を跳ね返し、満足を感じている。我が軍の唯一の不安は我が軍の最右翼である。3個軍団全体が我々の前にある 」 シャーマンはこの返事を攻撃だと解釈した。スコフィールドの師団がフッカー軍団の右翼守備隊としての任務を果たしていなかったと示唆していたからだったので、スコフィールドも同様に解釈した。翌6月23日、シャーマン、フッカーと他の将官達、スコフィールドあるいはその副官の1人であるミロ・S・ハスカル准将が地元の教会で会合を開いて、フッカーの主張の真偽を検討した。多くの史料に拠れば、この会合は気まずい終わり方となり、フッカーが馬で去る時に「そのようなことを二度と起こらせてはならない」と警告したとされている。このことでフッカーのシャーマンに対する立場が一層悪化し、翌月にはフッカーが嫌っていた順位では下級にあるオリバー・O・ハワード少将を、フッカーの上級に来る地位に昇進させるというシャーマンの決断で最高潮に達した。フッカーは即座に辞表を提出し、シャーマンがそれを受領した。 この戦闘に勝利したにも拘わらず、シャーマンの回り込みを行うという意図が外され、ジョンストンのケネソー前線を破るための選択肢を再考することを強いられた。結局6月27日のケネソー山の戦いで大規模な正面攻撃を命じることになった。少なくとも1人の歴史家が指摘しているように、フッドの軍団をコルブ農園の開けた地域に誘い出せば、この手詰まりを打開できたはずであり、攻撃は必要ではなかった。それにも拘わらず攻撃が行われ、両軍に不要な損失を出させた以外に、得られるものは無かった。
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戦いの後
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マッキントッシュ大佐は翌日バークレイ海軍大佐に和平の使者を送り、捕虜の交換を要求した。バークレイがこれを拒むと、安全委員会は残っていたライトの部下の議員たちの逮捕を命令した。この動きが功を奏した。イギリス軍が拘束していた捕虜は、これら議員達の保護と交換に釈放された。 これらの動きがあったにも拘わらず、イギリス軍は商船の大半をバック川から河口に帆走させることに成功した。ただし、その中には、浅い水路を通るために荷物の一部を捨てる必要性があった船もあった。これらの船がタイビー島に到着すると、イギリス軍が望んでいた食料である1,600樽のコメがイギリス艦隊の輸送船2隻に積み替えられた。 艦隊は、捕虜交換の交渉が進行している間、タイビー島沖で停泊していた。この間に艦隊は到着してくる船舶数隻を拘束し、それらは後に「賞金」として処理された。3月25日、サバンナ市から1隊の民兵が派遣され、島の家屋を全て燃やして、ライトや艦船の士官達が使えないようにした。バークレイは3月30日に碇を挙げ、商船と輸送艦を護衛して北に向かった。その3月始めにイギリス軍はボストンを放棄していたので、ロードアイランドのニューポートに立ち寄ったが、土地の愛国者達が援助を拒み、野砲を使って艦船に発砲した。バークレイは5月にノバスコシアのハリファックスでイギリス軍と合流できた。 この戦闘とライト総督が立ち去ったことで、ジョージアにおけるイギリスの支配は中断された。1778年12月にイギリス軍はサバンナ市を占領した。ライト総督がサバンナ市に戻り、1782年までイギリスの支配下に置いた。
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戦いの後
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ギター隊は逃げるポーター隊の追跡と追撃戦で非常に消耗した。8月6日のカークスビルの戦いでポーター隊が敗北し、北東ミズーリにおけるその脅威が消滅した。ポーターは部隊に散開を命じ、南の南軍のところまで行かせるようにした。ギターはこの戦闘の直後に病気になり、カークスビルでの戦勝に加われなかったが、その配下の部隊は幾らか参戦していた。 この戦闘におけるオドン・ギターの功績、および数週間後のポインデクスター隊の追撃と破壊によって、ギターはミズーリ州軍の准将に昇進した。ミズーリ州北部における南軍の徴兵の動きはその後回復することはなかった。
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戦いの後
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「第二次チャールストン港の戦い」の記事における「戦いの後」の解説
ワグナー砦は連続的な砲撃に60日間耐えて、さらに長い期間北軍を留めていた。北軍の陸軍と海軍はチャールストン港の重要な陣地を確保し、最も恐ろしい砦を瓦礫に変えた。これにも拘わらず、チャールストン市とサムター砦は暫く南軍の支配下に残っていた。これを落としたのは1965年のカロライナ方面作戦にウィリアム・シャーマンの軍が市内を行進したときだった。
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戦いの後
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「ジャーマンタウンの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
大陸軍の戦死者は152名、負傷者は521名、400名が捕虜となった。イギリス軍の損害は戦死71名、負傷者450名、不明14名であった。結果としては、イギリス軍に大きな損害を与えられなかった大陸軍の、ブランディワインに続く敗戦となった。しかし大陸軍の士気は衰えず高いままを維持した。なぜならば、グリーンやウェインの部隊がイギリス軍を押し込んでおり、撤退はウェイン隊が誤ってステファン隊に攻撃されたために崩れただけのことだからであった。ステファンは後に軍法会議に掛けられ、行軍中に酒を飲んでいたことが分かって解任された。ステファン隊の指揮は有望な若きフランス人ラファイエットに任された。 ワシントンの作戦は失敗した。これは4つに分かれた攻撃隊の協同を必要とする複雑な作戦だったからである。訓練を積んだ外国の指揮官達が後にワシントンに語ったところでは、多くの欠陥もあるであろう複雑な作戦はとても立てられないということであった。しかし、もう少しの所まで行ったという事実はワシントンや残りの大陸軍兵士に自信を植え付けた。
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「ダンツィヒのポーランド郵便局での攻防」の記事における「戦いの後」の解説
戦いが終り、6人が建物から逃走した。そのうち、2人は後日捕まった。16人の負傷者は市の病院へ送られ、6人はその後死亡した(5人は火傷が原因、これには10歳の少女、エルヴィナも含まれていた)。残りの28人は警察の建物に収監された。数日後、ヴィクトリアシューレ(Victoriaschule)に送られた。 全ての捕虜は裁判にかけられた。9月8日に最初の28人が、9月30日に病院から回復してきた10人が、1938年のドイツ軍の特別軍事刑法の元で、全員がパルチザンとして死刑を宣告された。刑の宣告は、検事ハンス・ギーセック(Hans Giesecke)により要求され、裁判長のクルト・ボーデ(Kurt Bode)が宣告、陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥がこれに署名した。弁護士による弁護は許されず、10月5日に銃殺が執行された。 同様の運命は都市の南側で装甲列車でヴィスワ川にかかる橋を確保しようと試みた、ポーランドの鉄道員に対しても待っていた。 ギーセックとボーデはこの件に関して責任を取ろうとしなかったし、「法律にのっとった殺人」に関して言及しなかった。 2人は戦後の非ナチ化の後、法律家としての職務を続け、1970年代に生涯を全うした。唯一、1995年のリューベックにおけるドイツ法廷において、ハーグ陸戦条約に違反した法律であると言う理由が元で、1939年の判決を無効にし、「郵便局員」の名誉回復がおこなわれた。 ポーランドでは、この話は第二次世界大戦の1939年9月の戦いの中でよく知られた話となっている。1979年には、ポーランド人民共和国のグダニスクでポーランド郵便局の記念碑の除幕式がおこなわれた。
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「トトポトミー・クリークの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
北軍の損失は総計731名、戦死と負傷合わせて679名と捕虜52名だったのに対し、南軍は総計1,593名、戦死263名、負傷961名、不明と捕虜合わせて369名だった。南軍の元はストーンウォール・ジャクソンの参謀で人気があったエドワード・ウィリス大佐が、ラムスールの思慮の足りない突撃の時に致命傷を負った。南軍のジェイムズ・B・テリル准将もベセスダ教会の所で戦死した。 アーリーが攻撃に失敗したことよりもリーが関心を寄せたことは、グラント軍の進路に援軍が向かっていると知らされた情報だった。ホークの師団がバミューダ・ハンドレッドを出発した時に、ウィリアム・F・"ボールディ"・スミス少将の第18軍団16,000名が、グラントの要請でバトラーのジェームズ軍から抜かれてジェームズ川を下り、ヨーク川からパムンキー川に進んでいた。スミスがホワイトハウス・ランディングからベセスダ教会の3マイル (5 km) 南東、グラント軍の左翼のコールドハーバーまで真西に進んでおれば、伸び切っていた北軍の前線は南軍の右翼をのはるか南から包み込むようになっていたはずだった。リーはフィッツヒュー・リー少将の騎兵隊を送ってコールドハーバーの交差点を抑えさせた。 リーの全軍が...直ぐ近くにおり、再び強固な塹壕に入っていることに、疑いも無かった。グラントは...断固として難しいことに頭を使わないと宣言した チャールズ・A・ダナ、グラントに同行していたアメリカ合衆国陸軍省の代表 5月31日、ハンコックの第2軍団が再度トトポトミー・クリークを渡ったが、南軍の防衛線が実際のクリークの川床の背後にしっかりと布かれていることが分かった。グラントは、南軍の強固な陣地が新な行き詰まりを示唆していることを理解した。グラントは5月31日夜に南のコールドハーバーに向けて軍を動かし始めた。
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戦いの後
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「ホワイトオーク道路の戦い」の記事における「戦いの後」の解説
ホワイトオーク道路の戦いの結果として、南軍は道路の支配権を失い、その工作物の中に閉じ込められ、ピケット隊との直接通信線を失った。南軍はその損失を取り返せないものと考え、その士気には大きな打撃となった。 ウォーレンの第5軍団が、グリフィンの師団に先導され、ハンフリーズの第2師団のマイルス師団に支援され、この戦闘を北軍の勝利に変えたが、シェリダンは同じに日に終わったディンウィディ・コートハウスの戦いで強い圧力を受けて危険にさらされた部隊を救うのがやっとだった。南軍は北軍騎兵隊を厳しい状況に追い込むことでその戦いに勝利した。しかし、ウォーレンがディンウィディ・コートハウスの方向で小さくなっていく戦闘の音を遠く聞いたとき、グリフィン師団のジョセフ・J・バートレット准将の旅団をシェリダン軍支援のために派遣し、ピケット隊の側面を攻撃させた。バートレット隊がグレイブリーランに到着したときは暗かったので、それを越えようとはしなかったが、狙撃手の銃火で対岸の南軍と戦った。 午後6時頃、ミードは、ピケット隊が実際にシェリダン軍をディンウィディ・コートハウスの方向に押し返していることを知った。ミードはウォーレンに部隊を送ってシェリダン軍をボイドトン板張り道路に落ち着かせるよう命じた。ウォーレンはバートレットの3個連隊を派遣した。バートレット旅団はボイドトン板張り道路を降るシェリダン軍のために輜重隊を護衛していた。 ピケットは、午後9時から10時の間に、バートレットの旅団がシェリダン軍支援に向かっており、自部隊の側面が北軍歩兵の攻撃に露されることを知った後で、自部隊の位置づけが脆弱であることを認識した。ピケットはその夜遅くにファイブフォークスまで隊を退き、シェリダン軍を攻撃して得ていたかもしれない利点を全て放棄した。バートレットの旅団はグリフィンとクロウフォードの師団全軍の先遣隊に過ぎず、その全軍はその夜に行軍して来て、ピケット隊をシェリダン軍との間に捕まえてしまう可能性があった。そのなると南軍は降伏するか西に逃亡するか以外に選択肢がなくなることになった。ピケット隊の退却は少なくともファイブフォークスとサウスサイド鉄道を守る機会を与えていた。 その夜、ウォーレン、グラント、ミード、シェリダンの間に新たな命令や伝言が飛び交ったが、情報が完全に共有されることは無かった。午後8時45分、グラントはミードに第5軍団から1個師団をシェリダンの支援に送るよう指示した。命令が変更された。その中にはバートレットの旅団が呼び戻され、グリフィンの師団の残りと合流すべきかというものが含まれていた。ウォーレンの軍団は舟橋をロワンティ・クリークを渡るときに使っており、グレイブリーランを渡るのはクエーカー道路を使っていたので、このとき舟橋が無かった。よって西に全軍団が動く時は、グレイブリーランを渡すボイドトン板張り道路の橋を架ける必要があったために遅れた。ウォーレンにはその渡河を午前2時5分までに終えるよう指示が出されていた。ミードは、ウォーレンの全軍団をシェリダン軍支援のために動かし、ボイドトン板張り道路の前線を第2軍団のみで守るという作戦はウォーレンのアイディアだということをグラントに告げていなかった。グラントがシェリダンに、第5軍団とラナルド・マッケンジーの騎兵隊がシェリダンの支援に回るよう命令されたと告げた時、シェリダンは根拠も無いままにウォーレン軍団が「今夜12時までに」到着するはずだと告げた。これは状況から考えて不可能なことだった。エアーズの師団がシェリダン軍の所に到着したのは翌日の夜明け時だった。南軍が退却していたので、エアーズ隊は午後2時まで休息した 。 シェリダンは間違った情報を得ていたので、第5軍団が南軍の後方、ほとんど側面にいると考え、それ故に第5軍団が早々にもピケット隊に厳しい攻撃を掛けられると誤解していた。ウォーレンはホワイトオーク道路前線から退く時に南軍から攻撃される可能性があったので慎重にグリフィンとクロウフォードの師団を動かさねばならなかった。南軍が以前陣取っていたディンウィディの陣地では部隊が動く時にその隊列の後端に自ら付いて、慎重に監督した。4月1日午前6時、ミードの参謀長アレクサンダー・S・ウェブがウォーレンに、シェリダンの所に出頭して命令を受けるよう命令を送った。2個師団が1時間の内にそれを行い、それはウォーレンが命令を受け取る前だったがウォーレンが自らシェリダンと会見したのは午前11時になっていた。 南軍がファイブフォークスに到着すると、その塹壕線の左の北あるいは東側に走る線の返りを構築するなど、塹壕と防御工作物の改良を始めた。 ウォーレンが3月31日にホワイトオーク道路に沿って地歩を得たこと、その師団の働きでピケット隊をディンウィディ・コートハウスからファイブフォークスに後退させたこと、その後にシェリダン軍と共にその軍団を配置したことが、翌日のファイブフォークスの戦いで南軍を破ることに繋がり、さらに4月2日には第三次ピーターズバーグの戦いで包囲線の突破口を開くことになった。
※この「戦いの後」の解説は、「ホワイトオーク道路の戦い」の解説の一部です。
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戦いの後
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「第二次インディペンデンスの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
この戦闘ではマーマデュークとその部隊の勇猛さによって、プライス軍は勝利を主張できたが、プレソントンの大胆な行動が悩ませることになった。プライスは軍需物資の安全性を懸念し、ビッグブルー川を越えてきていた輜重隊をフォートスコット道路沿いのリトルサンタフェに送ることになった。翌日、両軍合わせて3万名の軍隊がウェストポートの戦いで会することとなり、これに北軍が決定的な勝利を挙げて、南軍によるミズーリ州での軍事行動を終わらせることになった。
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戦いの後
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「スプリングヒルの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
スプリングヒルの戦いは、北軍の損失350名、南軍は500名という数字からは比較的小さな戦闘だったが、対話不足の結果と単純に悪い軍事管理によるものであり、コックスを含めスコフィールドの配下全てはその日の夜、南軍の指揮官層が寝ている間にコロンビアからスプリングヒルまで通っていた。軍隊の通過は兵士によって気付かれないではいけなかったが、通りを塞ぐための協調した動きも無かった。ローレンス・S・ロス准将の騎兵旅団がスプリングヒルの北、トンプソンのステーションで、輜重隊の通り道を塞ごうとしたが、護衛していた北軍歩兵隊が彼らを追い返した。一人の兵卒が午前2時に指揮官の将軍(フッド)を起こし、北軍の部隊が北に移動していると報告したが、フッドはチーザム隊を派遣して通り道に火を点ける以上のことはしなかった。 11月30日午前6時までに、スコフィールドの軍はスプリングヒルのかなり北まで来ており、前衛隊はフランクリンに到着して、町の南に胸壁の構築を始めていた。朝になってフッドはスコフィールド隊が逃亡したことを知り、その後の作戦会議ではこの失敗について自分以外の部下全員を非難するという怒りの集会となった後、自軍に追撃を再開するよう命じたが、それがその日の午後のフランクリンの戦いでの悲劇の始まりとなった。 スプリングヒルの出来事は指揮の責任と対話の断絶における実物教育になった。フッドは部分的に責任があった。スコフィールド隊がナッシュビルに行くのと競う以外に何の作戦も無いままにスプリングヒルに来ていた。戦場に居なかったことで幾つかの重要な事項を理解できぬままとなった。真夜中になって前線が道路に面していないと分かったとき、スコフィールド隊に陣地について自信がありすぎて自ら観察しようとしなかった。 トマス・L・コネリー, Autumn of Glory スプリングヒルはフッドが北軍を孤立させ打ち破るための疑いも無く最高の機会だった(テネシー軍の歴史家トマス・L・コネリーは、スプリングヒルの重要さが評価されすぎており、スコフィールドはフランクリンないしナッシュビルまで行く3通りのルートがあったと論じている)。この失われた機会を非難し直すことが直ぐに盛んに行われるようになった。ブラウンが酔っ払っていたという噂が流れたが、それが証明されることはなく、ブラウン自身は後にテネシー州知事にもなった。フッドはチーザムが最も責任が重いと考えたが、チーザム配下のクリバーンとブラウンという師団長2人も同様に批判した。フッドの公式報告書では、「チーザム少将は即座に活発に敵を攻撃して、道路を占領するよう命じられたが、これらの命令はしばしば熱心に繰り返されたものであり、弱弱しい部分的な攻撃しかせず、支持された点にまで達しなかった」としていた。歴史家のコネリー、エリク・ジャコブソンおよびウィリー・スウォードはそれぞれフッドとチーザムの双方に非があるとしていた。 フッドの個人的な失敗については、長年歴史家達が様々な説を述べてきた。中でもずっと続いているものは、フッドがその日に荒れた道を長く馬に乗り、切断していた足の痛みとイライラを和らげようとして、その夜にアヘンチンキを吸引して衰弱していたというものである。エリク・ジャコブソンの著書『大義のために、国のために』では、この説を支持する多くの著者の名前を挙げているが、「スプリングヒルで、フッドが如何なる種類の薬物を服用したという証拠も無く、アルコールですら証拠はない」と述べてもいる。
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戦いの後
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「タイコンデロガ砦包囲戦」の記事における「戦いの後」の解説
大陸軍が撤退する前の小競り合いで少なくとも大陸軍兵7名が戦死し、11名が負傷した。イギリス軍の損失は集計されていないが、小競り合いで少なくとも5名が戦死していた。 大陸軍はハバードトン道路をうまく進んだ。部隊の大半は7月6日の夜に30マイル (50 km) の行程にあるキャッスルトンに到着した。7月7日にイギリス軍追跡部隊が大陸軍後衛に追いついてハバードトンの戦いがおこったが、このことで大陸軍主力の逃亡を可能にし、最後はエドワード砦でスカイラーの部隊と合流できた。船でスキーンスボロに逃げた大陸軍の小部隊はバーゴイン軍前衛とアン砦の戦いを行ったが、スキーンスボロの小競り合いで装備や多くの病人および負傷兵を放棄するしかなかった。 タイコンデロガ砦の対戦はバーゴイン軍の進行速度を実質的に遅らせることができなかったが、バーゴインはタイコンデロガ地域の守りのために900名以上を残し、スキーンスボロでは散らばっていた部隊が再集合するのを待つために7月11日まで留まった。その後、スキーンスボロとエドワード砦の間では材木で埋まった道路を進むために遅らせられた。これはスカイラー軍が樹木を切り倒して道に転がし、湿地では橋を破壊していったためだった。バーゴインのこの作戦は最終的に失敗し、サラトガの戦い後に降伏を強いられた。ゲイツ将軍は11月20日にジョージ・クリントン知事に当てた報告書で、タイコンデロガとインデペンデンスの砦は退却するイギリス兵によって放棄され焼かれたと告げていた。
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戦いの後
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「チャプルテペクの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
この戦闘はアメリカ軍にとって意義ある勝利になった。戦闘はその日の大半で続き、激戦で損失も多かった。トウィッグス、ピローおよびシールズ各将軍が負傷し、トルースデイル大佐も負傷した。ベレン門を攻撃したクイットマンの部隊で損失が最も多かった。クイットマンの参謀全てが舗道での接近戦でその命を失った。 サンタ・アナの側ではブラボ将軍が捕虜に取られ、フアン・N・ペレス将軍が戦死した。サンタ・アナは怒りに駆られ、ベレン門を陥されたことでテレス将軍を平手打ちし指揮官から解任した。サンタ・アナの回想録ではテレスを裏切り者としており、メキシコシティ敗北のスケープゴートにした。
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戦いの後
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この戦闘は植民地北部戦線では最後の大規模戦闘となり、また参戦した戦力からみて1日で行われた戦闘としては独立戦争中最大のものであった。さらにワシントン軍がイギリス軍と正面から向き合って大会戦を行い、負けなかったこととしてはプリンストンの戦いに続いて2度目の戦闘であった。リーは後にニュージャージのイングリッシュタウンで軍法会議に掛けられて有罪とされ、1年間部隊指揮から外された。ワシントン軍はニューヨークのホワイト・プレインズに移動し、両軍とも2年前の1776年の状態に戻ったことになり、睨み合いが始まった。この後北部ではストーニーポイントの戦いのような小規模の戦闘はあったものの、戦いの主戦場は他所へ移った。
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戦いの後
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「サン・ビセンテ岬の海戦」の記事における「戦いの後」の解説
イギリスの損害は戦死者73、重傷227、軽傷100であった。スペインの損害は死傷者合わせて約1,000名だった。 ジャーヴィスはセント・ヴィンセント伯爵として貴族に列せられた。ネルソンはバス勲爵士に叙されて、少将に昇進した。コルドバはスペイン海軍から除籍され、宮廷への出仕も禁じられた。 スペイン艦隊の実力が自らの艦隊と比べ物にならないほど劣ることを確認したジャーヴィスは、カディスでのスペイン艦隊の断固とした封鎖を実行した。 サン・ビセンテ岬で、イギリスはスペイン海軍に致命傷を与えられず、4隻の戦列艦の捕獲にとどまった。その戦果の少なさに不満を募らせた彼らは、3月にカディスへ、夏にはカナリア諸島のサンタ・クルス・デ・テネリフェへ、捕獲のための巡航を行った。しかしネルソンは陸上の砲台によって撃退され、その目的は達成できなかった。スペインの有名な大砲「エル・ティグレ」によってネルソンの右腕が失われたのはこのときである。 封鎖はそれから3年近く続き、1802年のアミアンの和約までの間、スペイン艦隊の活動を大きく制限した。 スペインの脅威の封鎖と彼の艦隊の強化とによって、ジャーヴィスは翌年、ネルソン指揮下の戦隊をふたたび地中海に送ることができた。ソマレズの「オライオン」、トラウブリッジの「カローデン」、それに「ゴライアス」を含むその戦隊は、フォーリー提督の下に再編された地中海艦隊に加わり、ナイルの海戦で大きな戦果をあげることになる。
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戦いの後
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メルダジーンの戦いに北軍が勝利した後、南軍の領土まで撤退しようとするプライス軍の後を追い続けた。メルダジーンの戦いの戦場から約6マイル (10 km) 南で、フィリップスとベンティーンとその騎兵旅団が、マイン・クリークを渡ろうと苦闘していたプライス軍の輜重隊に追いついた。その結果起きたマインクリークの戦いは、南北戦争全体で起きた騎兵戦の中で、最大ではないとしても最大級のものとなり、南軍の将軍が2人捕まり、別の将軍1人は戦死し、兵士も数百名が捕虜になることとなった。北軍は南軍が従えていた輜重隊の多くを後に残して行かせることとなった。 マイン・クリークで戦闘が起きた後、プライスとその士官達は川がその退路を塞いでいる場所で、兵士達を鼓舞しようとした。それがマーミトン川であり、ジョン・マクニール准将が指揮する北軍部隊が、プライス他の南軍兵を攻撃した。北軍兵の多くは武装しておらず、マクニールはプライス軍の正確な勢力についても知らなかった。数時間に及んだ小競り合いの後、マクニールは残っている南軍兵を効果的に追撃できないと判断し、攻撃を止めさせた。 これで北軍によるプライス軍追撃が終わり、プライス軍はアーカンソー州へ戻った。南軍のためにミズーリ州を支配するという命令と作戦は終わった。プライスはこの任務の遂行に失敗しただけでなく、兵力の大きな損失に繋がった。この作戦は約1か月続いたが、真に有効な戦果は得られなかった。
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戦いの後
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レンジャーからドレイクに35名が乗り移り、接収とその損傷の評価にあたった。その後の3日間は修繕に当てられ、緩りとアイルランドとスコットランドの間の海域を北西方向に進んだ。そこで接近しすぎた貨物用ブリッグ船を捕獲し、予備の宿泊設備として使われた。一方最初にカリックファーガスに行った時に捕まえていたアイルランド人漁師6人が病気のアイルランド水兵3人と共にボートで故郷に戻ることを許され、ドレイクの帆とジョーンズからの幾らかの金を持たされた。彼らが故郷に戻ったときに、死の床にあるドブス副艦長に対してジョーンズが示した気遣いについても報告した。一方イギリス海軍は幾隻かの艦船にレンジャーの後を追わせたが、ドレイクが緩りとしか動けなかったにも拘わらず、アメリカ艦の船影すら認めることができなかった。ジョーンズにとっての唯一のトラブルといえば、副艦長のトマス・シンプソンに指揮権を与えた捕獲船のドレイクの姿が一時期見えなくなったことくらいだった。 この戦勝の報せはジョーンズが帰還するよりも早くフランスに届いており、ジョーンズは英雄として迎えられた。イギリス側については、イギリス海軍はアメリカの襲撃者に対してイギリスの船舶を守れない、アメリカの襲撃者に対してイギリスの海岸を守れない、さらにアメリカの襲撃者に対して戦闘艦すら守れないという教訓を得た。海岸地域では急いで民兵隊が組織され、海港はさらなる襲撃に備えるために自ら砲台を構築した。紳士階級は互いに結束して、最後の防衛線として志願兵大隊を作り上げた。この時以降、報道機関はジョン・ポール・ジョーンズの如何なる動きにも特別の注意を払い、ジョーンズの殺人や海賊行為という悪意ある噂を、レンジャーの航海における騎士的で冷血とは程遠い行動の証拠で打ち消すように努めた。ジョーンズはフランスに戻ってから、セルカーク伯爵と、戦闘後数日で死んだドブス副艦長の家族に、親切で思慮深い手紙を送っていた。ジョーンズは無名のスコットランド系アメリカ人から国際的な英雄になり、ノース海峡の海戦は、世界でも最も強力な国が他の国と同様に攻撃されると脆弱であることを示すという、注目された任務に対する明らかに輝かしい印となった。ジョーンズの次の任務を準備しているという新聞の報道は怖れと不安の雰囲気を創り出し、それが1779年に戻ってきたときに最も良く記憶される最高の功績を残すことに役立った。
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戦いの後
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この戦闘は全体で2時間ほど続いたが、白兵戦になってからはほんの5分間だった。イギリス軍は次第に数で優勢になってアメリカ兵に降伏を強いたが、アメリカ軍もかなりの損傷を与えた。イギリス軍は湖の支配権を取ったが、時間がかかったために、アメリカ軍のアンドリュー・ジャクソン将軍には防衛のための時間を与えてしまった。アメリカ軍は砲艦と、スループ艦を失い、6名が戦死、35名が負傷、86名が捕虜になった。イギリス軍がカウントしたアメリカ軍の損失は戦死10名、負傷35名、捕虜86名だったが、アメリカ軍に拠れば、戦死、負傷、捕虜合わせて60名だった。ジョーンズは3か月間戦争捕虜になった。後にその勇敢さと、イギリス軍の進軍を遅らせた功績で表彰された。 イギリス軍の報告書では、戦死17名と負傷77名であり、その内数人は後に死んだ。ロッキア大佐も負傷者に入っていた。イギリス軍はロングボート2隻を沈められ、他にも損傷を受けていた。当初アメリカ軍はイギリス軍が300名程が死傷し、4隻のボートが沈んだと主張していた。コクランは捕獲した船隊を評価して36門のフリゲート艦に相当するとし、ロッキアはその傷が許す限り速やかにその指揮にあたるよう指名した。モントレサーが指揮官代行となった。1815年3月、ロッキアは海軍大佐に昇進を受けた。 イギリス軍は捕獲した砲艦5隻を、HMSアンブッシュ(アンブッシュ5号)、HMSファイアブランド、HMSデストラクション、HMSハーレクイン、HMSイーグルの名で就役させた。これらの艦の幾つかは1815年6月までイギリス海軍の現役に留まり、少なくとも1隻はその先まで使われた。 ボーン湖はイギリス軍がニューオーリンズを攻撃するために備える上陸地帯になった。ニューオーリンズ市民がボーン湖の海戦のことを知った後で、市民の間に恐慌が広がったので、アンドリュー・ジャクソンは戒厳令を宣言した。
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戦いの後
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「ミル・スプリングスの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
損失は比較的軽かった。北軍は戦死39名と負傷207名、南軍は戦死125名と負傷または不明が404名だった。クリッテンデンの軍歴も損失になった。飲酒と反逆で告発され、その部隊は解体されて、ボウリング・グリーンにいたバックナーの下の軍団指揮官に部署替えされた。2ヶ月のうちに指揮官を解任され、その後の飲酒談のために逮捕された。 ミル・スプリングスの戦いは、ミドルクリークの戦いと共に、ケンタッキー州に張った南軍の主要防衛線を破られることになった。ケンタッキー州での南軍の運命はその年の夏まで再び上昇することが無く、その時にブラクストン・ブラッグ将軍とエドマンド・カービー・スミス少将がペリービルの戦いを頂点とする南軍ハートランド攻撃を始めた。ミル・スプリングスは1862年1月の2つの北軍勝利よりも大きなものだった。これらの勝利によって北軍は2月に戦線をテネシー州中部に移した。
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戦いの後
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この戦いの損失については史料により数字が異なるが、最も信頼できる証拠では、ジョーダン部隊の戦死4名、負傷10ないし12名、捕虜355名であり、約150名が逃亡した。モーガン隊は戦死11名、負傷40名となった。北軍の死者の中には市民の有料道路見張り番1人が含まれ、その料金徴収所近くで殺された。モーガン襲撃隊はまた戦場から4マイル (6 km) 離れた農園でルーテル教会の牧師1人を殺し、その他幾人かの農夫から馬を盗んだ。 モーガン将軍はその師団をコリドンの町に入れた。モーガンはインディアナ・リージョンの活発な防御を認め、彼らが正規の北軍兵であるかのように捕虜全員の仮釈放を認めた。上機嫌の南軍はその日の午後を費やして店舗を略奪し、身代金を集めた。モーガンは地元の製粉所3箇所に火を点けると脅し、その破壊を止める代償として1箇所あたり700ドルから1,000ドルを要求した。郡財務官はモーガンに690ドルを渡し、指導的店舗2店がそれぞれ600ドルを渡した。その日遅く、モーガンの襲撃隊はコリドンを離れ、北方に馬を騎り進め田園部を探し回って新しい馬とその他の物資を集めた。 モーガンはキントナー・ハウス宿屋で食事を摂り、そこで新聞を手に入れてゲティスバーグの戦いで南軍が敗れたことと、ミシシッピ州ヴィックスバーグが陥落したことを知った。この2つの打撃から南軍が立ち直ることはできなかった。モーガンはその襲撃の出発時にペンシルベニア州で南軍と落ち合うことを意図していたが、その南軍がこの時は撤退中であり、当初の目的が達成できないと考えて南部に戻る作戦を立て始めた。 その日遅く、モーガンは北への進軍を再開し、ハリソン郡北部を襲撃した後に、その主力はコリドンから数マイルのニューサリスベリー近くで宿営した。モーガン隊は翌朝早くにハリソン郡を出て、セイラムを襲撃した後にその部隊をオハイオ州に向けた。7月10日、北軍正規軍6,000名がハリソン郡に到着しモーガン隊の追跡を始めた。モーガン隊は東のオハイオ州に入って襲撃を続けたが、再度オハイオ川を渡って安全地帯に逃げ込もうとした時の7月19日、バッフィントン島の戦いで遮られ、部隊兵の多くが捕まった。 南北戦争の政府公式記録ではコリドンの戦いとゲティスバーグの戦いが北部の大地で戦われたと認めた唯二つの戦闘である。
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戦いの後
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「ブランフォードの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
撤退するアメリカ民兵隊へのフィリップスとアーノルドの追撃は、リッチモンドから川を隔てたマンチェスターまで続いた。ここには4月29日に到着した。しかし、ラファイエットの部隊が急行軍して先にリッチモンド市に入ったので、市内まで進軍できなかった。イギリス軍はチェスターフィールド郡全体のタバコ倉庫を破壊した後、ジェームズ川を下ってウェストオーバーまで戻った。ラファイエット部隊はポカホンタスまで進軍した。フィリップスはウェストオーバーに居た5月7日にピーターズバーグまで戻って、ノースカロライナのウィルミントンから北上してくるコーンウォリス将軍の部隊を待つよう命令を受けた。フィリップスが5月9日にピーターズバーグに到着すると、北岸の現在のコロニアルハイツに陣を占めたラファイエットの砲兵隊からの砲撃に迎えられた。フィリップスは腸チフスに罹って5月13日に死に、アーノルドが一時的にイギリス軍の指揮を引き継いだ。 コーンウォリスの部隊は5月20日にピーターズバーグに到着し、イギリス軍の総勢は5,300名になった。その後直ぐにニューヨークからの援軍が到着し、7,000名以上となった。コーンウォリスはアーノルドにニューヨークに戻るよう命じ、暫くはバージニア中部でラファイエットを追ったが効果は無く、その後ウィリアムズバーグに戻った。コーンウォリスは最終的にヨークタウンを要塞化する命令を出し、一方ラファイエットは西インド諸島から来たフランス軍と9月初めに合流して陸からヨークタウンに至る道路を封鎖し、フランス艦隊はイギリス海軍の救援艦隊がヨークタウンに向かうのを阻止した。北部からはジョージ・ワシントンと米仏連合軍が到着して、コーンウォリス軍は包囲され、1781年10月17日に降伏した。 ピーターズバーグの町は南北戦争の終盤1864年から1865年にかけての9か月間、北軍に包囲されて再度軍事行動の中心になった。南北戦争におけるピーターズバーグの役割はその軍事史の大部を占めるものになっている。しかし、1992年以来ピーターズバーグ市はこのアメリカ独立戦争の戦いを毎年再現し続けている。
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戦いの後
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「1801年8月1日の海戦」の記事における「戦いの後」の解説
戦闘の終わった時の「トリポリ」の損傷は激しく、乗組員80名のうち、副艦長を含む30名が戦死しており、ラウス自身を含む30名が負傷していた。アメリカ海軍の完勝に終わったこの戦闘の中で「エンタープライズ」の損失は見かけだけのものであり、人的損失は皆無であった。スターレットは、その与えられていた命令に戦利品を保持する権限が無かったので、大破した「トリポリ」を釈放し、そのままトリポリ港に向かって帰らせた。しかし、釈放する前にマストを切り倒して航行できない状態にしたので「トリポリ」は帆に頼ることができなくなっていた。その後、スターレットは、そのままマルタへの旅を続け、任務である物資を積んだ後に海上封鎖地点に戻った。 「エンタープライズ」が去った後、「トリポリ」はトリポリ港へ帰還する航海を始めた。その途中で「USSプレジデント」に遭遇し、その援助を求めた。ラウスは自艦がチュニスのものであると偽り、フランスの大砲22門搭載艦と交戦して損傷したと伝えた。デイルは、この艦の真の国籍を疑い、ラウスにはコンパスを与えるだけで、母港に戻る道を見出せるようにした。やっとのことでトリポリ港に到着したラウスであったが、当時のトリポリを支配していたパシャであるユスフ・カラマンリから、その無様な負け方を激しく非難され、罰として、指揮権を剥奪された上、雄ロバに後ろ向きに座らされ、羊の腸を巻かれて通りを引き回された後、足の裏を500回叩かれた。 この海戦の結果は、対戦した2国で全く異なる結果を生んだ。トリポリでは、この敗北にラウスに対する厳罰が組み合わされ、市中の士気を著しく落とし、船舶乗組員を徴募しても応募者が大きく減少し、アメリカ合衆国では、全く正反対のことが起こった。アメリカ海軍がトリポリに対して初の勝利を収めたという知らせが到着すると、荒々しい宣伝がそれを囲み、アメリカ合衆国政府は「エンタープライズ」の各乗組員に1か月分の給与をボーナスとして与えた他、スターレットには剣を与えることを認め、昇進を要求して、その栄誉を称えた。勝利を得たアメリカ人に関する想像力豊かな戯曲が書かれ、この戦争に関する士気と熱狂が最高点に達した。しかし、この勝利でも、戦争の遂行においては長く影響が残らなかった。デイルの海上封鎖では港に出入りする船を妨害する効果が無く、パシャのアメリカに対する外交姿勢を変える効果も無かった。デイルの戦隊は1802年に解任され、別にリチャード・モリスが指揮する戦隊が任務に就いたが、戦争は1805年まで続いた。
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戦いの後
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「グロトンハイツの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
グリスウォルド砦の虐殺はグロトンとコネチカットの歴史で最大級の悲劇になった。独立戦争の終戦前に北アメリカにおける最後期の勝利にもなった。ニューロンドンが受けた被害は大きなものであり、その損害額は50万ドル近いと推計され、100近い家族が家を失い、公共建築物9棟とウォーターフロント大半が破壊された。イギリス軍はグリスウォルド砦を破壊するために火薬の道をつけて火を点けたが、勇敢な民兵が砦に入ってその火を消した。 グリスウォルド砦の殺戮で数多いアメリカ兵が死んだ。「グロトン・ガゼット」紙は損失が約150名と報じた。ジョージ・ミドルトンのような生存者の何人かは脱出したが、スティーブン・ヘンプステッドなど他の者は捕虜になった。ヘンプステッドは「虐殺後、彼らは我々から全てのものを取り上げ、文字通り裸にした。」と語った。負傷者の中にいたヘンプステッドは他の多くの捕虜と共に馬車に乗せられ、イギリス戦隊の所まで連れて行かれた様子を記した。その馬車は丘を駆け下るままにされ、木に当たって止まったときに何人かが投げ出され、その傷を悪化させた。 後にベネディクト・アーノルドはイギリス兵48名が戦死し、145名が負傷したという報告書を提出した。クリントン将軍はアーノルドの「勇気ある行動」を称賛したが、高い損失率については不平を言った。グリスウォルド砦に派遣された部隊の約25%が戦死または負傷していた。あるイギリスの批評家はこの戦いが「バンカーヒルの遠征」のようだったと記し、また多くのイギリス軍人はアーノルドが報告された殺戮を防げる場所にいなかったとしても、グリスウォルド砦で起こったことについてアーノルドを非難した。アーノルドは続いてフィラデルフィア襲撃のための遠征を提案したが、10月下旬にチャールズ・コーンウォリス操軍がヨークタウンで降伏したために、そのアイディアは潰えた。
※この「戦いの後」の解説は、「グロトンハイツの戦い」の解説の一部です。
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戦いの後
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「ヘッドオブパッシーズの海戦」の記事における「戦いの後」の解説
ホリンズはニューオーリンズに戻って英雄の扱いを受けた。モスキート艦隊の功績について過大な証言がニューオーリンズやその他東部のアメリカ連合国都市の新聞に掲載された。北軍戦隊の方が明らかに戦力が上回っていたので、その成果を妬ましいものにまでした。北軍封鎖戦隊を潰走させたこと以外、特に得たものは無かった。北軍戦隊が南西パス灯台の所に提案していた岸の砲台のために残されていた木材を陽気に燃やしたこと以外では、捨てられたカットラスで一杯のカッターと乗組員のいないジョセフ・H・トゥーンを捕獲したことが成果だった。スクーナーのジョセフ・H・トゥーンには石炭が15トン残っていたが、元はと言えば北軍戦隊の戦利品であり、古い水漏れのある船に過ぎなかった。この戦闘で最も損傷が大きかった艦船はマナサスであり、その原因は敵の砲火よりもリッチモンドに衝角攻撃を行ったことだった。リッチモンドに与えた損傷は喫水線下の船殻にかなりの水漏れを生じさせたことだったが、リッチモンドを沈めることも、航行不能にすることもできなかった。 マナサスは期待外れであることが分かった。勇気ある乗組員が乗ってはいたが、速度が鈍く、操船が難しく、その衝角で決定的な行動に持ち込むほど強くはないことが分かった。リッチモンドは1回の突撃で潰れず、北軍戦隊ではマナサスを1回限りの武器として完全に無効にする方法が進行中だった。その心理的な衝撃は大きく、川の戦闘以上に尾を引いた。10月14日、ポープは艦隊司令のマッキーンに宛てて次の様に書き送った。「誰もがあの悪魔のような衝角を大いに恐れている。夜の間は上流に警備用のボートを置いている。」このような心配は「衝角フィーバー」と呼ばれるようになった。翻って、モスキート艦隊の砲艦は北軍戦隊を完全に出し抜くようになったが、損傷を与えるにはあまりに小さすぎた。 北軍海軍の指揮層はこの当惑させられる挫折を悔しがった。河口の封鎖を指揮していた艦隊司令のマッキーンは、「...私が事実を知れば知るほどみっともなく見えて来ると言わざるを得ないのが残念だ。」と言っていた。アメリカ合衆国海軍長官ギデオン・ウェルズはこの事件を「ポープのラン」と呼んでいた。この戦闘から月日が経過して、デイビッド・ディクソン・ポーター提督は「この件には如何なる光を当てようとも、アメリカ海軍に起こった最も不合理な出来事だ」と語っていた。そのような怒りはあったが、損傷は直ぐに修繕された。10月17日、USSサウスカロライナとビンセンズが、疫病神のCSSアイビー追跡のために派遣された。アイビーは別の蒸気船と合流しており、両艦とも南西パスからヘッドオブパッシーズに向かっていたが、その射程に近づくことが出来ないために、追跡は中止された。リッチモンドは一時的な修繕のためにフロリダ州キーウェストに派遣された。ポープ艦長は健康上の理由で辞職を申し出て、承認された。ハンディ艦長は最初の連絡船で東部に派遣された。西メキシコ湾封鎖戦隊が海軍将官のデヴィッド・ファラガットの下に編制され、さらに大きな勢力でミシシッピ川デルタに送られた。この反撃でジャクソン砦・セントフィリップ砦の戦いが起きた。
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戦いの後
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暗闇が訪れると、北軍はシットリントンズヒルから後退して、川を渡ってマクドウェルまで後退し、戦場から負傷者を回収した。北軍の損失は総計259名(戦死34名、負傷220名、不明5名)、南軍は420名(戦死116名、負傷300名、不明4名)となり、この南北戦争では珍しく攻撃側の損失が守備側のものより少なかった。5月9日午前2時頃、シェンクとミルロイはターンパイク沿いにフランクリンまでの総退却を命じた。オハイオ第73連隊が夜明け近くまで川沿いに散兵線を布き、その後に退却する部隊の後衛として撤退した。この連隊の兵士10名が図らずも後に残され、捕虜になった。北軍が撤退してから間もなく、南軍がマクドウェルの町に入った。シェンクは5月9日に守備隊形を造っていたが、小競り合いが起こっただけだった。その後の1週間、ジャクソンは後退する北軍を追ってフランクリン近くまで行ったが、5月15日にバレーに戻る行軍を始めた。 歴史家の中には、マクドウェルの戦いがジャクソンによるバレー方面作戦の始まりだと考える者がおり、また第一次カーンズタウンの戦いからだとする者もいる。カーンズタウンはジャクソンにとってこの作戦で唯一の敗北だった。マクドウェルの戦いは幾つかの理由で、今日の軍事史家の研究対象になっている。戦術的なレベルでは北軍が引き分けだったと論じることができる。ミルロイの「妨害攻撃」がジャクソンを驚かせて、主導権を掴み、大きな損失を負わせたが、南軍をその陣地から追い出すことはできなかった。戦略レベルでは、この戦いと、北軍が撤退したことで、南部にとって重要な勝利だった。この戦闘は、戦力的に劣る敵に対してはその戦力を集中させ、一方で敵には戦力を集中させないようにしたジャクソンの戦略を示すことになった。ジャクソンはマクドウェルでの戦略的勝利に乗じて、5月23日にはフロントロイヤルの戦い、5月25日には第一次ウィンチェスターの戦いに勝利を続けた。
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戦いの後
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ドネルソン砦での損失は南軍大部隊の降伏故に大きなものだった。北軍は2,691名(戦死507名、負傷1,976名、捕虜または不明208名)の損失、南軍は13,846名(戦死327名、負傷1,127名、捕虜または不明12,392名)だった。 この報せに北部では祝砲が撃たれ教会の鐘が鳴らされた。「シカゴ・トリビューン」は、「シカゴは喜びで狂気に揺れた」と書いた。ヘンリー砦とドネルソン砦の占領は南北戦争で北軍最初の意義有る勝利であり、南部の心臓部へ侵略する経路として2つの大河が開けた。グラントは志願兵の少将に昇進し、西部戦線ではヘンリー・ハレックに次ぐ上級将官となった。新聞でグラントが葉巻を歯に挟んで戦闘に勝ったと報じた後で、多くの賞賛者から送られた葉巻で埋まった。アルバート・ジョンストン軍の3分の1近くが捕虜になった。グラントは以前のアメリカの将軍達が束になったよりも多くの兵士を捕虜にした。それによってジョンストン軍は2ヶ月以内に差し迫っていたシャイローの戦いで決定的な優位に立つはずであった12,000名の兵士を奪われた。ジョンストン軍の残りはナッシュビルとコロンバスで200マイル (320 km)離れて位置しており、その間にいるグラント軍が川や鉄道を支配していた。ビューエル将軍の軍隊がナッシュビルを脅かす一方で、ジョン・ポープの軍隊はコロンバスを窺っていた。ジョンストンは2月23日に重要な産業の中心であるナッシュビルを明け渡し、南軍の州都としては最初に北軍の手に落ちた都市となった。コロンバスは3月2日に放棄された。テネシー州はケンタッキー州と同様に北軍の支配下に入った。ただし、両州共に周期的な南軍の襲撃に遭った。 戦場跡はアメリカ合衆国国立公園局によって、ドネルソン砦国定戦場として保存されている。
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戦いの後
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「ストーニーポイントの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
ワシントンがウェインに与えた指示では、ストーニーポイントを奪取した後はバープランクポイント襲撃の可能性を認めていた。ストーニーポイント攻撃の一部としてワシントンは2個旅団にバープランクに向けた行動を開始するよう指示しており、小部隊とともに派遣されたルーファス・パットナム大佐にはイギリス軍守備隊の注意を引きつけるよう指示していた。パットナムはストーニーポイントへの攻撃が始まった直後にバープランクに対する陽動攻撃を開始し、朝までイギリス軍引きつけることができた。 7月16日の朝、ウェインの部隊はストーニーポイントの大砲をバープランクに向けて据え直したが、長距離射程ではほとんど損傷を与えられなかった。しかしその砲撃はスループ艦バルチャーをして碇を切らせ下流に移動させるには十分だった。ワシントンは続いて17日にロバート・ハウ将軍に2個旅団をつけてバープランクを包囲させるべく派遣したが、この部隊は適切な大砲や攻城武器を持っておらず、砦を封鎖する以上のことは出来なかった。7月18日、上流に送られた艦船から幾らかのイギリス軍部隊が上陸し、さらに多くの部隊が陸路をやって来るという噂もあったので、ハウは撤退を決めた。 ワシントンは何れの地点も保持する意図は無かったので、捕獲した大砲や物資を運び出した後の7月18日にはストーニーポイントを放棄した。イギリス軍は短期間この地を再占領したが、10月にはクリントンが南部でチャールストン包囲戦を行う遠征隊を派遣するためにストーニーポイントを放棄した。 捕虜になった士官達の幾らかは戦闘の直後に交換されたが、400名以上の捕虜はペンシルベニアのイーストンにあった捕虜収容所に送られた。7月17日に起こった少数の捕虜による反乱はイギリス軍軍曹1名が殺され、約20名が負傷する結果に終わった。 当時のアメリカ側の証言では、ウェインは1777年の「パオリの虐殺」で部下が苦渋を嘗めていたにも拘わらず、ストーニーポイントでのイギリス軍捕虜には慈悲を与えたとされている(イギリス国王ジョージ3世はイギリス軍に与えられた「慈悲」について聞いたときに涙を抑えたとされている)。イギリス軍の報告書も守備隊に与えら得た予想外の寛大な処置について記している。
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戦いの後
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クレタ島の戦いでは、女性や少年を含むクレタ島住民の相当が銃をとって抵抗した。また、ギリシア民兵部隊は、軍服が大量に不足していたので、軍服が支給されずに戦闘に参加した者が多数いた。ドイツ軍の解釈では、戦闘行為は双方の戦闘服を着用した戦闘員に限られるべきで、戦闘服を着用せずに戦闘に参加した者には、ハーグ陸戦条約は適用されない、とした。戦闘終了後、ドイツ軍は、軍服未着用ギリシア民兵やクレタ島住民、1000名以上を正式な裁判を経ることなしに銃殺した。この為、クレタ島住民の対独感情は極端に悪化した。 撤退できなかった連合軍将兵の一部は、島の中央部の脊梁山脈に逃げ込んだが、そこには共産党系と非共産党系の反独武装組織が蟠踞していて、ドイツ軍の支配は部分的であった。連合軍の撤退から程なくして、イギリスの特殊作戦執行部(SOE)は連絡将校を派遣し、非共産党系の武装組織を支援し始めた。1943年には、SOE将校の立会いのもと、共産党系と非共産党系の不戦協定が成立した。 1943年夏のムッソリーニ失脚からイタリアの降伏に至る過程で、島の東三分の一を占領するイタリア軍司令官は、イギリス軍に連絡をとり、イギリス軍による侵攻と保護を求めたが、連合軍側にはクレタ島侵攻計画はなく、ドイツ軍は東部にも進出してイタリア軍を武装解除した。イタリア軍司令官は、SOEの助けでエジプトに脱出した。 独ソ戦では、1944年8月のソ連軍のヤッシー=キシナウ攻勢でドイツ軍は大敗し、ルーマニアとブルガリアは9月にドイツに宣戦した。この為、ドイツ軍にとってギリシアを保持する理由はなくなったので、ドイツ軍は、10月にはギリシャ本土から撤退を始めたが、クレタ島については、制海権も制空権も失っていたので、撤退は行われなかった。しかし、10月には、反独武装組織による圧力で、ドイツ軍は、イラクリオン地区からは撤退を余儀なくされ、イラクリオンに自治政府が成立した。 シュトゥデントは「クレタ島はドイツ降下部隊の墓場だった」と述懐しつつも、北アフリカ戦線が有利に進めばキプロス島やスエズ運河への空挺作戦も検討していた。だがドイツの軍事力は独ソ戦へ注ぎ込まれ、ドイツアフリカ軍団も敗退し、その機会は来なかった。地中海における重要拠点マルタ島をめぐるマルタ攻囲戦では、本作戦とバルバロッサ作戦のためドイツ空軍が転用されて圧力が減り、英領マルタ(英語版)守備隊は一息ついた。1942年(昭和17年)5月になると枢軸側はマルタを占領するため空挺部隊(降下猟兵)によるマルタ攻略を検討していた。ヘラクレス作戦(英語版、ドイツ語版) (イタリア側作戦名“Operazione C3” ) と呼称されていたが、実施されなかった。クレタ島は、チャーチルが恐れたようなエジプト攻略への足掛かりとしては使われなかったが、ドデカネス諸島戦役で制圧した他のエーゲ海諸島ともども終戦までドイツ軍が保持した。 1945年5月のドイツ降伏とともに、クレタ島のドイツ軍も降伏した。戦後、ギリシャ政府の要請で、連合国軍の捕虜になっていた歴代2人のクレタ占領軍司令官が引き渡され、戦争犯罪の罪で死刑判決を受けて首都アテネで銃殺された。
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戦いの後
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11月16日午前6時、ビジラントから海兵の乗ったボートを出し、まだ翻っていたアメリカ軍旗を降ろさせた。その2時間後、オズボーンの部隊がにわか雪の中を上陸し、廃墟となった砦を占領した。かれらはただ1人のアメリカ脱走兵に迎えられ、セイヤーの部隊は戦死50名、負傷70ないし80名の被害を出したことを告げられた。歴史家のマーク・M・ボートナー3世は、守備隊450名と援軍があったことから計算してアメリカ軍の損失を総計250名と推計した。包囲戦の最終段階でイギリス軍は7名が戦死、5名が負傷した。勝ったイギリス軍も砦の受けた破壊の様子と、内部に飛び散った地や脳髄の様子を見て愕然とした。兵士達が靴や衣類を漁ることに忙しかった一方で、イギリス軍士官は守備隊が勇敢だったことをその文書で認めていた。 チャールズ・コーンウォリス中将が2,000名を率いて川を渡った。この脅威を目にしたグリーン大佐はマーサー砦を明け渡し、コーンウォリスはそこを11月20日に占領した。砦が失われたために、ヘイゼルウッドはその夜に船隊に火を付けさせ、イギリス軍による捕獲を免れさせた。デラウェア川はイギリス海軍が支配するところとなり、フィラデルフィア市を占領するイギリス陸軍は補給を受けられるようになった。続く11月25日にグロスターの戦いが起こり、コーンウォリスの部隊はニュージャージーから撤退した。
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戦いの後
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「チェスター・ステーションの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
テリー准将は北軍の損失を、戦死、負傷、不明合わせて280名と報告し、南軍の損失を少なくともその2倍と推計し、50名を捕虜に取ったと報告した。 南軍バートン旅団の報告では戦死、負傷、不明合わせて249名としており、バージニア第38歩兵連隊長のジョセフ・R・キャベル中佐が戦死していた。 南軍の2個旅団がオハイオの1個連隊と対戦し、ドレイクの旅団から援軍が到着したが、オハイオ連隊は後退させられた。南軍は勢力に勝っており大砲1門を捕獲(その後北軍に取り返された)するなど成功していたが、ハウリーの旅団が戦場に到着したときに止められた。北軍の援軍が増えて数で勝るようになり、南軍はドルーリーズ・ブラフまで押し戻された。同時に北軍はバミューダ・ハンドレッドの東に退いた。戦闘の結果は、両軍ともに降伏せず、破れもせず、また陣地を獲得もしなかったので、引き分けだった。北軍はある程度鉄道の線路を破壊することができ、南軍はそれ以上破壊が進むことを阻止した。ランソム少将はバートン准将を指揮官から外し、称賛に値する働きをしたボリス大佐は准将に名誉昇進させた。
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戦いの後
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リー軍はカルペパー周辺の冬季宿営地に行こうとしていたが、その代わりにラピダン川の南オレンジ郡に撤退した。ポトマック軍はブランディ駅やカルペパー郡の近辺を占領した。リーとその士官達は成功できなかったことで嫌気が差した。 ブリストー方面作戦の5つの戦いの結果、両軍合わせて3,910名の損失が出たが、これには南軍が捕虜にされた1,600名が入っている。この方面作戦の後、11月遅くにマイン・ランの戦いがあり、やはり決着が付かなかった。
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戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 03:21 UTC 版)
ポトマック軍はバージニア州ブランディ・ステーションで冬季宿営に入った。マインランはミードにとって、翌年春にユリシーズ・グラントが総司令官として到着する前の最後の戦略的攻撃を企画する機会だった。リーも決着が付かなかったことを悔やんだ。リーは、「私はこの軍を指揮するには老い過ぎた。我々はあいつ等を逃がすべきではなかった。」と言ったと言われている。南軍のチャンセラーズヴィルでの勝利をまた得ようという望みは砕けてしまった。
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戦いの後
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「ストーンズリバーの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
両軍併せての損失は23,515名だった。北軍は13,249名、南軍は10,266名だった。これは南北戦争の主要な戦いの中でも損失率で最大であり、この年のそれ以前にあった有名な流血戦シャイローの戦いやアンティータムの戦いよりも絶対数で大きかった。この戦闘は戦術的に引き分けたが、ブラッグ軍が最初に戦場から撤退したために伝統的に敗北と考えられている。ブラッグは南軍の軍人仲間から均しく侮蔑を受けた。唯一ジョセフ・ジョンストンが支持したことと、ジェファーソン・デイヴィス大統領が適当な代案を見付けられなかったことで、指揮官解任は免れた。しかし、結果を見れば少なくとも北軍の戦略的勝利だったと言うことができる。この戦闘は北軍の士気高揚に大変重要であり、エイブラハム・リンカーンのローズクランズ将軍に宛てた手紙でも「貴方は我々に得難い勝利をもたらした。それが敗北であれば、この国は生存し続けられなかったであろう。」と言ったのが証拠になる。中部テネシー州における南軍の脅威は無くなった。 ローズクランズは5ヶ月半を使ってマーフリーズボロを補強した。膨大な土木工事による「ローズクランズ砦」が建設され南北戦争の残り期間は補給基地として機能した。次の大きな衝突はタラホーマ方面作戦として知られるフーバーズギャップの戦いであり、1863年6月にローズクランズがブラッグ軍に対して遂にその軍隊を動かした。 ストーンズリバーの戦いの戦場跡一部とローズクランズ砦は現在、ストーンズリバー国定戦場跡となっている。「地獄の半エーカー」で有名となったウィリアム・ヘイズン旅団によって建てられた、合衆国最古で原型を保っている南北戦争記念碑がある。600エーカー (2.4 km2)の国定戦場跡には1865年に設立されたストーンズリバー国立墓地があり6,000名以上の北軍兵の墓がある。
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「クリントン砦とモントゴメリー砦の戦い」の記事における「戦いの後」の解説
イギリス軍の損失は戦死41名、負傷142名だった。大陸軍の方は26名の士官と237名の兵士が捕獲され、約75名が戦死または負傷となったが、この数字は捕獲された負傷兵を除いたものだった。その大半はクリントン砦の守備兵だった。大陸軍はその地域にあった多くの舟艇が逆風のために上流へ逃げることが適わなかったために破壊せざるを得なかった。翌日ヘンリー・クリントンはウェストポイントの対岸にあった小さな前進基地であるコンスティチューション砦に小分遣隊を派遣し、その降伏を要求した。そこの少数の守備隊は当初降伏を拒否したが、10月8日には大部隊の攻撃側の面前で砦から退却した。 クリントン知事とパットナム将軍は次の行動について作戦を練った。クリントン知事は西岸の部隊と共にイギリス軍による上流への攻撃から守るために北に移動し、パットナムは東岸への攻撃に対する防衛を図ることとした。
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戦いの後
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「アンティオキア攻囲戦」の記事における「戦いの後」の解説
ケルボガらの軍勢が去った後、アフメド・イブン・メルワーン率いる城塞の軍勢もついに降伏した。ただしボエモン個人に対しての降伏で、レーモンらに対しての降伏ではなかった。これはレーモンらが知らないうちに示し合わせての降伏であった。かねてからの公言どおりボエモンはアンティオキア市の領有を主張し、反対するアデマールやレーモンと対立した。ユーグ・ド・ヴェルマンドワとエノー伯ボードゥアンはコンスタンティノープルにアレクシオス1世の援軍を要請するために使いに出されたが、ボードゥアンはアナトリア半島の道中で伏兵にかかり、そのまま行方不明となっている。 アレクシオス1世は、援軍要請に対し、アンティオキアの領有を宣言するための軍勢の派遣に興味を示さなかった。ボエモンは、アレクシオス1世は十字軍を見捨てたと主張し、皇帝に対する誓いは全て無効になったと議論した。ボエモンとレーモンはヤギ=シヤーンの宮殿を共有していたものの、市街のほとんどはボエモンの支配下にあり、山頂の城塞にはボエモンの軍旗がはためいていた。この不仲に対して後世の歴史家が共通して述べる仮説には、北フランスのフランク人、南フランスのプロヴァンス人、南イタリアのノルマン人という十字軍を構成する諸侯は、それぞれ別々の民であるという意識を持っており、それぞれが自らの地位を高めようと行動したためというものがある。これに対し、諸侯それぞれの個人的な野心に原因を帰する議論もある。 十字軍の進軍はアンティオキアで止まったままとなった。陥落後のアンティオキアではチフスと見られる疫病が蔓延した。8月1日には対立する諸侯のまとめ役だった教皇使節アデマールが病没し、十字軍は指導者不在の状態になりつつあった。9月に入ると諸侯はローマ教皇ウルバヌス2世に対してアンティオキアの支配を頼む書簡を送っているが、教皇はこれを断っている。1098年の夏以降、十字軍はアンティオキア近郊の農村地帯を支配下に置いたものの、もはや軍馬の数は少なくなっており、ムスリムの農民たちも食糧の提供を拒んだため、飢餓が十字軍内に広がった。弱小騎士や兵士らは次第に落ち着かなくなり、争う諸侯を残して自分たちだけでエルサレムへ向かうぞと脅し始めた。11月には巡礼者らがエルサレム行きを求めて、会議中の諸侯たちを突き上げる事件も起きている。さらに同じく11月から12月にかけて、十字軍が小都市マアッラを攻囲戦で陥落させた後、住民を殺戮して鍋で煮たり串で焼いたりという人肉食を行う出来事も起こっている。11月、レーモンは平穏に十字軍を進めるため、また叛乱を起こしかねない飢えた兵士らをなだめるため、ついにアンティオキア支配を言い張るボエモンに屈してしまった。こうして1099年1月、晴れてアンティオキア公国初代公爵となったボエモンを後に、レーモンに率いられた十字軍は南への進軍を再開した。十字軍はファーティマ朝の領内に入り、同年6月、十字軍はエルサレム攻囲戦に取り掛かる。 ペトルス・バルトロメオによる聖槍発見の経緯や幻視はあまりにも当時の状況にとって都合が良いものだったため、彼は嘘つき呼ばわりもされている。十字軍がエルサレムを前にしていた1099年4月、聖書の国らしく聖書にあるような神明裁判を行おうという声が上がり、ペトルス・バルトロメオは自らが神聖なものに導かれているのを証明するために、火のついた板壁に挟まれた隙間を通る試練に挑んだ。しかし彼は酷く火傷を負い、12日間苦悶した後に死亡したという。後世には、ペトルス・バルトロメオは真に幻視を見、本物の聖槍を発見したという話が伝わることになった。 アンティオキア攻囲戦はヨーロッパに伝わり、あっという間に武勲詩の題材となり伝説化が進んだ。まだ戦いの記憶が生々しい12世紀初頭には早くも、『アンティオケの歌』(Chanson d'Antioche)のような武勲詩も誕生している。
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戦いの後
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シャーマン軍は約3,000名の損失を出し、対するジョンストン軍は約1,000名だった。シャーマンは当初これら損失でも挫けず、トーマスに2度襲撃を再開するよう求めた。「我が軍の損失は小さい。東部の戦闘に比べればだ」と言っていた。しかし「チカマウガの岩」とあだ名されたトーマスは、「このような襲撃をあと1回あるいは2回やれば、この軍隊を使い果たしてしまう」と答えた。その数日後、シャーマンは妻に宛てて「私は数千名の兵士の死と遺体を小さなこと、ある種の朝のダッシュとして見なし始めている」と悲しげに書き送った。 この戦争で、ケネソー山の戦いはシャーマンにとって最初の正面攻撃ではなかったが、これが最後のものになった。シャーマンはアトランタ方面作戦における一連の回り込み操作を上記のような兵站上の理由にあると解釈したが、その後に採用した戦術についてジョンストンに推測を続けさせるという意味合いもあった。その戦闘に関する報告書では、「敵と我が軍の士官達が、私が防御を施された前線を襲撃させることはないと確信するところに落ち着いたと私は認識した。私に見えるのは側面攻撃が全てである。効率的であろうとする軍隊は攻撃も1つの形に落ち着くことはないが、成功を約束する作戦を実行できるように備えねばならない。それ故に、士気を挙げる意味でも、胸壁の背後にいる敵に対して襲撃を成功させたいのであり、成功が勝利の最大の成果を与えるのであれば、あの時点でやってみようと判断した」と記していた。 ケネソー山は通常北軍の戦術的に重大な敗北と見なされるが、歴史家のリチャード・M・マクマリーは、「戦術的にジョンストンはローリングとハーディの前線で小さな防御の勝利を得た。しかし、スコフィールドの成功によってシャーマン軍に大きな利点を与え、シャーマンは直ぐにそれに取り入ることを判断した」と記した。両軍は互いに至近距離で見合ったまま5日間を過ごしたが、7月2日になると夏の良好な天候が近づき、シャーマンはテネシー軍とストーンマンの騎兵隊を南軍の左翼に送ったので、ジョンストン軍はケネソー山からスマーナの用意された陣地に後退することを強いられた。 7月8日、シャーマンは再度ジョンストン軍を回り込んだが、この時は初めて右手に回り込んだ。スコーフィールドの軍にソープ・クリーク河口近くでチャタフーチー川を越えさせた。アトランタに入るためには最後の大きな地形的障害が克服された。アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスは、アトランタ市に差し迫った危険に警鐘を受け、南軍が撤退を続ける戦略に不満を持っており、7月17日付でジョンストンを指揮官から解任し、後任にはジョン・ベル・フッドを据えた。フッドは暫定的に大将に昇進した。フッドは7月20日のピーチツリークリークの戦い、同22日のアトランタの戦い、同28日のエズラ教会の戦いで、シャーマン軍に対する攻撃を行ったが、その全てで大きな損失を出し、しかも戦術的に得るものがなかった。シャーマンはアトランタ市を8月一杯包囲したが、ほぼその全軍を南に回して、市が最後まで繋がっていた鉄道を遮断させた。8月31日と9月1日のジョーンズバラの戦いで、フッドは再度その鉄道を救うために攻撃したが成功せず、アトランタを明け渡すしかなくなった。シャーマン軍は9月2日にアトランタ市内に入り、リンカーン大統領に宛てて、「アトランタは我々のものです。かなりの勝利です」と電報を打った。この成果がリンカーンを11月の選挙で大統領に再選させる重要な要素の1つになったと言われている。
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戦いの後
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ドイツ傭兵部隊の報告では戦死、負傷合わせて377名、他に20名が不明または捕虜となっており、一方大陸軍は戦死14名、負傷27名と報告された。ハウはマーサー砦奪取に失敗したことで憤慨し、ドイツ兵連隊にはニュージャージーからの撤退を命じ、一方で大規模な砲撃によるミフリン砦への攻撃作戦を立てた。11月初旬、プロビデンス島のイギリス軍砲台が完成し、多くの艦船がその支援に当たれるようになった。11月10日、イギリス軍はミフリン砦に対する全面砲撃を開始し、それが5日間続いた。イギリス海軍の6隻の艦船とHMSビジラントとフュアリーという浮き砲台が近距離からミフリン砦への砲撃に加わった。5日後の11月15日、ミフリン砦の指揮官シメオン・セイヤー少佐は、守備隊400名のうちの250名が負傷し、弾薬も尽きかけていたので、その夜にアメリカ軍旗を掲げたまま砦を捨てて脱出した。翌朝イギリス軍の小部隊が無人のミフリン砦に抵抗も無く上陸し、アメリカ軍旗を降ろし、廃墟となった砦のうえにイギリスのユニオンジャックを翻させた。このミフリン砦砲撃で、イギリス軍の損失は、水兵と陸兵13名が戦死、24名が負傷、他に艦船と陸上砲台に幾らかの損傷があった。 続いてハウはチャールズ・コーンウォリス将軍に5,000名の兵をつけてマーサー砦攻撃に向かわせ、3マイル (5 km) 南のビリングスポートの渡しで上陸させた。砦のクリストファー・グリーン大佐は、この大部隊の襲来で守備隊が捕まえられるよりも砦を放棄することを選び、11月20日に放棄したので、翌日イギリス軍が占領した。 ジョージ・ワシントンが描いたイギリス軍をフィラデルフィア市で飢えさせるという作戦は、この2つの砦を失ったことで潰えた。このとき唯一の望みはイギリス軍をフィラデルフィア市から誘き出し、自軍のホワイトマーシュに置いた宿営地で会戦を挑むことだった。ハウは12月初旬に市内から出て、大陸軍宿営地の陽動攻撃を掛けたが、大陸軍の陣地が強固に過ぎると判断し、フィラデルフィア市に引き返して、冬の残りを過ごした。ワシントンは冬季宿営のために自軍をバレーフォージに移動させた。
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「ウィルソン桟橋の戦い」の記事における「戦いの後」の解説
この中断された攻撃で、約200名の南軍兵が戦死または負傷した。北軍は戦死6名と負傷40名だった。アフリカ系アメリカ人兵士数人が捕虜になった。そのうち幾人かは銃で射殺され、1人はリッチモンドの元の主人のもとに送られた。実質的にこの戦闘で戦争全体に対してはほとんど影響が無かったが、北軍はこれを勝利だと宣伝した。北バージニア軍と黒人兵の間で初めてのそこそこの戦闘であり、勢力の大きな敵軍に対して黒人兵が防衛線をうまく戦ったものになった。南部人は、圧倒的にアフリカ系アメリカ人兵の多い敵部隊に対する敗北を認めようとしなかった。砲艦6隻と、かなりの数の白人兵が戦闘に関わったと主張していた。フィッツヒュー・リーの報告書では、投入した戦力と損失の数を過小に報告していた。
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「第一次フィッシャー砦の戦い」の記事における「戦いの後」の解説
バトラーはフィッシャー砦で失敗し、特にグラントからの直接命令、すなわちポーターやワイツェルと連絡を取り合うようにという命令に従わなかったことが、グラントをしてバトラーをジェームズ軍指揮官から解任し、後任にエドワード・オード少将を据える理由になった。エイブラハム・リンカーン大統領は再選を決めたばかりであり、もはや共和党の著名人を軍隊に登用しておく必要はなくなっていた。バトラーは1865年1月8日に解任された。バトラーにとってさらに悪いことに、フィッシャー砦がその1週間後に陥落した。アルフレッド・テリー少将がこの南軍の要塞に対する攻撃を率いた(第二次フィッシャー砦の戦い)。バトラーはアメリカ合衆国議会合同戦争遂行委員会の場で、攻撃を中止した判断を弁護するために、砦は難攻不落だと説明していた。 この戦闘での南軍の損失は、戦死と致命傷が5名、負傷56名、捕虜600名であり、艦砲射撃による損傷は直ぐに修復されていた。封鎖突破船は港の利用を続け、戦闘後の最初の船は北軍艦隊が撤退したまさにその夜に到着していた。ケープフェア地区軍指揮官のW・H・C・ホワイティング少将と守備隊長ラム大佐は、北軍が直ぐに戻ってくると考えていたが、ブラッグはホークの師団をウィルミントンまで戻し、ニューバーンを取り戻す作戦作りを始めていた。
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戦いの後
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「第二次フィッシャー砦の戦い」の記事における「戦いの後」の解説
フィッシャー砦の喪失で、南軍の最後の海港の運命が閉じられた。このことは、南軍が新しく形成されつつある世界の貿易市場と隔絶されることであり重大だった。1ヶ月後ジョン・マカリスター・スコフィールド少将の北軍がケープフェア川を遡り、ウィルミントンを占領した。 1月16日、北軍の祝勝気分は、砦の火薬庫が爆発して火薬庫の屋根の上で寝ていた104名の北軍兵が殺害されたときに損なわれた。 ウィリアム・ラムはこの戦闘で生き残ったが、その後の7ヶ月間は松葉杖が必要だった。ホワイティングは捕虜になり、収容所にいる間に死んだ。ペニーパッカー大佐の傷は致命傷と考えられ、テリーは准将への名誉昇進を受けさせることを保障した。ペニーパッカーはテリーが約束したように名誉昇進を受けたが、2月18日に20歳で正式に志願兵の准将に昇進した。今でもアメリカ陸軍でその階級を受けた最年少の記録となっている(その後1916年まで生きた)。N・マーティン・カーティスも准将への正式昇進を受け、カーティスとペニーパッカーはこの戦闘での功績で名誉勲章を受けた。アメリカ合衆国陸軍長官エドウィン・スタントンが思いがけずフィッシャー砦を訪れ、テリーがスタントンに守備隊の軍旗を贈呈した。
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ホームズはバスデンの部隊を破ったが、勢力では劣っていることが分かっており、デラウェアのイギリス軍基地を占領できないと判断した。午後9時トウェンティマイル・クリークの陣地を放棄して、デトロイトに戻った。イギリス軍もデラウェアの前進基地を放棄した。 しかし、ポイント・オ・ペレーでホームズが放棄した6ポンド砲2門は、後に地元カナダ民兵隊である、ロイヤル・エセックス志願兵隊が発見した。この志願兵隊は砲架を破壊し、砲身を沼地の黒い灰の中に隠した。それらは戦争終了までそのままになっていた。 ホームズは少佐に昇進したが、数か月後のマキナック島の戦いで戦死した。バスデンは怪我から快復し、後のランディーズ・レーンの戦いに参加した。この年の末には、第89歩兵連隊第2大隊の残り部隊を暫定的に指揮していた。戦後、第一次イギリス・ビルマ戦争に参戦し、カナダの1937年蜂起のときはカナダに戻った。その後バス勲章を叙された。 現在のアメリカ陸軍には、この戦闘に参戦したアメリカ軍部隊の後継部隊であるとする部隊が8個存在する。 戦場跡は1924年にカナダ国定史跡に指定された。
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戦いの後
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「ジョーンズバラの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
ジョーンズバラの戦いはアトランタ方面作戦では最後の戦闘になり、包囲されていたアトランタ市が北軍の手に落ちた。9月4日、シャーマン将軍は特別現場命令第64号を発した。その軍隊に対して「我が軍はアトランタの敵軍を減らし、同市を占領すると言う目標を達成し、アメリカ合衆国の他の軍隊と協調して新しい作戦が立てられるまで、この近くの場所と土地を占領する」と伝えた。アトランタの占領は11月のエイブラハム・リンカーン大統領の再選に大いに役立ち、戦争の終結を早めた。フッドはその敗れた軍隊を率いてアトランタから離れ、西に移動したので、シャーマン軍による海への進軍が可能となり、さらに後のフランクリン・ナッシュビル方面作戦ではフッドのテネシー軍そのものが事実上破壊される結果になった。1872年、この戦闘で倒れた兵士の遺骸の多くが、パトリック・R・クリバーン南軍墓地に移され再度埋葬された。
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戦いの後
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「ブルーリックスの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
ジョージ・ロジャース・クラークはこの戦闘に関わっていなかったが、ケンタッキー民兵の上級士官としてブルーリックスの惨劇の責任を問われた。クラークはこの批判に応えて、オハイオ郡に報復の攻撃を行った。1782年11月、クラークはベンジャミン・ローガンやダニエル・ブーンと共に、1,000名以上の遠征部隊を率い、グレート・マイアミ川沿いのショーニー族集落を襲って、5集落を破壊した。ショーニー族はケンタッキー隊との戦闘を避け、マッド川沿いの集落まで後退していたので、戦闘は起こらなかった。これが独立戦争中では最後の軍事行動となった。 マッド川沿いの集落は、1786年の北西インディアン戦争の開始により、ベンジャミン・ローガンによって破壊された。この遠征の時、ヒュー・マクゲアリーがショーニー族の酋長モルンサと出会って、モルンサがブルーリックスに居たかどうかを尋ねた。モルンサはブルーリックスの戦いに参加していなかった(ショーニー族はほとんどいなかった)が、マクゲアリーの質問を明らかに理解できないままに、首を縦に振って同意してしまった。マクゲアリーは即座にトマホークでショーニー族指導者を殺した。ローガンはマクゲアリーを解任し、後に軍法会議に掛けた。
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戦いの後
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バーゴイン軍は既に戦力比が3対1になっていた上に、フリーマン農場の戦いからの損害が1,000名に達した。一方大陸軍は約500名の死傷者であった。バーゴインは有能な部下も何人かを失っていた。作戦は失敗し前進も叶わなくなった。その夜、最前線に灯りをともし、闇の中を引き返した。翌10月8日朝、バーゴインは9月16日に確保した陣地まで戻った。 バーゴインの軍は戦力が弱まり、物資も少なくなった。大陸軍はさらにその数を増し続けていた。バーゴインは更に8マイル(12 km) 撤退しサラトガに着いた。サラトガの戦いの最終章についた。 イギリス軍のタイコンデロガ砦まで戻ろうという試みは、ゲイツ将軍の指揮する大陸軍に遮られた。イギリス軍は8月に渡河した地点でサラトガからハドソン川を渡ろうと試みたが、既に包囲されており兵の数でも負けていた。タイコンデロガ砦まではまだ40マイル (60 km) あり、物資が尽きかけているのに冬が近づいており、バーゴインに残された選択肢は無かった。バーゴインはサラトガにキャンプを張り、大陸軍と交渉を始めることに決めた。 最初、ゲイツは無条件降伏を要求したが、イギリス軍将軍は即座に撥ね付け戦って死ぬ道を選ぶと宣言した。ゲイツは妥協案に合意した。その案ではイギリス軍は降伏しないし捕虜ともならない、二度と大陸で従軍しないという条件でボストンまで行軍し、イギリスに戻るというものだった。ゲイツはバーゴインとこれ以上死闘を演じることは代償が大きくなることに心を痛め、またサラトガで窮地に陥っている部隊を救うためにイギリス軍のヘンリー・クリントン将軍の増援部隊がニューヨークから向かっている知らせが心配であった。華々しい礼装に身を包み、バーゴイン将軍は10月17日にキャンプを出発し、ゲイツの麗辞に祝福された。他のものは傷ついているか、捕虜の世話をする士官夫人達の手伝いをしていた。 サラトガでは5,791名が降伏した。リードセルの証言では、戦えるものは4,000名に満たなかったという。ドイツ人傭兵の場合、2,431名が降伏し、ベニントンの戦いでの損失を含め10月6日までに1,122名が死傷、捕虜または不明となった。サラトガ方面作戦において、ドイツ人を含めたイギリス軍全体の損害は捕虜や脱走を含めて9,000名に達した。 バーゴインの部隊は武装解除され18世紀の軍事的習慣に従って、イギリスに戻った後は二度と大陸での戦闘に従軍しないと誓わされた。しかし、大陸会議はその「協定書」の批准を拒んだ。協定書はゲイツとバーゴインの間で降伏の条件を定めたものであった。イギリスとドイツの士官達は最終的に捕虜となっていた大陸軍の士官と交換されたが、協議の軍隊に入っていた者の多くは、戦争終結までニューイングランドとバージニア、ペンシルベニアの捕虜収容所にいれられていた。 他にも大きな問題が起こった。ブラウンシュヴァイク公カール1世は捕虜となった兵が戻って今後の徴兵を邪魔することを恐れ、兵の帰還を拒否した。ブラウンシュヴァイク兵はこのことを良く思わず多くが脱走した。ブラウンシュヴァイク兵5,723名のうち、1783年に戻ったのは3,015名であり、多くはアメリカで開拓民となった。 バーゴインはイギリスに英雄として戻った。彼はロンドン社交界の花形であった。イギリス軍が戦闘に破れ捕虜となったという知らせはアメリカの信頼性を高めた。特にフランスはアメリカ独立戦争に対する支援に動いた。
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「トレビリアン・ステーションの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
トレビリアン・ステーションの戦いの結果は複雑なものになった。北軍の損失は総計1,007名(戦死102名、負傷470名、不明と捕虜435名)だった。南軍は総計612名と報告されたが、この数字はハンプトン師団の損失のみであり、831名と推計するのがより正しい。南北戦争で騎兵同士の戦闘としては、最も流血が多く、最大の規模になった。 シェリダンは、この戦闘が北軍の勝利であると主張した。戦後の1866年に、「この結果は一様な成功であり、反乱軍騎兵隊の全滅に繋がるものである。我が軍は思いつく時と所に行軍し、常に攻撃する部隊だった。常に成功だった」と記した。ユリシーズ・グラントの個人的な備忘録ではこの考え方に同意しており、シェリダンの伝記作者の多くはその主張を認めている。北軍にとって陽動攻撃としては部分的な成功と考えられ、グラント軍がピーターズバーグで弱い南軍を攻撃し始めたときになって初めて、リーは北軍が自軍より離れてジェームズ川を越えたことを理解した。しかし、シェリダンは2つの重要な目標を果たせなかった。バージニア・セントラル鉄道の恒久的な破壊はできなかった。線路は2週間の間に修繕され、リー将軍の本隊への物資は流れ続けた。シェリダン軍とハンター軍との間に計画された合流も果たせなかった。ハンター軍はその後のリンチバーグの戦い(6月17日-18日)で、バレーのジュバル・アーリー少将軍に敗北し、その後はメリーランド州に押し返された。この戦闘に関する近代の絶対的な研究の著者であるエリク・J・ウィッテンバーグは、もしシェリダンが鉄等の破壊に成功しておれば、アーリーがシェリダン軍と対抗することを強いられたであろうから、ハンター軍はリンチバーグ占領に成功した可能性があると主張した。ウィッテンバーグはこの戦闘を、北軍騎兵隊にとって「疑いもない惨事」と呼び、トレビリアン・ステーションの戦いについては、「北軍の勝利と考えられるものは何も無い」と述べた。
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戦いの後
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「フレンチタウンの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
1月18日の第一次レーズン川の戦いでどれだけの兵士が戦死したかは不明であるが、1月22日の戦闘では戦死397名、負傷27名という公式記録がある。またその後のレーズン川の虐殺で殺された者の数は不明だが、推計では最大100名となっている。戦闘から2週間後、ジェイムズ・ウィンチェスター准将は、部下の547名が捕虜になり、完全に戦場から逃げおおせたのは33名に過ぎないと報告した。捕虜の多くは2年以上後に戦争が終わるまでモルデン砦に拘束された。ウィンチェスター自身は1年以上拘禁された後に釈放され、軍務に復帰した。 ジェイムズ・ウィンチェスターはフレンチタウンでの惨憺たる敗北の責任をほとんど一人で負うことになった。第一次レーズン川の戦いで成果を上げた後に備えのない防御のままだったことが、部隊の敗北に繋がり、多くの戦死者を出すことに繋がった。モーミー川まで戻ってウィリアム・ハリソンの部隊と合流しておれば、勢力を増し、イギリス軍と同盟インディアンと戦えるだけの軍勢と準備を持ってフレンチタウンに戻ることができたはずである。ウィンチェスターはそれをせずに、イギリス軍と同盟インディアンが反撃してくるという情報を得たにも拘わらず、フレンチタウンに留まっていた。さらにハリソンの部隊が行軍中であり、間もなく到着することも知らなかった。第二次レーズン川の戦いでは早期に捕まってしまい、ヘンリー・プロクターの要請で部隊を降伏させた。その部隊は最初の急襲で多くの犠牲を出したが、ケンタッキー州兵が再結集してその宿営地を守るためにイギリス軍の3波の攻撃にも耐えた。ただし、ウィンチェスターからの降伏命令が来たときには弾薬が尽きかけていた。アメリカ兵が戦闘を長引かせておれば、ハリソン隊がフレンチタウンに到着し、流れを変えたかもしれない。 イギリス軍は24名が戦死、161名が負傷と報告したが、インディアンの損失は記録されていない。プロクターは戦闘直後に、ウィリアム・ハリソンが大軍をフレンチタウンに送ってくるのではないかと怖れ、やや北にあるブラウンズタウンに急撤退した。ハリソンはデトロイト砦奪還のための冬季作戦の中止を余儀なくされ、1813年9月10日に起きたエリー湖の湖上戦でアメリカ海軍が勝利した後に、デトロイト砦を取り戻すことになった。フレンチタウンについてはイギリス軍の強固な陣地だったが、1813年9月27日にケンタッキー州出身のリチャード・メンター・ジョンソン大佐が騎兵隊を率いてきてフレンチタウンを解放した。撤退したイギリス軍はアッパー・カナダまで押し返され、10月5日のテムズの戦いで敗北した。 フレンチタウンの戦いに参戦した第17および第19歩兵連隊からの流れを引く部隊として、現在のアメリカ陸軍に3部隊残っている。 ケンタッキー州では9つの郡がフレンチタウンの戦いに参戦した士官の名前を付けた。下記の9人であるが、ブランド・バラードのみが生還した。 アレン郡 - ジョン・アレン中佐 バラード郡 - ブランド・バラード少佐 エドモンソン郡 - ジョン・エドモンソン大尉 グレイブス郡 - ベンジャミン・フランクリン・グレイブス少佐 ハート郡 - ナサニエル・G・S・ハート大尉 ヒックマン郡 - パスチャル・ヒックマン大尉 マクラッケン郡 - バージル・マクラッケン大尉 ミード郡 - ジェイムズ・M・ミード大尉 シンプソン郡 - ジョン・シンプソン大尉 モンロー市の戦場跡に近い通りの幾つかはフレンチタウンの戦いで戦った者に因んで名付けられている。例えばケンタッキー・アベニューやウィンチェスター通りである。さらにケンタッキー州出身兵の英雄的行為に対して、ミシガン州は1904年にモンロー市中心街に記念碑を建立した。この記念碑はサウスモンロー通り(ミシガン州道125号線)の西側、7番通りとの角にある。またこの場所には戦闘とその後の虐殺で亡くなった犠牲者の内、身元不明の者の遺骸も納めてある。戦闘が行われた中心地域は1956年2月18日にミシガン州歴史史跡に登録された。その場所はノース・ディキシー・ハイウェイ、レーズン川、デトロイト・アベニュー、メイソンラン・クリークに仕切られている。 戦場跡は1982年12月30日にアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定され、国内に認知された。レーズン川国立戦場跡公園はオムニバス公有地管理法の成立と共に、2009年3月30日に法となった。この公園が完成に必要な資金を得られることになると、アメリカ合衆国国立公園局の管理する4つしかない国立戦場跡公園の1つとなった。
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「ヨークタウン方面作戦」の記事における「戦いの後」の解説
サー、私はヨークとグロスターの基地を放棄し、アメリカ、フランス連合軍の戦争捕虜として配下の部隊を19日付け降伏条件で降伏させるということを閣下に告げる悔しさを味わうものです。 — コーンウォリスからクリントンへ、1781年10月20日
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「ペンサコーラの戦い (アメリカ独立戦争)」の記事における「戦いの後」の解説
降伏条件にはスペインが占領したイギリス領西フロリダの主権が含まれ、さらにイギリス守備隊、大量の軍需物資と補給品、および2隻のイギリスのスループ船が捕獲された。ガルベスは将来イギリス軍がペンサコーラを取り戻すための攻撃に対する備えとして、砲台とバランカスコロラダス砦を湾口近くに移動させ、サンタロサ島にも同様な砲台を建設させた。 イギリス兵はまずハバナに連れて行かれ、スペイン兵捕虜との交換でニューヨークにいるイギリス軍の元に返された。この動きについてはアメリカ合衆国から抗議の声が上がった。ガルベスはイギリス軍の監獄船でスペイン兵が受けている残酷な待遇を知って、この行動を急いだ。 スペイン軍が5月30日にハバナに戻ると英雄として歓迎された。スペイン国王カルロス3世はガルベスを中将に昇進させた。ガルベスはルイジアナだけでなく西フロリダの総督にも指名された。王室の賞賛にはガルベスが湾口に突入した功績にも言及しており、ガルベスはその紋章に「ヨーソロ」という言葉を加えた。 ホセ・ソラノ・イ・ボテは後にカルロス3世からガルベスの救援に来た努力を認められ、ソコロ侯爵に叙爵された。サンタロサ湾を背景にしてソラノへの表彰内容を示す絵画はこの業績を記録するものである。この絵画は現在マドリードの海軍博物館に収められている。捕獲されたイギリス軍旗はトレドの新しいスペイン陸軍博物館に収められている。
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戦いの後
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「ポンチャートレイン湖の湖上戦」の記事における「戦いの後」の解説
ピクルス艦長はその戦利品を引いてニューオーリンズに戻り、ポロックがウェストフロリダの装備を整備した。ピクルスは、ガルベス総督がミシシッピ川を遡っている間に、ウェストフロリダで西フロリダの海域を巡航した。続いてシャーロット砦の戦いではガルベスを援護し、アラバマのモービルを占領した後、ウェストフロリダでフィラデルフィアに戻った。 この戦闘はルイジアナ州マンドビルにある歴史銘板で伝えられている。
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戦いの後
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セントルイスの守備隊は戦死、負傷、捕虜合わせて50ないし100名の犠牲を出したが、ほとんど全てが市民だった。戦いの1年後にセントルイスのスペイン人がミシガンのセントジョゼフ砦を襲撃し、イギリス軍の戦闘旗をセントルイスまで持ち帰った。 フェルナンド・デ・レイバは戦闘の翌月に死に、町の防衛のために市民が果たした役割を公式に認めていなかったために地元での批判の対象になった。スペイン国王カルロス3世はレイバが死んだことを知らずにレイバの武勇に対して中佐に昇進させることで答えた。
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戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:42 UTC 版)
ケベック侵攻はアメリカにとって悲惨な結果に終わったが、ケベックからの撤退時におけるアーノルドの行動とシャンプレーン湖での即席の海軍はイギリス軍の全面的な反撃を1777年まで遅らせることに功があったとされている。一方カールトンは、大陸軍のカナダからの撤退を徹底して追撃しなかったためにバーゴインから厳しく批判された。この批判と、カールトンが本国の植民地問題担当大臣で国王ジョージ3世の政府で戦争遂行の担当者だったジョージ・ジャーメイン卿に嫌われていたという事実のために、サラトガ方面作戦の指揮はジョン・バーゴインに任されることになった。このことはカールトンがケベック総督を辞する遠因ともなった。 ケベックやその他のイギリス領植民地を征服する事は、独立戦争の間大陸会議の目標であり続けた。しかし当初この遠征を支持していたジョージ・ワシントンが、これ以上の遠征は13植民地での主戦線から兵力や資源をあまりに多く分散させるものとして優先順位を低くしてからはケベックに向けての遠征はほとんど実現しなかった。 1783年のパリ条約交渉のとき、アメリカの代表団は戦利品の一部としてケベック全てを要求したが失敗した。ベンジャミン・フランクリンが主に関心を抱いていたのは1774年のケベック法によってケベックの一部とされていたオハイオ領土で、この和平会談ではケベックの明け渡しを提案し、オハイオのみが割譲された。 1812年の米英戦争で、アメリカは再度イギリス領北アメリカへの侵攻を開始した。このときも地元の民衆がアメリカを支持するものと期待していた。その侵略が失敗したことはカナダの歴史でも重要なことと見なされており、現代のカナダのアイデンティティが生まれたと言われている。
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戦いの後
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イギリス軍は11月にタイコンデロガ砦とクラウンポイントから撤退し、12月初めにはシャンプレーン湖からも居なくなった。一方大陸軍はまだやることが多かった。クリントン将軍によるハドソン川襲撃に警告を受けて、10月18日に軍隊の大半は南のオールバニに進み、別の部隊は「協議の軍隊」を伴って東に向かった。バーゴインとリーデゼルは、降伏の儀式を見るためにオールバニから北に来ていたスカイラー将軍の客になった。バーゴインは1778年5月に仮釈放でイングランドに戻ることを許され、その後の2年間は議会や新聞に対して自分の弁護をすることで費やした。最終的には1,000名のアメリカ人捕虜と交換ということになった。 バーゴインの降伏に反応した大陸会議は1777年12月18日をサラトガにおける軍隊の成功を認識し「厳粛に感謝を献げ称賛する」国民の日と宣言した。これはこの国で初めてその名を持った祝日を公式に祝う機会となった。
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戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 16:00 UTC 版)
バレンシア軍の壊走によって、サン・アントニオのメキシコ軍主力陣地はチュルブスコまで後退した。アメリカ軍はサン・アントニオを占領した後、チュルブスコへの攻撃のためにコントレラスからの部隊との合流を始めた。
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戦いの後
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ニューヨーク州からの志願兵1個旅団がこの修道院を宿舎にし、9月7日までそこに留まった。彼等がそこを明け渡すとき、持てるだけのものを教会から戦利品として持ち出し、建物の聖域を汚し、菜園を破壊した。 スコット軍はチュルブスコでの勝利の後、メキシコシティまでわずか5マイル (8 km) を残すのみとなった。1ヶ月後、失敗に終わった休戦と交渉の後で、メキシコシティはアメリカ軍のために陥落した。
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戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 01:54 UTC 版)
私は戦争の間第1テネシー連隊が行った全ての戦闘、小競り合いおよび行軍に従った。しかし、ペリービルの戦いほど激しく競い互角に渡り合ったものを思い出せない。2人の男がレスリングをやったとすれば、「ドッグ・フォール」と呼ばれていたことだろう。両軍が勝利を主張した。両軍が鞭打って行った。 第1テネシー連隊、兵卒サム・ワとキンス 北軍の損失総数は4,276名だった(戦死894名、負傷2,911名、捕虜または不明471名)。南軍の損失総数は3,401名だった(戦死532名、負傷2,641名、捕虜または不明228名)。 ブラクストン・ブラッグは攻撃的に戦い、敵軍を1マイル (1.6 km)以上も押し込んだので戦術的な勝利を得たとされている。しかし、北軍第3軍団がスプリングフィールド・パイクを進軍したことが分かり、その日遅く知ったことだが、第2軍団がレバノン・パイクにいたことも併せると、彼の不安定な戦略的立場が明らかになった。午後9時、クロウフォード・ハウスで部下達と会合し、夜半後に撤退を開始し、自軍がスミス軍と合流する間、警戒線を残しておく命令を与えた。ブラッグ軍がハロッズバーグに向けて行軍する時に900名の負傷兵を後に残して行かざるを得なかった。 ビューエル軍の他の2個軍団はそれぞれ、参戦した南軍と同じくらいの勢力があった。戦闘が始まったときにこれら2個軍団が大胆に前進しておれば、容易にペリービルの町を占領でき、ケンタッキー州中部にある補給庫から南軍を切り離し、恐らくはアウステルリッツの戦いやワーテルローの戦いのような戦場における決定的な勝利を得たことだろう。 ジェラルド・J・プロコポウィッツ、All for the Regiment(連隊にとっての全て) ブラッグはハロッズバーグでスミス軍と合流し、北軍と南軍は勢力的に拮抗できるほどになって、次の週に今一度小競り合いを演じたが、どちらも本格的に攻撃しなかった。ブラッグは期待していたケンタッキー州での新兵はもはや現れず、州内に留まるために必要な兵站の支援にも欠けていると認識し、カンバーランド渓谷を通って南東のテネシー州ノックスビルに向かった。その後直ぐにアメリカ連合国の首都バージニア州リッチモンドに呼び出され、ジェファーソン・デイヴィスに向かって部下から告発されていたこの方面作戦での行動を釈明し、軍の指揮官を変えてくれるよう要請した。デイヴィスはブラッグを指揮官に留めておくことにしたが、ブラッグと部下との関係は大きく損なわれた。ブラッグは軍隊に戻ると、テネシー州マーフリーズバラへの転進を命じた。 ビューエルはブラッグ軍に対して心半分の追撃を行い、リンカーン政権が望んでいたような東テネシーへの押し出しではなく、ナッシュビルに戻った。ビューエルの業績に関する不満が鬱積し、西部方面軍の再編成に繋がった。10月24日、新しくカンバーランド方面軍がウィリアム・ローズクランズ少将の下に作られ、ビューエルのオハイオ軍はその下に付いて、第14軍団と改められた(12月遅く、ブラクストン・ブラッグに取ってはもう一つの戦略的敗北となるマーフリーズバラでのストーンズリバーの戦いの後、より親しみのある名前としてカンバーランド軍と呼ばれた)。ビューエルはこの方面作戦での行動を調査する委員会への出席を命じられた。その後の1年半軍事拘置所に留まり、その軍歴は終わった。1864年5月には除隊した。 ペリービルの戦いに続いて、北軍は戦争の残り期間ケンタッキー州の支配を続けた。歴史家のジェイムズ・M・マクファーソンは、ペリービルが戦争の大きな転回点の一部と考え、「アンティータムとペリービルで南軍の侵略を止めたときに、ヨーロッパ諸国のアメリカ連合国に対する調停と認知の機先を制し、おそらくは北部政府の戦争遂行能力を妨げたであろう1862年の北部における選挙で民主党の勝利を防止し、戦争の範囲と目的を拡大した奴隷解放宣言への階梯を設定した」とした。 ペリービル戦場跡の一部は、ペリービル州立歴史史跡としてケンタッキー州により保存されている。
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戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:44 UTC 版)
ジャクソンがクロスキーズとポート・レパブリックで勝利した後、北軍は撤退した。ジャクソンはバージニア半島のリー将軍の部隊に加わり、七日間の戦いを戦った(しかしバレー方面作戦での緊張のためか、ジャクソンの行動はいつになく無気力なものであった)。ジャクソンは任務をまっとうし、マクレランが必要としている50,000名以上の兵力をバレー内に拘束した。マクレランは南軍のほうが兵力が多いと感じていたが、南軍の北バージニア軍は、ジャクソンの部隊を含めても約60,000名に過ぎなかった。バレー方面作戦の成功で、「ストーンウォール」ジャクソンは南軍でも最も世に知られた軍人になり(少なくともリーにその地位を奪われるまでは)、彼の勝利は南部大衆の士気を上げた。奇襲と機動性を存分に活かした模範的な用兵で、48日間に646マイル (1,040 km)を行軍し、約17,000名の部隊で総計60,000名の敵を向こうに回し、5度の意義有る勝利を挙げた。 北軍では、兵力の劣る敵に敗北したことで、指揮系統の刷新が行なわれた。マクドウェルの軍団はずっとバレーに拘束され、半島のマクレラン軍に加わることができたのはジョージ・マッコールの1個師団のみだった。リンカーンはこの戦役で、多数の部隊を統率する難しさを痛感し、ジョン・ポープ少将の下に統一的な1個の軍、バージニア軍を創設し、バンクス、フリーモント、マクドウェルの各部隊とワシントン周辺やバージニア西部にあった小部隊をすべてその指揮下に入れた。この軍は後に、北バージニア方面作戦、第二次ブルランの戦いにおいてリーとジャクソンのコンビに決定的な敗北を喫することになる。
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戦いの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:47 UTC 版)
「第一次カーンズタウンの戦い」の記事における「戦いの後」の解説
北軍の損害は総計590人(戦死118人、戦傷450人、捕虜・行方不明22人)であり、南軍の損害は総計718人(戦死80人、戦傷375人、捕虜・行方不明263人)だった。 北軍の勝利にも関わらず、エイブラハム・リンカーン大統領はジャクソンの大胆さとワシントンに対する潜在的な脅威に動揺した。バンクスをアルフェウス・ウィリアムズの師団を付けてバレーに戻した。またジャクソンが西バージニアに移動してジョン・C・フリーモント少将の部隊を攻撃することを恐れ、マクレランのポトマック軍からルイス・ブレンカー准将の師団を引き抜いてフリーモントの部隊を強化した。さらにこの機会を利用して、マクレランの半島方面作戦実施に際するワシントン防衛計画を見直し、守備兵力が不十分であると判断した。そこで、マクレランの支援のためリッチモンドに向かって南下することとなっていたアービン・マクドウェルの軍団を、首都近郊に残すように命じた。マクレランは、これらの兵力供出により、リッチモンド攻略は不可能になると反論した。ジャクソンのカーンズタウンに対する攻撃は、彼の軍歴における唯一の敗北になったが、それによって北軍が戦略的な再配置を行うことになり、南軍全体にとっては戦略的な勝利となった。ジャクソンのバレー方面作戦での残り期間は、3個の軍に編成された優勢な北軍に対して、電撃的な動きと5度の勝利を上げたものであり、ジャクソン南軍で最も有名な将軍の地位に引き上げさせた。ただし後にジャクソンの上官であるロバート・E・リー将軍にその評判が移行した。 南北戦争の間にガーネットほど不公平に扱われた勇敢で有能な将官は滅多にいなかった。...いかなる客観的基準によっても、ガーネットはカーンズタウンで最善を尽くしており、その存在した状況下では合理的に予測できるものだった。その旅団はジャクソンが描いた戦術的青写真を無視し、弾薬が尽き、側面を衝かれ、唯一考えられる分別ある道を選んだ。そうすることでバレーの軍隊を救った。 Peter Cozzens, Shenandoah 1862 ジャクソンはこの敗北について責任を受け入れることを拒否し、その後は以前の自隊であるストーンウォール旅団の指揮官リチャード・ガーネット准将を、許可を出す前に戦場から離脱したとして逮捕させた。このストーンウォール旅団の撤退は、北軍の攻撃のほとんどを受け止めて南軍損失の大半を出した後のことであり、ファルカーソン旅団の右翼を曝し、その旅団も撤退させることになり、恐慌を来させることになった。ガーネットの後釜にはチャールズ・S・ワインダー准将が充てられた。9月のメリーランド侵入のとき、ロバート・E・リーがガーネットに対する告発を止めるよう命じたが、ガーネットは1年以上も軍法会議の屈辱を味わい、ゲティスバーグの戦いではピケットの突撃の時に戦死することになった。 第二次カーンズタウンの戦いは1864年のバレー方面作戦のときに起きた。
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