戦国・織豊時代
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政親の異母弟・親治(母は親世系大友親隆の娘ではない)が実力で内紛を鎮め、第19代当主の義長を補佐し肥後に進出を果たすなどして戦国大名へと飛躍した。 第20代当主・義鑑のときには肥後や筑後に進出する。しかし天文19年(1550年)の二階崩れの変で、義鑑は重臣の津久見美作・田口鑑親によって殺された。 その跡を継いだのが、キリシタン大名として有名な第21代当主・義鎮(大友宗麟)である。この頃には立花道雪ら有能な家臣団の存在にも助けられ、大友家は飛躍的に勢力を拡大する。天文20年(1551年)には大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反(大寧寺の変)により死去すると、義鎮は弟の大内義長を大内家当主として送り込み、北九州の旧大内領はもとより、周防や長門にも影響力を誇った。弘治3年(1557年)に義長が毛利元就に討たれて大内氏が滅亡すると、周防・長門方面での影響力は失ったが、北九州の権益の大半は確保した。さらに義鎮はキリシタンを保護し、自らも改宗した。このことにより豊後府内(現大分市錦町・顕徳町付近)には日本初の西洋式病院が設けられるなど、南蛮文化が花開いたが、反面、元来より八幡信仰や仏教信仰の篤い家臣団との不和をもたらすこととなった。また、義鎮は弘治2年(1556年)頃に臼杵の丹生島城に本拠地を移している。近年の研究ではこれは政庁機能を全面的に府内から移転させたものであったとされている。 また、義鎮が早くに家督を子の大友義統に譲って第22代当主と成したが、これにより天正年間には義鎮・義統の二元政治の弊害が現れ、大友家の内部に抗争が起こるようになる。 さらに対外戦争でも、元亀元年(1570年)の今山の戦いで龍造寺隆信に、天正6年(1578年)の耳川の戦いで島津義久に大敗を喫した。特に後者の大敗では多くの有力武将を失う結果となり、それまで大友氏の幕下にあった肥前・筑前・筑後の国人領主が、龍造寺氏や秋月氏を筆頭に次々と謀反の反旗を翻し、大友氏は危機的状況に陥る。天正12年(1584年)、龍造寺隆信が島津氏の前に戦死すると、筑後方面で巻き返しを図るが、今度は島津氏の侵略を受けることとなり、天正14年(1586年)には大友家の本国である豊後にまで侵攻され、旧府内の町は焼け野原になることとなった。 しかし、義鎮は当時の天下人である豊臣秀吉に支援を要請して自ら臣従したことにより、秀吉の九州征伐が開始されることとなり、島津氏は豊臣氏との戦いで完敗・放逐され(根白坂の戦い)、大友家は豊臣政権下で存続することとなった。このとき、義鎮の嫡男である義統は秀吉より豊後一国を安堵された(義鎮自身にも日向一国が安堵されるもこれを固辞)。義統は秀吉から偏諱である「吉」を許され吉統と名を改める。この時家臣であった立花統虎(のちの立花宗茂)が独立し豊臣の大名となる。 また、この時期に毛利家とも親しくなり、義鎮の娘が毛利秀包(筑後久留米)の正室となる(子孫有)。天正15年(1587年)の義鎮の死後、義統は文禄の役における敵前逃亡をとがめられ、文禄2年(1593年)に秀吉の命令で豊後領を改易された。 大友家の家督を天正20年(1592年)に嫡男大友義乗に譲り隠居の身であった吉統であるが、秀吉死後の慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで、西軍総大将・毛利輝元に支援されて挙兵し海路、豊後に侵攻し、東軍細川忠興らの領地となっていた旧領の回復を計画する。しかし石垣原の戦いにおいて黒田孝高(黒田如水)の軍に敗れて降伏し幽閉の身となった。
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戦国・織豊時代
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抗争中の戦国大名間における和平条件として - 川中島の戦いなど。 いわゆる焦土作戦を目的としたもの 支配力の集中を目的としたもの 実施主体の例:畿内近国の守護系戦国大名である越前朝倉氏や近江六角氏、織田信長、豊臣秀吉
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