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とよとみ-ひでよし 【豊臣秀吉】



防府歴史用語辞典

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豊臣秀吉 (とよとみひでよし)

織田信長おだのぶなが]の家臣[かしん]で、信長死後全国を治めた武将です。信長家臣時代は「羽柴[はしば]」姓を名乗っていましたが、1586年太政大臣だじょうだいじん]になったときに、「豊臣」姓をもらいました。全国支配したほか、朝鮮半島にも出兵しています。また、太閤検地たいこうけんち]や刀狩かたながり]、バテレン追放令なども行いました。



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豊臣秀吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/29 01:08 UTC 版)

豐臣 秀吉(とよとみ の ひでよし / とよとみ ひでよし[3])/ 羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将天下人関白太閤三英傑の一人。




  1. ^ 生年は天文5年1月1日1536年2月2日)とも伝わる。
  2. ^ 『江源武鑑』によると六角義秀の偏諱で元吉から秀吉に改めたとあるが、『江源武鑑』は偽書とするのが一般的であり信憑性は薄い。
  3. ^ 読み方については「豊臣氏」の項を参照。
  4. ^ 百科事典『マイペディア』「豊臣秀吉」の項を参照。
  5. ^ 『太閤素性記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて種子島鉄砲が伝わったのが1543年8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている。
  6. ^ 出身・家系の項目を参照。
  7. ^ a b c d 池上、147-149p
  8. ^ a b 小和田哲男 『豊臣秀吉』 中公新書、1985年、44頁。ISBN 978-4121007841
  9. ^ 『前野家文書』「武功夜話」
  10. ^ 小和田哲男 『豊臣秀吉』 中公新書、1985年、50~53頁。ISBN 978-4121007841
  11. ^ 一説に秀吉自身は仕官以前の放浪時代に針の行商人であったという。
  12. ^ この説を支持している代表的な人物として、歴史学者小和田哲男や石井進が挙げられる。
  13. ^ 日本家紋研究会高澤等は秀吉の一族が用いる沢瀉紋と、秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、水野氏説のある継父竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの説を『歴史読本』に寄稿している。
  14. ^ この説を唱えている代表的な人物として、作家の八切止夫小林久三が挙げられる。歴史小説家加藤廣も、『秀吉の枷』と『空白の桶狭間』の中でこの説を採用している。
  15. ^ 『太閤記』といった秀吉の伝記では、松下加兵衛が烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の名を取って中村藤吉郎と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと考えられている。
  16. ^ 『太閤記』のように、朋輩に妬まれて虐めを受ける藤吉郎を不憫に思った加兵衛が金を与えて送り出した、と書いてある史料が多い。藤吉郎が使いの金を盗んで出奔したとする俗説もあるが、いずれにせよ真偽は不明である。
  17. ^ 仕官のいきさつについては、信長に直訴した(『太閤記』)、信長に仕えていた友人の紹介(『太閤素性記』)、信長の側室吉乃の紹介(『武功夜話』)など諸説あり、真相は不明である。
  18. ^ この辺りは史実の裏づけがあるわけではなく、俗説・伝説の域を出ない。
  19. ^ 容姿の項目を参照。
  20. ^ 田端泰子 『北政所おね』 ミネルヴァ書房、2007年、11頁。ISBN 978-4623049547
  21. ^ 一夜城の逸話は人口に膾炙しているが『絵本太閤記』『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく、江戸時代の創作であるとする説が強い。
  22. ^ 従来は『信長公記』や『三河物語』に書かれているように秀吉が殿軍を率いたとされてきたが、近年は当時の序列から考えて池田勝正が率いたのではないかともされる。
  23. ^ 桑田忠親『太閤の手紙』31頁、天正元年十二月廿二日秀吉書状
  24. ^ 武力のみによる統一政策が困難となったため、大義名分を朝廷に求め始めたものともみられている。池上、139-140p
  25. ^ 堀新 「信長・秀吉の国家構想と天皇」『日本の時代史 (13) 天下統一と朝鮮侵略』 吉川弘文館、2003年、ISBN 4642008136
  26. ^ これを「羽柴」から「豊臣」への改姓と誤解されることが多いが、「羽柴」は名字、「豊臣」は本姓であり、両者は性質が異なる。詳細は「豊臣氏」を参照。
  27. ^公卿補任』には12月19日と記載されているが、『兼見卿記』に後陽成天皇即位式当日に式に先立って任命が行われたとされており、『公卿補任』はその事実を憚ったとされている(橋本政宣『近世公家社会の研究』)。
  28. ^ 林羅山の『豊臣秀吉系譜』『後鏡』の記述が根拠とされる。後に竹内確斎の『絵本太閤記』にも採用され、通説となった。
  29. ^ 松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社、昭和47年、227-8頁
  30. ^ 『慶長二年二月二十一日付朱印状(立花家文書他)』
  31. ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部393項
  32. ^ 来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』 度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』等
  33. ^ 『関ヶ原から大坂の陣へ』19頁
  34. ^ 『関ヶ原から大坂の陣へ』20頁
  35. ^ a b 『関ヶ原から大坂の陣へ』21頁
  36. ^ a b c 『関ヶ原から大坂の陣へ』23頁
  37. ^ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』付録
  38. ^ 『関ヶ原から大坂の陣へ』22頁
  39. ^ 『関ヶ原から大坂の陣へ』26頁
  40. ^ a b 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
  41. ^ 当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例であった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。
  42. ^ 井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし(稗くらいは良く食べられますように)」という当時の貧民層に見られた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。
  43. ^ ルイス・フロイスは『日本史』において「300名の側室を抱えていた」と記録している。その反面、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の桑田忠親も、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官も含めた数字であろう。
  44. ^ 『完訳フロイス日本史5 「暴君」秀吉の野望』第34章
  45. ^ 近江坂田郡誌に記載
  46. ^懲毖録
  47. ^ 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第16章
  48. ^ 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第14章
  49. ^ 「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉
  50. ^ 藤田達生
  51. ^ ルイス・フロイス前掲
  52. ^ 前田利家の回想録『国祖遺言』による
  53. ^ 漫画『センゴク』『シグルイ』に登場する秀吉は六指である。
  54. ^ 『日本西教史』より
  55. ^ 朝鮮の古文書『燃黎室記述』による。ただし沈惟敬が日本に来たのは慶長元年(1596年)で、秀吉が死亡したのはその3年後である。
  56. ^ 『駒井日記』
  57. ^ 脳神経外科医若林利光『寿命戦争 - 武将列伝 』 (かりばね書房、2009年
  58. ^ 『賤ヶ岳合戦記』
  59. ^ 「伝源頼朝坐像」(重要文化財)、現在は東京国立博物館所蔵。「e国宝」に画像と解説あり
  60. ^ 『松下文書』や『信長公記』
  61. ^ 天正5年12月 5日の羽柴秀吉書状より
  62. ^ 秀吉が親孝行であったことは明治時代国定教科書でも好意的に記述された。
  63. ^ 織田信長と長谷川秀一武田信玄
  64. ^ 『信長公記』。『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。
  65. ^ 桑田忠親 『豊臣秀吉の発想力と知謀』 広済堂文庫、1990年、222頁。ISBN 4-331-65065-0
  66. ^ 秀吉の和歌は、八条宮智仁親王によって『豊臣太閤御詠草』として編纂された
  67. ^ 矢部良明 『茶人豊臣秀吉』 角川選書、2002年、255~261頁。ISBN 978-4047033474
  68. ^ 『老人雑話』『武野燭談』『太閤夜話』には「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話がある。また秀吉の書簡には、誤字や当て字、仮名が多用されている。歴史学者桑田忠親は当時の私的な書状では慣例的に当て字や仮名が使用されるのは当然で、秀吉が無教養なためではないとした。
  69. ^ 相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続たちへの備えといった理由による
  70. ^言経卿記』、『豊鑑』
  71. ^ 『常山記談』
  72. ^ 徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている。『天正記』(惟任謀叛記)
  73. ^ 『萩藩閥閲録』などによれば、毛利・小早川勢には信長・信忠・信孝が既に討たれ、謀反に加担した者は光秀の他に津田信澄・柴田勝家らがいるとの情報(誤報)が入っていた。仮に秀吉軍を追撃して破ったところで、柴田・津田らの軍勢を含めた明智勢と再度事を構えるまでの余裕はないため、追撃を諦め、正確な情報が入るまで静観するべきだという結論に至ったと考察されている(谷口克広説など)。
  74. ^ 井沢元彦『逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎』より。
  75. ^ 織田信長は誠仁親王の第五王子の興意法親王を猶子としていた
  76. ^ 織田政権下ではまだ存在していた七口の関を廃止し、また座の撤廃も積極的に行った。ただし秀吉も政権運営当初は、前田玄以に命じて畿内の座を安堵する文書を発給している。豊臣政権が本格的に座の撤廃に動き出すのは、本能寺の変から数年後のことであった。研究者の中には秀吉の楽座を特に「破座」と呼んで区別する者も居る。
  77. ^ 脇田修 『秀吉の経済感覚 経済を武器とした天下人』 中公新書、1991年、112~123頁。ISBN 978-4121010155脇田修佐々木潤之介は「信長までは中世であり、秀吉から近世が始まる」と分類している。
  78. ^ アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言している。また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』講談社、1999年)。
  79. ^ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』付録
  80. ^ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』第34章
  81. ^ a b 清水紘一「博多基地化構想をめぐって -天正禁教令との関連を中心として-」(藤野保先生還暦記念会編 『近世日本の政治と外交』 雄山閣、1993年、ISBN 4639011954
  82. ^ 本願寺文書による
  83. ^ 当時は神功皇后の三韓征伐が史実と考えられていたし、また鎌倉時代の『曾我物語』(妙本寺本)においても日本の西の果てを「鬼界・高麗・硫黄嶋」と記している。秀吉のこうした振舞いは朝鮮を惣無事令などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示している。
  84. ^ 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁
  85. ^ さらに南蛮つまりヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたとする説もある(佐藤信淵『宇内混同秘策』)。
  86. ^ 秀吉側近の山中長俊の書状「組屋文書」による(『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁)
  87. ^ 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、16頁
  88. ^ 記念館がある。また、名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする。
  89. ^ 江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い。
  90. ^ 外苑部分は破却された。
  91. ^ 大阪と長浜はかつて秀吉が統治した町、名古屋は秀吉の生地である。
  92. ^ 高野山戦国大名の墓






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