首都ワシントン(米国中央気象台)
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「田村哲」の記事における「首都ワシントン(米国中央気象台)」の解説
1903年(明治36年)9月、田村はコロンビア大学の恩師ウッドワードの紹介で当時ワシントンにあったアメリカ合衆国中央気象台(当時U.S. Weather Bureau、現在はメリーランド州シルヴァースプリングにあるアメリカ国立気象局 NWS: U.S. National Weather Service)の技師(専門官)となった:p.44-49。中央気象台は米国連邦機関なので日本の気象庁に当たる。 これには、ちょうどその頃、コロンビア大学教授であったクリーヴランド・アッベ(Cleveland Abbe)が自分の助手ないしは後継者を探していたという幸運もあった。アッベ博士はそのとき既に64歳で、アイザック・アシモフが後に「アメリカ国立気象局の父 (the father of the National Weather Service)」と呼んだ気象学の重鎮だった。 アッベ教授は誰にでも親切で面倒見がよいという評判だったが実際に1905年(明治38年)11月25日土曜日の田村の結婚に際しては媒酌人を努めた。田村は自伝の中で、その変わらぬ人柄を述懐したアッベ教授の同窓生による言葉を次のように英文のまま引用している。"Everybody liked Abbe thirty years ago, as everybody likes him now.":47 アッベの下での一連の研究は主にアメリカ気象学会(AMS: American Meteorological Society)発行のWeather Review誌(現・Monthly Weather Review ISSN 0027-0644)に掲載され、前述のごとく学位請求における主論文・副論文となった。その主なる論文は下記「主要著作」節のとおり。
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首都ワシントン(カーネギー研究所と学界社交)
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1904年(明治37年)になると、1902年創立のカーネギー研究所:p.183 (当時・Carnegie Institution of Washington、現・Carnegie Institution for Science)の2代目所長にコロンビア大学の恩師ウッドワードが選ばれた。これを機会に、田村は同年(1904年)に新設されたカーネギー研究所地磁気学部門(Department of Terrestrial Magnetism):p.192のバウアー部長(Louis Agricola Bauer)付き顧問となり:p.48、論文も発表した。 前述のとおり田村の結婚生活を含め、この頃は公私ともに充実した時期で、経済的にも名声的に恵まれ、ワシントン学士院に出入りし:p.264、カーネギー研究所の依頼で1905年(明治38年)5月、欧州視察にも出かけた:p.48。出張先はスイスを主として、イギリス、ドイツ、フランスに及んだ:p.206-284。同年11月にはジョージ・ワシントン大学(GWU: George Washington University)より理学博士(Doctor of Science)の学位を受ける。
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