戦争の終結とは? わかりやすく解説

戦争の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:05 UTC 版)

フレンチ・インディアン戦争」の記事における「戦争の終結」の解説

北アメリカ大陸における英仏戦い大部分は、1760年幕を閉じた一方ヨーロッパで戦闘はまだ続いていた。主だった例外フランスによるニューファンドランド島セント・ジョンズ包囲であったアマーストはこの予期せぬ戦闘知って直ちに、甥のウィリアム・アマーストと部隊とを派遣して1762年9月シグナルヒルの戦いで、ニューファンドランド支配取り戻させた。 北アメリカイギリス軍多くが、西インド諸島続いていたイギリス軍の作戦への参戦のため、配置しなおされた。その中にはハバナの戦いもあった。スペイン遅まきながらフランス同盟国として参戦したのであるまた、マルティニークへのイギリス軍の遠征もあった。 将軍アマーストまた、西部広がっていたフランスの砦をイギリスの支配下に収める指揮を執った。アマーストがこの地に対して持ち込んだ方針は、多くインディアン混乱させ、1763年に、ポンティアック戦争として知られる戦闘一因となった。この時の辺境地帯の砦や集落への一連の攻撃で、イギリス軍その後部隊駐留させる必要が生じ、この問題1766年まで解決されなかった。 この北アメリカ戦争は、1763年2月10日パリ条約署名正式に終止符打たれヨーロッパ舞台にした七年戦争も、2月15日フベルトゥスブルク条約終結したイギリスフランスに、ミシシッピ川以東北アメリカか、グアドループマルティニークカリブ海諸島かのいずれを取るかを提案した当時、この両者イギリスの支配にあったフランスは、カナダ割譲したが、サンピエール・ミクロン所有交渉可能だったサンピエール・ミクロンセントローレンス湾小さな島で、そこでの漁業権ほしかったのであるフランスにとっては、カナダより、カリブ海の島の方が経済的価値大きかった砂糖収穫量大きく防御もしやすかったからだ。しかしイギリスにとってヌーベルフランス得たことは満足であったこの際防御問題点ではなかったし、イギリスにとって砂糖供給源いくらでもあったからだった。スペインは、イギリスフロリダ割譲し代わりにキューバ得た。またフランスから敗戦埋め合わせとして、ニューオーリンズ含めたルイジアナ得たミシシッピ川流域割譲については、すべての参戦国ゆだねられた。

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戦争の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「戦争の終結」の解説

慶長3年1598年8月秀吉死去して以降幼児豊臣秀頼が後を継いだ豊臣政権では、大名間の権力を巡る対立顕在化し、政治情勢不穏なものとなっており、もはや対外戦争続け状況にはなかった。そこでついに10月15日秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令発令された。秀吉による慶長4年1599年)の再出計画白紙となった慶長3年1598年10月下旬帰国命令受領した小西行長は、明軍陸将劉綎との交渉により無血撤退約束取り付け人質受領して撤退準備取り掛かっていた。ところが、古今島退却していた明・朝水軍は、日本軍撤退動きを知ると、11月10日再び順天城の前洋に現れ海上封鎖実施して海路撤退妨害行った。そこで小西行長は、明水軍の陳璘交渉買収無血撤退約束取り付け人質受領するが、この頃日本撤退内情秀吉の死)は明・朝鮮側も知るところとなり、実際に明・朝水軍後退せずに海上封鎖継続した小西軍の脱出阻まれていることが確認される泗川から撤退してきた島津義弘立花宗茂高橋直次寺沢広高宗義智小早川秀包筑紫広門(上野介広門の子主水正広門) らの諸将救援に向かうために水軍編成して進撃した島津義弘立花宗茂らの救援軍近づくのを知ると明・朝水軍順天海上封鎖解いて迎撃行い両軍11月18日夜間、露海峡において衝突する。 この露梁海戦島津水軍苦戦したとされ、明・朝鮮側の資料では自軍勝利を強調している。しかし、明・朝鮮軍では明水軍の副将鄧子龍朝鮮水軍主将三道水軍統制使の李舜臣、さらに、李英男(加里浦僉使)、方徳龍(樂安郡守)、高得蒋(興陽県監)、李彦良、といった複数将官戦死した一時突出した明軍主将陳璘日本軍包囲から危うく逃れたとされ、明・朝水軍退却する日本軍追撃したり、あるいは再び順天封鎖することは適わなかった。明・朝水軍出撃したことによって順天海上封鎖解けたことを知った小西行長は、海戦海域避け戦闘参加することなく海路脱出成功し巨済島到着した島津宗・立花勢らも巨済島到着した。こうして西部方面日本軍撤退完了し、さらに釜山浦に向かった一方蔚山・西生浦・梁山竹島など東部方面展開していた日本軍は、これより先の11月15日頃から各自城を撤し順調に釜山向かっている。 11月中旬日本軍釜山集結した11月23日加藤清正等が釜山発し24日毛利吉成等が釜山発し25日小西行長島津義弘等が釜山発す。こうして、日本出征大名達は朝鮮退去し日本へ帰国し、豊臣秀吉画策した明遠征朝鮮征服計画成功至らぬまま、秀吉死によって終結した。 この戦争について前王朝に批判的な清が編纂した明史』では「豊臣秀吉による朝鮮出兵開始され以来7年、(明では)十万将兵喪失し百万兵糧を労費するも、中朝(明)と属国朝鮮)に勝算無く、ただ関白豊臣秀吉)が死去する至り乱禍は終息した。」と総評する

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戦争の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 01:48 UTC 版)

アスガルド (オンラインゲーム)」の記事における「戦争の終結」の解説

善と悪いずれか勝利条件を満たす勝敗確定しイベント終了する参加したキャラクター天上の町コスモフォリアに飛ばされ、このとき勝敗表示されるイベント終了まで所要時間まちまちである。5分で終結するともあれば、1時間近く決着つかないこともある。

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戦争の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:10 UTC 版)

ネイサン・ベッドフォード・フォレスト」の記事における「戦争の終結」の解説

1ヵ月後、フォレストトゥーペロの戦いで、初め大きな戦術的敗北喫した北軍ウィリアム・シャーマン少将補給線維持すべく、アンドリュー・J・スミス少将指揮下の部隊フォレスト軍への対応に派遣した北軍フォレスト軍を戦場から駆逐したが、フォレスト軍は撤退追い込まれはしたものの、壊滅までには至らなかった。フォレスト戦争残り期間西部戦線北軍への対抗続けたフォレストはその年の夏と秋に幾つかの襲撃率いた1864年8月には北軍確保していたメンフィス中心街への有名な襲撃第二次メンフィスの戦い)、10月3日にはテネシー州ジョンソンビルにあった北軍物資補給庫への襲撃があり、北軍数百ドル損害与えた12月南軍テネシー軍行動を共にし、フランクリン・ナッシュビル方面作戦悲惨な結果になったフォレストは再び上官と言い争った新任(かつ最後)のテネシー軍指揮官ジョン・ベル・フッドに、第二次フランクリンの戦いの間に川を渉って北軍ジョン・マカリスター・スコフィールド少将軍の退路遮断する許可求めた時のことだった(この案は結局実行されたが失敗した)。フッドは、フランクリンでの大敗北の後でナッシュビル向けた進軍続け一方フォレストはマーフリーズバラに対す攻撃率いた12月5日、マーフリーズバラ近く北軍対峙し、完璧に打ち破られた(第三次マーフリーズバラの戦い)。フッドテネシー軍ナッシュビルの戦いでほぼ壊滅した後でフォレスト残った部隊逃走助け一連の戦いで南軍の殿を指揮し、再び傑出した功績挙げた。このことで、中将への昇進果たした1865年フォレストウィルソンの襲撃対抗してアラバマ州守ろうとしたが不成功終わった。敵のジェイムズ・H・ウィルソン准将戦闘フォレスト軍を破ったリー降伏したという報せ届いたとき、フォレスト降伏選んだ1865年5月9日アラバマ州ゲインズビルで、部下向かって別れ挨拶行った南北戦争4年間で、通説ではフォレスト乗っていた馬は30頭が戦死しフォレスト自身31名を殺したと言われている。「最後に自分最前線で馬の役割果たしていた」とフォレスト語った

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戦争の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:34 UTC 版)

南北戦争」の記事における「戦争の終結」の解説

1864年3月グラント北軍総司令官就任した南軍一部隊はこの夏には合衆国首都ワシントンD.C.にまで迫ったが、戦争長期化するにつれて装備人口工業力など総合力に優れた北軍優勢に立つようになっていた。またグラントそれまで将軍とは違い会戦敗北して引き上げるような事はせず、そのまま敵地とどまって北バージニア軍戦い続けた。さらに、西部においてはグラントから西部指揮権引き継いだウィリアム・シャーマン1864年5月アトランタ方面作戦開始し9月には南部残存地域中心部位置する要衝アトランタ陥落させた。アトランタ灰燼に帰したシャーマンは、続いて南部継戦能力を奪うために大西洋向かって焦土進撃作戦開始した海への進軍である。すでにこの地域北軍対抗できる戦力残っておらず、北軍あらゆるものを破壊しながら進軍し12月にはジョージア州海岸サバンナ達した。さらにここでシャーマン軍は北に向き変え1865年1月にはカロライナ方面作戦開始してサウスカロライナ州へと進撃2月17日には州都コロンビア破壊し同月18日には海港都市チャールストン降伏させた。3月にはノースカロライナ州入り、州中部のゴールズボロにまで達していた。 1865年3月には北軍最後の攻勢であるアポマトックス方面作戦開始され4月1日ファイブフォークスの戦い打撃受けた南軍4月3日南部首都リッチモンドから撤退し西へ退却した。しかし追いすがる北軍4月9日アポマトックス・コートハウスの戦い起きリー降伏して南北戦争事実上終了したお互いにあらゆる国力投入したことから、南北戦争世界で最初総力戦のひとつとなった最終的な動員兵力北軍156万人南軍90万人達した両軍合わせて50万人近く戦死者出した。これはアメリカがこれ以降今日まで体験している戦役史上最悪死者数である。なお、北軍公式戦死者数364511人であるが、南軍の公式な戦死者数データ存在しない。しかし、陸軍憲兵司令官報告書には133821人とある。

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戦争の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 06:03 UTC 版)

北方七年戦争」の記事における「戦争の終結」の解説

結局両者一歩引かず曖昧な形で休戦となった両国国境線変動はなかったが、しかしデンマークは、エストランドの再占領は叶わず、スウェーデン領有果たした戦争終結時、デンマークサーレマー島及びクールラントにある司教区保持していたが、間もなくこの地域ポーランド・リトアニア共和国譲渡することとなる(サーレマー島17世紀スウェーデン領となる)。 1570年フレゼリク2世ヨハン3世使者ポンメルンシュテッティンシュテッティンの和約を結び、戦争終結したスウェーデンデンマークへ被占領地返還賠償金支払代りデンマークからの王位請求権放棄させた。この戦争終了すると、スウェーデンリヴォニア戦争復帰した。しかしこの戦争は、両国国力圧迫し相互間での関係悪化を招く結果となり、後年まで悪影響を残すこととなった

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戦争の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 05:48 UTC 版)

継続戦争」の記事における「戦争の終結」の解説

フィンランド一時カレリアとサッラ(英語版)の旧領回復したが、ソ連軍の反攻によって奪還され、北極海面するペツァモ州[要リンク修正]も失ったまた、人員冬戦争上の多大な犠牲払った。しかし、フィンランド軍奮闘し圧倒的な戦力差を誇っていたソ連軍フィンランドの3倍以上という大損害を受けた。この結果講和交渉土台となったドイツからの援助を受けるためにリュティ大統領個人名義行ったドイツと共に断固最期まで交戦する」という宣言のために、リュティ政権下ではソ連との講和に臨むことができなかった。このため講和先立って8月4日にリュティは大統領辞し、軍の最高司長官であったマンネルヘイム将軍大統領の座を譲り渡したフィンランド政権交代が行われ親独政権ではなくなったことを強調。親独的であったのは前大統領のリュティだけであるとして、講和交渉行った。なお、停戦9月4日なされている。 ソ連講和交渉の中で提示した条件には2月講和条件同じくドイツ軍との決別フィンランド領内からのドイツ軍排除盛り込まれていた。しかし、交渉によってそれを行うための若干猶予認められた。そのほか賠償金3億ドル当の支払い国境線冬戦争後のものに戻すこと、ペツァモの割譲フィンランド湾要衝ポルッカラソ連租借地とすること、軍備制限戦争犯罪人処罰全体主義的団体解体第二次大戦終結までの間の飛行場港湾使用許可などが求められフィンランドはこの条件講和飲んだフィンランドソ連の間で1944年9月19日モスクワ休戦協定調印され、その24時間後に完全に戦闘停止した

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