ふしみ‐じょう〔‐ジヤウ〕【伏見城】
伏見城
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伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区の桃山丘陵にあった日本の城。
- ^ 鹿苑日録の文禄元年8月17日によると、「太閤相公御隠居所於伏見決定云々。」とある。
- ^ 兼見卿記の文禄元年八月二十日条によると、「今日、太閤大坂より伏見に至り御上洛云々、伏見御屋敷普請縄打ち仰付らる」とある。
- ^ 『多聞院日記』文禄元年八月二十四日条によると、「京都伏見ニ太閤隠居所立之 体篇之地取在之云々」とある。
- ^ 『多聞院日記』文禄元年九月三日条によると、「於伏見太閤隠居城立トテ事々敷普請此頃在之云々」とある。
- ^ 文禄元年十二月十一日条に前田玄以に宛てた書状によると、「ふしみのふしんの事りきう(利休)にこのませ候てねんごろに申つけたく候」とある。
- ^ 『城と秀吉』
- ^ “秀吉を震え上がらせた「1596年慶長伏見地震」の破壊力”. 産経新聞. (2014年6月21日) 2014年6月21日閲覧。
- ^ 慶長5年8月5日に石田三成が真田房州、真田豆州、真田左衛門左に宛てた書状によると、「城内悉火をかけやけうちにいたし候」とある。
- ^ 慶長5年8月6日に石田三成が真田安房守に宛てた書状によると、「悉懸火不残一宇焼払候事」とある。
- ^ 慶長5年8月7日に石田三成が上杉義宣に宛てた書状によると、「一宇も不残焼捨候事」とある。
- ^ 内藤昌、大野耕嗣、高橋宏之「伏見城(I)武家地の建築」『日本建築学会論文報告集』181号、1971年3月。
- ^ 『伏見城跡 京都市伏見区桃山町下野 27-1 の発掘調査』2018年、株式会社四門
- ^ 「儀典用」との説もあるが将軍宣下はいずれも伏見城で行われており必ずしも適切な定義とは言えない。
- ^ 松葉屋グループ|歴史・沿革 によると、伏見城跡に設けた堀内村の庄屋を代々務め、明治時代に同村の土地を皇室へ寄進したとの記述がある。
- ^ 伏見城跡に謎の土盛り 陵墓立ち入り調査で確認 - MSN産経ニュース(産経新聞、2009年2月20日付、2010年1月28日閲覧)
- ^ 伏見桃山城、活用策決まらず10年 城主の京都市、困惑:京都新聞2012年10月29日
- ^ 伏見桃山城を存続させる会(2012年6月16日時点のアーカイブ) - 伏見夢工房
- ^ 伏見桃山城、活用策決まらず10年 城主の京都市、困惑 - 京都新聞(2012年10月29日付、同日閲覧)
- ^ 茶々 -天涯の貴妃(おんな)-和央ようか、豪華絢爛打ち掛け姿初披露! - 東映(2007年10月29日付、2010年1月28日閲覧)
- ^ 伏見桃山城その1:黒塗り時の天守
- ^ 城めぐり8伏見城:黒塗り時の天守
- ^ 伏見桃山城築城50周年記念/伏見・お城まつり
- ^ 京都・伏見桃山城、築城50年
- ^ 京都の住宅街 「幻の伏見城」発掘に歴史ファン2300人が集結
- ^ 初期の伏見城か、遺構発見=金箔瓦など出土―京都
- ^ 小和田哲男『城と秀吉』角川書店、1996年8月
- ^ 佐賀県立名護屋城博物館『肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城』佐賀県立名護屋城博物館、2009年
- ^ 「発掘ニュース95 伏見・指月城の復元」『リーフレット京都』No.261、京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館、2010年10月。
- ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 、1996年
- ^ 宮上茂隆執筆『歴史群像 名城シリーズ7 江戸城』学習研究社、1995年
- ^ 『天下人・秀吉の「幻の伏見城」石垣や瓦片出土 京都の造成地』 産経新聞 2015年6月18日21時17分
- ^ "2年前発見の伏見城石垣跡、大名屋敷の可能性 京都"(京都新聞、2017年2月17日記事)。
- ^ “伏見城跡・指月城跡 現地説明会資料”. 京都市文化財保護課. 2021年6月30日閲覧。
- ^ 城戸久「大阪城伏見櫓建築考」『建築學會論文集』27号、1942年
- ^ 8 文化財 福山市、2022年8月27日閲覧。
伏見城
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伏見城の戦いでは徳川家康の家臣鳥居元忠らが伏見城で守っていたが、石田方に攻められて建物の大半を焼失し、落城した。鳥居元忠や家臣らが自刃した建物の血痕の残る床板が、供養のために京都などの寺の天井に貼られたといわれる。
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