ひろせ‐たけお〔‐たけを〕【広瀬武夫】
広瀬武夫
広瀬武夫 ひろせ たけお
大分生まれ。海軍軍人。父重武は裁判官、兄勝比古は海軍少将。攻玉社を経て明治22年(1889)海軍兵学校卒業。30年(1897)ロシア留学に抜擢され、同国駐在武官としてドイツ・フランス・イギリスを視察。33年(1900)少佐。日露戦争には戦艦「朝日」の水雷長として出征。37年(1904)3月27日、第2回旅順港閉塞戦で「福井丸」の指揮官となり、行方不明の部下を捜索中にボート上で被弾、戦死した。死後中佐となり、軍神として国民的英雄となった。
キーワード | 海軍軍人 |
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広瀬武夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 14:23 UTC 版)
広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人、柔道家。日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、特に戦前は軍神として神格化された。兄の勝比古も海軍軍人である。
注釈
- ^ 広瀬の遺体をロシア軍が収容したこと、遺体は頭部以外ほとんど損傷がなかったこと、ロシア側が撮影した遺体や葬儀の写真が残っていること、などの事実は、日本では今でもあまり知られていない。川村秀「『軍神』広瀬武夫・死の真相」(『文藝春秋』2009年12月臨時増刊号)参照。
- ^ 『東京日日新聞』1908年(明治41年)12月26日朝刊東京版によると、海軍兵学校同窓の財部、森両名が発起。東京日日新聞、時事新報、大阪毎日新聞の3紙が寄付金を募集。読者から2万3千円が集まった。同年12月23日に東京市長の工事許可が出た。22尺の台基の上に12尺の立像。台石の前面には杉野兵曹長の座像を、背面には錨一挺を配する、とある。
- ^ 2010年に和良コウイチが著した「ロシアとサンボ」(晋遊舎)では (1) 広瀬が皇帝の前で柔道を披露した、など周辺の伝説に対応する公式報告が広瀬から日本に送られていない。そのような出来事がもしあったら広瀬の報告の性質からいっても記述は義務である (2) 書簡で「ロシアでは柔道を稽古する場が無い」と嘆いている。(3) 過去の「サンボに影響説」の文章に登場するサンボ創始者たちと広瀬は、年代的にも距離的にも接点が無い (4) 仮に教えていても、組織無しにサンボが生まれる時期まで柔道を伝えるのは困難だが、現地に柔道の組織は無かった-などを論拠に、影響説に否定的な見方を示している。以前は廣瀬の影響説を公式サイトに掲載していた日本サンボ連盟も2010年、その記述を削除した。
- ^ ちなみにその書を慎太郎次男・石原良純がテレビ東京系の番組『開運!なんでも鑑定団』2007年5月15日放送分)に出したところ本物と認定され、鑑定結果は12万円(本人評価額は160万円)であった。
出典
- ^ 大分県教育会 1928, p. 110.
- ^ 松本鳴弦褸『柔道名試合物語』河出書房、1956年、100頁。
- ^ 関榮次『遥かなる祖国 ロシア難民と二人の提督』PHP研究所、1996年、143頁。
- ^ 川村秀「軍神・広瀬武夫『ロシアの恋』の真実」『文藝春秋臨時増刊「坂の上の雲」』2011年12月
- ^ a b 木村荘八「広瀬中佐」『東京の風俗』毎日新聞社、1949年、57-59頁。doi:10.11501/2983988。(オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『朝日新聞』1947年7月23日朝刊東京版。
- ^ 斎藤雅道 (2023年3月27日). “「JR神田万世橋ビル」に立つ“アヤしいポール”の正体 かつての万世橋駅跡 GHQに消されたモノとは?”. 乗りものニュース. 2023年10月1日閲覧。
- ^ a b “広報たけた” (PDF). 竹田市 (2010年11月). 2021年7月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月27日閲覧。
- ^ “イザ!「坂の上の雲」の広瀬中佐ブロンズ像の除幕式”. iza!. 産経デジタル. 2021年7月27日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “廣瀬武夫像が廣瀬神社にやって来ました”. 土居昌弘(竹田市長) 公式サイト (2017年12月26日). 2021年12月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月27日閲覧。
- ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」明治24年12月15日
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5230号「叙任及辞令」1900年12月6日。
- ^ a b c d e f g 夏目漱石「艇長の遺書と中佐の詩」『東京朝日新聞』、1910(明治43)年7月20日。(オンライン版)“艇長の遺書と中佐の詩”. 青空文庫 (2003年4月1日). 2023年10月1日閲覧。
- ^ 夏目漱石「文芸とヒロイツク」『東京朝日新聞』、1910(明治43)年7月19日。(オンライン版)“文芸とヒロイツク”. 青空文庫 (2003年4月1日). 2023年10月1日閲覧。
- ^ 剣影 1904, pp. 4–5.
- ^ 嘉納行光、川村禎三、中村良三、醍醐敏郎、竹内善徳『柔道大事典』佐藤宣践(監修)、アテネ書房、日本 東京(原著1999年11月)。ISBN 4871522059。"大砲"。
- ^ 坂の上の雲「広瀬武夫」逸話集
- ^ “「坂の上の雲」“軍神”広瀬中佐の恋人に秘密 旧ソ連が偽情報か” (日本語). 産経新聞. (2010年10月18日). オリジナルの2010年10月21日時点におけるアーカイブ。 2010年10月19日閲覧。
- ^ 椎葉京一 編集『思い出の軍歌集』野ばら社、1964年。
- 1 広瀬武夫とは
- 2 広瀬武夫の概要
- 3 エピソード
- 4 『廣瀬中佐』の歌
- 5 参考文献
広瀬武夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 14:00 UTC 版)
旅順港閉塞作戦において、閉塞船「福井丸」撤退時に部下を捜索した後に敵弾を受けて戦死した。広瀬は軍人の鑑として軍神と呼ばれ、また生前の人格についても尊敬を持って取り上げられた。伝記や『廣瀬中佐忠烈表彰歌詩俳句集』なども刊行され、1909年(明治42年)には東京万世橋駅前に渡辺長男による銅像が建てられて、二重橋前の楠木正成像などと並ぶ名所となる。文部省唱歌「廣瀬中佐」など多くの歌に歌われ、修身教科書で「ヤクソクヲマモレ」「チュウギ」といった題材で取り上げられた。
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広瀬武夫(海兵15期)
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1897年(明治30年)ロシア帝国に留学し、引き続き1899年~1902年まで駐露海軍武官として奉職する。後に旅順港閉塞作戦で戦死する。
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