安土桃山時代
織豊時代
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高広の子である京極高成(たかなり)は御供衆として足利義昭の近習となった。再興された京都の室町幕府が備後国鞆に移されると、将軍家に従い鞆に移る。毛利輝元の客将として働いた。やがて将軍家が関白・豊臣秀吉の命により畿内に戻ると、それに従って戻り最後まで義昭に仕えた。また、高成の息子は義昭の1字を受けて京極昭成(あきなり)と名乗っている。義昭没後は、高成・昭成父子共に小早川家(隆景(毛利輝元の叔父)・秀秋(秀詮))に仕えたが、江戸時代初期に秀詮が嗣子なくして没したために小早川家が改易されると流遇した。 高吉の子である高次は初め織田信長に仕えるが、天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると光秀に属し、山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)からの追及を受ける。しかし、姉妹の竜子が秀吉の側室となったことから許され、天正12年(1584年)に近江高島郡の2,500石を与えられる。その後は加増を重ね、天正14年(1586年)には高島郡5,000石、翌年の九州征伐の功により近江大溝城1万石で大名となり、天正18年(1590年)の小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石、文禄4年(1595年)にはさらなる武功により近江大津城6万石へと封じられる。一方、弟である高知は当初から秀吉に仕え、天正19年(1591年)に近江蒲生郡5千石、文禄2年(1593年)に信濃国伊那郡6万石、翌年には10万石に加増される。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは初め西軍に属するが、途中から東軍へと寝返り、大津城に篭もる(徳川家康との密約があったとされている)。そして、攻め寄せた西軍の大軍勢1万5,000を相手に激しい篭城戦を行い、ついに攻め手を関ヶ原へと向かわせなかった(大津城の戦い)。この功により高次は戦後家康から若狭一国を与えられ、若狭後瀬山城8万5,000石へと加増される。翌年に高島郡7,100石も加増され9万2,000石を領有、小浜藩の成立に繋がった。秀吉の死後は兄の与力大名となっていた弟の高知も兄の家老と共に家康に従い、東北に出兵して関ヶ原の戦いにおいても最前線で功を挙げ、丹後1国を与えられ国持大名となり丹後守を称すことを許され、丹後宮津城12万3,000石を領有、宮津藩の成立に繋がった。
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織豊時代
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以後、羽柴長秀、青木秀以、前野長康、小出吉政が城主となる。関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)、小出吉英が山麓の館および郭のみを出石城として建築し、山頂部分の有子山城を廃城にしたと幕府に届け出た[要出典]。
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織豊時代
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天正元年(1573年)、安房国の大名・里見義頼の長男として誕生。幼名は千寿丸。 天正15年(1587年)、父・義頼の死により15歳で家督を相続して、左馬頭、左衛門督等の官途を称した。天正16年(1588年)11月に父に引き続いて、増田長盛の取次のもとで豊臣秀吉に音信を通じ、安房国・上総国両国および下総国の一部を安堵された。 天正18年(1590年)の小田原征伐で秀吉の怒りに触れた結果、上総・下総の所領を没収され、安房4万石(差出検地による石高)に減封された。原因については従来は遅参とされていた。しかし、近年では里見氏が庇護していた小弓公方・足利義明の遺児頼淳を擁して、北条氏によって奪われた旧領回復の好機とし、三浦へ渡海進軍し、鎌倉公方家再興を標榜し独自の禁制を発したことが、私戦を禁じた惣無事令違反に問われたと考えられている。なお、この件を仲介したのが徳川家康であり、これ以降、里見氏は徳川氏に接近する。徳川家康は義康に里見家と徳川家は新田氏を祖とする同族であり親戚だと思っているといった内容「殊一性之儀二候間」の起請文を送っているが、この古文書は滝川恒昭により偽文書の可能性が指摘されている。 その後に上洛し、従四位下に叙せられ、侍従、安房守に任ぜられた。また織田信長の姪を夫人とした。 天正19年(1591年)6月から11月までの間にかけて、岡本城から館山城へ移転をする。 天正19年(1591年)9月、増田長盛が安房国で検地を行った。これは本格的な太閤検地ではなく、村や知行者より書き出させる差出検地であった。 文禄元年(1592年)の文禄の役では、家康に随行して渡海はせずに肥前名護屋城に滞陣した。 慶長2年(1597年)、増田長盛により安房国において初めて石高制による本格的な太閤検地が行われた。これにより新たな知行割が行われ、石高制による知行制度が成立した。石高は9万1千石に高直しされる。近世的な「村」を確定し、石高制を確立して、大名里見氏の権力基盤を形成したといえる。
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織豊時代
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元亀元年(1570年)、6月の姉川の戦い後、9月に本願寺11世法主・顕如は、三好三人衆・浅井・朝倉らと同盟して、各地の一向宗門徒に檄を飛ばし、織田信長に対する徹底抗戦を宣言した。近江の一向一揆衆は金森御坊を中心に蜂起し、浅井勢の一つである祐忠もこれに加わった。信長はこの年は志賀の陣などあって南近江の鎮圧ができなかったが、翌元亀2年(1571年)に磯野員昌が佐和山城を譲り渡す形で投降して近江口が開けたので、9月1日、佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀が率いる軍勢を志村城(新村城)に差し向けて攻略し、670もの首級を取った。(神崎郡の)小川城に立て篭もっていた祐忠はこれを見て人質7人を差し出して降伏することにし、勝家に伴われて佐和山で信長に拝謁して赦免され、所領も安堵された。 「石山合戦」も参照 天正元年(1573年)、槇島攻めに従軍。 天正7年(1579年)、安土城の築城に際して堀田左内、青山助一とともに瓦奉行を命じられている。また、この頃から信長に茶会を免許されており、祐忠は後年は茶人としても名が知られていたことが『太田牛一雑記』にある。 天正9年(1581年)と翌年の2年連続で、正月の左義長に北方東一番の近江衆(平野定久・多賀常則・後藤高治・蒲生氏郷・京極高次・山崎賢家・山岡景宗・小川祐忠)として爆竹を携えて出場した。 天正10年(1582年)、本能寺の変により織田信長が横死すると、近江国を制圧した明智光秀の傘下に入って、山崎の戦いにも出陣したが敗北。他の近江衆同様に羽柴秀吉に降伏した。清洲会議では、北近江が柴田勝家の領土となったので以後はその傘下となり、勝家の養子・柴田勝豊に家老として仕えた。しかし天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの前に、長浜城を包囲された勝豊が大谷吉継の調略を受け入れて秀吉に寝返ったために、結果的に羽柴側となり、勝豊はいくさが始まる前に病死したので、その死後は秀吉の直臣となって本戦では柴田勢と戦った。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いには兵250を率いて参陣。羽柴秀次の中入りにも中軍の一隊の将として加わった。 国替えとなり、大和国郡山の辺りで3万石の扶持を与えられたというが、時期ははっきりしない。 天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣して武功を立て、従五位下土佐守に叙任された。 文禄元年(1592年)の文禄の役では、留守番衆の1人として肥前名護屋城に在陣したが、同2年(1593年)に朝鮮へ渡海して、5月の金海後巻き(退却戦の意味)で、伊達政宗と共に浅野長政を救援する功を立てた。この後、帰国して伏見城普請に参加。この頃の石高を『当代記』では1万2,000石とする。
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織豊時代
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1578年(天正6年)4月7日 - 織田信長、配下の佐々長龝に命じて神保長住を打具し越中に入らせる。『信長公記』(巻十一、天正六年戊寅四月七日条)曰く、「越中神保殿二条御新造へ被召寄、此比御対面無御座、子細二位法印佐々権左衛門を以て被仰出、黄金百枚並志々良百端被参、輝虎被相果付て飛驒国司へ被仰出、佐々権左衛門相添、越中へ入国候也」。 10月4日 - 同年9月24日より信長の命によって越中征討を行い、津毛城を落した齋藤利治が、越中月岡野において上杉の手勢を破る(月岡野の戦い)。『信長公記』(巻十一)曰く、「九月二十四日、齋藤新五、越中へ被仰付出陣國中、大田保之内つけの城、御敵椎名小四郎、河田豊前守人数入置候。尾張両国之御人数打向之由承及聞落に致退散則つけの城へ神保越中人入置齋藤新五三里程打出陣取候て在々所々へ相働」、また曰く、「十月四日、齋藤新五、越中国中太田保之内本郷に陣取御敵、河田豊前守、椎名小四郎、今和泉に楯籠候。城下迄放火候て未明より被罷退之処に人数を付候。齋藤新五、節所へ引かけ月岡野と云所にて人数立合、既及一戦追崩頸かす三百六十討取り、此競を不休懸まはり所々人質執固神保越中所へ相渡し帰陣候也」。 1579年(天正7年)閏3月 - 織田信長により佐々成政が越中に封ぜられ富山城に入る。『三州志』曰く、「七年己卯佐佐内蔵助成政越中一国ヲ賜リ富山城ヘ徒ル」。 1580年(天正8年)4月15日 - 本願寺顕如、勝興寺及びその門徒に信長と和睦した旨を通達する。 秋 - この頃大雨あり。国内の河川洪水して、神通川は旧来の呉福山麓の河流を改め富山城東を流れるようになり、常願寺川は大いに出水して富山城下を浸し家屋流出数知れず。佐々成政、これを憂いて治水に尽力し築堤、また洪水によって新たに生れた支川を鼬川と名付け、周辺を開墾して禾穀を植えて田地となす。この時、築かれた堤を「佐々堤」と称し、常西用水川底にのぞく天端部にその痕跡を見ることができるという。 11月 - 佐々成政、神通川渡船場の制度を定め、過当なる運賃を禁じ、また過載を戒む。 1581年(天正9年)3月24日 - 越中松倉城に據る河田長親が小井手城を囲み、信長方の佐々成政及び神保長住等はこれが救援のため出兵したので、上杉景勝はその兵を撤せしめる。『信長公記』(巻十四)曰く、「三月六日、神保越中佐々内蔵助幷国衆上国候、加賀越前越中三ヶ国之大名衆今度之御馬揃に各在京也。今之透に人数を可出之行に而名誉之ごうの刀作たる松倉と云所に楯籠御敵、河田豊前守以調略。越後より長尾喜平次を呼越、大将として催一揆。佐々内蔵助成政人数入置候小井手之城、三月九日に取詰候」。また曰く、「三月廿四日佐々内蔵佐神通川六渡寺川打越、中郡之内中田と云所へ被懸付候処上方之御人数参陣之由承及。三月廿四日卯尅、御敵長尾喜平次、河田豊前致陣払、小井手表引払火之手を間三里程に見懸。常願寺川、小井手川打越人数被付候へども、早諸手引取候間、不及是非併籠城運を開」。 4月 - 『雲龍山勝興寺系譜』によると、この頃、勝興寺、顕幸留守中を期した石黒成綱の夜討ちに遭い焼亡したという。 5月24日 - 『信長公記』によると松倉城に據る河田長親が病死したといわれる。曰く、「五月廿四日、越中国松倉と申所に楯籠候、御敵河田豊前守病死仕候」。 1582年(天正10年)2月9日 - この日より信長の軍兵越中に入り、上杉景勝方の須賀盛能・秋山定綱はこれを警戒して報告せしにより、景勝は援軍を送りこれを援助させる。 3月11日 - 信長方であった小島職鎮、唐人親広が景勝に内通し、協働して富山城を占拠するが、柴田勝家、佐々成政、前田利家の兵によってこれを奪還される。また信長方は進んで魚津、松倉の両城を囲む(魚津城の戦い)。『信長公記』曰く、「去程越中国富山之城に、神保越中守居城候然而、今度信長御父子信州表に至而御動座候之処、武田四郎節所を拘、遂一戦悉討果候之間、此競に越中国も一揆令蜂起其国存分に申付候へと有〳〵と越中へ偽申遣候事実に心得、小野六郎左衛門、加老戸式部両人一揆大将に罷成、神保越中を城内へ押籠、三月十一日、富山之城居取に仕近辺に挙煙候不移時、柴田修理亮、佐々内蔵介、前田又左衛門、佐久間玄番頭、此等之衆として富山之一揆城取巻候間落去不可有幾程之旨注進被申上候」。 5月23日 - 景勝、魚津・松倉両城の危殆を聞き、これが救援のため天神山城に布陣し、信長方と黒部に戦う。時に滝川一益が上野国から、森長可が信濃国から越後へ侵入するあり、よって同年同月27日、景勝越後へ撤退する。『三州志』曰く、「二十三日瀧川一益三国嶺ニ到リ森長一大田切ヨリ芋川城ヲ陥シ越後二本木ニ入リ春日山ヲ襲ハント各甲兵ヲ進ムル注進アリ景勝越中ニ在リ之ヲ聞テ驚キ二十七日越後ヘ却ソク」。 6月2日 - 景勝の撤退に乗じて、柴田勝家、佐々成政、前田利家等が攻城を開始し、この日遂に魚津落城する。『三州志』曰く、「勝家等此機ニ乗シテ火急ニ松倉ヲ攻ム魚津城ハ河田豊前吉江織部ハ固ク之ヲ守リ容易ニ抜クヘカラサルヲ知リテ詭計ヲ以テ柴田専齋佐佐新右衛門二人ヲ質トシ城ヲ挙ケテ開領セハ講和ヲ為ント城将ヘ言送ル河田等吾ヲ欺ムカストオモヒ即チ諾シ成政ヲ内城ニ延キ河田吉江ハ外羅城ニ出ツ即城ノ内外ヨリ河田芳江ヲ挟撃ス二将曁ヒ中條越前寺島六蔵寺血戦苦撃力ヲ窮テ斃レ城遂ニ陥ツ実ニ六月二日ノ平旦也(中略)松倉ノ守兵城上ニ旌槍ヲ羅列シ守禦ノ形勢ヲ伴リナシテ夜越後ヘ走ル織田方ノ諸将之ヲ知ラス妄リニ近ツカズト云フ我公然ラストシ単騎ニテ城下ニ到テ見量ヒ給フニ果シテ空城也因テ斯城弓箭ノ費ナクシテ城ヲ得タリ」。但し、『北越太平記』はこの誘殺のことを載せず、矢尽き糧なくして城中に皆自害したといい、「諸大将いつれも評定し、寄手へ降参を乞、城を渡し、引除ん事、永き弓箭の瑕なり。たとへ主君の命なりとも難レ受所なりと、衆議一同に決しけり。城内掃除以下二三の内に沙汰し六月二日に隙明しかは中城越前の守景資、川田豊前の守長親、石口采女の正實秀、山本寺庄蔵孝長、吉江喜四郎俊長、安部右衛門の尉仲盛、竹の股参河の守朝綱大将物頭十三人広間に居並候て、切腹の用意にて候(中略)寄手の輩、城落て乗入十三人の自害の有様を見て、柴田勝家、佐々成政、前田利家以下舌を振誉ぬ者もなし。皆感涙を流す。是即六月二日の未明なり。此日京都本能寺にて信長公御生害なり。五六日こらへ候はゞ、運を可レ開者と皆残念に思ける」と伝える. 6月8日 - 柴田勝家等再び兵を率いて越中を進撃するも、本能寺の変の報至って軍を返す。景勝、これを受けて属将色部長実に越中への出馬を命ずる。 6月24日 - 須田満親、松倉城に入って景勝の出兵を請う。 6月27日 - 有沢図書助、弓庄城に據る土肥政繁に説諭してこれを景勝方に属せしめる。 1583年(天正11年)2月8日 - 土肥政繁、成政の属城安城下を放火し、また太田新城を攻撃する。 4月5日 - この日より土肥政繁、弓庄城において佐々成政の手勢に包囲される。政繁は奮戦よくこれを守るも、同年4月28日、羽柴秀吉が成政に景勝と和すべきの由を通達し、よって成政景勝は媾和の運びとなる。故に政繁は妻子郎党を率いて越後に移り、景勝の庇護の下に入る。 1584年(天正12年)8月28日 - この日より徳川家康・織田信雄が秀吉に対抗した小牧・長久手の戦いに呼応して佐々成政が挙兵し、先ず前田利家支配下の加賀朝日山を襲撃する。されども同年9月11日、末森城の戦いに敗北して、倶利伽羅方面に退却し兵を越中に収める。 9月18日 - 上杉景勝が、秀吉方の前田利家に提携し、須田満親に命じて宮崎城を攻めさせ、激戦六日に渉った後に開城させる。 11月8日 - 阿尾城の菊池武勝、前田利家に降伏し、開城する。 11月25日 - 徳川家康・織田信雄、羽柴秀吉に和せるを愁い、佐々成政越中を出発して遠江浜松城の家康を訪わんがため、厳寒の立山連峰を越える。いわゆる「さらさら越え」というは、このことである。『太閤記』(巻八)曰く、「天正十二年霜月下旬、深雪をもいとはす、さら〳〵こえとて嶮難無雙之山路に行迷ひぬ、是ハ何の地をさして思召立給ふそやと、従ひし士共問いしかは、遠州へこえ行、家康へ相看申(中略〉雪になつまぬわかきはらを百人はかりめしつれ、大山之嶺わきに攀上り、南をみれハ山下に里有とおほしくて、柴折くぶる煙たへ〳〵也、いさ煙を心あてに下りみむと、かんじきと云ものに乗ておとしけれハ、真忠の心さしを天感し給ふにや、思ひの外やす〳〵と麓の里に着にけり民のかまどに立入ん事のうれしさに、あんなひをもせす入しかハ、老たる樵夫膽を消し、是ハ変化の物そかし、今此雪中に人間のわさにハあらしと不審しあへりぬ(中略)雪中之労苦を忘れつゝ、十二月四日遠州浜松之城に至り、家康卿へ対面し、羽柴筑前守秀吉を討亡し、信雄卿被達ニ御本意一候様に相議し、翌朝打立清洲之城に至て御礼申上、これかれ評議を尽し、則令ニ請暇一又深雪に山路をたどり〳〵、越中に立帰りにけり」。 1585年(天正13年)4月8日 - 成政、加賀国鳥越城を攻撃するも反撃に遭って撤退する。 5月 - 成政の手勢なる佐々平左衛門、今石動城を襲撃するも前田秀継等によって撃退される。 8月8日 - 秀吉、佐々成政征討のため京師を発する。 8月26日 - 秀吉、越中に至り富山城に逼迫するに及び、成政衆寡敵せずとて剃髪し、織田信雄を仲介して秀吉に降を請う(富山の役)。一連の越中平定の功により、秀吉は礪波郡、射水郡、婦負郡の三郡を前田利家に与え、成政の所領は越中においては新川郡のみとなり、また妻子共々大坂蟄居を命ぜらる。また富山城が破却される。射水郡に太閤山の地名残るは、この時、秀吉の一夜宿陣した故事によるという。ここにおいて成政、〽何事もかはり果たる世の中に知らでや雪の白く降るらんと歌を詠じたと伝えられる。 11月29日 - 天正地震起って越中国内においても被害あり。この地震によって礪波郡木舟城が崩壊し、前田秀継及びその妻が圧死する。 1587年(天正15年)5月30日 - 秀吉、佐々成政をして肥後国へ封ぜしめ、爾後隈本城に據ってその地を治める。よって当面、新川郡は前田利家の領分となる。 1595年(文禄4年)秋 - 利家、秀吉の召喚によって登城し、割腹せし豊臣秀次の館と新川郡を賜り、また豊臣秀頼の守護を依頼される。『三州志』曰く、「今秋越中新川一郡曁ヒ秀次君ノ遺館ヲ豊主ヨリ国祖ヘ賜ハリ秀頼君ノ守護ヲ頼マセラル」。 この年越中国においても太閤検地あり、38万3百石であったという。 1597年(慶長2年)10月 - 前田利長、居城たる越中守山城が風威猛烈であるため富山城へ遷る。 1598年(慶長3年)4月20日 - 前田利家、致仕を利長に告げて家督を譲り、氷見一帯をその養老領とする。 1600年(慶長5年) - 前田利長より土方雄久へ新川郡布市以南1万石を分与する(布市藩)。
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織豊時代
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永禄2年(1559年)、尾張国苅安賀で、森高次(九郎左衛門)の次男として生まれた。 高次・高政らの森一族は、宇多源氏佐々木支流で近江国愛知郡鯰江庄を本貫地として、もとは鯰江姓を称していたが、高次の長兄・定春の代で尾張海東郡森村に在所を移して藤原姓の森氏を称したのが始まりと、『寛政重脩諸家譜』等の諸系図で説明されている。ただし、異説や不明な点もあり、この一族の出自について確かなことは分からない。 父の高次は織田信長の家臣であったが、蜂須賀正勝が羽柴秀吉に仕えたことから、蜂須賀氏の寄子であった森氏からも、高政が天正5年(1577年)頃より秀吉に近習として出仕した。 天正6年(1578年)、秀吉に気に入られ、播磨明石郡松ノ郷で3,000石(一説に6,000石)が宛がわれた。以後、高政は羽柴氏の直参として譜代衆の1人となる。 天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死すると、秀吉は主君の仇を討つべく中国大返しを計画するが、このときの毛利氏と停戦の人質交換に際し、羽柴陣営から送り出されたのが重政と高政の兄弟で、これを引き取ったのが毛利家臣の宍戸某(宍戸元続か)だった。この人質としての滞在中に高政は毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にはある。人質から戻ると、備中高松城に在番した。 後年(古文書記録によれば文禄元年前後)、この縁で、毛利氏が秀吉の臣下となったのち、輝元より改姓の申し出があり、秀吉の許しを得て、高政の一族は大江姓の「毛利氏」を名乗るようになった。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍して負傷。同年から始まる大坂城の普請にも参加した。同14年(1586年)の方広寺建立の際には石材運搬の奉行を務めており、この年にキリスト教の洗礼を受けた。 天正15年(1587年)、九州平定では舟奉行。旧領を改めて、豊後国日田郡・玖珠郡の2郡内で2万石を与えられ、日隈城(隈城)主とされた。これを改修して、五階の天守、三階の櫓などを増築している。またこの時、弟・吉安に2千石を分知している。 同16年、従五位下民部大輔に叙任された。 天正17年(1589年)、山城国の検地奉行を石川貞通とともに務めた。同18年(1590年)、兵600を率いて小田原征伐に参陣。戦後に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸の際にも、秀吉に陪従した。 天正19年(1591年)、朝鮮出兵の備えとして対馬に陣城普請を命じられ、清水山城・撃方山城・向ノ平砦を築いた。文禄元年(1592年)、文禄の役が始まると兄の重政(弟の吉安)と共に舟奉行を務めて渡海。『日本外史』によると、江原道助防将元豪が蜂須賀家政を亀尾浦で破った後、さらに春川で高政を攻撃したが、高政は伏兵でこれを破って元豪を生け捕るという武勲を立てた。その後、高政は帰国している。 文禄2年(1593年)の大友義統の改易に伴って、同4年(1595年)9月、豊後国日田・玖珠2郡の所領の朱印状を受けた。併せて両郡内の蔵入地も預けられて代官を兼務し、実質的な加増となった。この頃、高政は角牟礼城の改修をしている。 慶長2年(1597年)、慶長の役では軍目付に任命されて再征。南原城攻略や蔚山城救援で軍功を挙げた。鳴梁海戦では戦闘中に船から落下して溺死しかけ、味方に救われて危うく一命を取りとめたと「藤堂家記」に記されている。
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