しばた‐かついえ〔‐かついへ〕【柴田勝家】
柴田勝家(しばた かついえ) ????~1583
◇父:柴田土佐守義勝? 室:織田信秀女 子:柴田権六郎勝敏?、庄左衛門勝里?、長三郎勝忠? 養子:柴田(吉田)伊賀守勝豊、(佐久間)三左衛門勝政、(佐久間)勝久
斯波氏の庶流か。尾張・織田信秀に仕え、その次子信勝の家老となる。1556年信勝を擁して謀反を起こすが、信勝の兄信長に敗れる(稲生の戦い)。後に信勝を見限って信長に仕え、尾張統一、上洛等に諸戦にめざましい武勇を示し、“甕割柴田”“鬼柴田”と異名をとる。1575年には越前一向一揆を平定し、北庄城主なって、織田軍の北陸方面攻略を任される。加賀、能登を平定後、1581年越中平定戦を開始するが、翌年明智光秀に信長が殺された(本能寺の変)時、松倉城攻略中で越後・上杉軍と対峙していた為、引き返すことができず、光秀討伐に間に合わなかった。清洲会議で、烏帽子親になった信長3男信孝を擁すが、羽柴秀吉らと対立。信孝、滝川一益らと共同戦線を張り、1583年近江・賤ヶ岳で秀吉と戦うが敗走、北庄城にて城を囲まれ自刃した。
柴田勝家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 02:23 UTC 版)
柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田氏の宿老であり、主君・織田信長に従い、天下統一事業に貢献した。
注釈
- ^ 『寛政重修諸家譜』では4月21日(6月11日)
- ^ 『寛政重修諸家譜』では中村文荷斎の娘といわれている。
- ^ 異説のひとつとして、下社城址(愛知県名古屋市名東区陸前町の明徳寺)には柴田勝家誕生地の碑があり、勝家は享禄3年(1530年)にその地で生まれたといわれるとしている。[3]
- ^ 『信長公記』自筆前田家本では「疵を被り高名比類なき」、自筆建勲神社本では「薄手を被り罷り退く」とある。[9]
- ^ 光秀は京都守備。
- ^ 第1条の「過分な課役の禁止と理由ある場合に尋ねる事」の指図に始まり、第2条「国人地侍の丁寧な扱いと用心」、第3条の司法の信長法順守、第6条「大国を預け置く」、第9条には「何事も信長の指図しだいと覚悟せよ」「無理無法のたくらみを巧言でごまかさず、計画があってのことなら道理正しく弁解するなら、事によっては聞き届け、その意見に従ってもよい。」「信長を崇敬して陰でも疎かに思ってはならぬ」「信長のいる方へは足も向けないほどの心がけなら武運長久は間違いない」と統制規定が重々定められている。信長への心からの忠誠を命じるが、最後まで守ったのは勝家だけだと、桑田忠親に評されている[16]
- ^ 没年齢については57歳説、58歳説など異説が複数あるため、そこから逆算した生まれ年を推定するしかないので、現在のところ明確な生まれ年・没年齢は確定していない。
- ^ 勝家の庶子といわれている。
- ^ 勝家の末子といわれている。
- ^ 『近江仲島文書』に名がある柴田勝定と同一人物と考えられている。(諸説あり)
- ^ 勝家の甥(妹の子)または実子ともいわれている。
- ^ 勝家の庶兄の子といわれている。
- ^ 旧猪高村時代から存在する。
- ^ 校歌の歌詞にも含まれている[41] 。
出典
- ^ a b 高柳 2001, pp. 232–233.
- ^ 『系図綜覧』
- ^ 長屋良行(2014年9月8日). “歴史ウオーカー:/55 柴田勝家が生まれた名東区を歩く”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
- ^ 谷口克 2005, p. 34.
- ^ 谷口克 2002, pp. 41–43、『信長公記』「首巻」町田本も参照
- ^ 谷口克 2005, p. 35.
- ^ 柴辻 2016, pp. 146, 150.
- ^ 谷口克 2002, pp. 96–101.
- ^ 金子拓『織田信長という歴史 『信長公記』の彼方へ』勉誠出版、2009年、275-276頁。
- ^ 谷口克 2002, pp. 127–129.
- ^ 谷口克広『信長と将軍義昭』〈中公新書〉2014年、136-149頁。
- ^ a b c 柴辻 2016, pp. 152–153.
- ^ 谷口研 2014, pp. 140–141.
- ^ 谷口克 2002, pp. 126–133.
- ^ 勝家と越前一向一揆(佐々木閑 ブッダの最期シリーズ番外編)(13m50s〜) - YouTube
- ^ 桑田忠親『明智光秀』〈講談社文庫〉1983年、127頁。『信長公記』巻八、町田本も参照
- ^ 谷口克 2005, pp. P.156-166.
- ^ 谷口克 2002, pp. 179–183, 186–188.
- ^ 谷口克 2002, pp. 233–234.
- ^ 「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる 2018年11月16日 12時24分 - 日本放送協会
- ^ 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館、2007年、71-73頁。
- ^ 柴裕之『清須会議』戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年、32-39頁。ISBN 978-4-864-033015。
- ^ 高柳 2001, pp. 25–26, 226–227
- ^ 藤田達生『秀吉神話をくつがえす』〈講談社現代新書〉2007年、168-169頁。
- ^ 高柳 2001, pp. 117–121
- ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』吉川弘文館、1972年、15頁。
- ^ 『フロイス日本史』
- ^ 1584年1月20日付け、フロイスの書簡
- ^ a b 1581年5月19日付、フロイスの書簡
- ^ a b 山本 2012, pp. 111–113.
- ^ “『常山紀談』巻之三 「勝家先陣の将となる事」”. 近代デジタルライブラリ. 2013年10月30日閲覧。
- ^ a b 小学館『新説戦乱の日本史 第17号 賤ヶ岳の戦い』
- ^ a b 桑田 1975, p. 172.
- ^ “『武家事紀』巻第十三”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月30日閲覧。
- ^ a b 竹本千鶴「織田政権における茶の湯―「御茶湯御政道」の再検討から―」(『日本歴史』615号、1999年)
- ^ 髙橋義雄『大正名器鑑』七(宝雲社、1937年)
- ^ 竹本千鶴「織田信長所持の名物茶器に関する一考察」(『國學院大學大學院紀要』28号、1997年)
- ^ 岩沢愿彦『前田利家』吉川弘文館〈人物叢書〉、1966年。
- ^ 高柳 2001.
- ^ 柴田勝家 ― 北庄に掛けた夢とプライド
- ^ 猪高小学校 校歌
- ^ 猪高小学校 - 名東史跡の会
柴田勝家(しばた かついえ)
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「ぼくらの戦国白球伝」の記事における「柴田勝家(しばた かついえ)」の解説
新参者が嫌い。
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柴田勝家(しばた かついえ)
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「センゴク外伝 桶狭間戦記」の記事における「柴田勝家(しばた かついえ)」の解説
通称は権六。織田信行の介添役。織田家を継いだ信長の器量を疑い、織田信安や信長側近の林秀貞、林通具とともに織田信行を擁立して謀反を起こした。しかし稲生の戦いでの敗戦や、土倉を手籠めにした信長の器量を認め、改めて臣従した。
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柴田勝家(しばた かついえ)
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「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の記事における「柴田勝家(しばた かついえ)」の解説
左近の回想で登場。伊勢長島の戦いの折、信長が降伏してきた門徒たちが出てきた所を皆殺しにしろと命じた際、唖然とした表情を浮かべていた。
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柴田勝家(声:立木文彦)
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「決戦III」の記事における「柴田勝家(声:立木文彦)」の解説
織田家きっての猛将。最初は信長のうつけぶりと傾いた態度に対して反発していたが、「稲生の合戦」で敗れた後、信長の将器に触れて以来、絶対的な忠誠を誓う。義に厚く涙もろい性格。主な兵種は槍騎馬、武将系統は「猛将」。何かと小細工を弄する藤吉郎(秀吉)を嫌っている。
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柴田勝家(しばた かついえ)
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「テンカイチ 日本最強武芸者決定戦」の記事における「柴田勝家(しばた かついえ)」の解説
織田家・老中の一人。上泉伊勢守の後援者。第1話にてテンカイチの開催と主旨を説く主人・信長に諫言したたため誅罰として日野長光が投げた鉄扇を眉間に受け右目が眼窩から飛び出すほどの傷を負う。
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柴田勝家(しばた かついえ)
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「センゴク」の記事における「柴田勝家(しばた かついえ)」の解説
通称は権六、上洛後はもっぱら官名の修理亮を名乗る。信長からは「アゴ」と呼ばれる。織田軍随一の重臣。稲葉山城攻略戦で権兵衛の命を助け、織田軍に入るきっかけを作った人物。権兵衛からは「閻魔様」と恐れられる。大きな金棒を得物とし、金ヶ崎撤退戦の折には権兵衛に与えられた。「掛かれ柴田」と謡われる剛直な猛将だが、柔軟さに欠ける面がある。秀吉にとっては苦手な上司役でもあり、羽柴と改姓したのちも旧姓の「木下」と呼んでいる。
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柴田勝家(戦国戦車:黒龍)
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「婆裟羅2」の記事における「柴田勝家(戦国戦車:黒龍)」の解説
59歳。織田家筆頭家老で武勇・民政に優れ、情が厚く多くの家臣に信頼される。光秀の謀反に戸惑うが筆頭家老としての責任のため、戦場に駆り出す。
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柴田勝家(しばた・かついえ)
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「ダブルクロス・リプレイ・ジパング」の記事における「柴田勝家(しばた・かついえ)」の解説
信長の家臣。ヒンズーの破壊神シヴァと融合し「シヴァ勝家」を名乗っていた。魚津を「インド魔界」に変え、すべての川をガンジス河のように拡張する工事を進めていた。イクフサとの河川工事対決に勝利した。
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柴田 勝家(しばた かついえ)
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「ダンベル何キロ持てる?」の記事における「柴田 勝家(しばた かついえ)」の解説
信長の家臣。何故か今川と戦う夢をよく見るようになり、信長と共に今川館に潜入した。
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