かとう‐きよまさ【加藤清正】
加藤清正
加藤清正
加藤清正
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加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。
注釈
- ^ 『野史』による[1]。
- ^ 以神東郡百弐十石令扶助候、但当年者六ッ之物成ニ可召置候、所付之儀者来年可申付候、恐々謹言
天正八 藤吉郎
九月十九日 秀吉
加藤虎殿 — 「天正八年九月一九日 羽柴秀吉知行宛行状」天理図書館所蔵『加藤文書』1号文書[2] - ^ 近江郡栗太郡1800石、山城国内50石、河内国讃良郡1097石の合計2947石[2]。
- ^ なお、『清正記』や『清正行状』には秀吉が清正を領主に取り立てる際に清正に讃岐と肥後半国を選ばせたが、清正が唐入りの先鋒とならんがために肥後を希望した話に創作されている。
- ^ なお、南半国を与えられた小西行長も上使を務めていた。
- ^ 内閣文庫所蔵『楓軒文書纂』「韓陣文書」文禄元年6月1日付書状。発給者・宛所は不詳であるがその内容に記された状況から清正発給文書と確定できる[7]。
出典
- ^ 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 上、大日本人名辞書刊行会、1926年、712頁 。
- ^ a b c d e f 大浪和弥「加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」『堺市博物館研究報告』32号、2013年。 /所収:山田 2014
- ^ a b c d e f g h i j 山田 2014, 「加藤清正論の現在地」
- ^ a b c d 稲葉継陽 著「加藤清正の歴史的位置」、熊本県立美術館 編『生誕四五〇年記念展 加藤清正』2012年。 /所収:山田 2014
- ^ 「渋沢栄一文書」所収
- ^ a b c d e 中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」『九州文化史研究所紀要』56号、2013年。 /所収:山田 2014
- ^ 山田 2014, 中野 , p.115-117.
- ^ 文禄5年閏7月15日付新美藤蔵宛加藤清正書状(「長崎文書」2号文書『熊本県史料 中世編第五巻』所収)
- ^ 藤原秀之「加藤清正朝鮮人書状について」『早稲田大学図書館紀要』45号、1998年。 /所収:山田 2014
- ^ 中島楽章「十六世紀末の九州-東南アジア貿易 : 加藤清正のルソン貿易をめぐって」『史学雑誌』第118巻第8号、史学会、2009年、1423-1458頁、doi:10.24471/shigaku.118.8_1423、ISSN 0018-2478。 /所収:山田 2014
- ^ 二月二十一日付朱印状(立花文書他)
- ^ 明史・朝鮮伝
- ^ 「(慶長4年)9月21日付島津義弘書状写」『旧記雑録』884号文書
- ^ 「(慶長5年)7月21日付黒田如水宛加藤清正書状」『田中家文書』(福岡市博物館所蔵)
- ^ 「(慶長5年)5月17日付島津義弘書状写」『旧記雑録後編三』1107号文書
- ^ a b 山田貴司 著「関ヶ原合戦前後における加藤清正の動向」、熊本県立美術館 編『生誕四五〇年記念展 加藤清正』2012年。 /所収:山田 2014
- ^ 白峰旬「関ヶ原の戦い関係の一次史料についての検討(その一)―鍋島家関係文書を中心に―」『愛城研報告』22号、2018年。
- ^ 横田光雄「新発見の武田家朱印状と加藤清正判物・黒印状について―鎌ヶ谷、市原家所蔵文書―」『鎌ヶ谷市史研究』5号、1992年。
- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。
- ^ 小宮山敏和「近世初期館林榊原家の基礎構造」『群馬歴史民俗』29号、2008年。 /所収:小宮山敏和『譜代大名の創出と幕藩体制』吉川弘文館、2015年。ISBN 978-4-642-03468-5。
- ^ 上髙原聡「加藤領肥後一国統治期の支城体制について -一国二城体制の考察-」『熊本史学』92号、2010年。 /所収:山田 2014
- ^ 山形の宝検索navi HP(丸岡城跡及び加藤清正墓碑)
- ^ 長烏帽子形兜 - 徳川美術館、2020年1月18日閲覧。
- ^ 米川明彦『手話ということば : もう一つの日本の言語』PHP研究所、2002年。ISBN 4569619657。
- ^ a b 出典:『清正記』
- ^ “首掛け石”. 熊本城公式ホームページ. 2013年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月24日閲覧。
- ^ 田中青樹「民衆の信仰としての清正公信仰」『名古屋市博物館研究紀要』23巻、2000年。 /所収:山田 2014
- ^ 営林局内の碑文による。
- ^ 湯田栄弘『仰清正公 : 神として人として』(増補再版)加藤神社社務所、2000年。
- ^ 「寛政重修諸家譜」巻第四百三十二
- ^ 水野勝之・福田正秀『続 加藤清正「妻子」の研究』34-43頁
- ^ 尾下成敏 著「蒲生氏と徳川政権」、日野町史編さん委員会 編『近江日野の歴史』 第二巻 中世編、2009年。/所収:谷徹也 編『蒲生氏郷』戒光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第九巻〉、2021年、252・273頁。ISBN 978-4-86403-369-5。
- ^ 春日太一『大河ドラマの黄金時代』NHK出版〈NHK出版新書〉、2021年2月10日、pp.194 - 196
- ^ a b 金時徳「国会図書館蔵『絵本武勇大功記』の翻刻と解題」『国文学研究資料館紀要』第35巻、国文学研究資料館、2009年、209-240頁、doi:10.24619/00000727、ISSN 0387-3447。
加藤清正(かとう きよまさ)
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「御指名武将真田幸村 かげろひ -KAGEROI-」の記事における「加藤清正(かとう きよまさ)」の解説
秀吉の重臣。幸村とは会うたびに見下すほど嫌っている。同僚の福島とは逆に怒りやすく彼の交換癖に辟易している。
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加藤清正(虎之助)
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「石田三成の青春」の記事における「加藤清正(虎之助)」の解説
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加藤清正(演 - 北村一輝)
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「ボス (コーヒー)」の記事における「加藤清正(演 - 北村一輝)」の解説
『プレミアム熊本篇』に登場。家臣と共に城の図面を見ながら、熊本城の防備について語っていた時、天井裏でジョーンズ・タモリと共にそこを覗いていたくまモンが天井に穴を開けたのに気づき、「曲者!」と叫んで天井に槍を突き刺した。
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加藤清正(かとう きよまさ)
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「センゴク」の記事における「加藤清正(かとう きよまさ)」の解説
通称は虎之助。秀吉の子飼いの少年。元服を前にして、正則らとともに特別に英才教育を施される事になる。正則同様、権兵衛を「権(ゴン)さん」と呼んで慕っている。羽柴家の将来を担う存在として賤ヶ岳の七本槍と称されているが、同じ子飼いながら急速な立身を果たす佐吉については権兵衛に尋ねられた時は何ともいえない表情を見せていた。
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加藤清正(人型メカ)
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21歳。幼名は虎之助で秀吉の下で養育された子飼衆の一人。秀吉や官兵衛に心酔し、槍働きで彼らの助けになることを望む。大柄な体格で武勇に優れるだけではなく勉強熱心な若者でもある。
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加藤清正(かとう きよまさ)
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「あずみ」の記事における「加藤清正(かとう きよまさ)」の解説
名高い戦国武将だった熊本藩主。一般的なイメージである豪胆な雰囲気もあるにはあるが、本作品の清正はそれ以上に明るい陽気な人物という印象が強い。井上勘兵衛にとって主であり、恩義のある人物でもある。勘兵衛の事情についても知っている。豊臣家への忠誠心が厚く、家康の老死を待つより関ヶ原の戦いを超える真の天下分け目の戦いを起こして生きているうちに家康の首を刎ねてこそ秀頼を天下人と知らしめることができると考えている。そのため天海から指令を受けた月斎たちに命を狙われるが、影武者作戦や佐敷3兄弟の送り込みなど勘兵衛の巧みな策により長政のように簡単にはいかなかった。しかし最後は船上であずみにより暗殺された。
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加藤清正(熊本)
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「桃太郎電鉄2010 戦国・維新のヒーロー大集合!の巻」の記事における「加藤清正(熊本)」の解説
有名な虎退治のエピソードにちなみ、仲間にすると「虎につばさカード」と同じく目的地到着金が倍になる。カードや他のイベントによる到着金変動との併用も可能。
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加藤 清正(かとう きよまさ)
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「コータローまかりとおる!の登場人物」の記事における「加藤 清正(かとう きよまさ)」の解説
熊本大一商業高校空手部2年。前年の大会では盲腸を押して決勝戦まで進んだが、ドクターストップ不戦敗となり準優勝となる。実力はあるが、酷い垂れ目でしばしば物笑いの種とされる。「槍突き」の必殺技を持つ。準決勝で権佐ェ門に敗れる。
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「加藤清正」の例文・使い方・用例・文例
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