豊臣秀吉とは?

豊臣秀吉 (とよとみひでよし)

織田信長おだのぶなが]の家臣[かしん]で、信長死後全国を治めた武将です。信長家臣時代は「羽柴[はしば]」姓を名乗っていましたが、1586年太政大臣だじょうだいじん]になったときに、「豊臣」姓をもらいました。全国支配したほか、朝鮮半島にも出兵しています。また、太閤検地たいこうけんち]や刀狩かたながり]、バテレン追放令なども行いました。


とよとみひでよし 【豊臣秀吉】

織豊時代武将織田信秀信長の父)の足軽木下弥右衛門長男信長の臣として活躍信長亡きあと二男信雄や徳川家康と戦ったが和睦関白太政大臣天下統一をなし封建体制整備し、朝鮮出兵断行したが不調終わり伏見城病没仏教保護して延暦寺再興援助し、奈良東大寺にならい方広寺大仏殿を建て、キリスト禁教令出したが、神父とは面会している。(一五三六~九八)

豊臣秀吉

作者檀一雄

収載図書戦国名将
出版社徳間書店
刊行年月1988.5
シリーズ名徳間文庫


豊臣秀吉

作者池波正太郎

収載図書さむらいの巣
出版社PHP研究所
刊行年月1995.9
シリーズ名PHP文庫


豊臣秀吉

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら秘本三十人伝
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


豊臣秀吉

作者海音寺潮五郎

収載図書武将列伝戦国揺籃
出版社文藝春秋
刊行年月2008.4
シリーズ名文春文庫


豊臣秀吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/17 05:56 UTC 版)

豐臣 秀吉(とよとみ ひでよし)/ 羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将天下人関白太閤三英傑の一人。




注釈

  1. ^ 生年は天文5年1月1日1536年2月2日)とも伝わる。
  2. ^ 『江源武鑑』によると六角義秀の偏諱で元吉から秀吉に改めたとあるが、『江源武鑑』は偽書とするのが一般的であり信憑性は薄い。
  3. ^ 『太閤素性記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて種子島鉄砲が伝わったのが1543年8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている。
  4. ^ 一説に秀吉自身は仕官以前の放浪時代に針の行商人であったという。
  5. ^ この説を支持している代表的な人物として、歴史学者小和田哲男や石井進が挙げられる。
  6. ^ 日本家紋研究会高澤等は秀吉の一族が用いる沢瀉紋と、秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、水野氏説のある継父竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの説を『歴史読本』に寄稿している。
  7. ^ この説を唱えている代表的な人物として、作家の八切止夫小林久三が挙げられる。歴史小説家加藤廣も、『秀吉の枷』と『空白の桶狭間』の中でこの説を採用している。
  8. ^ 『太閤記』といった秀吉の伝記では、松下加兵衛烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の名を取って中村藤吉郎と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと考えられている。
  9. ^ 『太閤記』のように、朋輩に妬まれて虐めを受ける藤吉郎を不憫に思った加兵衛が金を与えて送り出した、と書いてある史料が多い。藤吉郎が使いの金を盗んで出奔したとする俗説もあるが、いずれにせよ真偽は不明である。
  10. ^ 仕官のいきさつについては、信長に直訴した(『太閤記』)、信長に仕えていた友人の紹介(『太閤素性記』)、信長の側室吉乃の紹介(『武功夜話』)など諸説あり、真相は不明である。
  11. ^ 裏づけのあるわけではない逸話である。
  12. ^ 一夜城の逸話は人口に膾炙しているが『絵本太閤記』『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく、江戸時代の創作であるとする説が強い。
  13. ^ 従来は『信長公記』や『三河物語』に書かれているように秀吉が殿軍を率いたとされてきたが、近年は当時の序列から考えて池田勝正が率いたのではないかともされる。
  14. ^ 反対した理由の一つに秀信の母が外敵武田信玄の五女松姫(信松尼)説の存在がある(『西山家文言覚書秘伝録』)
  15. ^ 『多門院日記』にある、天正12年10月頃朝廷から将軍になるよう勧められたが断ったという記述による(『NHK歴史番組を斬る!』鈴木眞哉 P.154-155 洋泉社歴史新書 2012年)
  16. ^ これを「羽柴」から「豊臣」への改姓と誤解されることが多いが、「羽柴」は名字、「豊臣」は本姓であり、両者は性質が異なる。詳細は「豊臣氏」を参照。
  17. ^ 公卿補任』には12月19日と記載されているが、『兼見卿記』には後陽成天皇即位式当日、式に先立って任官が行われたと記されており、『公卿補任』はその事実を憚ったものと考えられている(橋本政宣『近世公家社会の研究』)。
  18. ^ 秀吉は征夷大将軍に就いて幕府を開くために足利義昭に自身を養子にするよう依頼したが断られたために関白を望むむに至ったというのは今日では事実ではないと考えられている。林羅山の『豊臣秀吉系譜』や『後鏡』にそうした記述がみられるものの、これを裏付ける史料はない。これが後に武内確斎の『絵本太閤記』に採られて通説となった。
  19. ^ 異説では、宮部継潤・前田玄以・中村一氏・堀尾吉晴(堀秀政)・山内一豊の5名。
  20. ^ 高野山に秀次が送られた理由は「不慮之御覚悟」とあるのみで内容は明記されていない。断罪した側がその口実すら記さないという状態で、その他の文書でもぼかした表現のものしか存在しない。秀次が謀反を起こしたというのは『御湯殿上日記』や『伊達文書』という一次史料ではあるものの豊臣家の外の記録が根拠とされている。史学者渡辺世祐は謀反は秀吉を陥れる口実であったとしている。渡辺 1919, pp.113-115
  21. ^ 事件後に使者となった奉行衆は加増されており、石田三成らは秀次の助命に動いたという説がある一方で、その逆に秀吉の意を汲んで秀次を亡き者にすべく謀反を捏造したという陰謀説もあり、相反する評価がある。
  22. ^ ジャン・クラッセはフランス生まれのイエズス会宣教師。秀次の逸話は実際に秀次と親しくしていたブロエー師の記述から得た話としている。
  23. ^ 日本西教史には、その後、秀次は悪行を止めたが、誓紙を交わすなどして味方を集めるなどして具体的に謀反を計画したと疑われ、最終的には謀反のかどで処罰されたという話になっている。
  24. ^ 著者のアルノルドゥス・モンタヌス(宣教師兼歴史学者)はジャン・クラッセよりもさらに7年後に生まれた人物で、およそ1世紀後に文書記録を元にしてこの本をまとめている。
  25. ^ 太田牛一が『大かうさまくんきのうち』で初めて登場。摂政関白をもじったもの。正親町上皇が崩御の後に秀次は喪に服さずに鹿狩りをしたということから「院の御所に たむけのための 狩なれば これをせつせう 関白といふ」と落首が詠まれたという逸話から来ているが、この句自体は後世の作とされ、また鹿狩りをしたのは実際には秀次ではなく秀吉であったとする説もある。太田牛一の書いたものが小瀬甫庵の『太閤記』など他のほぼ全ての出典元となっているが、秀次と最も親しかった公家山科言経の日記に符合する記述がないことなどが指摘され、後述する史家はそもそも殺生関白と当時の人々に呼ばれていたのかに疑念を呈しており、議論がある。
  26. ^ 江戸時代前期の歴史学は儒学者を中心として行われ、儒学思想に基づいた解釈が強い影響を与えた。
  27. ^ 来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』 度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』等
  28. ^ 現在、阿弥陀ヶ峰山頂には伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建っているが、この工事の時(明治30年)、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された(湯本文彦『豊太閤改葬始末』「史学雑誌17-1」1909所収)。
  29. ^ 秀吉の死の直後の8月22日に方広寺大仏境内三十三間堂を会場として大規模な千僧供養が実施されている。参会者にも知らされなかったが、これが実質的に仏式による供養(葬儀)であったと考えられる。事情を察してか前日には多くの民衆が大仏に集まったという(『義演准后日記』)。
  30. ^ a b 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
  31. ^ これと次の任官は、『公卿補任』では天正10年のこととされているが、事実ではなく秀吉の急激な昇進を辻褄合わせするために書かれたものだと考えられている(文藝春秋special 2012年夏号「信長越えから独自の武家関白へ」桐野作人)。
  32. ^ 当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例だった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。
  33. ^ 井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし(稗くらいは良く食べられますように)」という当時の貧民層に見られた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。
  34. ^ ルイス・フロイスは『日本史』において「300名の側室を抱えていた」と記録している。だが、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の桑田忠親も、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官も含めた数字とするのが自然である。また、大名から取った人質を愛人として囲っていると宣教師が誤認した可能性もある。
  35. ^ 「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉。
  36. ^ 漫画『センゴク』『シグルイ』に登場する秀吉は六指である。
  37. ^ 朝鮮の古文書『燃黎室記述』による。ただし沈惟敬が日本に来たのは慶長元年(1596年)で、秀吉が死亡したのはその3年後である。
  38. ^ 秀吉が親孝行であったことは明治時代国定教科書でも好意的に記述された。
  39. ^ 織田信長と長谷川秀一武田信玄と小姓春日源助。
  40. ^ 『信長公記』。『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。
  41. ^ 秀吉の和歌は、八条宮智仁親王によって『豊臣太閤御詠草』として編纂された。
  42. ^ 歴史学者桑田忠親は、当時の私的な書状では慣例的に当て字や仮名が使用されるのは当然で、秀吉が無教養なためではないとした。
  43. ^ 相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続たちへの備えといった理由による。
  44. ^ 『萩藩閥閲録』などによれば、毛利・小早川勢には信長・信忠・信孝が既に討たれ、謀反に加担した者は光秀の他に津田信澄・柴田勝家らがいるとの情報(誤報)が入っていた。仮に秀吉軍を追撃して破ったところで、柴田・津田らの軍勢を含めた明智勢と再度事を構えるまでの余裕はないため、追撃を諦め、正確な情報が入るまで静観するべきだという結論に至ったと考察されている(谷口克広説など)。
  45. ^ 織田信長は誠仁親王の第五王子の興意法親王を猶子としていた。
  46. ^ 豊臣政権は座の撤廃も積極的に行った。大村由己の『秀吉事記』の「座を破らる」という記述から、研究者の中には秀吉の楽座を特に「破座」と呼んで区別する者もいるが、実際にはこの記述がある1585年には秀吉はまだ前田玄以に命じて畿内の座を安堵する文書も発給していた。
  47. ^ 秀吉は織田政権下ではまだ存在していた七口の関を廃止しているが、一方で徳川家康の領地の関所は廃止された形跡がなく、江戸時代までそのまま存続していた。
  48. ^ アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言している。また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』講談社、1999年)。
  49. ^ 当時は神功皇后の三韓征伐が史実と考えられていたし、また鎌倉時代の『曽我物語』(妙本寺本)においても日本の西の果てを「鬼界・高麗・硫黄嶋」と記している。秀吉のこうした振舞いは朝鮮を惣無事令などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示している。
  50. ^ さらに南蛮つまりヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたとする説もある(佐藤信淵『宇内混同秘策』)。
  51. ^ 生誕の地には、1967年(昭和42年)に開館した豊清二公顕彰館がリニューアルされた、名古屋市秀吉清正記念館が存在する。また、名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする。
  52. ^ 大阪では秀吉に言及する時には「太閤さん」と呼ばれることも多く、住之江競艇のGIレース「太閤賞」など秀吉にちなんだ文物も多い。江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い。
  53. ^ 外苑部分は破却された。
  54. ^ 大阪と長浜はかつて秀吉が統治した町、名古屋は秀吉の生地である。

出典

  1. ^ 出身・家系の項目を参照。
  2. ^ a b c d 池上、147-149頁
  3. ^ a b 小和田哲男 『豊臣秀吉』 中公新書、1985年、44頁。ISBN 978-4121007841
  4. ^ 『前野家文書』「武功夜話
  5. ^ 小和田哲男 『豊臣秀吉』 中公新書、1985年、50-53頁。ISBN 978-4121007841
  6. ^ 田端泰子 『北政所おね』 ミネルヴァ書房、2007年、11頁。ISBN 978-4623049547
  7. ^ 竹中重門著『豊鑑』
  8. ^ 桑田忠親『太閤の手紙』31頁、天正元年十二月廿二日秀吉書状
  9. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、11頁~。
  10. ^ 堀新 「信長・秀吉の国家構想と天皇」『日本の時代史 (13) 天下統一と朝鮮侵略』 吉川弘文館、2003年、ISBN 4642008136
  11. ^ 前掲村川論文
  12. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、49-60頁。
  13. ^ 黒田基樹 「小田原城開城へ」『小田原合戦と北条氏』 吉川弘文館〈敗者の日本史 10〉、2013年1月、197-215頁。ISBN 978-4-642-06456-9
  14. ^ 渡辺 1919, pp.94-95
  15. ^ a b c 小和田哲男 『豊臣秀次 : 「殺生関白」の悲劇』 PHP新書、2002年ISBN 456962104X 
  16. ^ 徳富 1935, pp.205-208
  17. ^ 渡辺 1919, pp.95-96
  18. ^ 徳富 1935, p.215
  19. ^ 徳富 1935, pp.212-242
  20. ^ a b クラツセ 1925, pp.574-587
  21. ^ 西村真次 国立国会図書館デジタルコレクション 『安土桃山時代』 早稲田大学出版部〈国民の日本史 ; 第8編〉、1922年、pp.588-591頁http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969928/330 国立国会図書館デジタルコレクション 
  22. ^ 日本博学倶楽部編、「関白・秀次切腹事件」 『「図解」日本史未解決事件ファイル』 PHP研究所、2006年ISBN 4569656528 
  23. ^ 日本博学倶楽部編、「関白・秀次切腹事件」 『日本史未解決事件ファイル : 「聖徳太子架空人物説」から「西郷隆盛生存説」まで』 PHP研究所、2006年ISBN 4569664660 
  24. ^ 徳富 1935, pp.244-245
  25. ^ 徳富 1935, p.223
  26. ^ アルヌルヅス・モンタヌス 国立国会図書館デジタルコレクション 『モンタヌス日本誌』 丙午出版社、1925年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020052/155 国立国会図書館デジタルコレクション 
  27. ^ 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.321
  28. ^ 渡辺 1919, pp.106-108
  29. ^ 國學院大学教授。秀次の関白職への異常な固執とのその心理面について主張している。
  30. ^ 谷口, pp.263-265
  31. ^ 松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社、昭和47年、227-228頁
  32. ^ 『慶長二年二月二十一日付朱印状(立花家文書他)』
  33. ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部393項
  34. ^ 河内将芳『秀吉の大仏造立』
  35. ^ 『妙法院文書』
  36. ^ 『押小路文書』
  37. ^ 『完訳フロイス日本史5 「暴君」秀吉の野望』第34章
  38. ^ 近江坂田郡誌
  39. ^ 懲毖録
  40. ^ 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第16章
  41. ^ 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第14章
  42. ^ 藤田達生
  43. ^ ルイス・フロイス前掲
  44. ^ 前田利家の回想録『国祖遺言』
  45. ^ 『日本西教史』
  46. ^ 『駒井日記』
  47. ^ 脳神経外科医若林利光『寿命戦争 - 武将列伝 』 (かりばね書房、2009年
  48. ^ 平凡社『大百科事典』
  49. ^ 『日本史人物辞典』70頁
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  51. ^ 『家康名臣伝』255頁
  52. ^ 『賤ヶ岳合戦記』
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  54. ^ 林屋辰三郎「豊臣秀吉」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版。
  55. ^ 『松下文書』や『信長公記』
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  57. ^ 桑田忠親 『豊臣秀吉の発想力と知謀』 広済堂文庫、1990年、222頁。ISBN 4-331-65065-0
  58. ^ 矢部良明 『茶人豊臣秀吉』 角川選書、2002年、255-261頁。ISBN 978-4047033474
  59. ^ 『老人雑話』『武野燭談』『太閤夜話』
  60. ^ SAPIO2011年1月6日号
  61. ^ 言経卿記』、『豊鑑』
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  75. ^ 故従一位豊臣秀吉贈位ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A11112488700 
  76. ^ 鄭潔西「秀吉の中国人説について
  77. ^ 高野山戦国大名の墓







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