戦争の終結
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「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「戦争の終結」の解説
北アメリカ大陸における英仏の戦いの大部分は、1760年に幕を閉じた。一方ヨーロッパでの戦闘はまだ続いていた。主だった例外はフランスによるニューファンドランド島のセント・ジョンズの包囲であった。アマーストはこの予期せぬ戦闘を知って、直ちに、甥のウィリアム・アマーストと部隊とを派遣して、1762年9月のシグナルヒルの戦いで、ニューファンドランドの支配を取り戻させた。 北アメリカのイギリス軍の多くが、西インド諸島で続いていたイギリス軍の作戦への参戦のため、配置しなおされた。その中にはハバナの戦いもあった。スペインは遅まきながらフランスの同盟国として参戦したのである。また、マルティニークへのイギリス軍の遠征もあった。 将軍アマーストはまた、西部に広がっていたフランスの砦をイギリスの支配下に収める指揮を執った。アマーストがこの地に対して持ち込んだ方針は、多くのインディアンを混乱させ、1763年に、ポンティアック戦争として知られる戦闘の一因となった。この時の、辺境地帯の砦や集落への一連の攻撃で、イギリス軍はその後も部隊を駐留させる必要が生じ、この問題は1766年まで解決されなかった。 この北アメリカの戦争は、1763年2月10日のパリ条約署名で正式に終止符が打たれ、ヨーロッパを舞台にした七年戦争も、2月15日のフベルトゥスブルク条約で終結した。イギリスはフランスに、ミシシッピ川以東の北アメリカか、グアドループとマルティニークのカリブ海の諸島かのいずれを取るかを提案した。当時、この両者はイギリスの支配下にあった。フランスは、カナダを割譲したが、サンピエール・ミクロンの所有の交渉は可能だった。サンピエール・ミクロンはセントローレンス湾の小さな島で、そこでの漁業権がほしかったのである。フランスにとっては、カナダより、カリブ海の島の方が経済的価値が大きかった。砂糖の収穫量が大きく、防御もしやすかったからだ。しかしイギリスにとって、ヌーベルフランスを得たことは満足であった。この際防御は問題点ではなかったし、イギリスにとって砂糖の供給源はいくらでもあったからだった。スペインは、イギリスにフロリダを割譲し、代わりにキューバを得た。またフランスから敗戦の埋め合わせとして、ニューオーリンズを含めたルイジアナを得た。ミシシッピ川流域の割譲については、すべての参戦国にゆだねられた。
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戦争の終結
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慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去して以降、幼児の豊臣秀頼が後を継いだ豊臣政権では、大名間の権力を巡る対立が顕在化し、政治情勢は不穏なものとなっており、もはや対外戦争を続ける状況にはなかった。そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令された。秀吉による慶長4年(1599年)の再出兵計画は白紙となった。 慶長3年(1598年)10月下旬、帰国命令を受領した小西行長は、明軍の陸将劉綎との交渉により無血撤退の約束を取り付け、人質を受領して撤退の準備に取り掛かっていた。ところが、古今島に退却していた明・朝鮮水軍は、日本軍撤退の動きを知ると、11月10日再び順天城の前洋に現れ海上封鎖を実施して海路撤退の妨害を行った。そこで小西行長は、明水軍の陳璘と交渉や買収で無血撤退の約束を取り付け、人質も受領するが、この頃日本側撤退の内情(秀吉の死)は明・朝鮮側も知るところとなり、実際には明・朝鮮水軍は後退せずに海上封鎖を継続した。 小西軍の脱出が阻まれていることが確認されると泗川から撤退してきた島津義弘、立花宗茂、高橋直次、寺沢広高、宗義智、小早川秀包、筑紫広門(上野介広門の子・主水正広門) らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。島津義弘、立花宗茂らの救援軍が近づくのを知ると明・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃を行い、両軍は11月18日夜間、露梁海峡において衝突する。 この露梁海戦で島津水軍は苦戦したとされ、明・朝鮮側の資料では自軍の勝利を強調している。しかし、明・朝鮮軍では明水軍の副将、鄧子龍や朝鮮水軍の主将で三道水軍統制使の李舜臣、さらに、李英男(加里浦僉使)、方徳龍(樂安郡守)、高得蒋(興陽県監)、李彦良、といった複数の将官が戦死した。一時突出した明軍の主将陳璘も日本軍の包囲から危うく逃れたとされ、明・朝鮮水軍が退却する日本軍を追撃したり、あるいは再び順天を封鎖することは適わなかった。明・朝鮮水軍が出撃したことによって順天の海上封鎖が解けたことを知った小西行長は、海戦海域を避け、戦闘に参加することなく海路脱出に成功し、巨済島に到着した。島津・宗・立花勢らも巨済島に到着した。こうして西部方面の日本軍は撤退を完了し、さらに釜山浦に向かった。 一方、蔚山・西生浦・梁山・竹島など東部方面に展開していた日本軍は、これより先の11月15日頃から各自城を撤し順調に釜山に向かっている。 11月中旬、日本軍は釜山に集結した。11月23日加藤清正等が釜山を発し、24日毛利吉成等が釜山を発し、25日小西行長、島津義弘等が釜山を発す。こうして、日本の出征大名達は朝鮮を退去して日本へ帰国し、豊臣秀吉の画策した明遠征、朝鮮征服計画は成功に至らぬまま、秀吉の死によって終結した。 この戦争について前王朝に批判的な清が編纂した『明史』では「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」と総評する。
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戦争の終結
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「アスガルド (オンラインゲーム)」の記事における「戦争の終結」の解説
善と悪のいずれかが勝利条件を満たすと勝敗が確定し、イベントが終了する。参加したキャラクターは天上の町コスモフォリアに飛ばされ、このとき勝敗が表示される。 イベント終了までの所要時間はまちまちである。5分で終結することもあれば、1時間近く決着がつかないこともある。
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戦争の終結
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「ネイサン・ベッドフォード・フォレスト」の記事における「戦争の終結」の解説
1ヵ月後、フォレストはトゥーペロの戦いで、初めて大きな戦術的敗北を喫した。北軍のウィリアム・シャーマン少将は補給線を維持すべく、アンドリュー・J・スミス少将指揮下の部隊をフォレスト軍への対応に派遣した。北軍はフォレスト軍を戦場から駆逐したが、フォレスト軍は撤退に追い込まれはしたものの、壊滅までには至らなかった。フォレストは戦争の残り期間西部戦線で北軍への対抗を続けた。 フォレストはその年の夏と秋に幾つかの襲撃を率いた。1864年8月には北軍が確保していたメンフィス中心街への有名な襲撃(第二次メンフィスの戦い)、10月3日にはテネシー州ジョンソンビルにあった北軍の物資補給庫への襲撃があり、北軍に数百万ドルの損害を与えた。12月、南軍のテネシー軍と行動を共にし、フランクリン・ナッシュビル方面作戦の悲惨な結果になった。フォレストは再び上官と言い争った。新任(かつ最後)のテネシー軍指揮官ジョン・ベル・フッドに、第二次フランクリンの戦いの間に川を渉って北軍ジョン・マカリスター・スコフィールド少将軍の退路を遮断する許可を求めた時のことだった(この案は結局実行されたが失敗した)。フッドは、フランクリンでの大敗北の後でもナッシュビルに向けた進軍を続け、一方フォレストはマーフリーズバラに対する攻撃を率いた。12月5日、マーフリーズバラ近くで北軍と対峙し、完璧に打ち破られた(第三次マーフリーズバラの戦い)。フッドのテネシー軍がナッシュビルの戦いでほぼ壊滅した後で、フォレストは残った部隊の逃走を助ける一連の戦いで南軍の殿を指揮し、再び傑出した功績を挙げた。このことで、中将への昇進を果たした。 1865年、フォレストはウィルソンの襲撃に対抗してアラバマ州を守ろうとしたが不成功に終わった。敵のジェイムズ・H・ウィルソン准将が戦闘でフォレスト軍を破った。リーが降伏したという報せが届いたとき、フォレストも降伏を選んだ。1865年5月9日、アラバマ州ゲインズビルで、部下に向かって別れの挨拶を行った 。 南北戦争の4年間で、通説ではフォレストが乗っていた馬は30頭が戦死し、フォレスト自身は31名を殺したと言われている。「最後には自分が最前線で馬の役割を果たしていた」とフォレストは語った。
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戦争の終結
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1864年3月、グラントが北軍総司令官に就任した。南軍の一部隊はこの夏には合衆国首都ワシントンD.C.にまで迫ったが、戦争が長期化するにつれて、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになっていた。またグラントはそれまでの将軍とは違い、会戦で敗北しても引き上げるような事はせず、そのまま敵地にとどまって北バージニア軍と戦い続けた。さらに、西部においてはグラントから西部の指揮権を引き継いだウィリアム・シャーマンが1864年5月にアトランタ方面作戦を開始し、9月には南部残存地域の中心部に位置する要衝アトランタを陥落させた。アトランタを灰燼に帰したシャーマンは、続いて南部の継戦能力を奪うために大西洋に向かって焦土進撃作戦を開始した。海への進軍である。すでにこの地域に北軍に対抗できる戦力は残っておらず、北軍はあらゆるものを破壊しながら進軍して12月にはジョージア州海岸のサバンナに達した。さらにここでシャーマン軍は北に向きを変え、1865年1月にはカロライナ方面作戦を開始してサウスカロライナ州へと進撃。2月17日には州都コロンビアを破壊し、同月18日には海港都市チャールストンを降伏させた。3月にはノースカロライナ州に入り、州中部のゴールズボロにまで達していた。 1865年3月には北軍の最後の攻勢であるアポマトックス方面作戦が開始され、4月1日のファイブフォークスの戦いで打撃を受けた南軍は4月3日に南部の首都リッチモンドから撤退し、西へと退却した。しかし追いすがる北軍と4月9日にアポマトックス・コートハウスの戦いが起き、リーが降伏して南北戦争は事実上終了した。 お互いにあらゆる国力を投入したことから、南北戦争は世界で最初の総力戦のひとつとなった。最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人に達した。 両軍合わせて50万人近くの戦死者を出した。これはアメリカがこれ以降、今日まで体験している戦役史上、最悪の死者数である。なお、北軍の公式戦死者数は36万4511人であるが、南軍の公式な戦死者数のデータは存在しない。しかし、陸軍憲兵司令官の報告書には13万3821人とある。
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戦争の終結
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結局、両者一歩も引かず、曖昧な形で休戦となった。両国の国境線に変動はなかったが、しかしデンマークは、エストランドの再占領は叶わず、スウェーデンが領有を果たした。戦争終結時、デンマークはサーレマー島及びクールラントにある司教区を保持していたが、間もなくこの地域をポーランド・リトアニア共和国に譲渡することとなる(サーレマー島は17世紀にスウェーデン領となる)。 1570年にフレゼリク2世とヨハン3世の使者がポンメルンのシュテッティンでシュテッティンの和約を結び、戦争は終結した。スウェーデンはデンマークへ被占領地の返還賠償金を支払う代りにデンマークからの王位請求権を放棄させた。この戦争が終了すると、スウェーデンはリヴォニア戦争に復帰した。しかしこの戦争は、両国の国力を圧迫し、相互間での関係悪化を招く結果となり、後年まで悪影響を残すこととなった。
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戦争の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 05:48 UTC 版)
フィンランドは一時はカレリアとサッラ(英語版)の旧領を回復したが、ソ連軍の反攻によって奪還され、北極海に面するペツァモ州[要リンク修正]も失った。また、人員も冬戦争以上の多大な犠牲を払った。しかし、フィンランド軍は奮闘し、圧倒的な戦力差を誇っていたソ連軍はフィンランドの3倍以上という大損害を受けた。この結果は講和交渉の土台となった。 ドイツからの援助を受けるためにリュティ大統領が個人名義で行った「ドイツと共に断固最期まで交戦する」という宣言のために、リュティ政権下ではソ連との講和に臨むことができなかった。このため、講和に先立って8月4日にリュティは大統領を辞し、軍の最高司令長官であったマンネルヘイム将軍に大統領の座を譲り渡した。フィンランドは政権交代が行われ親独政権ではなくなったことを強調。親独的であったのは前大統領のリュティだけであるとして、講和交渉を行った。なお、停戦は9月4日になされている。 ソ連が講和交渉の中で提示した条件には2月の講和条件と同じくドイツ軍との決別、フィンランド領内からのドイツ軍の排除が盛り込まれていた。しかし、交渉によってそれを行うための若干の猶予が認められた。そのほか、賠償金3億ドル相当の支払い、国境線を冬戦争後のものに戻すこと、ペツァモの割譲、フィンランド湾の要衝ポルッカラをソ連の租借地とすること、軍備の制限、戦争犯罪人の処罰、全体主義的団体の解体、第二次大戦終結までの間の飛行場や港湾の使用許可などが求められ、フィンランドはこの条件で講和を飲んだ。フィンランドとソ連の間で1944年9月19日にモスクワ休戦協定が調印され、その24時間後に完全に戦闘を停止した。
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