なんばん‐ぶんか〔‐ブンクワ〕【南蛮文化】
南蛮文化
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南蛮文化(なんばんぶんか)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の文化である。この時期にさかんになった南蛮貿易と教師によるカトリック伝道にともなうヨーロッパ文化の受容をさしており、歴史上、西洋人と日本人との最初の接近によって生まれた文化である。世界史的には大航海時代に属し、いわゆる「世界の一体化」における歴史事象の一部をなしている。
南蛮文化
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詳細は「南蛮文化」を参照 天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエルの来日と伝道ののち、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイス、グネッキ・ソルディ・オルガンティノ、アレッサンドロ・ヴァリニャーノなど、多くのカトリック宣教師による布教が活発化した。宣教師の来日や南蛮貿易の隆盛にともない庶民のなかにも南蛮風の衣服を身につけるものが現れた。また、一神教の教義やヨーロッパにおける一夫一婦制などは、多神教と汎神論しかなじみのなかったそれまでの日本人には強い衝撃をあたえた。オルガンティノは永禄10年(1576年)、京都に教会堂として南蛮寺を建て、また安土には神学校(セミナリオ)を建てている。宣教師たちは、セミナリオやコレジオ(大学)で、神学・哲学・ラテン語・音楽・絵画を教授したほか、天文学や暦学、数学、地理学、航海術、医学(南蛮流外科)など実用的な知識を日本に伝えた。また、教会の典礼音楽としてグレゴリオ聖歌が歌われた。 文物としては、鉄砲、油絵、銅版画、地球儀、時計、眼鏡、西洋楽器(オルガン、クラヴォ、ヴィオラ)などがもたらされた。やがて、日本人の手によって「南蛮屏風」も描かれた。上に掲げた狩野内膳も南蛮屏風を描いている。南蛮屏風は、西洋画の影響を受けながらも基本的には日本の画法で描かれており、商人や宣教師にまじって黒人奴隷や虎、アラビア馬、洋犬、象なども描かれている。「世界地図屏風」や『泰西王侯騎馬図』も広義には「南蛮屏風」の範疇に属するが、それに対し、日本人が日本画の材料を用い西洋の風俗画を模写した作品も知られており、なかでも『洋人奏楽図屏風』は有名である。また、上述のルイス・デ・アルメイダは豊後国府内でハンセン病患者のための救療院や孤児院を設立し、これを機に南蛮医学が急速に広がった。 上述したように、金属製の活字による活版印刷術は、イエズス会の宣教師ヴァリニャーノによってもたらされ、印刷機も輸入されて、ローマ字によるキリスト教文学・宗教書の翻訳、日本語辞書・日本古典の出版などもおこなわれた。これがキリシタン版であり、出版された土地の名をとって天草版、長崎版などと呼ばれる。特に1592年の天草版『平家物語』や1593年の天草版『伊曽保物語(イソップ物語)』、1603年の長崎版『日葡辞書』などはポルトガル式ローマ字体で出版されたため、当時の日本語の音韻を忠実に記した貴重な資料となっており、国語学的見地からも価値が高い。宗教書には、キリスト教の教理問答を解説した1592年の天草版『ドチリナ・キリシタン』や勧善の教訓を漢字・ひらがなまじりの日本文で記した1599年の長崎版『ぎゃ・ど・ぺかどる(罪人を善に導くの儀也)』、『コンテムツス・ムンジ』などがある。 南蛮人・南蛮文化の渡来は、ただ新しい科学的な道具や珍奇な物品・文物をもたらしただけではなく、それまで日本人の視野や精神になかった地域との遭遇でもあった。そして、古代以来の「インド・中国・日本」という三国をもととした世界観は打ち破られた。 衣食・医療のほか音楽などの面でも南蛮文化は意外なほど浸透しており、今日、最も日本的な文化のひとつとされる茶の湯も、当時にあっては多分に異国趣味の要素を含むものと見なされていた。南蛮文化そのものは江戸幕府の貿易統制策(いわゆる「鎖国政策」)のために短命に終ったが、カルタやタバコはその後も広く普及し、パン・カステラ・カッパ・コンペイトウ・シャボン・ラシャ・ジュバンなどのポルトガル語も日常的に用いられ、現代の日本語にも単語として残っている。
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