きゅうしゅう‐せいばつ〔キウシウ‐〕【九州征伐】
九州征伐
読み方:キュウシュウセイバツ(kyuushuuseibatsu)
九州平定
(九州征伐 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 09:35 UTC 版)
九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州征伐」、「島津征伐」、「九州の役」[注釈 1]、「九州攻め」、「島津攻め」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。
注釈
- ^ 「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。
- ^ なお、2005年(平成17年)の吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』の今井執筆とされる箇所(今井は2003年に死去)では「九州攻め」の語を用いている
- ^ 義久の兄弟のうち、義弘も家久もこのとき主戦派であったが、ただ歳久のみは対豊臣和平を主張していた。しかし、最後まで秀吉に抵抗の姿勢を示したのも歳久であった。
- ^ 藤木久志は、この戦役について秀吉側が「征伐」と呼称しているのは、いったんは停戦令を受諾して使者を派遣しておきながら、最後に島津側が秀吉の国分案を拒否したことが許せないということによるものであろうとしている。藤木(2001)pp.153-154
- ^ 仙石秀久はいったん豊前小倉城に退却して淡路洲本城(兵庫県洲本市)に逃亡し、長宗我部元親も沖ノ浜から伊予日振島に逃れている。元親は戦場では嫡子を失ったことに衝撃を受け、単騎島津勢に向かおうとして家臣に制止されている。
- ^ 島津家久としては、府内城から大友義統を逐ったことで当初の目的は達したため丹生島城の力攻めは避けたという見解がある。小和田(2006)p.199
- ^ 雪窓院は現在廃寺となっており、義久剃髪石は「座禅石」と呼称されている。
- ^ ただし、櫛間地頭の伊集院久治は国割りに納得せず、翌年の2月まで櫛間城から退去しなかった
- ^ 石田三成・滝川雄利・小西行長・長束正家・山崎片家の5名を博多の町割奉行に任命し、その配下として下奉行30名を任じ、博多の豪商神屋宗堪・島井宗室に対して町割協力を要請、さらに、町衆に対しては問丸・座の廃止、地子諸役の免除、博多商船への違乱を取り締まることを告知した。
- ^ 4月17日、5月18日に没したとの説もある。『クロニック戦国全史』(1995)p.502
参照
- ^ 安田(1984)p.302
- ^ a b c d e f 小和田「秀吉の九州攻めと北九州の城」(2007)pp.129-132
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 小和田(2006)pp.187-214
- ^ 熱田(1992)p.243
- ^ a b c 池(2003)pp.62-65
- ^ 藤木 (1985)
- ^ a b 藤木(2001)pp.153-154
- ^ a b c 小和田「戸次川の戦いと鶴賀城」(2007)pp.125-128
- ^ 岡本(1969)p.269
- ^ 尾下成敏「九州停戦命令をめぐる政治過程--豊臣「惣無事令」の再検討」『史林』93巻1号、2010年1月、44-45頁。
- ^ a b 池上(2002)p.154-155
- ^ 林屋(1974)pp.371-375
- ^ a b 今井 (2005) pp. 857-860
- ^ 岡本「島津の降伏」(1969)pp.271-273
- ^ 久保田正志「豊臣政権下での兵站整備とその限界-西欧との比較から-」『軍事史学』42巻2号、2006年9月。
- ^ a b c 池ら (1995)p.500
- ^ 乱世の終焉・九州平定 - 福岡市博物館
- ^ a b 毛利 (1997)
- ^ 山田 (2008)pp.314-317
- ^ 林屋 (1974) p. 375
- ^ a b c 三木 (1996) p. 187
- ^ a b 大賀 (1999) pp.180-182
- ^ 池ら (1995) p. 489
- ^ 池ら (1995) p. 501
- ^ a b c 福島(1983)
九州征伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 04:20 UTC 版)
天正15年(1587年)には島津氏はほぼ九州を平定したが、豊臣秀吉の九州征伐が動き出して一気に情勢が変わった。犬童休矣は伊集院三河守と共に豊後の萱迫城(かけさこじょう)にいたが、3月18日に阿蘇の坂梨城に退却した。深水宗方は伊集院忠棟と共に同じく豊後の切禿城にいたが、葦北に退却。島津勢の総崩れとなって薩摩に撤退する中で、球磨勢も人吉に撤退した。 豊臣秀長が耳川を渡って山田有信の守る高城を包囲すると、島津義久・島津義弘は救援に赴くことになり、頼房も犬童休矣を従えて出陣し、日向国で合流した。他方、4月15日に秀吉が八代に入ったことを聞いた深水宗方は、すでに戦利なしとして、相良長誠を奉じて八代に赴き、秀吉の陣所に伺候して所領の安堵を切に哀願した。秀吉は深水宗方に同情し、所領安堵を許した。深水宗方はすぐに使者を日向に送った。頼房は17日にこれを知ってすぐに陣払いをしたので、寸前で根白坂の戦いに参加しなかったが、球磨の士の何人かはこれを潔しとせずにそのまま島津義弘の家臣となった。 4月23日、佐敷に入った秀吉の元に馳せ参じ、頼房は深水宗方と犬童休矣をつれて拝謁した。以後、秀吉に仕えることになり、豊臣側に寝返って球磨勢も薩摩に侵攻した。九州平定後、大平寺の秀吉陣所には、深水宗方が名代として勤めていたが、彼が連歌の達人であることを推薦する者があって、秀吉の前で歌を詠み、その外征の意をすでに知っていたかと喜ばれ、大坂に来て直臣になるようにと言われるほど大変気に入られた。深水宗方はこれを固辞するが、秀吉の彼への高評価が相良家にとって大いに利益となった。
※この「九州征伐」の解説は、「相良頼房」の解説の一部です。
「九州征伐」を含む「相良頼房」の記事については、「相良頼房」の概要を参照ください。
- 九州征伐のページへのリンク