織豊時代とは? わかりやすく解説

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しょくほう‐じだい【織豊時代】

読み方:しょくほうじだい

織田信長豊臣秀吉の時代近世初頭にあたり江戸時代に続く。→安土桃山時代


安土桃山時代

(織豊時代 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/17 13:33 UTC 版)

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。




「安土桃山時代」の続きの解説一覧

織豊時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 00:50 UTC 版)

京極氏」の記事における「織豊時代」の解説

高広の子である京極高成(たかなり)は御供衆として足利義昭近習となった再興され京都室町幕府備後国鞆に移されると、将軍家従い鞆に移る。毛利輝元客将として働いた。やがて将軍家関白豊臣秀吉の命により畿内に戻ると、それに従って戻り最後まで義昭仕えたまた、高成の息子義昭の1字を受けて京極昭成(あきなり)と名乗っている。義昭没後は、高成・昭成父子共に小早川家(隆景(毛利輝元叔父)・秀秋(秀詮))に仕えたが、江戸時代初期に秀詮が嗣子なくして没したために小早川家改易されると流遇した。 高吉の子である高次初め織田信長仕えるが、天正10年1582年)に本能寺の変信長明智光秀討たれる光秀属し山崎の戦い光秀討った羽柴秀吉豊臣秀吉)からの追及を受ける。しかし、姉妹竜子秀吉側室となったことから許され天正12年1584年)に近江高島郡の2,500石を与えられるその後加増重ね天正14年1586年)には高島郡5,000石、翌年九州征伐の功により近江大溝城1万石で大名となり、天正18年1590年)の小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石、文禄4年1595年)にはさらなる武功により近江大津城6万石へと封じられる一方、弟である高知当初から秀吉仕え天正19年1591年)に近江蒲生郡5千石文禄2年1593年)に信濃国伊那郡6万石翌年には10万石に加増される。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは初め西軍属するが、途中から東軍へと寝返り大津城に篭もる(徳川家康との密約があったとされている)。そして、攻め寄せた西軍大軍1万5,000相手激し篭城戦行い、ついに攻め手関ヶ原へと向かわせなかった(大津城の戦い)。この功により高次戦後家康から若狭一国与えられ若狭後瀬山城85,000石へと加増される。翌年高島郡7,100石も加増され9万2,000石を領有小浜藩成立繋がった秀吉死後は兄の与力大名となっていた弟の高知も兄の家老と共に家康従い東北出兵して関ヶ原の戦いにおいても最前線で功を挙げ丹後1国を与えられ国持大名となり丹後守称すことを許され丹後宮津城123,000石を領有宮津藩成立繋がった

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織豊時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:36 UTC 版)

有子山城」の記事における「織豊時代」の解説

以後羽柴長秀青木秀以前野長康小出吉政城主となる。関ヶ原の戦い後慶長9年1604年)、小出吉英山麓の館および郭のみを出石城として建築し山頂部分の有子山城廃城にしたと幕府届け出た[要出典]。

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織豊時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 23:11 UTC 版)

里見義康」の記事における「織豊時代」の解説

天正元年1573年)、安房国大名里見義頼長男として誕生幼名千寿丸。 天正15年1587年)、父・義頼の死により15歳家督相続して、左馬頭左衛門督等の官途称した天正16年1588年11月に父に引き続いて増田長盛取次のもとで豊臣秀吉音信通じ安房国上総国両国および下総国一部安堵された。 天正18年1590年)の小田原征伐秀吉怒り触れた結果上総下総所領没収され安房4万石差出検地による石高)に減封された。原因について従来遅参とされていた。しかし、近年では里見氏庇護していた小弓公方足利義明遺児頼淳を擁して北条氏によって奪われ旧領回復好機とし、三浦渡海進軍し鎌倉公方家再興標榜し独自の禁制発したことが、私戦禁じた惣無事令違反問われたと考えられている。なお、この件を仲介したのが徳川家康であり、これ以降里見氏徳川氏接近する徳川家康は義康に里見家徳川家新田氏を祖とする同族であり親戚だと思っているといった内容「殊一性之儀二候間」の起請文送っているが、この古文書滝川恒昭により偽文書可能性指摘されている。 その後上洛し、従四位下に叙せられ、侍従安房守に任ぜられた。また織田信長の姪を夫人とした。 天正19年1591年6月から11月までの間にかけて、岡本城から館山城移転をする。 天正19年1591年9月増田長盛安房国検地行った。これは本格的な太閤検地ではなく知行者より書き出させる差出検地であった文禄元年1592年)の文禄の役では、家康随行して渡海はせずに肥前名護屋城滞陣した。 慶長2年1597年)、増田長盛により安房国において初め石高制による本格的な太閤検地が行われた。これにより新たな知行割が行われ、石高制による知行制度が成立した石高は91千石高直しされる近世的な「」を確定し石高制確立して大名里見氏権力基盤形成したといえる

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織豊時代

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小川祐忠」の記事における「織豊時代」の解説

元亀元年1570年)、6月姉川の戦い後、9月本願寺11世法主・顕如は、三好三人衆浅井・朝倉らと同盟して各地一向宗門徒飛ばし織田信長対す徹底抗戦宣言した近江一向一揆衆は金森御坊中心に蜂起し浅井勢の一つである祐忠もこれに加わった信長この年志賀の陣などあって南近江鎮圧ができなかったが、翌元亀2年1571年)に磯野員昌佐和山城譲り渡す形で投降し近江口が開けたので、9月1日佐久間信盛中川重政柴田勝家丹羽長秀率い軍勢志村城新村城)に差し向けて攻略し670もの首級取った。(神崎郡の)小川城立て篭もっていた祐忠はこれを見て人質7人を差し出して降伏することにし、勝家伴われ佐和山信長拝謁し赦免され所領安堵された。 「石山合戦」も参照 天正元年1573年)、槇島攻め従軍天正7年1579年)、安土城築城に際して堀田左内、青山助一とともに奉行命じられている。また、この頃から信長茶会免許されており、祐忠は後年茶人としても名が知られていたことが『太田牛一雑記』にある。 天正9年1581年)と翌年2年連続で、正月左義長北方東一番の近江衆(平野久・多常則後藤高治蒲生氏郷京極高次山崎賢家山岡景宗小川祐忠)として爆竹携えて出場した天正10年1582年)、本能寺の変により織田信長横死すると、近江国制圧した明智光秀傘下入って山崎の戦いにも出陣した敗北。他の近江同様に羽柴秀吉降伏した清洲会議では、北近江柴田勝家領土となったので以後はその傘下となり、勝家養子柴田勝豊家老として仕えた。しかし天正11年1583年)の賤ヶ岳の戦い前に長浜城包囲され勝豊大谷吉継調略受け入れて秀吉寝返ったために、結果的に羽柴側となり、勝豊はいくさが始まる前に病死したので、その死後秀吉直臣となって本戦では柴田勢と戦った天正12年1584年)、小牧・長久手の戦いには兵250率いて参陣。羽柴秀次中入りにも中軍一隊の将として加わった国替えとなり、大和国郡山辺りで3万石扶持与えられたというが、時期はっきりしない天正18年1590年)の小田原征伐にも参陣して武功立て従五位下土佐守叙任された。 文禄元年1592年)の文禄の役では、留守番衆の1人として肥前名護屋城に在陣したが、同2年1593年)に朝鮮渡海して、5月金海巻き退却の意味)で、伊達政宗と共に浅野長政救援する功を立てたこの後帰国して伏見城普請参加この頃石高を『当代記』では1万2,000石とする。

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織豊時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 21:20 UTC 版)

富山県」の記事における「織豊時代」の解説

1578年天正6年4月7日 - 織田信長配下佐々長龝命じて神保長住を打具し越中入らせる。『信長公記』(巻十一天正六年戊寅四月七日条)曰く、「越中神保殿二条御新造へ被召寄、此比御対面御座子細二位法印佐々左衛門を以て被仰出黄金百枚並志々良百端被参、輝虎被相果付て飛驒国司へ被仰出佐々左衛門相添、越中入国候也」。 10月4日 - 同年9月24日より信長の命によって越中征討行い、津毛城を落した齋藤利治が、越中月岡野において上杉の手勢を破る(月岡野の戦い)。『信長公記』(巻十一曰く、「九月二十四日齋藤新五越中被仰付出陣國中大田保之内つけの城、御敵椎名小四郎河田豊前守人数入置候。尾張両国御人数打向之由承及聞落に致退散則つけの城へ神保越中人入置齋藤新五三里打出陣取候て在々所々へ相働」、また曰く、「十月四日齋藤新五越中国中太田保之内本郷に陣取御敵河田豊前守椎名小四郎今和泉籠候。城下放火候て未明より被罷退之処に人数を付候。齋藤新五節所へ引かけ月岡野と云所にて人数立合、既及一戦追崩頸かす三百六十取り、此競を不休懸まはり所々人質執固神保越中所へ相渡帰陣候也」。 1579年天正7年)閏3月 - 織田信長により佐々成政越中に封ぜられ富山城に入る。『三州志』曰く、「七年己卯佐内助成越中一国ヲ賜リ富山城ヘ徒ル」。 1580年天正8年4月15日 - 本願寺顕如勝興寺及びその門徒信長和睦した旨を通達する。 秋 - この頃大雨あり。国内河川洪水して、神通川旧来の福山麓の河流改め富山城東を流れるようになり、常願寺川大い出水して富山城下を浸し家屋流出数知れず佐々成政、これを憂い治水尽力し築堤、また洪水によって新たに生れ支川鼬川名付け周辺開墾して禾穀植えて田地となす。この時、築かれた堤を「佐々堤」と称し、常西用水川底にのぞく天端部にその痕跡を見ることができるという。 11月 - 佐々成政神通川渡船場制度定め過当な運賃禁じ、また過載戒む1581年天正9年3月24日 - 越中松倉城據る河田長親小井手城囲み信長方の佐々成政及び神保長住等はこれが救援のため出兵したので、上杉景勝はその兵を撤せしめる。『信長公記』(巻十四曰く、「三月六日神保越中佐々内蔵助国衆上国候、加賀越前越中三ヶ国之大名今度御馬揃に各在京也。今之透に人数を可出之行に而名誉之ごうの刀作たる松倉と云所に御敵河田豊前守調略越後より長尾喜平次を呼越、大将として催一揆佐々内蔵助政人数入置候小井手之城、三月九日に取詰候」。また曰く、「三月廿四日佐々内蔵神通川六渡寺打越中郡内中田と云所へ被懸付候処上方御人数参陣之由承及。三月廿四日卯尅、御敵長尾喜平次、河田豊前致陣払、小井手表引払火之手を間三里程に見懸。常願寺川小井手川打越人数被付候へども、早諸手引取候間、不及是非併籠城運を開」。 4月 - 『雲龍山勝興寺系譜』によると、この頃勝興寺顕幸留守中を期した石黒成綱夜討ち遭い焼亡したという。 5月24日 - 『信長公記』によると松倉城據る河田長親病死しといわれる曰く、「五月廿四日越中国松倉と申所に籠候、御敵河田豊前守病死仕候」。 1582年(天正10年2月9日 - この日より信長軍兵越中入り上杉景勝方の須賀盛能・秋山定綱はこれを警戒して報告せしにより、景勝援軍送りこれを援助させる。 3月11日 - 信長であった小島職鎮唐人親広景勝内通し協働して富山城占拠するが、柴田勝家佐々成政前田利家の兵によってこれを奪還される。また信長方は進んで魚津松倉両城を囲む(魚津城の戦い)。『信長公記曰く、「去程越中国富山之城に、神保越中守居城然而今度信長御父信州表に至而御動座候之処、武田四郎節所を拘、遂一戦悉討果候之間、此競に越中国一揆蜂起其国存分に申付候へと有〳〵と越中へ偽申遣候事実心得小野六郎左衛門、加老戸式部両人一揆大将に罷成、神保越中城内押籠三月十一日、富山之城居取に仕近辺に挙煙候不移時、柴田修理亮佐々内蔵介、前田又左衛門佐久間番頭此等之衆として富山一揆取巻候間落去不可幾程之旨注進被申上候」。 5月23日 - 景勝魚津松倉両城危殆聞き、これが救援のため天神山城布陣し信長方と黒部に戦う。時に滝川一益上野国から、森長可信濃国から越後侵入するあり、よって同年同月27日景勝越後撤退する。『三州志』曰く、「二十三日瀧川一益三国嶺ニ到リ一大田切ヨリ芋川城ヲ陥シ越後二本木ニ入リ春日山ヲ襲ハント甲兵ヲ進ムル注進アリ景勝越中ニ在リ之ヲ聞テ驚キ二十七日越後ヘ却ソク」。 6月2日 - 景勝撤退乗じて柴田勝家佐々成政前田利家等が攻城開始し、この日遂に魚津落城する。『三州志』曰く、「勝家等此機ニ乗シテ火急松倉ヲ攻ム魚津城河田豊前吉江織部ハ固ク之ヲ守リ容易ニ抜クヘカラサルヲ知リテ詭計ヲ以テ柴田専齋佐佐新右衛門二人ヲ質トシ城ヲ挙ケテ開領セハ講和ヲ為ント城将ヘ言送ル河田等吾ヲ欺ムカストオモヒ即チ諾シ成政ヲ内城ニ延キ河田吉江ハ外羅城ニ出ツ即城ノ内ヨリ河田芳江ヲ挟撃ス二将曁ヒ中條越前寺島六蔵血戦撃力ヲ窮テ斃レ城遂ニ陥ツ実ニ六月二日平旦也(中略松倉守兵城上ニ旌羅列シ守禦ノ形勢ヲ伴リナシテ夜越後ヘ走ル織田方ノ諸将之ヲ知ラス妄リニ近ツカズト云フ我公然ラストシ単騎ニテ城下ニ到テ見量ヒ給フニシテ空城也因テ斯城弓箭ノ費ナクシテ城ヲ得タリ」。但し、『北越太平記』はこの誘殺のことを載せず、矢尽きなくして城中に皆自害したといい、「諸大将いつれも評定し寄手降参を乞、城を渡し、引除ん事、永き弓箭の瑕なり。たとへ主君の命なりとも難レ受所なりと、衆議一同に決しけり。城内掃除下二三の内に沙汰し六月二日隙明しかは中城越前の守景資、川田豊前守長親、石口采女正實秀、山本寺庄孝長、吉江四郎俊長、安部右衛門の尉仲盛、竹の股参河の守朝綱大将物頭十三人広間に居並候て、切腹用意て候中略寄手の輩、城落て乗入十三人自害有様見て柴田勝家佐々成政前田利家下舌を振誉ぬ者もなし。皆感涙を流す。是即六月二日未明なり。此日京都本能寺にて信長御生害なり。五六日こらへ候はゞ、運を可レ開者と皆残念に思ける」と伝える. 6月8日 - 柴田勝家等再び兵を率いて越中進撃するも、本能寺の変の報至って軍を返す景勝、これを受けて属将色部長実越中への出馬命ずる。 6月24日 - 須田満親松倉城入って景勝出兵請う6月27日 - 有沢図書助、弓庄城に據る土肥政繁説諭してこれを景勝方に属せしめる1583年天正11年2月8日 - 土肥政繁、成政の属城安城下を放火し、また太田新城攻撃する4月5日 - この日より土肥政繁、弓庄城において佐々成政の手勢に包囲される。政繁は奮戦よくこれを守るも、同年4月28日羽柴秀吉が成政に景勝和すべきの由を通達し、よって成政景勝媾和運びとなる。故に政繁は妻子郎党率いて越後移り景勝庇護の下に入る。 1584年天正12年8月28日 - この日より徳川家康織田信雄秀吉対抗した小牧・長久手の戦い呼応して佐々成政挙兵し先ず前田利家支配下加賀朝日山襲撃するされども同年9月11日末森城の戦い敗北して倶利伽羅方面退却し兵を越中収める9月18日 - 上杉景勝が、秀吉方の前田利家提携し須田満親命じて宮崎城攻めさせ、激戦六日に渉った後に開城させる。 11月8日 - 阿尾城菊池武勝前田利家降伏し開城する。 11月25日 - 徳川家康織田信雄羽柴秀吉和せるを愁い佐々成政越中出発して遠江浜松城家康を訪わんがため、厳寒立山連峰越える。いわゆるさらさら越え」というは、このことである。『太閤記』(巻八)曰く、「天正十二霜月下旬深雪をもいとはす、さら〳〵こえとて嶮難無雙山路に行迷ひぬ、是ハ何の地をさして思召立給ふそやと、従ひし士共問いしかは、遠州へこえ行、家康相看申(中略になつまぬわかきはらを百人はかりめしつれ、大山之嶺わきに攀上り、南をみれハ山下に里有とおほしくて折くぶる煙たへ〳〵也、いさ煙を心あてに下りみむと、かんじきと云ものに乗ておとしけれハ、真忠の心さしを天感し給ふにや、思ひの外やす〳〵と麓の里に着にけり民のかまど立入ん事のうれしさに、あんなひをもせす入しかハ、老たる樵夫膽を消し、是ハ変化の物そかし、今此雪中人間のわさにハあらしと不審しあへりぬ(中略雪中労苦忘れつゝ、十二月四日遠州浜之城に至り家康卿へ対面し羽柴筑前守秀吉を討亡し、信雄卿被達ニ御本意一候様に議し翌朝打立清洲之城に至て御礼申上、これかれ評議尽し、則令ニ請暇一又深雪山路をたどり〳〵、越中立帰りにけり」。 1585年天正13年4月8日 - 成政、加賀国鳥越城攻撃する反撃遭って撤退する5月 - 成政の手勢なる佐々平左衛門今石動城襲撃する前田秀継等によって撃退される8月8日 - 秀吉佐々成政征討のため京師発する8月26日 - 秀吉越中至り富山城逼迫するに及び、成政衆寡敵せずとて剃髪し織田信雄仲介して秀吉に降を請う富山の役)。一連の越中平定の功により、秀吉礪波郡射水郡婦負郡の三郡を前田利家与え、成政の所領越中においては新川郡のみとなり、また妻子共々大坂蟄居を命ぜらる。また富山城破却される。射水郡太閤山地名残るは、この時、秀吉一夜宿陣した故事によるという。ここにおいて成政、〽何事もかはり果たる世の中に知らでや白く降るらんと歌を詠じた伝えられる11月29日 - 天正地震起って越中国内においても被害あり。この地震によって礪波郡木舟城崩壊し前田秀継及びその妻が圧死する1587年天正15年5月30日 - 秀吉佐々成政をして肥後国へ封ぜしめ、爾後隈本城據ってその地を治める。よって当面新川郡前田利家領分となる。 1595年文禄4年)秋 - 利家、秀吉召喚によって登城し割腹せし豊臣秀次の館と新川郡賜り、また豊臣秀頼守護依頼される。『三州志』曰く、「今秋越中新川一郡曁ヒ秀次君ノ遺館ヲ豊主ヨリ国祖ヘ賜ハリ秀頼君ノ守護ヲ頼マセラル」。 この年越中国においても太閤検地あり、383百石であったという。 1597年慶長2年10月 - 前田利長居城たる越中守山城風威猛烈であるため富山城遷る1598年慶長3年4月20日 - 前田利家致仕を利長に告げて家督譲り氷見一帯をその養老領とする。 1600年慶長5年) - 前田利長より土方雄久新川郡布市以南1万石を分与する布市藩)。

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織豊時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 13:55 UTC 版)

毛利高政」の記事における「織豊時代」の解説

永禄2年1559年)、尾張国苅安賀で、森高次九郎左衛門)の次男として生まれた高次高政らの森一族は、宇多源氏佐々木支流近江国愛知郡鯰江庄を本貫地として、もとは鯰江姓を称していたが、高次長兄・定春の代で尾張海東郡森村在所移して藤原姓森氏称したのが始まりと、『寛政重脩諸家譜』等の諸系図説明されている。ただし、異説不明な点もあり、この一族出自について確かなことは分からない。 父の高次織田信長家臣であったが、蜂須賀正勝羽柴秀吉仕えたことから、蜂須賀氏寄子であった森氏からも、高政天正5年1577年)頃より秀吉近習として出仕した天正6年1578年)、秀吉気に入られ播磨明石郡ノ郷で3,000石(一説に6,000石)が宛がわれた。以後高政羽柴氏直参として譜代衆の1人となる。 天正10年1582年)、本能寺の変信長横死すると、秀吉主君の仇を討つべく中国大返し計画するが、このときの毛利氏停戦人質交換際し羽柴陣営から送り出されたのが重政高政兄弟で、これを引き取ったのが毛利家臣の宍戸某宍戸元続か)だった。この人としての滞在中に高政毛利輝元気に入られて、「苗字唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは名字まいらせて、和君等と永く兄弟契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にはある。人質から戻ると、備中高松城在番した。 後年古文書記録によれば文禄元年前後)、この縁で、毛利氏秀吉臣下となったのち、輝元より改姓申し出があり、秀吉許し得て高政一族大江姓の「毛利氏」を名乗るようになった天正11年1583年)、賤ヶ岳の戦い従軍して負傷同年から始まる大坂城普請にも参加した。同14年1586年)の方広寺建立の際には石材運搬奉行務めており、この年キリスト教洗礼受けた天正15年1587年)、九州平定では舟奉行旧領改めて、豊後国日田郡玖珠郡の2郡内2万石を与えられ日隈城(隈城)主とされた。これを改修して、五階の天守三階などを増築している。またこの時、弟・吉安に2千石分知している。 同16年従五位下民部大輔叙任された。 天正17年1589年)、山城国検地奉行石川貞通とともに務めた。同18年1590年)、兵600率いて小田原征伐に参陣。戦後行われた後陽成天皇聚楽第行幸の際にも、秀吉陪従した。 天正19年1591年)、朝鮮出兵備えとして対馬に陣城普請命じられ清水山城撃方山城・向ノ平砦を築いた文禄元年1592年)、文禄の役が始まると兄の重政(弟の吉安と共に舟奉行務めて渡海。『日本外史』によると、江原道助防将元豪が蜂須賀家政亀尾浦で破った後、さらに春川高政攻撃したが、高政伏兵でこれを破って元豪を生け捕るという武勲立てたその後高政帰国している。 文禄2年1593年)の大友義統改易伴って、同4年1595年9月豊後国日田・玖珠2郡の所領朱印状受けた併せて郡内蔵入地預けられ代官兼務し実質的な加増となったこの頃高政角牟礼城改修をしている。 慶長2年1597年)、慶長の役では軍目付任命されて再征。南原城攻略蔚山城救援軍功挙げた鳴梁海戦では戦闘中に船から落下して溺死しかけ、味方救われ危うく一命取りとめたと「藤堂家記」に記されている。

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