改易とは? わかりやすく解説

改易


かい‐えき【改易】

読み方:かいえき

[名](スル)

改めかえること。更新すること。

中世罪科などによって所領所職役職取り上げること。

江戸時代士分以上に科した刑罰武士の身分を剝奪(はくだつ)し、領地家屋敷などを没収する刑。蟄居(ちっきょ)より重く切腹より一段軽い。


改易

読み方:カイエキ(kaieki)

(1)官職にある者をかえて、新任者補すること。
(2)江戸時代士分上のものの籍を除き、その封禄知行地家屋敷などを没収すること。


改易

作者白石一郎

収載図書戦国斬る
出版社講談社
刊行年月1990.4

収載図書戦国斬る
出版社講談社
刊行年月1992.11
シリーズ名講談社文庫


改易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/07 15:02 UTC 版)

改易(かいえき)は、江戸時代においては、武士に対して行われた士籍を剥奪する刑罰[1]士分以上の者の社会的地位を落とす身分刑であるが、禄や拝領した家屋敷を没収されることから、財産刑でもあるとする見解もある[2][3][4]。また大名の所領を没収、減封転封することを改易と呼ぶこともある。


注釈

  1. ^ 所帯改易・所職改易という[7]。ただし世襲的に継承していた所職からの得分を失うため、変更といっても、没収に近い意味合いである。
  2. ^ 身柄は配流先の大名に預けられるが、江戸時代の配流地先は主に東北か四国に決まっていた。
  3. ^ 数え方による。下記『廃絶録』をもとに表にした関ヶ原で改易された大名はもっと多い。藤野保自身も別の資料では82の大名と言っている[14]
  4. ^ 大名や武士が急病危篤になってから急遽養子を願い出ること[22]
  5. ^ a b 元和3年(1617年)の洪水によって広島城の石垣や堀、楼などが損壊したので、正則はその修復の許可を幕府の取次役である本多正純を通して申請していたが、正純は敢えてこのことを将軍に報告せず、しかも正則には修復だから正式な許可はいらないと曖昧に答えていた。正則は将軍の許可を得ないまま修築作業を始めて罪に問われることになり、元和5年(1619年)4月に正則は弁明のために江戸へ参勤すると共に、修復箇所を破壊して謹慎の態度を示したので一段落するかと思われたが、5月に将軍秀忠は諸大名を率いて上洛すると(正則を江戸に留めて)子福島忠勝に上洛と弁明とを求め、6月2日になって福島氏の改易が突然発表された[23]
  6. ^ ただしこの3か条については、明確な記録はなく、後世の作り話であるらしい[30]
  7. ^ 元和4年(1618年)、家老の加藤美作加藤右馬允が対立した御家騒動(牛方馬方騒動)の際には、豊臣方への加担の嫌疑がかかったにもかかわらず、加藤忠広は幼少を理由に改易を免れている。忠広の義理の母は家康の養女(水野忠重の娘)で、妻は秀忠の養女(蒲生秀行の娘)であり、姉は秀忠の弟・頼宣の妻という、重縁の関係であった[32]
  8. ^ 大坂の陣後に子の増田盛次が大坂方に与したことを咎められ切腹した。
  9. ^ 改易の経緯には諸説あり、処分未定のまま病死、あるいは無嗣断絶したためともいう[41]
  10. ^ 慶長15年(1610年)に領内再検地、幕府の了解を得て高直しにより36.9万石。
  11. ^ 毛利輝元の約120万石の所領内から20万石を分知したもの。
  12. ^ 毛利輝元の減封の後の36.9万石の所領内から5万石を分知したもの。
  13. ^ 後に石直しにより6万石。
  14. ^ 後に結城秀康に仕官した。
  15. ^ ただし石高が確定するのは2代藩主・佐竹義隆の代からである。
  16. ^ 原因については諸説ある。定次の悪政、漁色、大酒、訴訟等を理由に、大名の不品行を家老中坊秀祐が幕府に直訴した。
  17. ^ 勝俊と利房は共に西軍に属して所領没収されており、父木下家定が亡くなって遺領が出ると、これを巡って兄弟で争った。
  18. ^ 水野忠胤の家臣により殺害された。喧嘩両成敗により、喧嘩・殺傷沙汰は被害者も咎を負う。
  19. ^ 専横を糾弾されて、尾張藩の家老平岩親吉と対立した。
  20. ^ キリシタンであったため、形式だけで切腹せず家臣の介錯により討たれたとの記録もある。
  21. ^ 嫡男重信大久保忠隣の養女との無断婚姻。
  22. ^ 義弟酒井忠勝の庄内鶴岡に国替えの際に同行し、以後は400石を拝領。
  23. ^ 義弟坂崎直盛と、罪をおかして逃亡中の妻の甥坂崎左門をかくまった件の争い、敗訴。
  24. ^ 石川康通の娘を養女として山口重政の嫡男と無断縁組したことや、幕命を受けて京で苛烈なキリシタン狩りを行い、寺々を放火した件、大久保長安事件の連座とするなど、改易の理由については諸説あり。
  25. ^ 城郭補修・浪人召抱えなどを咎められた。ただし大久保忠隣に連座ともいう。
  26. ^ 織田信包の遺言で領地を継承した弟信則を不服として、幕府に訴えたが、逆に不届きとされて除封された。
  27. ^ 大坂の陣における遅参・不手際、旗本殺害、参内の懈怠など。理由は複数あり。秀忠は家康の死を待って改易に踏み切った。
  28. ^ 諏訪温泉で死去したが、自殺とも、諏訪部定常によって殺害されたともいう。
  29. ^ 一族の大久保忠隣の改易に連座か。
  30. ^ 家老河野氏房の殺害未解決事件の隠蔽を、被害者の子息が訴える。
  31. ^ 配流先で生まれた次男松千代は3,000石、三男熊千代は2,000石に封じられ旗本となる。
  32. ^ 田中吉官は小姓頭だっために配下の組中の三宅藤五郎の罪に引責した。
  33. ^ 家光に対する度重なる諫言。
  34. ^ 正利は無嗣断絶する。
  35. ^ 大坂城二の丸石垣築造工事の完成がおくれたため、監督不行届をもって領地を没収された。
  36. ^ 徳永昌勝も配流(溝口宣勝預け)1648年に恩赦で赦免され2,000石旗本に。親子の訴訟のための改易だったともいう。
  37. ^ 仮病で、狩り遊びに興じていて、参勤交代を懈怠したことが露見して改易された。
  38. ^ 池田長幸の所領分知に関して三男長純に過半を与えることに反対した弟長頼を除いて遺言を作成したがために、長頼は激怒して長純とその舅脇坂安信と脇坂安経に刃傷に及び安経を殺害した。長頼は切腹。長純・安信は傷を負ったが、喧嘩両成敗により改易となった。
  39. ^ 謀反とも御家騒動ともいうが諸説ある。室賀正俊のもとに将軍の日光参拝を狙った陰謀があると投書するものがあり、調べると加藤光広の家臣前田五郎八というものだったので、光広とその父の忠広は池上本門寺にて蟄居を命じられた。忠広は関与を否定し、光広は若年のため改易どまりとされ、忠広は1万石に減封、光広は100石与えられたという話。または、正室は嫉妬深い人間で、側室が江戸で男子を産んだことに怒り、自分が産んだ嫡子光広の地位が脅かされるとして、家臣前田五郎八に殺害させようとしたという話。
  40. ^ 長崎代官末次平蔵らの告発で、唐船に対する私的課税、海外渡航証の独断での発給、私貿易船の派遣、収賄などの不正を訴えられた。パオロ・ドス・サントス事件も参照。
  41. ^ 菅沼忠隆(奥平忠隆)の嫡男。元服前に死んだ。
  42. ^ 江戸時代の大名で唯一の斬首。
  43. ^ 池田輝澄は新参の家老小川四郎右衛門を重用したので、これに旧来の家老伊木伊織らが反発して伊木派の物頭衆らが脱藩する事態となった。結局、家臣18名が切腹を命じられ、輝澄も家中不取締の科で所領を収公されて、堪忍料1万石だけが与えられた。
  44. ^ 高俊の死後、分知により交代寄合旗本となる。
  45. ^ 遺領は1653年に(政勝の従兄弟で義理の兄弟にあたる)政長に3万石・本多政信に1万石に分知された。
  46. ^ 突如剃髪して、所領を返上して幕閣を非難した上書を提出。江戸市中を托鉢して四国に向かったので、幕府は謀反を警戒しつつもこれを狂気と判断した。
  47. ^ 嫡男頼重を廃して、庶子での継承を願い出たが、頼資の不行跡を理由にいずれの子の相続も認めず、所領没収。頼重に1,000石だけ与えられた。
  48. ^ 且昭は貞就を養子とするが、貞就に子がなく断絶。
  49. ^ 幕末成羽藩を立藩。
  50. ^ 落馬の原因になった黒馬を家臣が主人の恨みとして殺したが、その悪評のため、末期養子が許されなかったという。
  51. ^ 将軍補佐と老中に諫書を提出して幕閣の失政を非難。自身の所領を返上して困窮の旗本を救済するよう願って無断で帰国した。その後も、密かに石清水八幡宮を詣でて将軍家綱の継嗣誕生を祈願するなど、幕法を軽視した勝手な行動が見られて、2回配流先を変えた。
  52. ^ 1680年、徳川家綱死去の報を聞き、幕法に反して殉死した。
  53. ^ 女院御所造営助役の役目を怠慢し、参勤交代に遅参した。住民殺害などの失政もあった。
  54. ^ 高国が襲封後、弟京極高勝の擁立をはかった父高広から親不孝と悪政を幕府に訴えられた。
  55. ^ a b 増上寺での徳川家綱の法会奉行を務めていたが、警護役の内藤忠勝が乱心して、突然斬り掛かってきて永井尚長は殺害された。巷説に、内藤忠勝はある修験者から名刀を力づくで奪って佩用していたが、この修験者が恨んで怨詛したため、忠勝は乱心したという。
  56. ^ 知行地境界問題で領地改があった際に、記述の誤りが見つかり、不正であるとして所領を収公された。
  57. ^ 本来の養嗣子松平綱国は同罪とされて配流され、同じく後に赦免された。それとは別に、徳川光圀の周旋によって松平直矩の三男が養子となって家を継ぎ、この長矩津山藩を立藩した。
  58. ^ 本家の松代藩に対抗して、表高が3万石である所を、信利は強引に実高14.3万石を出して幕府に申告。幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった。申告高に応じて参勤交代の行列規模、御手伝普請が命じれるため、高い年貢をかけられた領民は疲弊した。災害で破損した江戸の両国橋の架替の助役を命じられたが、橋材の納入を怠った。同じ頃、領民が悪政を幕府に直訴し、日頃の不行跡と領内への悪政、納期遅滞を理由に改易された。
  59. ^ 子もそれぞれ配流となる。後に子真田信音が旗本となるが断絶。
  60. ^ 親戚の酒井忠明が徳川綱吉から逼塞を命じられた際に、酒井忠能が報告に上がったときに、前将軍時の在国中の苛政と職務怠慢を咎められて改易された。
  61. ^ 徳川宗家と自身の御家騒動による。
  62. ^ 前年、巡見使が領内を通過の際に領民が悪政を直訴したことによる。
  63. ^ 本多利長の不行跡と、領内への悪政、前年の巡見使への作法が不適切であるとして、不行き届きを幕府に咎められ改易された。
  64. ^ 東叡山寛永寺での徳川家綱の法会のときに不敬の行為があったとして改易された。
  65. ^ 弟林貞辰を養嗣子としようとしたが、兄雄信の子の土方内匠を推すものがあり、抗争となる。これが幕府に露見した。
  66. ^ 林貞辰は配流(藤堂高通預け)で、内匠は八丈島へ遠島となった。
  67. ^ 江戸城中において稲葉正休は大老堀田正俊を刺殺し、正休も居合わせた老中大久保忠朝阿部正武戸田忠昌に殺された。巷説では、堀田正俊の暗殺は徳川綱吉の命令であったとか、稲葉正休は懐中に書状をいれていて理由が述べられていたともいう。
  68. ^ 在任中に綱紀をみだしたとして領地没収。
  69. ^ 溝口政親の酒狂乱心を家臣が実兄加藤明英に訴え、明英が幕府に伺いを立てて改易となった。
  70. ^ 那須資弥は実子の存在を隠して、幕府に虚偽の申告をして津軽家より那須資徳を養嗣子にとっており、実子の生母がこれを幕府に直訴して露見して改易となった。
  71. ^ 側小姓に任命されたが、拒否して将軍徳川綱吉の怒りを買い、重ねて詐病で出仕を拒否して改易された。
  72. ^ 嫡男堀田正親を指名せず、遺領相続の際の不手際で8,000石没収された。
  73. ^ 側用人に昇進したが勤務が疎かになっていると責められ改易された。分家の喜多見重治の刃傷沙汰の連座ともいう。
  74. ^ a b 寺社奉行の同役の坂本重治本多忠周と共に怠慢があったとして職責を解かれて逼塞を命じられていたが、逼塞を解かれて減知を課された。
  75. ^ 将軍徳川綱吉の寵愛により奥詰から異例の昇進を重ねて若年寄となるが、病気を理由に辞職を願い出て綱吉の怒りにふれ、謹慎を命じられた。
  76. ^ 江戸城馬場先門を警備していた家臣高坂権兵衛が旗本長屋を覗き見した容疑で逮捕される不祥事が原因で、鳥居忠則は閉門となり、自害した。
  77. ^ 失政に加えて、本多政利が罪なき女性を殺害した罪で改易された。配流先でも行状は改まらず、不品行を重ねたので、その報告が遅れた酒井忠真は閉門を命じられ、政利は座敷牢に幽閉されることになった。
  78. ^ 諫言する家老2名とその一門を殺害して自害した。
  79. ^ 酒食に溺れ、家臣間の争いを放置したため、監督不行き届きで改易された。
  80. ^ 叔父小出有仍が旗本として存続。
  81. ^ 重陽の節句で登城して帰る伊達村和の行列を横切った御小姓組岡孝常を従者が抜刀して威嚇し、孝常の刀を奪い怪我をさせた。駕籠に乗っていた村和は傍観していたが、怒った孝常は槍をとって孝常の駕籠に迫って詫びを入れさせようとした。幕臣が止めて孝常を家に帰らせたが、後日双方が処罰された。
  82. ^ 松平忠充は暗愚な人物とされ、些細な理由で家臣を追放したりしていたが、家老3人を切腹させその子4人も死刑とするという乱行に及んだため、遺族が幕府に直訴して露見。乱心したと見なされて幽閉された。
  83. ^ 病を理由に参勤交代の延期を申し出たが、不審に思った幕府が調べたところ、乱心したのを家臣が隠蔽していることが露見した。
  84. ^ ただし後に恩赦があり、3,000石で旗本となる。家老2人が追放、検見役の家臣だけが死罪とされた。
  85. ^ 1719年、子毛利元堯が再封をゆるされる。
  86. ^ 江戸城で将軍徳川吉宗に拝謁して退出の際に、忠恒は突然、通りかかった長州毛利家の世子毛利師就を斬りかかった。師就は傷を負ったが、殿中であるため刀を抜かず鞘で防戦し、御目付長田元鄰が割って入って、戸田氏房が忠恒を取り押さえてことなきをえた。浅野内匠頭と違って、忠恒は理由を供述したが荒唐無稽な内容であったので「乱心」として処理された。幕法を守って刀を抜かなかった師就はお咎めなしとなった。
  87. ^ 水野忠穀に7,000石を付与して旗本とする。1765年大浜藩立藩。
  88. ^ 松平乗邑は幕政の責任者として享保改革を推し進めたが、強引な年貢増徴政策で恨まれており、徳川吉宗が隠退すると、突然、勝手掛老中を罷免されて失脚した。
  89. ^ 分家の植村千吉が義弟の朝比奈万之助に殺害されるという刃傷沙汰があったが、処罰を恐れ、病死と偽って報告し、それが露見した。
  90. ^ a b 側近政治で台頭した田沼意次は経済改革で成果を出したが、松平武元没後は権勢を増して賄賂を横行させたので、反田沼派が生成され、後盾の徳川家治が死去するとすぐに老中を失脚して幕府を追われ、前代未聞である二度の処罰を受けた。
  91. ^ 徳川家斉の側近として重用されて台頭。家斉隠居後も権勢を振るい、幕政改革を志向する勝手掛老中水野忠邦と対立するが、家斉が死去すると水野に粛清されて失脚した。
  92. ^ 将軍継嗣問題関連の処分ともいう。
  93. ^ 文久の改革で失脚。口実は失政だが、実際には井伊直弼の下で安政の大獄の弾圧の指揮をとったことによる報復人事だった。
  94. ^ a b 坂下門外の変の後の事後処理による。
  95. ^ 武田耕雲斎らの天狗党の乱に際して、堀親義は講武所奉行の地位にあったにもかかわらず、留守居の家臣が城に籠もって出撃せずに、清内路関所を通過させたので、これに引責した。
  96. ^ 天狗党の筑波山挙兵に際して討伐の出兵が遅れたために、一族から天狗党に同調する者が出ていたことと併せて、幕府の嫌疑を受けて処罰された。

出典

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  64. ^ 松平容保死一等ヲ宥メ首謀ノ者ヲ誅シ寛典ニ処スルノ詔附松平容保以下廿余名処置」 アジア歴史資料センター Ref.A15071441800 
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